来る二〇二〇年に向けて、日本では教育改革が行われようとしています。
皆さんも、英語のセンター試験を廃止して、代わりに民間資格であるTOEIC、TOEFL、英検など受けさせる話を聞いたことがあるでしょう。
これに関しては反対が多く、どうにかセンター試験は廃止されずにすみました。
江利川春雄「大学英語入試 民営化の中止を」
上記の記事をみればわかるように、民間の英語資格は国家による教育の放棄であり、経済的な負担が大きくなるために不平等に繋がります。日本人は民営化すれば「世の中が善くなる」と妄想を抱いている人が多いので、自然にこういったことを拍手喝し、受け入れてしまうようです。
また、日本や海外で英語を勉強し、英語が喋れるようになった人がたびたび日本の英語教育批判をしたり、民間試験の価値を強弁したりしているのをyoutubeなどでみますが、それには注意が要ります。
彼らの中には外国語教育の歴史やその方法などを特に踏まえてない人たちがいるということです。
自分ができるようになることと他人ができることは別です。
その上、それを集団に教えるということも別の技術です。
ここ数年で英語教育に関する幻想を打ち砕く本が新書で出されています。
私ズンダがもっと若い頃も5、6冊ほど各新書ででており、非常に示唆に富んだ内容であったことが思い出されます。
こういった本が多く出版されているということは、教育改革により激変が起きているということなのでしょう。
ちなみに、現在問題になっている英語教育の問題は日本語教育への欠落へも続いており、これについては来月刊行予定のとある本を紹介する予定です。
さて、今回紹介する本は大学改革の問題点について触れた本です。
では、みていきましょう。
文科省による間接的な圧力
日本のシラバスの問題点
彼は日本のシラバスを「和製シラバス」、欧米のシラバス「Syllabus」と呼んでいます。
著者の佐藤氏は日本のシラバスを評価していません。
なぜならば、欧米のシラバスのような自由裁量が文科省の間接的な指導により、失われてしまっているからです。
大学に入学すると、電話帳型の大きくて重たいシラバスという冊子を配られます。
このシラバスには以下のことがかいてあります。
- 担当教員名
- 授業の曜日や時間
- 一年及び半年間の授業内容
- 授業の目標
大学生はそこから自分にとって必要単位を得られる授業や興味のある授業を選択していきます。
これは中央教育審議会(文部科学大臣の諮問機関のこと。以下、中教審と略す。)や文科省の言いつけによって九〇年代から始まり、今では全ての大学がこのシラバスをつくることになっています。
このシラバスには問題点があります。
それは模倣している欧米とは異なるという点です。
日本のシラバスの何が欠点なのかをまとめてみました。
①欧米では先生による裁量が大きい。
日本では文科省が定めた形式に沿ってかかなければならない。
→シラバスを正確につくらないと文科省から補助金を得られなくなる上に、閉校処分を受ける可能性がある。
②欧米では講義の開始前後に配られるが、日本では一年ほど前に原稿をかかなければならない。→授業をする頃には、先生はシラバス内容を忘れている上、最新
の研究を反映させることができない。教師は研究する時間が減
り、学生への指導時間も奪われるので誰のためにもならない。
無論、文科省は表向きには「大学の自由」を尊んでいるかのようにふるまっています。
しかし、次にみるように、シラバスを作り、文科省に提出することが一つの義務になっている以上、「大学の自由」がないことは明らかだと佐藤氏は述べておられます。
そもそも誰が四年制大学を評価しているのか
以下の組織が大学認証の評価をしています。
- 大学基準協会
- 大学改革支援・学位授与機構
- 日本高等教育評価機構
この三つの認証機関のいずれもが評価基準の中に「シラバス等」を提出することや現地調査の際にみせることを義務づけています。
つまり、彼らにシラバスをみせないと大学側は評価されなくなり、大学として看做されなくなる可能性があるということです。
当然、ウケをよくするために適切なフォーマットに沿った書き方が要求されるようになります。
