今年最後に紹介する本はペシミストとして有名なシオランを紹介する本、大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに』(星海新書)の第一部を摘まんで紹介します。
※ちなみにこの本は第一部「紹介編」と第二部とにわけられています。
第二部はシオラン紹介ではなく、「批判」(「非難」とは違う。正誤をきちんと分けて、何が正しく何が間違っているのかを腑分けすることを「批判」=「クリティーク」という。嫌いとか悪口とかそういう水準のはなしではない。)しておられますので、そこにも興味のある方はぜひ購入を。
この記事を読むと次のようなことがわかります。
☆反出生主義とペシミズム
☆シオランの経歴とその思想
☆なぜペシミズムが希望に繋がるのか
年の瀬も迫った今日という日に、どうしてこのような陰鬱な本を紹介するかと言えば、まさに来年に向かって、なんとか生きようとする人たちへの応援の書としてこの記事を送りたいとおもったからです。
シオランの言葉は我々に人生の陰惨な姿をみせるだけではありません。
何もない人たちにわずかな希望の残り火を与えてくれるものでもあるからです。
ペシミストと反出生主義とは何か
人生に意味などないーつらいことばかりの人生
ペシミストとは人生を悲観的にみる人のことです。
そこから「反出生主義」という考えがでてきます。
反出生主義とは「うまれてこないほうが人は幸せだった」という考えです。
人は生まれてくればいろいろな喜びとともに絶望も味わいます。
ちょっと考えただけでも次のようなことが浮かびます。
受験や就職活動の失敗
交通事故による死亡
餅をつまらせて死ぬ「いきなりステーキ」の閉鎖
うらやましいと思っていた人々がいきなり、没落し、真っ逆さまに落ちていく事例は枚挙に暇がないといえます。
生まれてこない方が幸せなのではないだろうか?
うまれてこなければ、こんな不幸を味わわなくてもよかったのに。
こういった悲しいことが飽和状態にあるときに「反出生主義」に目覚める人たちがでてきます。
人生は無意味
ペシミズムは日本語で「悲観主義」といいます。
シオランは「人生はむなしい」という思想をずっといいつづけることになります。
たとえば次のような言葉です
生きるどんな理由もなければ、まして死ぬどんな理由もないー齢を重ねるにつれて、私はますますそう思う。だから、根拠などまるでなしに生き、そして死のうではないか。(『カイエ』)
基本的にシオランの著作物は全てこの調子でかかれているそうです。
「むなしい」
「悲しい」
「死」
「絶望」
「苦境」
「意味が無い」
といった、ことばがちりばめられています。
「自分の人生を未来に向かって切り開く」なんてことが書かれた自己啓発本とは正反対ですよね。
反自己啓発本といってもよい。
私たちの無意味さについての解説、それに関係のあるものならどんなものにでも私はたまらなく嬉しくなり、私にある最良のものも最悪のものも満足を覚えるのである。(『カイエ』)
要するに『平家物語』冒頭の「諸行無常の響きあり」辺りの一節を読むと、喜んでしまうわけです。
自分と同じ「人生ははかない」という考えをもっているわけですから。
〈〈この世で価値あるものは何ひとつない〉〉と、日に千度自分に言い聞かせること。永久に同一地点に立って、独楽のように愚かしくぐるぐる廻りつづけること・・・・・・。なぜなら、何もかも虚しいという思いには、進歩もなければ決着もないからである。われわれがこの考えをいかに反芻してみても、知識はいささかも増加するわけではない。それはそのままの姿で、常に出発点にあった時と同じく豊かであり、空無である。(『崩壊概論』)
ペシミズムな人生観についていくら考えてみても、全てが虚しいので、ある一点にとどまった状態で終わりを迎えることを示しています。
このように、シオランにとって、人生とは「意味のない」ものでした。
シオランとは何者か
裕福な家の生まれ、頭もいい、そして異常なほどの読書家
シオランはルーマニア出身で、裕福な家庭に育ち、一七歳でリセを卒業、バカロレアに合格します。
その後、ルーマニアの首都にあるブカレスト大学の文学部に進学します。
大学入学後、図書館に毎日来ては十時間ぶっつづけで哲学の本を読んでいたといいます。
読んでいた本は以下です。
カント、フィヒテ、ショーペンハウアー、シュティルナー、フッサール、ジンメル、ニコライ・ハルトマン、カッシーラー、シェーラー、リッケルト・ヴィンデルバント
このほかにも数多くの本を読んでいたようです。
ジンメルの言葉に自分の哲学をみつける
こういった読書経験のなかでシオランは自分の哲学をみつけます。
私の〈哲学の〉方向をはっきり示したのは、ジンメルの次の言葉だ。この、ベルグソン小論中の言葉を、私は一九三一年ごろ読んだ。「ベルグソンは生の悲劇的性質に気づかなかった。-生が生であるためには、みずからを破壊しなければならない性質に。」
ここでシオランは人生=悲劇的性質であるという思想を抱くようになります。
不健康な肉体をもっていたシオランー思想と肉体は不即不離ー
シオランは常に苦痛に悩まされていました。
彼の病気は次のようなものでした。
・リューマチ
・常時、風邪をひいていた
・副鼻腔炎
・胃腸が弱くて食事制限をしていた
・不眠症
・アルツハイマー(死ぬ数年前から)
『カイエ』にも次のようにかかれています。
胃、ひどく悪い腸。もうほとんど何も消化できない。野菜の次は水-あるいは死、これが私に残された唯一の選択肢だ。
私が苦しんでいる、この慢性疾患、いや、慢性疾患のひとつは、鼻の粘膜の萎縮をおもなう管性カタルだ【中略】耳を塞がれ、鼻窩がうっ血し、私は毎日、半ば白地のような状態に陥る。
このような深刻な体の不具合を訴えた文章が散見されるのです。
シオラン考えは彼の病と切っても切り離せない関係にあります。
むしろ、体が悪かったので、ペシミストにならざるを得なかったのではないかと推測することもできるでしょう。
シオランは次のようにいっています。
健康である限り、人は存在しない。もっと正確に言えば、自分が存在していることを知らない。(『時間への失墜』)
この文章の意味とはなんでしょうか?
