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【感想】FINAL FANTASY VII REMAKEのCMをみて、昔を思い出した。※追記しました

 フジテレビ27時間テレビにおいて、FF7リメイクのCMが七分にわたって放送されました。

 

 一昨日あたりから七分CMが流されるというのでネット上ではすでに話題になっており、私もその報を受けて、0時ぐらいになったらテレビをつけてみるかとおもっていました。

 

 

 

 FF7 REMAKE CMの概要

 

 

 窪田氏が演ずる主人公はFF7をリアルタイムでやったことがないサラリーマン。

 恋愛中の彼女は幼少の頃、兄と一緒にプレイしたことがありました。

 

 会社に出て、その話をすると上司にFF7をやっていないことにびっくりされます。 

 更に昼食の時間、上司らだけで集まってFF7について語ります。

 彼らは二十二年前、若かった頃にFF7をプレイしていました。

 今となっては、髪の毛も薄く、肌のツヤは消え失せた中年になっています。

 月日の流れを感じさせます。

 その後、酒場へいき玉山鉄二演ずる浮浪者っぽい男に、当時FF7がどれだけ劃期的なゲームであったかを語られ、結局、窪田氏はPS4を買う決意をし、CMは終わります。

 

 

 

www.youtube.com

 

 CMをみて思い出した、当時のことー隠しイベントや『解体真書

 

 このCM、あまり期待していなかったのですが、実際に放送されてみると、

「確かにこういうゲームだったんだよなあ」と思わされて感慨深いです。

 

 既プレイヤーからすると、上司が語る「トバルのね・・・体験版~」「見た見た体験版。でもさ、アクションゲームになっちゃうの?」*1などは、元のプレイヤーからすると、懐かしさと同時に違和感もある部分を指摘していて、感情移入してしまいました。

 

 

  また、酒場で出会う玉山鉄二FF7の攻略本解体真書を使い古した態でカウンターに置く場面も心を擽ります。

 

 90年代当時、SFCのFF4~FF6までは主にNTT出版から出されていました。

 これがFF7になると『解体真書』と題する攻略本がでます。

 

 この『解体真書』はシリーズになっており、『サガフロンティア』や『チョコボの不思議なダンジョン』やカプコンの『鬼武者』などの様々なゲームに対してもこの名がつけられ、長いこと出続けていたことを覚えています。*2

 

  既プレイヤーにとって、「ああ、こういう戦闘システムで、こういう攻略本があって、こういう召喚獣がいて、エアリスが、セフィロスがいて、衝撃的なゲームだった」と記憶を刺激するようなCMになっています。

 

 

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FF7 PS版の中身

 FF7CMの思い出 「今のCMってファイファン?」

 

 実際、今の人にはわからないでしょうが、当時FF7の映像を初めて見たときの衝撃というのはなかなか忘れられません。

 

 私ズンダがはじめてFF7の映像をみたのはCMでした。

 

 はじめてCMが流れた96年当時、インターネットは全然普及しておらず、youtubeニコニコ動画もありません。

 

 このときはまさにテレビが最強のメディアであり、暇さえあればテレビを観ることが当たり前でした。

 

 今でも覚えていますが、土曜日の八時頃に、いまでいう「SASUKE」のような芸能人にスポーツをやらせる番組がありまして、その合間にFF7のCMが放送されました。

 

 私はそれをみたときに「凄い映像だな。ってか、これゲームのCMなの?最後にFinal Fantasyってでてなかった?でも、『Ⅶ』ってなんてよむんだろう?」

 

 そして、隣の部屋にいた兄に「今のゲームってファイファン?」ときいたら「Final FantasyⅦってかいてあったよ」といわれたことを刻銘に覚えております。

 

 Ⅶという数字が読めなかったこともありますが、そんなことよりも「これがFFなのか?ゲームなのか?そもそも何なの?となっており、頭のなかで整理がつかない状態だったのです。

 

www.youtube.com

 

 上の動画の冒頭のCMこそが、私が当時観たものでした。

 最後にナレーションが「ファイナルファンタジー7」と詠み上げているので、おそらくここで「ファイファンか!これ!?」となったのでしょうね。

 これとて、一分間もCMをしているわけで、そう考えると、今回の七分CMも頷けます。

 

 今の人がPS版FF7をみても何もかんじないでしょう。

 ポリゴン特有の角張った体つきやアニメっぽいムービー。

 しかし、これがFF6までのドットで楽しんでいた世代にとっては尋常でない衝撃があったわけです。

 そしてこれが「ゲーム」だとはっきり認識することができなかったわけです。

 ゲーム以外のCMなのだと勘違いするぐらい、新しかった。地球外生命体をはじめてみた感覚ってこういうことなのだと思います。

 

 私は懐かしさのあまり、押し入れを探り、FF7の攻略本と他のFFをみつけました。

 

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FF7 攻略本と他のFF

 

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PS FF

 これをみると、あの時代のことが一気に思い出されて、CMをみた甲斐があったと思えます。

 

 「断言しよう。別ルートはございません!」に籠められたネタバレ

 玉山鉄二のこのセリフは非常にメタ的なセリフでして、開発者側から我々プレイヤーに対しての回答なわけですね。

 ネタバレを避けるので申し上げませんが、FF7は途中でプレイヤーを凍り付かせるような展開があります。 

 その展開について当時から「実は別ルートがあるのではないか」と話題になっていたのです。

 

 その別ルートとやらが、REMAKEで実現されるのかどうか話柄に上ることがよくあります。

 

 今回の玉山鉄二のセリフは二種類の解釈が許されています。

 

  1.  FF7における別ルートの存在を否定した
  2.  FF7 REMAKEにおける別ルートの存在を否定した

 

 私はなんとなく後者だと思うのですが、如何でしょうか。

 

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PS版 FF7と海外版

 

 ※追記

 FF7には別ルートがあるという噂がが昔からあったという話をしました。

 全国のプレイヤーはそれを求めて、当時の裏技本で有名な「大技林」などで、それを確かめていたのです。

 

 しかし、FF7では別ルートはなかった。

 

 というわけで、私は今回のREMAKEもそういったルートなどないだろう。

 あのCMはそれを我々に伝えたかったのではないだろうか、などとおもっておりました。

 

 ですが!

 

 なんと、このCM、TVでは流されたかった約13分版のCMがあるそう。

 

 そして、それをみた人からこんな話がありました。

 

 別ルートを匂わせている

 

youtu.be

 

 さあ、これをご覧下さい。

 

 ここでは玉山鉄二が次のように述べています。

 

 しかし、青年 大事なのはここからの話だ
今私が話していたのは1997年のオリジナルについて
しかしこれから我々の元には2020年のFF7がやってくる。
2020年のFF7である。2020年のFF7である!
過去は変わっているのか、いや変わっていないのか。

 

 

 なんという、セリフでしょうか

 我々、既プレイヤーをおちょくるような鉄二のセリフ。

 「え、もしかして、別ルートあるの?ないの?どっちなの?」ってなりますわな。

  

 そして、ゼロ年代後半以降に流行った「タイムループもの」を思わせるような発言。

 FF7のシナリオは現代版に書き換えられているのでしょうか。

 もしや、過去は分岐してしまうのだろうか。

 

 確かにFF7はミステリーで言うと叙述トリックを使った作品といえましょう。

 我々はそこに感動してしまったのですが。

 

 今回のFF7はミッドガルまでと発表されていることを思うと、まだまだシナリオを改変する余地はあります。 

 これからどうなってしまうんだろう。

 

 

 

 

 

 またプレイしてない人へ とりあえず買ってもいいとはおもう

 このゲームをやって数十年たっていますが、なんだかんだいって、名作だと思います。

 私も昔、没頭してやっていました。

 明かされる真実を前に呆然としたり、信じられないような出会いと別れがあったりと、飽きが来ません。

 ストーリーだけでなく、戦闘やミニゲームや隠し要素なども充実しており、最高水準のゲームです。

 植松氏のBGMも素晴らしく、良曲ぞろいです。

 やって損をするような類いの作品ではないことは確かです。

 

 何よりもずっとREMAKEを期待され、いまだにファンが世界中にいるような作品なわけでして、それをみすみす逃すという手はないでしょう。

 

 やはりこの時代のRPGの重厚感というのはスマホゲーだけやってる人にも味わって欲しいというのはあります。

 分厚いステーキみたいなもので、しっかり時間をかけて、テレビやモニターの前に座って、一人でコーヒーでも飲みながら、噛みしめてプレイするゲーム体験も、人生において価値がある、と老婆心ながら申し上げて、この記事を終えます。

 

もしよかったら、読書登録&ブックマークをおねがいします。

 

FF7 REMAKEの発売日は2020年3月3日です。

↓これが通常版で、価格が8161円

 ↓Amazonの限定版です。

 

 

 

 ↓こちらはゲームではなく、オリジナル版とリメイク版のサウンド集ですね。

 ゲームではなく音楽を楽しみたい方はどうぞ。

 

*1:1

.ゲームソフトに体験版がセットで付いてくるということが頻繁にあった。

スクウェアFF7の体験版を『トバルNO1』という格闘ゲームに付属させており、FFを早く体験したい人にとっては『トバルNO1』に興味がなくとも買ってしまうだけの魅力があった。

 2.FF7はアクティヴタイムバトルとよばれる戦闘システムであったが、更にリアルになったリメイクにおいて、デフォルトではシステムが変更されている。ちなみに、アクティヴタイムバトルに戻すことも可能になっている。

*2:ただし、FF8になると有名な『ULTIMANIA』にとってかわられてしまう。

【新書】ネットは人々を分断化しない!ネット主犯説を否定 田中辰雄 浜屋敏『ネットは社会を分断しない』(角川新書)【感想】

 

 

本書の要約

・インターネットは人々の考えを過激化させ、分断を生むといわれることが多いが、それは正しくないことがわかった。
 むしろ民主主義を進歩させるものである。改良して使っていけば新聞や雑誌などで情報を得るよりも遙かに人類に寄与するといえる。

 

 

 インターネットをみていると、過激な主張に出くわすことがあるとおもいます。
 
 有識者たちが以下のようなことをよくいっていますね。
 
 

 インターネットは人の考えや思想を先鋭化してしまう。「ネトウヨ」みたいなのをつくってしまうから、テレビや新聞のような良質なメディアとは異なる。大変危険である。

 

 これは事実なのでしょうか?

