エリック・ゼムール『女になりたがる男たち』(新潮新書)の紹介です。
「はじめに」の書き出しがすでに絶望的
エリック氏が不満に思っていること
もうタイトルからして、何事?といいたくなりますが、この本の「はじめに」を引用してみましょう。
わかってる。「男」と「女」という区別はなく、いるのは数多の男と女だけということは。一般論はなく個別のケースしか存在しないこと。個人の数と同じだけ、個別のケースがあるってこと。
地球上の何十億という人間の数だけ、人生の物語があるということ。男性のうちに女性的なものが、女性のうちに男性的なものがあること。みんなよーくわかってる。
そんなのはとっくの昔に学習ずみだ。だてに七〇年代に青春を過ごしたわけじゃない。好みのタイプの女を捜すような男はうさんくさい目で見られ、反動的、時にファッショとさえ言われること、性はなくてジェンダーしかないこともわかってる。ジェンダーなんて曖昧、どうしても曖昧でしかありえないけれど。
という嘆きから始まるこの本は、フランス人のジャーナリストで保守系日刊紙『フィガロ』の政治担当記者であるエリック・ゼムール氏によるものです。
彼はフランスの男性が、日本で言うところの草食系男子となった。(これは日本に限ったことではない。アメリカもイギリスもミレニアル世代と呼ばれている男女は基本的に性の発露が弱い。)*1
その理由はフェミニズムの浸透により父権性がなくなってしまったためであるといっておられます。
彼が愛していたフランスは、昔ながらのフランス―男らしい男や女らしい女、家族制度がしっかりと存在する父権性をもった―なのですが、それがフェミニズムや資本主義によって冒され、壊れてしまったことに怒り心頭に発しているというわけです。
ウェルベックの小説『服従』を思い出させる内容
私ズンダがこの本を読んだのはずいぶん前なのですが、その後、ミッシェル・ウェルベックによる数々の小説、特に数年前に刊行された『服従』*2を読んだときにこのエリック氏の本を想起させられました。
ウェルベックはこうしたフランスの状況を踏まえた上で、小説を書いているのです。
彼の小説は日本で言うところの「弱者男性」の心境を社会的背景を本にかいており、「弱者男性の心理」を明らかにしている小説群は現代では他にないのではないか。
※厳密にいうとウェルベックの主人公は「弱者男性」ではない。だいたいエリートだし、年収は高いし、家柄もいいし、色んな女性と関係をもっている。
正しくは《婚期を逃した男》といったほうがいい。
しかし、その婚期を逃す理由こそがゼムールの『女になりたがる男たち』にかかれているのだ。
エリック氏の本が出たのは2008年のことでした。
今この本を読み返すと、まるで日本はフランスの合わせ鏡のような国になっているのです。
これは我々日本人にとっても考えるべき問題なのかもしれません。
彼がこの本でいいたいことをまとめてみる
では彼のいいたいこととはなにか。
この本は実際に読むことでしか分からないほどに多くの例が散りばめられており、論文形式ではないため一章一章をみていくことは無理です。
よって、一通り読んだ私が、骨子の部分をまとめ上げたのが以下の文です。
*1:
*2:たとえば、この本にかいてある次の部分をみてみよう。「ヨーロッパ以外の世界では、事態はここまで進んでいない。アメリカ人、中国人、インド人、アラブ人、ロシア人は、力、暴力、戦争、死、精力をいまだに引き受けている。ヨーロッパ以外の世界では、男達は男性支配を宝物のように大事に保護している。イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教とのいずれであろうと、彼らは自国の女性がヨーロッパ人女性と同じ地位を獲得することを拒む。」あるいは「精神分析学者で人類学者でもある作家マレック・シュベルは、なぜキリスト教ではなくイスラム教を選ぶのかとたずねられ、「イスラム教は男らしいから」と答えた」