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女の人に「学問」はいらないの?小馬鹿にされる女学生『魔風恋風』と明治日本

 
 小杉天涯『魔風恋風』という明治時代三十年代に讀賣新聞上で連載されていた小説があります。

 今回はこの小説と女学生についてみていきましょう。

 

 

魔風恋風 前篇 (岩波文庫 緑 114-1)

魔風恋風 前篇 (岩波文庫 緑 114-1)

  • 作者:小杉 天外
  • 発売日: 1951/09/25
  • メディア: 文庫
 
魔風恋風 後篇 (岩波文庫 緑 114-2)

魔風恋風 後篇 (岩波文庫 緑 114-2)

  • 作者:小杉 天外
  • 発売日: 1951/09/25
  • メディア: 文庫
 

  この記事を読むと以下のことがわかります。

 ☆当時の女学生への評判 

 ☆近代日本の知識人層の煩悶

 

 

 

 『魔風恋風』における女学生

 差別的といえば差別的

 

 今読んでも古びた感じのしない小説です。
 

 女学生、初野を主役として、現在の昼ドラやラノベのような展開が繰り広げられます。

 

 ただし、時代のせいもありますが、女学生に対しての蔑視や差別的な言辞も多々あります。

 

 たとえば、物語の冒頭で初野が住む下宿先の主婦が次のようにいいます。

 

 然う云ふ容貌なら、誰も打棄つとく筈は無いんだもの・・・・・・。ぢやア、全くの處女(バアジン)か知ら?一九にも成つて、感心だわねえ。

 

 あるいは初野を狙う殿井なども

 

 卒業をしてそれから何仕(どうし)ようと云ふんだ?財産家なら學問が無いでも、幾らも貰ひ人が有りさうなもんぢや無いか・・・・・・?必然(きっと)何だね、許嫁でも在つて、其奴が教育が無ければ不可いとか何とか・・・・・・其様なところだね?

 

 更に続けて、

 

 でなきゃ、女子が學問して何に成るんだ・・・・・・?

 

 

 と述べています。

 今なら、女性差別と非難されるであろう言辞は小説全体に渡っています。

 
 初っぱなから下世話な話がはじまり、その後も、中年ぐらいの登場人物達は口々に「女学生は身持ちが悪く、男と付き合うことしか考えていない。学問などに相応しくないのが女である」と散々な評価を下します。

 

 肝心の学問については触れられることがない

 

 この作品において、女は学問とは縁遠い存在であり、進学する理由は男と遊ぶために過ぎないという描写が徹底されているのです。

 実際、この小説を読んでいくと初野は眉目秀麗、才色兼備の人物であることはわかるのですが、「何の学問を学んでいるのか全くわからない」まま話が終わります。

 我々読者は、初野が「勉強している」ことを知っても、彼女が「何を」勉強しているのかについては知ることはありません。

 

 明治時代の女学生観ー堕落女学生ー

 

 どうしてこのような描写がなされていたのでしょうか。

 実は、作者である小杉天涯がそういった描写を忘れていたわけではありません。

 当時の女学生への評価そのものが、この小説に描写にあらわれているのです。
 
 その背景を稲垣恭子『女学校と女学生』(中公新書)から見ていくことにしましょう。

 

 

 

 明治時代、「堕落女学生」なることばが新聞紙面を踊ることが多かったといわれています。

 稲垣氏は深谷晶志『良妻賢母主義の教育』(黎明書房)の研究を引いて、次のように書いています。引用します。

 

 連日のように知識人向けの雑誌から一般雑誌や単行本、新聞の読者欄まで広い範囲で頻繁に記事が掲載され、さまざまな角度から論じられている。(深谷昌志『良妻賢母主義の教育』黎明書房、一九六六)。
 新聞記事の中には、女学生が不良学生に騙されて堕落したとか、詐欺や窃盗で拘引されたといった醜聞記事が、「海老敷の大堕落」「女学生の果」「堕落!堕落!」「天狗の妾ハ女学生上がり」「新魔風恋風」などといったセンセーショナルな見出しとともに、数多く掲載されている。

 
 上京して女学校に通う女性達が恋愛や性関係によって「堕落」してしまうことが一つのネタとして扱われていた時代があったのです。

 

 当時の文学作品である菊地幽芳『己が罪』や小杉天涯『魔風恋風』、田山花袋『布団』などで扱われた題材にもなっています。

 