 

 たとえば、今回、富士山でニコニコ生放送をしていた方が滑落して、亡くなりました。

 それについて様々な意見が飛び交っています。
 
 

「雪山にこんな軽装で臨むなら死んで、当然だ。」
「冬の山をなめている。」
「放送しながら山に登るなよ。」

 

 といった批判的な意見もあれば次のような理解や同情を示したものもあります。

 

「亡くなった人に鞭をうってもしょうがない」
「癌を克服したから万能感がでて、行動してしまったんだろう」
「前にコーヒー缶を富士山で配っていていい人そうだった」

 

 

 これらをみると、一つの話題に関して多様な見解があることがわかります。
 決して、過激な言葉ばかりではないということは誰の目にも明らかですよね。

 

 いったいインターネットは危険なのだろうか?
 偏った意見ばかりが集まっている世界なのだろうか?

 それに対して答を出したのが今回紹介する本『ネットは社会を分断しない』です。

 この本は今年読んだ本の中でも、重要で社会的な価値があるといえます。
 
 では、見ていきましょう。

 

 

 知識人達の希望と絶望そして、思いがけない調査結果

 ウェブ調査で分かる実態

 

 本書は次のような調査を行い、それを分析したものです。

 1回目 2017年8月実施 10万人
 2回目 2018年2月実施 5万人
 3回目 2019年5月実施 2万人

 2回目の調査は1回目と同じ対象者に送った追跡調査であり、3回目は補足のための調査です。

 非常に大規模な調査だといえるでしょう。
 ここで筆者らが取り上げたテーマは「政治学社会学」です。

 

 「ネトウヨ」や「パヨク」の存在

 

 

 インターネットで右寄りの発言をしている人たちのことを

ネトウヨ」とよびます。
 特徴:

「中国韓国が全て悪い」

「日本は世界でも凄い国」

「安倍政権批判をするやつは左翼」

 

 インターネットで左寄りの発言をしている人たちのことを

 「パヨク」と呼びます。
 特徴:

 「地震や台風は安倍晋三がスキャンダルを隠すためにわざと起こしている」

 「日本がありとあらゆること全て悪い、日本死ね!」

 「日本はオワコン」

 

 

 彼らの発言は2ch(現5ch)のまとめサイトやTwitterやブログ上で簡単にみることができます。
 
 彼らの存在は政治に興味をもっている人であれば、見聞きしたことがあるでしょう。
 かなり拘りの強い人たちです。

 上の特徴をみると、ネットのせいでこんな荒唐無稽なことをいう人たちがでてきてしまったのかと絶望的な気持ちになりますね。
 
 

 詳しく知りたい方は物江潤『ネトウヨとパヨク』(新潮新書)を読んでください。

 帯表紙にある「右でも左でもない無知なのだ」は印象的なことばです。

 

 

ネトウヨとパヨク (新潮新書)

ネトウヨとパヨク (新潮新書)

 

 


 
 ネットは社会をよくするという物語

 

 ネットの黎明期において、知識人たちは多くの情報を個人が受容できるようになるので、世の中はもっとよくなるとかんがえていました。
 
 ハワード・ラインゴールド『バーチャル・コミュニティ』という本が一九九〇年代に出版されています。

 

 

バーチャル・コミュニティ―コンピューター・ネットワークが創る新しい社会

バーチャル・コミュニティ―コンピューター・ネットワークが創る新しい社会

 

 

 その中でラインゴールドは次のようにいいます。本書から引用します。(p17)

CMC[引用者注:Computer Mediated Communicationの略で、ネットを表す当時の用語]のもつ政治的な意義は、強力なマスメディア上に乗っかっている既成の政治勢力の独占に挑戦し、それによっておそらく市民に基盤を置いた民主主義を再び活性化させることができる能力にある

 

 

 と述べています。
 ネットが民主主義を更に進歩させると考えていたわけですね。
 多くの人が情報の交換ややりとりをすることで、自分が知らなかった考えを学ぶ。
 そこで、正しいことや問題点などが共有、整理されていくから、国や世界全体の解決すべき問題への冷静な議論がうまれ、みんなで力を合わせて困難を乗り越えていけるはずだ、と期待していたのでしょう。

 

 しかし期待とは裏腹にネトウヨ「パヨク」にみられる対立、分断が生じてしまっています。

 その結果として、日本でも梅田望夫(『ウェブ進化論』)や哲学者の東浩紀などはインターネットで理性的な議論は発達することがなかった、むしろ敵対関係が生じてしまい、お互いの対立が先鋭的になっていくだけだった、と失望してしまいました。
  
 所謂、「社会の分断」というやつですね。 これは学術用語では分極化と呼ばれるようですが、本書ではほぼ同じ意味で使うと書いてあります。

 ※どちらかというと「意見が強い」という感覚のほうが本書を読む際はわかりやすい。

 

 ネットのせいで社会の分断は進んだのか?

 

 Twitterなどで自分と同じような意見の人をフォローしますよね。
 こういったことを「選択的接触といいます。
 そして、同じ意見に囲まれることで、自分の意見が「正しい」と思いこむようになるのを「エコーチェンバー」といいます。

 

zunnda.hatenablog.com

 以前、上の記事でも紹介しました。
 

 エコーチェンバーは残響部屋=声が反響する部屋のことをいいます。
 
 同一見解をもつ人たちの書き込みを繰り返しみるために「皆が自分と同じ事を考えている。自分はやはり正しいのだ!」と思うようになってしまうわけですね。

 

 インターネットはこの「選択的接触」が起こりやすいといえます。
 というのも、テレビをみていたり新聞を読んでいたりすると、自分が知らなかったことや興味のなかったことでもついつい目に入りますね。

 しかし、ネットは自分が見たい情報を優先的に選ぶことができてしまうために過激化しやすいのです。
 
 本書の調査においても「ネットメディアを利用する人の方が過激である」という結果が得られています。

 ということは、やはりネットは危険なメディアなのでしょうか?

 

 ネットは社会を分断などしていない。むしろ、穏当な人間を作っている。

 中高年の方が分断が進んでいる

 

 

 そう決めつける前に知っておくべき調査結果があります。
 それは中高年のほうが過激になっているということです。

 調査から次のようなことがわかっています。

 

 ・20代と70代では政治的な過激さの点で、男女の平均的な差(男性0.69 女性0.54)と同じぐらいの差がある。(図をみせる)
 ・保守もリベラルもどちらも「高齢者」ほど過激になる。

 

 

 何かおかしいとおもいませんか。
 もしネットが原因で過激になる人がでてきてしまったのならば、どうして「高齢者」ほど若者よりも過激な人が多いのでしょうか?

 若者の方が新聞雑誌テレビを受容するよりも、ネットで情報を得て、発信しているはずですね。

 

 この問題は事実、2017年に起きた「弁護士大量懲戒請求事件」を思い出してもらうとわかりやすいかとおもいます。

www.nhk.or.jp

 この弁護士懲戒請求事件に関わった人たちの平均年齢は55歳。

 男性が六割ということがわかっています。

 

 私も最初、このニュースをみたときに年齢層が上であることに驚きを禁じ得ませんでした。

 てっきり、十代や二十代などが多いのかと思っていたのです。

 

 ちなみに、アメリスタンフォード大学のゲンコウらによる調査でも中高年ほど分極化が進んでいるということがわかっています。

 彼らにいわせると、アメリカの分断は資産活用やグローバリズム移民問題でありネットのせいではない、とのこと。
 
 ここまでで分かったことは次の二つです。引用します。

 

A「ネットメディアを利用する人ほど分極化している」
B「若年層ではなく中高年で分極化が起きている」

 

 

 ネットは若年層の方が利用していますから、AとBは両方が成り立つということはないようにみえますね。
 Aが正しいのならば、若年層が過激化するはずだからです。

 となると、いったい何が答えなのでしょうか。

 

 筆者らは因果関係が逆だと気づいた

 

 この二つ、AとBとを成り立たせるためにはどうすればいいのか。

 答えは簡単でした。

 Aの因果関係を逆にすれば良いのです。

 つまり、
 

×「ネットを利用したから過激になった」
○「過激な意見をもっていたからネットを使うようになった」

 

 

 ということなのです!

