※追記
なんと、この本、2023年10月に平凡社の「平凡社ライブラリー」で増補版がでることになりました!新書版を手に入れるのは難しくなっていたので、これはめでたいですね。
皆さんも、ぜひ平凡社ライブラリーでこちらの本を購入してください。
この記事のリンクも最新のものにしておきました。
この生臭坊主が!
っていうコトバ、どこかできいたことありませんか。
ドラマや漫画などで破廉恥なことを考えてばかりいる僧侶に対して投げつけられる台詞です。
例として日本の仏教は妻帯、つまり結婚が認められています。
これはもちろん、仏教徒からしてみれば言語道断、あり得ない話です。
タイやスリランカなどでは僧団を追放されるほど厳格です。
仏教は基本的には女性が成仏できるとは考えていない宗教であり、釈迦の弟子にも養母マハー・パジャパティがおりましたが、釈迦は弟子のアーナンダがとりもったために不承不承うけいれたといわれています。
それほど女は不浄の存在として考えられていたのです。
日本の僧侶というのは古来からどうしようもない連中の集まりだと思われがちです。
実際、本書を読んだ私ズンダの感想も「碌でもない奴らの集まりだな」という感じでして、正直、仏道に対して、不誠実な人たちだとは思います。
いわゆる男色というやつでして、稚児に手を出しています。
さらに、酒を飲んで、決まり事を守る気などありせん。
しかし、仏教に背くようなことを散々やっていながらも
「自分の性欲と教え=戒律」とのあいだで戦おうという意識はあったのです。
妻帯が政府から公式に認められたのは明治五年(1872年)の太政官布告がでてからです。
それまでは大黒や梵妻といった隠し妻がおり、僧侶達は妻がいることをバレないようにしており、少しは悪い気がしてたのかもしれません。
結局、妻がいたのかよ!
と突っ込まれるでしょうが、それでもまだマシな方でして、僧侶達はもっと驚くべきことをやってのけていました。
この本の著者、松尾剛次(けんじ)が明らかにした仏僧達の破壊(戒律を破ること)の世界をみていくことにしましょう。
どんな破戒をしていたか。宗性の例から。
男色の実例 宗性の誓言。
古代末・中世では官僧(国家公務員的な僧侶のこと)の間では男色が文化になっていました。
男色とは男と男とが性行為をすることです。
この本の第二章では東大寺の僧、宗性(そうしょう)という人物を材として男色や酒飲みで悩む文言が紹介されています。
彼が書いた誓文(○○することを誓うということ)があります。
「禁断悪事勤修善根誓状抄」という文書です。
ここに彼がいったい何について悩んでいたのかが記されています。
引用してみましょう。彼が36歳のときの資料です。
五箇条起請のこと
- 四一歳以降は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
- 現在までで、九五人である。
- 亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
- 自房中に上童を置くべきでないこと。
- 上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。
右、以上の五ヶ条は、一生を限り、禁断すること以上の通りである。
※念者とは男色相手のことです。
さて、ここで二条をみてみましょう。
「現在までで、九五人」とは何のことでしょうか。
これは95人と男色してきたということです。
とんでもない性豪ですね。男色でなくとも、驚くような数字です。
ここまで多くの人と関係をもてるような人物は凄まじい。
松尾氏によれば、以前の研究においては僧綱(僧侶を統括する上位の僧で俗人の公卿)の間でのみ、このような男色があったと考えられていたのです。
しかし、宗性は伝灯大法師位(中級の位だった)であるにもかかわらず、そして36歳という年齢であるにもかかわらず、九五人と関係をもっていました。
更に、彼は男色の数に制限を設けることを誓言しておきながら、男色を止める、とまではいっていません。
また、宗性の位だと、従僧一人、中童子一人、大童子一人の三人を従えていたと考えられており、九五人もの相手と関係をもったということは他の僧侶に従っていた童子にも手を出していたと推せられるわけです。
しかも、五条目に「上童と中童とは男色をしない」とあり、二乗目とあわせると、百人までの残る五人は童子以外、ということになるわけで、学僧や他の僧侶とも男色関係にあったことがわかります。
ここから分かるのは以下のことです。
中世の官僧たちの間では男色は当然のこととして受け止められていた。文化にまでなっていた。
僧の男色相手、稚児とか童子ってなにもの?
僧の男色相手は稚児とよばれる垂れ髪の男児でした。
童子とは僧に仕える未成年者で、仏に香花を供え、仏教を学び、陪膳など僧侶に仕える役割を担う一方で、夜には師僧の男色の相手でもあったことがわかっています。
しかし、中世では成人してからも童の姿格好をして僧侶達に奉仕する童子もいたと松尾氏はいっておられます。
ということはコスプレさせて、男色していたのでしょうか。フェチズムの世界ですね。
僧侶たちの稚児に対しての熱意は凄味を覚えるほどです。
貴族や武家社会に男色が伝わった一因?
