河上麻由子『古代日中関係史』(中公新書)
今回紹介する本は河上麻由子氏による昔の中国と日本とのやりとり、今でいう外交ですね。一気に終章に飛びますが、河上氏はこの本のなかであえて「外交」という言葉を使わないようにしておられます。というのも今我々が使っている「外交」は近代以降のものでして、古代における外交とは国境を交えて外と交わることでして、たとえばAに朝貢するBという国が宗主国Aと敵対するC国と外交する、という宗主国以外と関係をもつことを外交と呼んでいたらしいのです。
故に、当時の歴史を語るのに現代語の外交を使うことは相応しくないということなのでした。
ちなみに、このブログにおいては一応「中国」と呼びますが、色んな民族によって王朝がくるくる変わっていった中国を本来指すには当然、この中国という呼び名は相応しくありません。ですが、面倒なことになるのも望ましくないので、今回は、中国表記にします。
さて、この本で重要な部分は次の四つです。
・中国は仏教を基いとした権威を誇っていた
・六〇七年、日出処の天子は日本の中国からの脱却を意味していない。
・国号を「日本」に変更したのも朝貢国からの独立を意味してはいない。
・遣唐使は天皇の外交権掌握を的皪として示すためであり、また「日本」と名乗っていても朝貢国であったことの根拠の一つ。
順番に追っていきましょう。
まず、中国に仏教が伝わったのは一世紀の後漢時代です。そこから民衆等にも伝わり流行に流行、五世紀になると皇帝が仏教の戒(行いを慎むこと)を受けるようになります。有名なのが梁の武帝です。彼は菩薩戒という衆生救済に励むための戒を受けて、捨身→還御→大赦・改元を行い仏教的な行為により国家の安定を図ります。アジアにおけるヘゲモニーを握っていた梁が仏教に傾倒していくと周辺国は仏教色を強調した使節を送るようになります。むろん、日本も例外ではありませんでした。五四七年以前には公的な水準で仏教を日本側から求めてきており、百済から自然に伝わったものではないと考えるのが現在の考え方のようです。
それは単に知的好奇心からではなく、東アジアでは仏教はすでに教養人の証であり、外交に不可欠な知識になっていたからなのです。
このあと唐の末期になると儒教を盛り上げ、廃仏(仏教を斥けること)し、仏教外交は衰えていきます。日本の場合は宗の時代になっても天皇の名がでてやりとりをすることがなくなりました。
二番目は六〇七年の逸話です。いわゆる、保守系の間ではこの日出処の天子は日本の中国の属国下からの独立不羈を図るものであったと説明されることが多いです。保守系でなくとも教科書でそう習った人も多いはずです。
しかしながら、この説明が教科書においていつからなされるようになったかを知っている方は少ないのではないでしょうか。
それは一九二〇年の第三期国定教科書『尋常小学国史』からです。ここで初めて教科書に日出処の天子がのります。更に一九三四年の第四期において中国と「対等」になったことを示唆する文面になります。担当編集者である藤岡継平は万世一系の天皇を中心とする「国体」の観念を明らかにするために斯くのごとき記述に書き換えていったのでした。
では、この日出処の天子によって日本が中国との対等を主張したのは本当なのでしょうか?河北氏によればそれは違うとのことです。
以下に彼女の見解を記します。
・東野治之の研究により「日出処」には出典があった。仏教書の『大智度論』である、そして、日出処とは「東西」を意味しているだけであり、日本を指してはいない。
・「天子」という用語も天皇を指しているのはない。「菩薩天子」という仏教語である。「天子」とは神々の守護を受けて神通力を得、仏法を広め、衆生を強化する国王のこと。即ち、日本の書状にある天子とは諸天に守護され、三十三天から徳を分与された国王のことであった。仏教後進国である日本に天子を名乗られた、時の皇帝煬帝はそれを不愉快に思っただけ。
というのが河上氏の主張です。本のなかではもう少しこのあたり詳しい論証がありますので気になった方は本をお取りになってみてください。
第三番目に遣唐使が則天武后に国号を「日本」に変えたいと願い出たというお話。これも唐に対する対等な意識から出たといわれておりましたが、河上氏は否定します。
近年、中国で発見された百済祢群(くだらでいぐん)の墓誌です。墓誌は死んだ百済人の功績を綴ったもので、墓の中に入れてその人物の素性を明らかにしておくためのものでした。実はこの墓誌に「日本」という単語が出てきますが、この「日本」は百済のことを指しているようです。そして、作制者は唐の人間であることから、当時の「日本」の意味とは中国からみた東側の人々のことを指していたと推することができます!そして、「日本」という名前にしてくれ、と日本が中国に申し込んだ=「中国を中心とした、つまり、唐を中心とする国際秩序に極東から参加したいんです」という宣言であったのです。
こう考えると、最初に述べた事情とは全く逆になります。畢竟、日本は独立や対等を主張したのではなく、むしろその逆、朝貢宣言だったわけです。これには実に驚かされました。もちろん、この推察が何処まで妥当なのか素人の私にはわかりません。が、もしこれが妥当性の高いものであれば、保守系の人間には衝撃的でしょうね。
第四番目にいきます。頁144~147に纏められているように、遣唐使は天皇一代につき一度のみの派遣であったのです。例外は孝徳天皇と天智天皇と光仁天皇の十四人中三人のみです。―一四人の中には宇多天皇が入っている。知っての通り、白紙に戻す遣唐使で有名な菅原道真の建言により宇田天皇在位中に遣唐使が送られることはなかった。しかし、計画はあったがゆえに14人の中にいれている―
そしてこの天皇の代替わりごとに毎回遣唐使をやっていたこと自体が日本が朝貢国の証であるということなのです。ここからも三番目の「日本」という呼び名に変えた理由は別に対等を主張していないことの根拠になる。
といった内容が多くのこの本を手に取る人々にとって重要な情報だと思われます。唐滅亡以降の話も一章分ありますが、日本と中国との関係が疎遠になっていくにつれ、叙述も勢いを失い、特に触れることがない文章になっているために私の琴線が惹かれるようなことはありませんでした。
今回の記事はどうだったでしょうか。
内容全てを紹介するのは不可能なので、日本人にとって一番惹かれるであろう箇所に絞ってみました。
初の新書紹介でしたが、中公新書は歴史に一定以上の評価があります。ページ数も多く、内容も濃い。
最初は読むのに苦労するかもしれませんが、慣れてくれば実に知的な世界を味わわせてくれます。皆さんにも読んでいただきたいですね。
ぜひとも、イイネ!を押していただきたく存じます。