 著者らはこれを証明するために様々なデータ分析を行い、この説を証明しています。
 
 もとから政治的に発言したいことがあったので、積極的にネットを使い、自分の主義主張を述べているのですね。
 逆に主義主張がない人はそもそもブログだったりTwitterで発信自体しない。 
 
 更にその過程で驚くべきことがわかりました。

 

 ネットは人を穏健にする
 
 

 ネットを使うと、人々の意見は過激にならない。むしろ、穏健化することが判明してしまったのです。

 ただし例外があります。
 それは初期時点で政治的に強い意見をもった人がTwitterを使った場合のみ、分極化が一段と進行するということです。
 
 ところが、これがブログやフェイスブックだと、彼らですら穏健になります。
 理由は不明、とのこと。

 

 ズンダの考え

 

 私が思うに、Twitterはやはり自分中心の世界を作り上げていくところが大きいのかと思います。
 フォローもフォロワーも自分で自在に選んでいきますからね。内に籠もる性質がある。
 実はこれを壊してくれるのがフォロワーからたまにくるリツィートだったりします。 
 いくら似た傾向の人を選んでも、すべてが同じというわけにはいきませんからね。
 
  
 むろん、RTは主張を更に激化させる力もあるわけで諸刃の剣ですが。


 ブログは色んな人の意見がみれます。
 
 たとえばまとめブログで政治的な話をあったとしましょう。
 すると、人気のあるまとめブログであればコメント欄に数十数百個のコメントがつきます。
 これを全て読む人はいないと思いますが、ざっくばらんに見る人は多いでしょう。
 そうすると、賛成反対の意見が比率は異なるものの並ぶことになる。
 
 自分は初めはAという意見に賛同していた。
 しかし、Bを支持する人たちのコメントを読んでいくうちにAという意見が絶対ではないことがわかってきた。
 
 と、その人がもともともっていた意見を中和するわけです。

 

 また、フェイスブック実名や顔写真などをのっけたりします。自分の素性が完全に割れている状態で「強い意見」をいうのはだいぶ度胸の要ることですから、穏当な見解ばかりが並ぶわけですね。
 
 たとえば、何かを書き込む際に「あなたの顔写真をセットにして書き込んでください」といわれたら、本音を書けますか?

 

 更に具体的に考えてみましょう。

 

 あなたが次のことを書き込むと仮定します。

 「女ばかり優遇されている社会はおかしい。映画館も女は安くなるし、男にいつも奢ってもらってるし。日本は女性優遇社会だ!」

 この見解を顔写真付きで書き込めるでしょうか?
 
 まず、あなたがイケメンでなかった場合、おそらくこういう批判がきます。

 「こいつはブサイクだから、もてないんだ。もてなくて、ひがんでいるから、女性を軽視するような発言ばかりするんだ。そうにちがいない」

 名前や顔がバレてしまうことの恐怖はこれなのです。

 

 

・自分の意見に対して、自分の属性(学歴や経歴や顔)などが加味されるようになる
・その人の意見が正しいかを判断されづらくなる。

 

 以上のことから、フェイスブックやブログは人を穏健化させる効果があるのだと思われます。
 脛に傷があると好き勝手なことはいえなくなるものです。
 と、同時に自分にも弱点や変なところはあるのだと思うようになる。
 だとしたら、他人の意見をそんなに激しく否定したりできるのだろうか?という思いやりや躊躇があらわれるのではないか。 

 ちなみにこの研究はドイツやスペインやアメリカでも行われているらしく、やはりネットは人々を穏健にさせる結果がでているようです。

 

 ということでこの穏当化議論のまとめを本書から引用します。

 

(1)ネットメディア利用開始後に分極化は低下傾向である。すなわちネットメディア利用開始で人々は過激化せず、穏健化する傾向にある。
(2)有意な結果に限ると、穏健化するのは20代~30代の人がブログを使い始めた時、女性がブログを使い始めたとき、元々穏健だった人がツィッターを使い始めた時である。
(3)逆に有意に過激化するケースは、元々過激だった人がツィッターを使い始めるケースである。

 

 選択的接触の効果は思ったより少ない

 

 ちょっと待てよ。それなら最初の方に書いていた人々を分断させる結果とやらは何のことだったのか?と思われた方も多いでしょう。

 

 この答えとしては
 
 ・思われている以上に分断の効果は少ない
 
 ということでした。
 

・選択的接触は現実でもネットでも必ず行われている。
 しかし、ネットにおける選択的接触は新聞や雑誌のほうが強いということがわかった。

 

 筆者らはフェイスブックツィッターにおいて、対象者たちがフォローしている言論人やタイムラインで見かける言論人を調査しました。
 こうすることで、人々が「自分と意見の異なる見解を目にすることはあるのか?」がわかるからです。
 自分と反対意見の人と接触することを「クロス接触率」とここではよんでいます。

 結果として、約四割は自分と異なる意見の人をフォローしたり、その人の意見をみているということがわかりました。

 

 たとえば、10人をフォローした場合、6人が保守系であり、4人がリベラル系ということです。

 ここから、案外、反対意見も目にしていることがわかります
 これはブログでも大差ありませんでした。
 

 では、やたらに称賛する人がいる雑誌や新聞などで情報を受け取っている人たちは、反対意見を目にしているのでしょうか?
 

・新聞雑誌などオールドメディアから情報を受け取っている人間の方がクロス接触率が低いことがわかった。つまり、ネットよりも雑誌新聞だけを読んでいる人のほうが偏った考え方をもちやすいことがわかる。

 

 ネットは偏った考えを助長する!などといわれていましたが、それは間違っていたということですね。
 これは新聞の価値を声高にうったえている人たちにとっては脅威でしょう。
 
 自分らがいっていた偏らない公平な視点とやらは、新聞雑誌からは得がたいということがわかってしまいました。
 
 では、どうしてこんな差ができてしまったのでしょうか。

 まとめてみましょう。

 

・雑誌や新聞はコストがかかる。知識人でもなければ朝日、産経、毎日、読売、日経新聞などを毎日読んでいる人などいない。

 ツィッターなどでは自分と反対の人をフォローしたりリツィートするだけでよい。
 はやいしお金がかからないで多角的な視点を得られる。

 ・ネットは一部の現象が誇張されてみえてしまう。本当はエコーチェンバーなど大して起こっていない。炎上などが良い例である。わずかな人しかかかわっていないのに、日本全体で問題が起きているかのように感じてしまう。

dot.asahi.com

 

 

 

 だから、ネトウヨやパヨクの書き込みをみただけで、必要以上に「おかしな奴が増えている!」などと反応してしまうのですが、それは極一部だったりするわけです。

 

 

 ネット社会には期待ができる。ただし、修正すべきところもある。

 

 というわけで、筆者らは次のように述べます。

 「ネット草創期の希望はまだ死んでない」
 
 そうです。東浩紀梅田望夫は絶望していましたが、調査結果として人々はネットを賢く使い、自分と違う人々の意見にも触れているのです。

 だとすれば、絶望するどころか、むしろ希望をもつべきでしょう。
 彼らが昔、抱いていた希望は現実のものになってきているのですから。

 

 筆者らはネット言論の改善策として「中間的な言論の場」を作り出すことで抵抗できないだろうか、といっておられます。

 つまり、極端な意見をもった人たちではなく、分布でいうと中間のほうに位置する人たちを集めたSNSがあればいいのではないかというわけです。

 

 私が思うには、筆者らのやっているようなデータを中心とした言論の場が出来れば良いのではないかと思ったりはします。

 やはり、数字や統計というのは感情的な判断や妄想というのを断ち切るのに最適ですし、それらを共有した上で議論をすれば、罵倒の応酬ではない、有益な発話が可能になるのではないかと。

 

 とはいっても、事実が受け入れられるかというと、人間の限界もあるわけで、むずかしいところです。

事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学

事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学

 

 

 

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

 

 

 

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本書より図37(a)政治傾向の真の分布とネットに表れる分布

↑我々はネットをただやっているだけだと、「ネットで見える世論」に騙されてしまう。

 

 終わりに

 

 本書の結論はタイトル通りです。 

 私もこの本を読むまで、ネットにこれだけの情報が転がっていて、誰もが昔よりも有益な情報を得られるようになったのに、お互いを罵り合う書き込みばかりで嫌になるなあ、などと思っていました。

 しかし、こういった本を読むと、「リアル」は私の思い込みとは異なるというのをまざまざと見せつけられ、考えを変えるきっかけができました。

 

 

 大部分は大量のデータと、それを如何にして分析処理していったのかがかいてあります。

 データから仮説を立て、それを検証していくところも醍醐味の一つでしょう。 

 今回の記事では多くの人が知るべき調査結果を中心にまとめてみましたが、もっと詳しく知りたい方は上の記事はじめの商品リンクから、お買い求めになるとよろしいかと存じます。

 

 では、また。

 ズンダでした。

 

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自己啓発系youtuberとはなんぞや? そして警戒しろ!「自己責任論」の系譜ーメンタリストDaiGoのいう努力不足という言葉の古くささ

 

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イラスト屋

※この記事は動画のための覚書です。

後々、考えがまとまったら更に追記をするために記事を作成しておく。

 

自己啓発youtuberとは

人生に対して自分の意識を変えれば上手くようになるという人たちのこと。

特徴として、一個の人間に過大に期待している。加えて、政治嫌い。

リバタリアンの類い。

 

 

 

 

 

自己責任論と自己啓発は同じ

自己責任論と自己啓発論者にありがちな主張と勘違い

①個人がなんでもできるという勘違い
自己啓発をしてくる成功者たちがよくいう「僕は凡人です」という勘違い 

→凡人じゃないから成功していることは無視する。

 

 彼らが気軽に言う「転職せよ」や「行動せよ」はそもそも多くの人ができるものではない。自分が出来たからと行って、他人ができるとは限らない。

 なぜ、こういう勘違いが彼らに生じているのか?
 