また、平経正という平家の武将がいましたが、彼ももともと仁和寺覚性の男色の相手の一人と推測されていて、成人後に世俗社会にもどっていきました。
こういう人は多かったようで、寺院世界で男色を覚えた人々が貴族・武士社会へもどり、男色文化を伝えた可能性があるといっておられます。
性の伝播ですね。
他の寺や飲酒、女犯のたとえ
天台宗、稚児を欲する。
宗性以外の例を紹介してみましょう。
現在の島根県に所在する天台宗の名刹鰐淵寺(延暦寺末寺)では正平10(一三五五)年三月に、南北朝動乱の和合のために、僧侶の間で禁制を決めています。つまり、諸寺も南朝方と北朝方に分かれ、それまで以上に童子の争奪戦が起こったようなのです。
と松尾氏は述べておられます。
では、その禁制でなにが禁じられたのでしょうか。
見てみましょう。
-
- 児童は断絶してはいけない事
児童は、すなわち法灯を継ぐ種であって、冷然を慰むる媒である。(すなわち、冬の寒さや老後の寂しさを慰めてくれる相手である)さらに、男と女の情愛の関係ではない。無理して、同穴の昵びを執らざれば(つまり、男色をしなければ)、厭離することあたわず(欲望が溜まって悟りを得ることもできない)役に立つべき者である。それゆえ、諸院諸房、各おの不断の定役に属して、随分の秘計(工夫)をすべきである。
(『中世法制史資料集六』註釈筆者)
いやはや、これを読むと、本気で言ってるのか?と突っ込みたくなりますね。
つまり、性欲でムラムラしてしまうと修行に差し障りがあるので、稚児を使ってすっきりしよう!ポジメンになろう!という宣言なわけです。
禁制なので、禁じるのかと思いきや、禁じたのは「稚児はいらない」という考えを禁じたわけです。
こんなこと今の時代でいったら、間違いなく炎上するでしょうが、当然、中世の話です。問題ありません。
ここからも稚児を抱くという男色が東大寺、興福寺、仁和寺だけなく天台宗の延暦寺の官僧たちにも広がっていたことが分かるわけです。
賭博や酒についても破戒していた。
さて、先ほどの宗性の「禁断悪事勤修善根誓状抄」を読み進めていくと、彼が実に情けない僧侶だということがわかります。
九、~(ズンダ:中略)~休息の時分のほかは、断酒・不淫ならびに、囲碁将棋など一切の勝負事をすべきではない。ただし、休息の時分であっても、遊びは三ヶ日を過ぎてはいけない、(中略)
一〇、手ずから双六を打たないこと、
また、酒を嗜んでいたことも34歳の宗性の誓文にのこっており、更にその7年半後の文にも酒を「愛して多飲し、酔うては狂乱した」という文がみられる禁酒の誓文を書いています。
もはや紛うことなき俗物であり、最低最悪な人物でしょう。
しかし、この本に載っている多数の例をみるに、これがこの時代の僧侶達の普通であったのでしょう。
なにせ宗性は東大寺の別当(各職務を統括する人)にまで登り詰めています。
もし彼だけが人格破綻者であったのならば、別当になることができるわけがない。
このことから少なくとも東大寺においては破戒が一般的であったとわかるわけです。
廃仏毀釈例もあたりまえかも。
こう考えると、明治時代に入ってから廃仏毀釈令を出されて、メチャクチャに寺が破壊されるのも当たり前だったのかもしれません。
当時の人たちはこういった僧の行いをしっていたのでしょうから。
更にいうと、本当はダメですが、
女犯(女性と関係をもつこと)も一般的でした。
宗性が書いた資料の中に「真弟子」という言葉がでてきます。
これは「自分の子供が僧侶の弟子になった」ことを意味します。
ということは女の人と関係をもったということがわかるわけです。
宗性の文書「法勝寺御八講問答記」によれば講師9人のうち3人が、聴衆10人のうち4人が真弟子であったことがわかり、女犯をしていたことが判明しています。
終わりに
この記事では最低な僧達の最低な行動について縷述してきました。
勿論、こういった人たちばかりではないことは事実でしょう。
実はこの本には破戒だけでなく、持戒(仏教の教えを正しく守ること)をうったえた人々の活躍も載っています。
彼らは中世の仏教が腐っていることを感じて12世紀頃から宗教改革のようなことをはじめます。
実範や貞慶といった人たちによって戒律復興の流れが起きています。
興味を持った方々はぜひ本書をお手にとってお読みください。
ズンダでした。
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