それは大学自発的な行為なのですが、補助金や閉校処分をくだされないように必死になるのは当然でしょう。
首輪をつけられた犬のようなものです。
こうして、どの大学のシラバスも画一化し、大学の先生の裁量はなくなっていきます。
本来、学生のためにあるシラバスは有名無実なものとなってしまったのです。
更に二〇四〇年答申には「シラバスにおいて標準的に期待される期待事項の提示」と「授業の方法や内容・授業計画(シラバスの内容)」があげられております。
どうやら文科省は大学側から更に自由を奪っていくつもりのようです。
自己啓発本が好きなPDCAサイクルが教育に導入された問題点
数年ほど前、猫も杓子も「PDCA」に関する本を出していました。
P=plan
D=do
C=check
A=action(本当なら動詞actが正しい。和製英語になってしまっている。)
これをPDCAサイクルといいます。
もともとは工場における生産管理や品質管理に使われていた言葉です。
要するに業務改善に有効な方法のことです。
一考すると、非常に正しいように思われます。
確かに我々は計画をし、実行し、点検し、再び行動することで、さらなる進歩を迎えることができるというのは筋が通っているように思えます。
しかし、大学においては適切だといえるのでしょうか?
そもそもPDCAサイクルは使われ方がおかしい
佐藤氏はPDCAサイクルについての誤解を5点あげておられます。
①和製英語である。A=actionと説明する本が多いが、他は動詞なのだがactとすべきである。
②発案者を統計学者エドワーズ・デミングにする人が多い。しかし、実は一九六〇年代に石川馨と水野滋という工学者によってつくられた造語である。
③経営学で使われた用語のように思われているが、生産管理や品質管理の分野で使われてきた経営用語である。学問的な用語ではない。
④国際的に認知されてない。認証規格や工業製品の品質管理の分野のみで有名なだけ。
⑤特定の業務についてのみ有用。全ての分野においてPDCAサイクルが価値があるとはまったくいえない。
というふうに、PDCAサイクルは日本に於いて過大評価かつ誤解されていることを明らかにしています。
文科省や中教審は日本の教育をPDCA化していきました。
その証左として『文部科学白書』で「十分なPDCAサイクルの不足」(文科省2013:13)と嘆いている、と佐藤氏はいっておられます。
更に国立大学法人評価委員会は「指標の進捗管理の一元化によるPDCAサイクルの強化(国立大学法人評価委員会2017a)などと述べており、国立大学の運営も、このPDCAサイクルをもとに行われ、評価される始末なのです。
PDCAに今のところ、効果などない。
スーパーグローバル大学創生支援事業という「一〇年間で世界大学ランキングトップ100に一〇項以上をランクインさせる」ことを目標にした補助金プログラムが開始されました。
この事業に採択された三七校のうち二四校の構想調書にはPDCAサイクルがかかれています。
これから六年ほどたっていますが、日本の大学の世界ランキングは低下傾向にあり、論文引用件数も下がりっぱなしです。
はっきりいうと、PDCAサイクルなど何の役にも立っておらず、緊縮財政による大学予算の減額に原因があることはすでに指摘されているとおりです。
↓図のように色んなPDCAサイクルを使って、それがいかにも効果があるように文科省や大学ウェブサイトはまとめている。
ありもしないPDCAサイクルの神話を信じて、国を挙げてPDCA化を進めているというのは理解に苦しみますね。
いったい日本の教育はどうなってしまっているんでしょうか。
この本を読めば読むほど、我々のあずかり知らぬところで、メチャクチャな改革が行われていることがわかります。
子供をもっている親御さんはこういう事に対して怒らなければなりません。
我々国民は日本国民として、政治家や政府に対し、自分たち国民の意思を鮮明にうちだすべきです。
さて、次の記事は、どうして日本は「改革さえすれば、よくなる」という思考停止、わけわのわからぬ言葉に騙されてしまうようになったのかをみていきましょう。
次の記事へ続きます!
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