なぜ自分を「凡人と主張するのか、偽るのか」

 

 

1 自分がどのレベルにいるのかわかってない、節穴説

2 謙虚なほど好感度はあがる。「俺すげえ才能あるから!」という奴はよほど愉快なキャラクターをしていないかぎり人気はでない。
3 自分の信者に商品をかわせるために自分をあえて凡人と定義している説自分を凡人といえば、みている視聴者たちも「僕らでも何か出来る!」と思ってしまう。

 

 

  たとえば、「時間をかければ」「方法を改善すれば」という言葉に騙される。

  いつのまにか「努力すれば」という方向に流されてしまう。

  が、本当に「努力すればどうにかなるのか?」と一歩ふみとどまるべし。

 

 セカイ系が受けた日本との関連性がある 
 

 

 セカイ系は自分の行動が世界の命運を握るという物語をいう。
 日本人はミクロによる行動で世界が変わるという思い込みが強い。
 
 実際はマクロも大切なはずなのに、ミクロについてのみ考え、マクロを捨てる。
自己啓発系の人らも必ずマクロを無視する。そのほうが都合がいいから。
 
 

 David Goodhartがいった「anywhere族」こそが自己啓発youtuberの正体

www.madameriri.com

toyokeizai.net

 加えて、彼らはDavid Goodhartがいうところのanywhere族であり、一般人はsomewhere族というのもあろう。

 簡単に言うと海外を飛び回りながら何処へ行っても仕事ができる人たちを想像すればよい。

 ここでもっとも簡単な例はyoutuberといえる。彼らに本拠地は必要なく、何処へ行っても動画を配信すれば、それで生計を立てられる。

 

 たとえば、メンタリストDaiGoは好例といえる。

 一時期の彼の動画はすべて海外からの配信であった。あれこそ典型的なanywhere族のお手本といえる。
 

 なぜ、我々は自己啓発にはまるかーanywhere と somewhereの問題 

 

 ここで問題なのはanywhere族はsomewhere族に影響を及ぼすことが可能。
 それは「自分を改良せよ!国家に頼るな!」という影響である。

 リバタリアンなのである。
 
 被自己啓発者たちは彼ら自己啓発者たちのいっていることに感動し、自分も彼らみたいになれると妄想する。

 

 しかし、それをいっているanywhere族はそもそもsomewhere=被自己啓発者とは全く人生が異なる
 あなたがたの生活など一ミリたりとも知らないし、想像もしないし、彼らはあなたがたから影響を受けることもない。

 

 自己啓発者たちが被自己啓発者らを心配して「もっといい職場がありますよ」といったとき、彼らはその中身など考えたこともない。空想の職場があるだけ、である。
 
 anywhere族による一方的な感化を受け続けるのがsomewhere族である読者や視聴者である。

 あわれにも自分が搾取されているということに気がつかない。

 

 そして彼らを応援したり、彼らの思想に同調する。

 

 が、ここで気づきべく事は「彼らは潤沢な資本があるので、いざとなったらそれを使って人生をどうにでもできるが、somewhere族は国家などの庇護がない状態で一人で生きていくことが不可能である」という事実である。

 

 世の中には成功者などの考えを引用したり、同意したりすることで「自分も一角の人物になることができた」と思ってる人がいるようだが、考え直すべきである。

 

 あなたはホリエモンでもなければひろゆきでもないし、ソフトバンクの孫でもなく、無名の人間である、ということを。

 

 そういった人間が彼らと同じような思想を持っていた場合、どれだけ悲惨なことになるか。

 今月に入ってから、台風やら大雨やらの影響で川が氾濫し、洪水に巻き込まされた家々や駅構内、または土砂災害などのニュースを見聞きした人たちは多いはずである。

 

 それに対して「自己責任」といって笑ってられるのは、いつでも逃げることができるanywhere族だけであり、somewhere族である私やあなた方ではない。

 現実を正しくみよう。

 彼らの「自己責任論」を受容しても、我々には何の得もない。

 ※無論、彼らの全てを無視せよ、とは思わない。利用できるところは利用すればいい。

 
 ちなみに下記の本、日本語訳がなされている途中であるというのを去年みたことがあるのだが、未だに出版されていない。頓挫したのだろうか。

 

The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics

The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics

 

 


 

 能力がないと嘆く人がもっている最強の武器

 

 選挙権の問題

 

 成人になれば誰でも選挙権をもてるというのは大きい。
 

 選挙権は「人を審査する権利をもっている」ということである。
 たとえば、書道なり絵画なりで、審査員を務めるのであれば、その人は努力や才能があり、そして審査員にまで登り詰めるほどの政治をしてきた人でもある。
 
 しかし、選挙権は日本国籍があれば、どんな無能でも審査員の席をもらえる。
 我々は人を審査し、その人を政治家にしている。
 これは普通に考えればありえないようなことだが、現実である。
 
 となれば、それだけ大きな権力を得たのにもかかわらず、行使しないという手はない。

 「自分が無能で、何の力ももっていない人間だと思うなら、政治活動をすることがもっともリターンを得ることができる」といえる。

 副業をするぐらいなら、「政治活動」しろというべきである。
 もっとマクロに目を向けるべき。マクロの改善はミクロも改善させるという事実を無視すべきではない。

 

 日本人は政治を無視しすぎ=マクロの軽視

 

 ただし、日本人は政治を無視する
 結局、「無能な自分が(政治以外で)頑張れば世界が変わる」という漫画やアニメ的な世界観につつまれている。

 要するに選挙権を得る成人以前の物語が流行ってしまう理由は、「政治から逃げている」から。

 先にも述べたように無能なあなたでももっている強大な権利こそが「選挙権」であるということを見詰めよう。

 

 人はもっている武器を最大限に利用すべきである、というのであれば、「選挙権」を使うという選択こそが最善であるとわかるはず。
 
 

 「自分が物語の主人公」だと勘違いし、努力すれば何でもできるとおもいこんでいる。

 

 アランの『幸福論』もいきすぎるとこういうふうになる。

 「この人、凄いな」という人物をみたことがないから、自分のことを信じすぎるのいではないか?

 たとえば、為末大などは努力すればどうにかなるという考えを一蹴している。
 彼は本当に凄い人物達を目の当たりにしてきたから、現実は努力程度ではどうにもならないとわかってしまった

 

 中野信子はそもそも努力が報われることなど殆どないという現実をのべたうえで、自分が本当に好きなことであれば、そもそも努力と感じるのだろうかという疑義を呈している。
 ちなみにこの考えはすでに甲田露伴が『努力論』(岩波文庫)のなかでいっていることである。
 

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)

 

 


 日本に於ける努力という言葉の変遷は斎藤兆史『努力論』(中公文庫)にかかれている。

 齋藤は「努力ということばは江戸時代までは苦痛なことをしょうがないからやらざるを得ないという意味であったが、明治時代に入り、立身出世の潮流ができ、self help=自助論が流行ったことで意味が変わった」というようなことを本書のなかで書いている。

 

 

努力論 決定版 (中公文庫)

努力論 決定版 (中公文庫)

 

 

 日本の自己責任論や自己啓発は明治以降が強い。

 

 が、明治は江戸で蓄積された階級が一旦リセットされたことによる恩恵があったからこそ、期待値が高かったといえる。

 

 それに加えて、明治政府のほうで四民平等を訴え、倒幕したことを正当化するために「人々を悪政から解放した。これで皆さんは自由に努力して、自分を成長させ、能力を伸ばすことができますよ」という立身出世が可能になったという物語を作りたかったと考えられる。

 大正時代に入るとここに「教養主義」の思想が追加され、自己練磨による努力至上主義の思想が更に高まっていく。

 

 このあたり、下の竹内洋の本を薦めておく。

 日本の受験生達の精神がいかなる魂胆や思想によって成り立っていたのかを解剖した本である。

 

 

 

 

 しかしその明治ですら不平等は激しかった。

 岩波書店の(岩波ジュニア新書)はその昔、宮崎哲弥が述べたように

「ジュニア」という名はついてはいるが、わかりやすいうえに中身が濃い。

 下の本は2018年と近年出版された本で、明治時代の実相を描いた本なのでおすすめ。

 

 

 当時のドキュメンタリーが読みたい方は以下の本をどうぞ。

 

最暗黒の東京 (講談社学術文庫)

最暗黒の東京 (講談社学術文庫)

 

 

 問題はトマ・ピケティが『資本論』で述べたように戦争や革命などがないと資本のガラガラポンが起こらないので、再び蓄積が始まり、固定化が進む。

 そうなると、個人の努力ではどうしようもない差が最初からつくことになる。

 

