2012-03-15 22:52:28
千九百二十二年刊行のイギリス小説。
これを知ったのはもう五年ほど前のこと、岩波文庫の表紙には作品の要説があり、作品の概要を得て、読むほどでもないと放置していた。
話の筋が童謡のようでもあり、寓話とみても差し支えないからであったけれども、本心は読破することを恐れたからである。
私は筋書きだけみて、読みたくないと思った。
読む前の段階で、一筋の光線が走っていた。それが苦心になるので嫌悪していた。
作品の内容は簡単である。
題名の通り、妻が狐になったのだ。
狐になった妻は、野生化して往き、夫のことを忘れ、雄狐の子を産む。
最後は猟犬に襲われて息途絶える。
たったこれだけの内容である。
今、この文を一読した人もすんなりと百四十頁に書かれてあることを本分を読まずして了解したことだろう。
そんなものである。
だが、これだけの触りでも、想像できることは多いのではないだろうか。
この作品の読み方を挙げれば次のようになろう。
①日本の昔話のように、一つの童話として読む
②狐になった妻は、人間の奥さんがするようなことをしているとして読む
③夫婦関係の難しさとして読む
④雄雌に限らない人間に突然ふりかかる災難、たとえば痴呆として読む
⑤反社会的な小説。D.Hロレンスのような自然回帰小説として読む。
②、③は読んでいると誰でも考え付くことである。
人の気持ちの移り変わりは何と早いことか。
喜怒哀楽の変容は時間によって万華鏡の如き態を為す。
私は②、③を早々と想起した。
しかし、自分の体験としては④のほうが鋭く刺さった。
②も③も相応しい読みだろう。
けれども、高齢化が進んだ現今の日本人にとっては祖父母や両親や親類縁者の痴呆による病態が目に付くのである。
夫は狐になった妻に、豪奢な洋服や飯で遇し、人間であった頃と同じ夫婦関係を続けようとするのであるが、狐の体となった妻に洋服を着せるのは無理であるし、また妻の性質は野生の狐となっていくために理性が失われ動物になっていくのであるから飯の食べ方も上品ではなく下品な作法になり、主人の人間に対する姿勢では通じなくなっていく。夫は妻から忘れられ、妻は自然へ逃れようと、垣根を掘り下げ外界への通路をつくったり、木の上へのぼり垣を越えて逃げようとする。
妻の思いを受け取った夫は、自由を与え、戸口を開けて、狐となった彼女を逃す。果して彼女は自由になった。
以後、彼女は雄狐との子供を五匹も産んだ。妻狐は前夫のまえに姿を現し、現夫との結婚生活を見せびらかす。そこに悪びれる様子などない。
前夫は嫉妬に苦しみながらも、狐である彼女のために尽くすことこそ愛だと思い、子狐たちの世話をする。
私は自分の祖母のことを思い出した。
祖母は自分が高校のころまではボケていなかった。
大学に入ったあたりで、耳が悪くなり、その後、人の顔の判別がうまくいかなくなった。
私のことは大学一年頃の夏あたりで忘却した。
私は祖母にかわいがられていたように思うが、私のことはもう消え去られていた。
当然、うちの母親のことも忘れられ、祖母は夫と自分の息子以外のことは記憶から消した。
忘れられた人間である私と私の母は出来る限り祖母の世話をした。
「この人達、誰?」といわれる度に悲しくなったが、逆上して介護をやめるわけにもいかず、ただ続けた。介護士も雇い、数年間の介護がはじまった。
結局、去年の地震の次の日、十二日に低体温症になり、死んだ。
前夫は妻狐が自分のことを忘失しているのにもかかわらず、狐を愛していた。文には「妻というより狐を愛していた」とあるが、単なる狐を愛するわけがなかろう。語り手は本人ではないことに注意が要る。
しかし、その顧みられることのない無償の愛はどこまでやりつづける必要があるのだろう。
それが必要というよりも、発然から来るものであっても、傍からみれば凄まじい執念であり、理解に苦しむ行為である。
私は人間が、一回こっきりの人生で幾度、そこまで人を愛せるのか考えてみるが、どうも一度すらあれば立派なもののように思える。
前夫について、妻が死んだあと、理性をとりもどして長生きしたと伝えられている。
それなら、愛は理性が失われた状態にあるものなのか。
だとすれば、痴呆に対するものはやはり愛しかないというのは言えるが、愛と痴呆とが結びつかねばならないとは……。