病気することで存在を意識する
たとえば、私ズンダは「過敏性腸症候群」です。
この病気はひどい下痢や便秘になってしまう病気です。
すると、私は常に自分の腹、胃腸の存在を意識しながら生活しています。
なぜかというと、胃腸が私に対して腹痛というかたちで主張をしてくるからなのです。
もしわたしが、過敏性腸症候群でなければ、胃腸を意識することはないでしょう。
実際、腹が痛くない日などは、腹のことは殆ど考えません。
これは皆さんもそうでしょう?
筋肉痛で足や腕などが痛い場合はその箇所を意識しますが、回復すれば気にもしません。何処吹く風、ってなもんですね。
この筋肉痛であれば、痛みは一時的ですぎます。
ですが、これが一生つづくとなったらどうでしょうか?
気が狂うのではありませんか。
シオランはこういった苦しみと付き合い続ける人生を、享年八四で死ぬまで送ることになったのです。
そして病への意識こそが、彼の思想をつくりあげたのではないでしょうか。
ペシミズムが生きる希望に繋がる矛盾
シオランの読者は敗北者ばかり
ここまでみてくると、読者の方々は次のように思われたかもしれません
シオランって、暗い、憂鬱な人なんだな。 こんな人の本なんて読みたくないよ!
それはシオランが生きていた時代もそうだったようです。
実際、シオランに送られる手紙なども、健康的な人ではなく、人生で挫折した人や敗北者だったりしたそうです。
考えてみれば、尋常な人生を尋常に生きているような未知の人からはただの一通の手紙ももらったことがない。もちろん、私の書いたものから何かを受け取り、私に親近感を覚えると言って、熱烈な手紙をよこす人はいる。彼らは人生の敗残者、落伍者、病人、苦しみ悩み、無邪気になどなれぬ不幸な人たちであり、口に出してはいえぬありとあらゆる病弱・不具に打ちのめされ、苛まれ、この世のあらゆる試験に落第し、昔なじみの不安を、あるいは新たに降って湧いた不安をひきずっている。(『カイエ』)
読者はシオランに何をみていたのかー負け犬として生きる方法、つらさの慰撫ー
しかし、どうして人生の敗者達はシオランに惹かれたのでしょうか?
人生がうまくいっていないことを蜿々と述べ続けているシオランのことばを聞いて、何が愉快だったのでしょう?
毎日、つぎのように繰り返すべきである。「自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生きものの一匹だ。それ以上の何物でもない」ーこの陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振る舞い、いかなる行為をも正当化する。遊蕩、純潔も、自殺も、労働も、犯罪も、怠惰も、反逆も。……かくて、人間は各自、みずからの仕業にそれ相当の理由を持つことになる。(『生誕の厄災』)
この箴言のように、自分がもうダメな人間であり、人生なんてどうしようもないんだと思っている人だからこそ何をしたっていいだろう、という考え方をもつべきなのだとシオランはいっています。
そう。世間的には悪いことでしょう。
色んな女の人に手を出したり、てきとうに仕事をしたり、怠けてやるべきことをやらなかったり。
すべて社会的には否定されるでしょう。
しかし、「人生はむなしい。無意味」というペシミズムの考え方があるのならば、社会から悪徳や芥(あくた)のように思われている行為に耽っても、いいではないか。
それで、少しでも自分の命を長らえさせることができるのであれば。
むしろ、健常な人々が評価することがない物事に関心を抱き、没頭できるので、敗者の旨みを得られてよいかもしれない。
そんな考えをペシミズムは与えてくれます。
いわゆる〈ペシミズム〉とは、存在する一切のものの苦しみを味わうすべ、つまり〈生きる知恵〉にほかならない。(『カイエ』)
苦しみを糧にする、というよりも、苦しみそのものを味わい楽しむ。
それこそが、ペシミズムが生きる希望になってしまう逆説的な結論なのです。
彼の読者もペシミズムから力を得て、人生を必死に生きていたのかもしれません。
終わりに
シオランの本を私ズンダが知ったのは山本夏彦『完訳 文語文』(文春文庫)
を読んだときでした。
シオランは「私たちは、国に住んでいるのではない、私たちは国語に住んでいる」という言葉を残しています。
そんな紹介だったので、シオランは保守主義的な人だったのかな、と当時おもいながらよんだのですが、調べてみてると、彼はペシミストであるということがわかり、最初に受け取った印象とちがあたました。
といっても、本書を読むと、シオランはルーマニアの独立を願ってやまない人だったようで、ナショナリストであった一面がみられます。
近年、反出生主義が少し流行っています。
ディヴィットベネターという人が以下の本をだしたためです。
その流行を受けて、今年、『現代思想』のほうでも反出生主義特集を組んでいました。
皆さんも、人生で辛くなったときに、こういった本を読み、「つらさと共に生きる」ことを考えてみてもいいかもしれません。
勿論、思想だけで問題が解決するわけがないのはわかっています。
しかし、何らかの一助になればいいな、とおもいます。
では、また、ズンダでした。
よいお年を。
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