 下は文化資本という言葉で非常に有名なブルデューの本。

 いってしまえば、家が裕福であるということが子供にどれだけの「資本」を与えるかということを論証したものである。

 すなわち、「金があるだけでない目に見えない文化的な資本」の存在があることを教えてくれている。

 そして、「どの家に生まれたかで、どうしようもない差がつく」ということも。

 

遺産相続者たち―学生と文化 (ブルデュー・ライブラリー)

遺産相続者たち―学生と文化 (ブルデュー・ライブラリー)

 

  

 ちなみに日本による教育格差については今年でた以下の本が非常に詳しく書いている。

 親御さんなぞはご一読を。

 

 

教育格差 (ちくま新書)

教育格差 (ちくま新書)

 

 

 

 

 さて、日本に於ける自己責任論の走りがみえてきた。

 と同時に、社会は自助努力による「自己責任」程度で解決するような簡単なものではないということがわかってくる。

 

 そして「自己責任論」というのは時計の針を逆に戻すという退嬰的な思想であることも意識しておこう。

 この自己責任論が「無敵の人」をつくり、社会を弱肉強食の荒んだものへと変えて行ってしまう。

 貧乏人や落伍者を放置するということは、端的にいって社会の治安を悪化させる。

 これは差別ではく、実態である。

 

 岡本英男は「現代貨幣理論(MMT)の思想的源流」(表現者クライテリオン 2019年9月号)において次のように述べている。

 

 第一次大戦ロシア革命世界大恐慌、第二次大戦といった「危機の三十数年」を経るなかで、資本主義は古典的資本主義から現代本主義=福祉国家資本主義へと「大転換」したと捉えている。(中略)国家が恐慌や失業を克服するために経済過程や国民の生活過程に深く関与するようになると、それはもはや市場原理が自律的な社会ではなく、市場の働きが国家の計画原理によって補完された混合経済体制となる

 

 すなわち第二次世界大戦後における進歩というのは福祉国家の形成であった。 

 むしろそれこそが、我々の暮らしを豊かにし、安定させるために必定であったといえる。

 

 この経緯を踏まえると、「自己責任論」は社会の退歩と原始化にしかすぎない。

 

 これに対して「しかし、国の財源には逼迫しているので、彼らを助けることができない」という財源問題はすでにMMTが解決したということは再三ブログでも書いたとおりである。

 つまり、MMTはこうした強者から弱者への「お説教」ともいえる自己責任論(=自己啓発=社会の退歩)を除くことができるという点でも価値がある。

 

 我々は彼らの言説をありがたく頂戴する必要などない。

 むしろ、「退嬰的だね、君は」と嘲罵すべきである。*1

 

 

 

 この文を書いている途中でメンタリストDaiGoによる「努力不足は自己責任」的な文章をみた。

 

b.hatena.ne.jp

 

 

 典型的な、あまりにも典型的な退歩、だと思ったのであった。

 

 合理的で科学的な姿勢はどこへいったのだろう?

 

 結局、人間はどんなに勉強しても、根本的な思想を変えることはできないのであった。

 

 まあ、いうても、DaiGoは放送でもいってるように「社会的に成功すればするほど、他人への共感力が失われる」って話を何度も紹介してるんだよね。

 そう考えると、こういう感じになってくるのも、彼自身が身を以て立証したともいえるか。

 

 

 
 

 

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

 

 

 

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

 

 

 

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

 

 

 

 

 

努力不要論

努力不要論

 

 

*1:正直、退歩だとか退嬰的だとか左翼っぽくて嫌である。しかし、原始時代のような生活をしろ、といわれて、その時代に戻りたい人間がいるのだろうか?誰でも医療や福祉や、あるいはインフラなどの恩恵を受けたいと思うのではないだろうか。それが国家の価値でもあろう。

スプラトゥーン2をやっているとDV彼氏に洗脳された気分になって、萎える。

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スプラトゥーン2 敗北時の画像

 はい、どうもズンダです。

 今回も、スプラトゥーン2について新発見があったので、書いていこうかとおもいます。

 

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 

 

 

Splatoon2 (スプラトゥーン2)|オンラインコード版

Splatoon2 (スプラトゥーン2)|オンラインコード版

 

 

 私は先ほど、次のようなTweet*1をしました。

 

 

 この書き込みはスプラトゥーン2に不満をもちながらも、どうしてはまり込んでしまうのかを説明したものです。

 

 スプラトゥーン2は日本で300万本も売れた化物ソフトです。

 名作です。面白い。度はまりします。

 さすが、任天堂。こんな面白いゲームをつくれるなんて。

 

 そう思います。

 しかし、同時に「何で、俺を虐げるようなことするんだよ」と思うことが頻繁にあります。

 いったい、それは何なのか?そして何故そんなことが起こるのか?

 そしてこれから「スプラトゥーン3」を出すつもりなのであれば、直すべきことはなんなのかを、プレイヤーとして書いておきたいとおもいます。

 

 

 このゲームで勝つために必要なこと

 味方が弱くなるということの意味 

 

 実はこのゲーム、自分が連勝しはじめると、「連敗モード」といわれるものがはじまります。

 この「連敗モード」に入ると、突然、自分以外の味方が弱くなり、敵チームに勝つことが難しくなってしまうのです。

 あるいは、力量以前に、武器力が弱いという編制の問題があります。

 

 どのゲームにもあるように、「強い武器」と「弱い武器」が存在しております。

 

 これが「連敗モード」に入ると、「弱い武器」をもった味方と、「強い武器」を持った敵、とに分かれるようになっています。

 酷いときになると、編制をみた瞬間に負けが分かるほどなので、「編制ゲー」ともいわれているのです。

 

 結論として、腕前を上げるためには「弱い味方をキャリー(引っ張ること)して、敵を全員、ほぼ自分の力のみで倒せるだけの力量が必要ということになります。

 

 強い人たちはなぜ強いといわれるのか

 

 逆に言うと自分が他の味方三人分の力を出さないと、絶対に勝ちすすむことができないようになっているということなのです。

 

 ですから、有名配信者=ものすごく強い人たちの放送をyoutubeでみてみると、彼らは平均「12~20キル」ぐらいしています。

 

 このゲーム、私のような凡人がやると調子がよくて15キルほど。普通だと8キルぐらいです。

 ところが、上手い人たちというのは平均が一桁を超えております。

 これが彼らが強い理由だというのは明白でしょう。

 

 当然ですが、キルを取れば取るほど、相手が「勝つための行動をする」ということができなくなります。

 ということは端的に言えばキル数が増えれば増えるほど、相手に勝つことができるようになるといえるのです。

 

 なぜ弱い凡人達はこのゲームで悩むのか 

 

 しかし、ですよ。

 我々は凡人なわけです。有名配信者達のように才能にあふれ、莫大な時間をかけて、ゲームをすることなど普通一般の人にはできません。

 となると、こういうことがいえます。

 

 味方が弱いと、腕前を上げることができない

 

 すなわち、凡人である我々は、「味方が強い」あるいは「味方が普通」であれば腕前を上げていけるのです。

 ところが、このゲームは先ほども述べたように連勝をしはじめると「味方が弱い」しかこなくなります。

 つまり、「凡人は永遠に腕前を上げられない」という構造になっているのです。

 

 「じゃあ、もう諦めればいいじゃないか、お前は凡人なんだしさ」という声がきこえてきそうです。

 

 が、ここにこのゲームの開発者達が仕組んだがあります。

 

 

 

 

 なぜ人はDV男にはまってしまうのだろうか?

  突如として凡人に優しくなるスプラトゥーン2というゲーム

  「連敗モード」があると、私は書いてきました。

 実はこのゲーム、もう一つ「モード」があります。

 それは「連勝モード」です。

 

 勝ちが続くと、負けのターンがくるように、負けのターンがくると勝ちのターンがくる。

 そんなふうに設定されているのです。恰も三次関数のように波うっているのが、スプラトゥーンというゲームの特徴です。

 ちなみに、先ほども書いたようにこの波に飲まれることなく、波乗りピカチュウ並に大波を自由自在に動き回っているのが「有名配信者」なのです。

 つまり、彼らのことを波乗りピカチュウと渾名しても罪にはならないでしょう。

 

  で、この「連勝モード」にはいると、自分がたいしたことをしてなくても、味方が勝手にゲームを進めてくれるようになります。

 はっきりいって、自分がいなくても、勝てるだろ!と突っ込みたくなるぐらいオイル差したてのベルトコンベアーばりにすすんでいきます!

 

 さあ、これで気分がよくなってきます。

 「俺、もしかすると、うまくなったのかも?」なんて勘違いしちゃうでしょう。

 しかし、そうは問屋が卸さない。

 

 気がつけばあなたは断崖絶壁の手前にいます。

 そう、船越英一郎に問い詰められる犯人犯のように、あなたの連勝は止まり、崖の下に突き落とされる一歩前にいるのです。

 

「連勝モード」(快感)→「連敗モード」(絶望)→「連勝モード」(快感)→「連敗モード」(絶望)….

 

 

 この繰り返しです。

 

 これにより、腹が立つはずなのにずっとこのゲームをやってしまうという矛盾した状態に追い込まれます。

 

 さて、もうここまでいえばわかったでしょう。

 この、現象、DV男が女性を捕まえておくやり方に似ていませんか?

 下の記事を見て下さい。

www.yomiuri.co.jp

 

 この読売新聞の記事の執筆者、中村教授によると、DVをやる男は次のようにして女性を洗脳していくようです。

 

 「友人や家族から孤立させる」
 「お前は価値のないやつだと繰り返して言う」
 「辱める行為、相手に自己非難を強いる」
 

  

 これ、まさにスプラトゥーン2をやっているときの心境です。

 あらゆる人間が自分の敵にみえるし、自分を批判しているように感じるし、自分は全く何の価値もなく、弱い人間であり、スプラトゥーン2をやっていても全然うまくならない。

 下手くそのまんまの自分は、凡人以下の存在であり、この世界に生きている意味がない。

 

 そういうところまで、たたき落とされていきます。

 

 そして、たたき落とされたところで「連勝モード」がはじまり、自分を肯定してくれているような気持ちになるのです。

 

www.youtube.com

 いったいどうしたらいいのか

 正直な話、負けさせるシステム自体を捨て打つべきだとおもいます。

  1.  異常に弱い味方がこないようにする
  2.  武器編制をしっかりと対等になるようにする

 

 最低限、このぐらいやってもらえるといいのですが、一向になおりませんね。

 やはり、強制的に「負けさせる」システムがあるために、破棄できないのでしょうか。

 

 実際、このゲームで中毒状態になる理由というのはDVと同じなのです。

 それを考えると、もしシステムがまともになってしまった場合、私のような中毒患者は存在しなくなってしまうかもしれない。

 そして、それはスプラトゥーンというゲームがつまらないゲームになってしまうことを意味しているわけで、解決作がうかびませんね。

 

 そんなこんなで、スプラトゥーン2をプレイする日々は続くのでした。 

 DVから解放される日を願って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ちなみにこの文章を書き終えたあと「スプラ DV」でしらべたら、二年ほど前に同じようなことを書き込んでいらっしゃる方を発見しました。みんな同じようなことをかんじてるんかなあ。

【感想】虐待を受けた人ほど、性体験が早くなるのはなぜか? 明和政子『ヒトの発達の謎を解く』(ちくま新書)【書評】

 

 子育てをしておられる方々、自分の子供が健康に育つことをお望みではないですか。
 今回、紹介する明和政子氏の本は赤ん坊がどのようにして成長していくかを科学的に解明していく本であります。

 

 

 

今回の記事で紹介するのは以下の二点です。
 

①なぜヒトの成長の仕方を学ぶ必要があるのか
②精神病には若い頃の虐待が関係している科学的な理由がある。

 

 では、見ていきましょう。

 

 

 第一に愛情が大事である理由

 

 動物実験による愛情の大切さ

 

 現在WHOは乳幼児の健やかな精神発達を「アタッチメント(愛着)理論」をもとにして捉えています。

 この「アタッチメント」はジョン・ボルウビィという学者が提唱しました。

 ボウルビィは身体発達にとって適切な食事が必要であると同時に子供が養育者(母親を指す)との間でアタッチメントを形成することが健康な精神にとって重要だと考えたそうです。

 

 我々も何処かで見聞きしたことのある考えですよね。
 親の、特に母親の愛情が子供の人格形成に大きな影響を与える、という文言を。

 

 実は今、この考え方に再考が求められています。

 

 親だけが子供に愛着を与えるわけではない

 

 

 というのも、ボウルビィは同時代にいきたハリー・ハーロウという人物が行ったアカゲザル代理母実験の影響を強く浮けていました。
 

 まず、生後すぐの子ザルに二種類の代理母を与えます。

 

 ①哺乳瓶を取り付けた針金 
 ②体温まで暖められた布
 
 このうちサルはどちらを選ぶかという実験でした。
 腹が減れば哺乳瓶から牛乳をのみますが、その後はずっと布に抱きついていたとのこと。

 このことからハーロウは「母親の温かな身体の触れあいこそが子供にとって必要である」ということを証明します。

 

 

 しかし、この実験には欠陥がありました。
 

 というのも他の霊長類すべてにこの傾向があるわけではなかったからです。

 

 たとえば、マーモセットという南米に棲息するサルがいます。
 彼らはアカゲザルとは異なり、父親が養育に関わり、出産後に子供を運搬する役割などを担います。
 兄や姉などもそれを手伝う。
 つまり、母親だけが子育てをしているわけではありません

 

 また、アフリカのアカや南米のアチェという狩猟採集で生計を樹てている部族がいます。
 彼らも複数で共同して養育します。母親がおもな養育者ではありますが、二〇名ぐらいの人物が関わり、子育てをします。
 子供はそのうち五名ほどにアタッチメントを感じるらしいのです。

 

 すなわちハーロウの考えていた母親だけが子育てに関わっているという実験に修正が求められるような多くの実例が出てきているということなのです。

 

 こういった多くの例外からWHOは再考を求められて、二十名あまりの科学者をあつめてクローズド会議を開催しました。
 

 このうち一人がこの本の著者である明和氏というわけです。 

 明和氏は自分の学んできた学問で以て、現代社会で起きている様々な問題をどうにかできないかと苦心しておられます。

 いじめ、不登校、不安障害、引きこもり、抑うつ、薬物依存症、自殺

 毎日聞かないことがないほどに、これらの話題で世の中はあふれかえっています。

 明和氏は

「ヒトの育ちにまつわる現代社会が抱える諸問題の背後には、ヒトが本来もつ特性と現代環境とのミスマッチが深く関わっている」

 

 という立場で論を進めると仰います。

 

 我々の身近にあるPCやスマートフォンによる影響。あるいはVRやARなどとよばれる拡張現実の世界。もう少し先に目を配ると現れるAIロボットとの交差。

 いつのまにか我々の暮らしはこういった科学技術の進歩に伴い、劇的な変化を遂げつつあります。

 

zunnda.hatenablog.com

 それなのにもかかわらず、昔ながらの「子育ての方法」だけで対応できるのでしょうか?
 
 それゆえ、明和氏はヒトがどのように成長していくのかをこの本のなかで縷々に説明しておられるのです。
 
 ちなみに人間の前頭分野(理性を司る部分)が完全に発達しきるのには二五年以上もかかるとか。
 大学を卒業しても、人は成長しているのです。
 

 そう考えると未成年に選挙権を与えることが決して良いことだとはいえませんね。
 それどころか二〇歳ですら早いのかもしれない。

 それまでは実は脳味噌は成長段階にあるのです。

 

 脳の発達を阻害された人はどうなるのか
 
 

 発達初期の重要性

 

 初期段階の脳の感受性期に受けた身体への影響は後の発達を左右するということはネズミなどの齧歯類をはじめとする動物実験でわかっているそうです。

 もちろん、これも人間に当てはまると考えられています。
 
 

 発達障害は遺伝的か否か

 

 そして近頃、話柄にあがりやすい発達障害自閉症スペクトラム統合失調症など)も幼少期にある環境の変化を強烈に受けたことによる可能性があることがわかっています。
 図をみてください。

 

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本書 P146

 

 

 横軸が「誕生」、「幼児期~思春期」、「成人」と成長にあわせて三段階あります。
 縦軸にシナプス(脳の神経間を飛び交う伝達物質。これが多いか少ないかで脳の情報量が異なる)がみえますね。

 自閉スペクトラムの人は胎児期からシナプス密度が一貫して高く、またシナプスの過剰形成と刈り込みが進む発達の仕方が異質です。
  
 統合失調症の脳では幼児期から思春期にかけてシナプス密度が低く、その後は過剰なシナプス刈り込みが起こるとかんがえられています。

 

 これは遺伝子変異ではなく、エピジェネティクスによって引き越される現象として説明されるのです。
 エピジェネティクス(epigenetics)とは次のようなことを指します。氏の本から引用します。

 

成育歴などの後天的、外的要因(経験)が、その個体や構造、認知機能や行動など)を多様に変化させる主体システムの存在

 

 

 要約すると、後天的な環境要因によって先天的な遺伝子が変化を生じさせられ、その人のもっていた性質を変えてしまうということです。
 あくまでたとえですが、「人一倍優しい遺伝子をもっていた」→後天的な影響の結果「人一倍きびしい人になった」ということをいうわけです。

 

 幼少期に虐待を受けた人の脳はどうなる?

 

 福井大学の友田明美博士を中心とする研究グループが、幼少期に身体的、精神的、性的虐待やネグレクトを受けて育った人たちについて研究しておられます。

 性的虐待を受けた人たちの脳を調べてみると、とんでもないことがわかりました。

 不適切な養育を経験した「年齢」によってダメージを与えられた脳部位が異なっていたのです。 
 
 

 

記憶や学習に関わる海馬がダメージを受けやすいのは3~5歳
脳梁が大きく萎縮するのは9~10歳

思考や推論、行動抑制に関わる前頭分野が影響を受けるのは14~16歳

 

 

 

 すなわち同じ性的虐待を受けたといっても、どの段階に受けたかにより、脳への影響が異なるということが判明しています。

 仮に3~5歳の頃に虐待を受ければ記憶力に問題が生じやすくなり、14~16歳の頃に虐待を受ければ行動抑制や思考が弱くなってしまうということなのですね。

 

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本書 P150

 

 更に同チームはアタッチメント障碍についても研究しております。
 

 つまり子供の頃に愛情をもって育てられたことがない人たちの話です。
 それによれば定型発達(特に虐待などがなく普通に成長すること)をした人たちと比べると次のようなことがわかりました。

 

・左半球の一時視覚野の容積二〇%以上も減少していた
 
・脳内に喜びや快楽、心地よさを喚起させる報酬系活動を司る部位の一つである線条体の活動が弱い。それゆえ普通の報酬を得ても満足できなくなり、薬物をはじめとする依存症に陥りやすい人になりがち。
 
 

 

 なんだか非常に悲しい結果ですよね。
 子供たちが悪いわけでもないのに、親や周りの友人関係などのせいで、虐待や虐めを受けたために定型発達が上手くいかず、異常をきたしてしまうというのは。
 

 しかし問題はこれだけではありません。

 
不適切な環境は「子供時代の終わり」を早めてしまう

 

 

 前にも書いたように人間の前頭葉は25歳ほどまで成長しつづけています。
 しかし、幼少期の感受性期に不適切な環境を経験すると、子供である期間が短縮されてしまい、思春期の開始が早まることがわかっています。

 これが「生殖機能を高める」ことにつながってしまいます。
 つまり、虐待などにより前頭分野の成長が阻害されることで、人は「早く大人になり、子供を育てなければならない」という本能的な部分を抑えることができなくなるのです。 

 

 これは人間の発達にとって、問題を引き起こします。

 というのも知能指数が高い子供ほど前頭分野の成熟がゆっくり進むということがアメリカの研究からわかっているからです。(P132)

 すなわち人間は他の動物たちと異なり、時間をかけて成長していくのですが、その成長の途中で「STOP」をかけられてしまうわけです。
 

 
 我々の国だけで考えてみても、人為的なものや天災などによって、子供時代にダメージを強く与えられてしまった人たちがその後、どうやって生きていけばいいのかについて深く思いを馳せなければいけないことに気がつくでしょう。

 定型発達してしまった人は気軽に考えがちですが、この明和氏の本を読むと「後天的にダメージを与えられた人が、普通の人と同じように生きていくことの難しさ」を思わずにはいられません。

 

 それ故に、明和氏も、早い段階で見つけて適切な補助や支援をしていく必要がある、という思いからこの本を記したようです。
 なぜならば彼女の子供も早産で産まれており、早産児は諸々の機能が普通に産まれた人と違うことがわかっているからです。

 

 そのとき、やはり問題になるのが「国の財源問題」だったりするのですが、当ブログでも取り上げたようにその問題は問題ではありません。

zunnda.hatenablog.com

 

 

 となれば、我々はこの『ヒトの発達の謎を解く』を読み、人それぞれの事情があるということを理解しなければならないでしょう。

 明和氏は次のように人の成長についてまとめておられます。図とともに説明します。
 人には人の成長の仕方がある。これを「連続性」という。

 更に、外部環境から与えられる影響がその人の成長に「多様性」を与えていく。

 この「連続性」と「多様性」こそがヒトの発達の見取り図だということです。
 

f:id:zunnda:20191021122808j:plain

同書P175



 

 終わりに
 

 この本は買いです。
 前回紹介した『痴漢外来』もそうですが、今月は新書に当たりが多いと思っています。
 非常に興奮しながら読むことができる本でした。
 特に虐待を受けた年齢により、反応する脳の部位が異なるというのは知りませんでした。
 また、前頭分野の成長が抑えられてしまうことで、本能的な欲求が高まり、生殖機能が昂進してしまうというのも頷ける内容でした。

 


 知識を連関させ想像する力をつけるということ-『痴漢外来』と組み合わせる
 

 


 →ここからは全くデータも何もない私の偏見なので、聞き流してもらって結構です。
 性体験が早かったり、高校時代に急に妊娠して学校を辞めたりする人というのは、もしかするとアタッチメント形成の阻害や虐待などを受けることで本能的欲求が強くなってしまった人なのではないか?という推測は許されないでしょうか。
 昔から家庭環境に問題のある人ほど、そういう経験が早いということは巷間伝えられてきたことだと思います。

 この本を読んで、そういった行動の裏にもアタッチメント形成の阻害と虐待などがあるのかもしれないと思いました。

 

 つまり、今までは「誰といつセックスをしようがそいつの勝手だろ」という言い方ができましたが、もし虐待やネグレクトなどと関係があるのならば、「勝手である」ですましていい話ではないということがわかります。

 たとえば、前回『痴漢外来』という本を紹介しました。

 

 

 この中で出てくる患者さんの実例のなかに女性で不特定多数の人と性的行為をもつことが好きでしょうがないという人の話がでてきます。

 

zunnda.hatenablog.com

 この女性は十代の頃、自分の父親に性的関係を迫られて、SEXを経験してしまいます。

 親との関係が悪くなることが嫌だった彼女は断れきれずに関係を持ち続けてしまいます。

 が、それと同時に自分の中で性的な気持ちよさがあることに気づいてしまい、結果、色んな男性とSEXをする依存症になってしまったのでした。

 

 この例なども、発達段階にあった前頭葉の成長が父親の性的虐待によって止められてしまったことにあるように思われます。

 

 本書を読んだ私は、

 彼女に対して、依存症や親の性的虐待による被害者というだけではなく、脳にダメージを与えられてしまった事例としてもみることができるようになりました。

 こうして科学的な知見が加わることで更に、相手を理解できるようになっていく。

 それが、相手を思いやったり同情したりする礎になります。

 こうして、その人の「自己責任」などではないと気づけるようになり、公共的な支援や補助が必要だと思えるようになるのです。

 

 

 
 
 
 

総プレイ時間2300時間!? スプラトゥーン2でSとS+0を一年間、往復している成長できない男の話

 さて、このブログ、新書の紹介を中心とした記事をあげておりますが

管理人である私ズンダは昔からゲームが大好きです。

 

 それゆえ、私のTwitterをフォローしていらっしゃる方々は私がTwitter上でスプラトゥーン2についての呪詛をひたすら吐き続けているのをご覧になっておられるでしょう。

  

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 

 

 

 

 実際、暇さえあるとコントローラーを握り、このスプラトゥーン2というゲームをやってしまうぐらいはまっております。

 

 やっている限りにおいては確かに面白い。

 しかし、このゲームをやっていて悲しくなったりつらくなったりすることが多々あります。

 それは何か。

 ↓私のプレイです。

 

www.youtube.com

 

 

 

 全く上手くならないという恐怖

 このゲームをやっていると悲しくなる。

 どのゲームでもどの分野でも人間には自分の限界があります。

 スポーツでいうと、地区大会優勝や全国大会での優勝、果ては金メダルまで。

 欲をあげればきりがありません。

  

 我々はドラフトで有名になった選手を知ってはいても、才能はあったがプロにはなれなかった選手を思い出すことはありません。 

 

 たとえ、ドラフト一位を獲得したとしても、

話題になったのはそれが最後!という人たちも大勢いるのです。

 

 そんな彼らはどんな気持ちで余生を送っているのでしょうか。

 

 「自分はそこそこ才能があった。

 小学校や中学校や高校で敵などいなかった。

 それなのに、プロになれなかった。」

 

 こういった痛烈な哀しみに襲われているに違いありません。

 

 私にとってスプラトゥーン2はそういう自分の限界を強く感じさせるゲームです。

 

 このゲームをやると、

「なんで自分はこんなに能力が低いんだろう」と本気で悩み、押しつぶされそうになります。

 

 他の人たちが私と同じだけの時間をかけたら、たやすく腕前をあげているだろうに、どうして自分だけがこんなに下手なままなんだろう、とそんなことを考えながらいつもゲームをやっています。

 

 とにかく、つらくてつらくて、しょうがない。こんなゲームが世の中に存在していることが許せなくおもっております。

 

 私の腕前と資格試験合格の時間との比較 

 私の腕前は

 ガチホコ S+3~X

 ガチエリアA+~S+2 

 ガチヤグラA+~S+2

 ガチアサリS~ S+2

 

 を変動し続けています。

 

 ホコでXを取ったときは、他のもXへいけるだろうとおもいきや、今となっては実力がなかったのでしょう。他のルールはおろかホコですらS+まで落ちてしまいました。

 

 この間、やっている時間は大してかわりません。

 総プレイ時間2300時間ですが、全く成長しませんでした。

 

 ちなみに資格試験に受かる必要時間を調べてみると以下のようになります。

 

 

cpa-net.jp

 

税理士 2,500時間

国家公務員Ⅰ種 2,000時間

米国公認会計士 1,500時間

社会保険労務士 1,000時間

TOEIC800点 1,000時間

日商簿記1級 800時間

行政書士 600時間

宅地建物取引主任者400時間

日商簿記2級 250時間 

 

 なんと、ほぼ税理士になれてしまうかもしれないぐらいこのゲームをやっているわけです。

 それで、腕前がS+0あたりが限界なのです。

 いや、これには顔面蒼白になってしまうほどです。

 

 当たり前ですが、「スプラトゥーン2」がべらぼうにうまければ、大会にでたりyoutuberとして人気がでたりするので、そこで日銭を稼げたり、あるいはサラリーマンの年収を超えるぐらいの収益を得たりしている人たちもいます。

 

 が、そうでない人がこのゲームをここまでやって何の意味があるのでしょうか?

  

 スプラトゥーン2に呪われている

 

 正直、今すぐSwitchからデータを消すか、ゴミ箱に投げ捨てるかして、自分の目の前からなくしてやりたいぐらいです。

 

 実際、私はSwitch本体を縛り上げて、押し入れに隠したことがあります。

   

 しかし、次の日になると、鎮座ましますSwitchが物々しい顔をしてテレビの前に据えてあるのです。

 

 もはや、怪談話でよくある呪いの人形と変わりません。

 「ひえっ!」と声をあげてしまうほどです。

 

 それほどまでに、スプラトゥーン2側から「はやく腕前をオールXにせよ」と脅されているのです。

 

 そういうわけで、私にとってこのゲームは「糞ゲー」なわけです。

 面白いといいつつ、糞ゲーとも思ってしまう。

 そんな相反する感情を人は矛盾と呼ぶでしょう。

 

 しかし、負けた分だけ勝ったときの満足感や喜びは大きい。

 このゲームはアリストテレスが述べた言葉をニーチェが解釈した意味での

 カルタシスがあるのです。

 

 誰でも腕前Xになれるという虚言

 ウソつきはなぜ生まれたか

 

 またネット上で流れるよくわからない空言として「誰でも腕前Xになれる」という言葉があります。

 

 明らかに間違いです。

 

splatoon-nawabari.com

 

 このゲームではガチアサリ、ガチエリアガチヤグラガチホコという四つのルールがあります。

 それら全てにおいてXに到達している人は上記の記事によれば0.7%しかいないのです。

 

 ということは明らかに「誰でもXになれる」

 といってしまう人は、虚言癖の持ち主か、あるいは0.7%を100%のことだと勘違いしているというわけです。

 

 無論この「誰でも」は100%といってるのではなく、七割、八割ぐらいを指しているだろうことは理解しています。

 

 論理学の世界じゃないんだから。

 

 では、七割や八割もXっているのか?ということが問題になります。

 

 虚言癖はいたとしても、0.7%と七割や八割をまちがえるやつがいるわけないだろ!

と思う方もおられるかもしれません。

 

 しかし、意外に有りうるのではないかというのが私の見立てです。

 

 ウソつきなんじゃなくて、本当に「誰でも」なれると思っている?

 

 今年、2019年において以下の本が出版されました。

 

 

  

 この本と似たようなタイトルを何処かで見かけたことのある人たちがおられるかもしれません。

 

 

 

 そう、1999年に東洋経済新報社から出された『分数ができない大学生』*1をもじった本がこの『パーセンテージがわからない大学生』なのです。

 

 この本に記されているのは日本の大学生がパーセンテージを理解してない人が多いということが書かれていて、特段、意外でもなかったりする本です。

 

 というのも日本の学力低下などはずっと前から騒がれておりました。

 それこそ「ゆとり教育」以前から日本の教科書は七十年代と比べるとペラペラになってきておりました。

 

 また、教育課程の水準を下げた理由というのが今も昔も変わらず、「いじめ」や「自殺」が多いのは詰め込み教育のせいである、という論調が強かったためで、根本的に因果関係がないことを悪玉にしてしまっているのです。

 

 ※↓以下の記事も読んでいただきたい。「ゆとり教育」で逆に学力はあがったのではないか、という記事である。しかし、私ズンダがここで述べている「分数」や「百分率」の理解が深まったかどうかは下記の本では判然としないことは付記しておく。

zunnda.hatenablog.com

 

 よって、「ゆとり教育」を受けた人間を馬鹿にしている側が、実は「元ゆとり教育」を受けた世代だったりするのですが、それに気づかないことが、これまた、「ゆとりなんだな……」と思わせるに足るところが面白い。

 

 閑話休題

 

 ということで、もしかすると、パーセンテージがわからないために、100%も0%も区別が付かなくなっているということは考えられる話です。

 

 これに限らず、「五割マッチングだから半分は勝てる」という書き込みもあったりします。

 

 ただこれはまあ、大数の法則を知らなくともしょうがないと思います。

 

 さて、少なくとも「誰でも」ということはありえないとわかりました。

 

   ※追記

 ただこれは、日本で受けている言説が「努力論」なのも関係しているんだと思っています。

 

 つまり、「失敗するかもしれないけど、やってみよう!うまいくかもしれない」という言論に乗せられてしまう理由というのは、割合を無視してしまうからなのかもしれないということです。

 

 100人に1人とか10000人に1人とか、そういうのを考えていないと、人生を見誤ります。

 

 ミクロについて考えるのは好きだが、マクロについては考えない癖というのはこういうところから来ているのかも。

 

 マクロについて何も考えないなら、すべて自分の責任になりますよ。

 

 あらゆる問題全てを個人に換算するのが好きなんですよね。

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 ↓このあたりも、ブログで紹介してみたいところです。

 

 

 

 

 これからどうすればいいのか

 さて、これから私の道は三つあります。

 

  1.  もはやXになることは諦める。
  2.  スプラトゥーン2をSwitchから削除する
  3.  オールXを目指す

 

 1をえらんだ場合

 

 もうこのゲームをやることはないでしょう。

 私はガチマッチは面白いと思っても、他の競技が面白いと思ったことが全くありません。

 

 2をえらんだ場合

 

 お金がもったいないなと思います。せめて、ソフトで買っていれば売ることができたのに。残念。

 

 3をえらんだ場合

 

 はっきりいって、独学で腕前をこれ以上あげるのは無理だと思っています。

 よって、上手い人、しかも「腕前がある且つ教えることが上手い人」を雇う以外にない。

 

 しかし、これもまたお金がかかるので、大変だなあと。

 生計に余裕があるわけではないので難しい

 

 これに関してはまだ結論がでておりません。

 一番いいのは独学でうまくなることなのだが、それが出来ないから隘路にはまりこんでしまったわけですね。

 

 というわけで、「成長できない男」の記事でした。

 

 ↓ちなみに才能に関してはこの本が面白い。

 

 

 

 ↓一流になる人の練習法がかいてあります。たまに読み返して、才能がない自分を慰めてはいますが、「やっぱり、努力ではないんじゃないの?」と思ったりします。

 

 

※この後、私ズンダはすべてのウデマエでオールXを達成した。

 スプラ界隈で、私並に時間をかけてウデマエXへいった人物は散見されているが、だいたい中年が多い。

 

 思っていた以上に、年齢がものを言う世界だということだろう。

 

 いってしまえば、年齢がいっている人はウデマエXなど高望みである。

 

 これが客観的な事実である。

 

 以下の文は私がウデマエを上げていく中で書き連ねていったものだ。

 

 スプラの世界でここまで書き尽くした人物は、私をおいて他にいない。

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:後にこの本は苅谷 剛彦『大衆教育社会の行方』で批判されている。

忙しくてブログ更新できないという話

 雑記的な要素もこのブログに付け加えていこうかなと思って、くだらないことながら更新してみようかと。

 

 もうとにかく今月は忙しい。

だいたい私は10月が忙しいのですが、youtubeやブログなども今年はやりはじめたせいで、どっちを向いたらいいのかわからないぐらい辟易としています。

 

 あれをしよう、これをしようとおもっても、しなければいけないことが多すぎてパンクしてしまっています。

 よくマルチタスクをなくして行動せよ、といいますが、現実は押し寄せてくる津波みたいなもんんで、回避できないんですわ。

 

 そういうわけで、前回の記事でお知らせしたちくま新書の本についての更新は来週の月曜日ぐらいになってしまいそうです。もし期待しておられる方がいらしたら申し訳ない。

 

 すでに読み終わってはいますが、どんな構成にしようか悩んでおります。

 

 全体的に非常に面白い。

 ただ、この部分だけは絶対に紹介すべきところというのは一カ所か二カ所ほどです。

 すると字数が2000字いくかいかないか程度でして、困っております。

 

 たまにはそんな紹介があってもいいのかな、とはおもいますが。

 

 この他、『表現者クライテリオン 安倍晋三特集』も購入しております。

 こちらは半分ぐらいは読み終わっていますが、この雑誌の内容をそのまま紹介しても物足りない。

 

 

 

  

 簡単に内容を摘まんでしまいすと、保守側からの理性的な安倍首相批判です。

 前にもいいましたが、日本の保守系は絶対に安倍批判はしません。

 『Will』だとか『正論』だとかありますが、どれもお話になりません。

 もはや宗教のようになっているので、読む価値がない。

 

 が、この雑誌に関しては非常に理知的な批判がなされており、そして彼らの言説はネットでしらべればyoutubeなどでいくらでも出てきます。

 こんなことがわかってるのにもかかわらず、日本ってなにやってんだろうなあ、という暗澹たる気持ちになる雑誌、それが『クライテリオン』です。

 

 十一月の五日にはMMTの教科書も書いたビル・ミッチェルが来日するそうな。

 色々、一悶着あったそうですが、なんとかなったそう。

 

 抽選に当たったらいってみたいなあ、とおもっております。

 十一月は二回ほど、東京にお邪魔するかもしれません。

 

 近頃思うことは、時間の管理術を身につけておけばよかったな、ってことです。

 テキパキと色々な仕事をこなしたいと思っていても、そういうのがほんとに下手な人間でして、いまいちうまくいかない。

 つらいもんですね。

 

 

 

 ってなわけで、来週おあいしましょう。