 今でも地方から来た田舎娘が上京して、垢抜けて、豹変してしまうという話はネットでもよくみかけますが、当時から問題視されていたわけです。

 

 設立されていく女学校

 

 稲垣氏はこういった批判が流行った理由があるといっておられます。

 

 明治時代、「高等女学校令」が発布され、進学希望者が増大します。
 当然、学校が足らないので私立の女学校が設立されます。

 

 濫立される女学校に対して「営利を目的とする処の似非女学校」「悪女学校」といった罵詈雑言が浴びせられるようになります。

 

 これも想像はしやすいですね。
 皆さんも、あるモノが流行ると、それを真似しただけの製品が粗製濫造されるのをみたことがあるでしょう。

 

 当時の教育者や評論家達にとって、女学校が雨後の筍の如く作られていくありさまは、粗製濫造された商品のようにみえていたのです。
 
 一九〇五(明治三八)年三月の『中央公論』には女子大学について「其学問は悉く浅い、卒業した暁に、さて何が出来ると専門的に聞かれたら、依然として何も解らぬ」という紅鹿子による記事が載りました。

 

 「女子大学」とは一九〇一年(明治三四)年に成瀬仁蔵によって創設された日本女子大学校のことです。
 これは一九〇三(明治三六年)の専門学校令を受け手、一九〇四(明治三七)年に女子専門学校になったところでした。

 

 戦前において、女子の高等教育機関は東京と奈良の官立女子高等師範学校以外では、私立の女子専門学校しかありませんでした。
 この「女子大学」は一五〇〇名もの女学生を擁していたわけで、批判の矢面に立たせられたわけです。

 

 一九〇五年の段階では女子の尋常小学校卒業者のなかで高等女学校に進学する割合は二パーセントほどでしかなく、高等教育機関ともなれば戦前期を通して一パーセントにも満たなかったのです。

 ですから今と異なり、猫も杓子も中学校や高校にいっているわけではなく、選ばれた女性たちであったことは間違いありません。

 

 女学生たちはなぜ馬鹿にされたのかー近代日本の悩みー

 

 問題は彼女らに対して「軽薄」「虚栄心」「結婚のための教養」などといった見方がどうして投げつけられていたのかということです。

 

 氏はそれを「語る側の立場」や「意識が強く反映されている」と述べておられます。

 

 稲垣氏によると、「女学生文化」は以下のように図示できるそうです。

  

        ①モダンな教養文化
  ②大衆モダン文化
  ③「たしなみ」文化

 

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 ①近代的学問や教養、西洋音楽や芸術など。旧制高校的な「教養主義文化」もその中に位置づけられる。

 ②一九一〇年以降、特に一九二〇~一九三〇年代にかけて女学生に大きな影響を与えた「大衆モダン文化」の世界。雑誌や映画、ラジオを媒介として、ファッションや髪型、持ち物や「女学生ことば」などがサブカルチャーとして創出され、広まっていった。
 ③伝統的な和漢の教養や茶道、華道、琴、三味線などを含む「たしなみ」の世界。結婚前の女性が身につけるべき教養のこと。 

 

  この三種の文化を内包していると考えられていたのが、戦前における「女子学生」でした。

 すると、批判者たちは①~③について、アレコレいいはじめます。

 

 教養主義は一九〇六年(明治三十九年)に新渡戸稲造が第一高等学校の校長になったことをきっかけに旧制高校に広まったものです。
 読書を通して、西洋的な思想や教養を身につけることが人格形成に役立つという考えでした。 

 稲垣氏が作った図示をもう一度みてから、氏の指摘を読んでください。

 

 図式的にいえば、三つの世界と重なる円の大きさが小さいと判断されるほど、また「大衆モダン文化」との重なりが大きくなるほど、そうしたイメージでとらえられる傾向が強くなると思われる。

 

 

 すなわち、西洋の知識を身につける「モダンな教養文化」こそが正統な知のかたちとして捉えられていた時代において、女学生が内包していた②や③の文化は「軽佻浮薄」なものとしてみられるようになっていったのです。

 

 いってしまえば、女子供の遊びにしかすぎない、ということでしょう。

 

 しかしそれは、女学生が問題だったわけではありません。

 稲垣氏は次のように書いておられます。

 

 明治の「学問する女性」への違和感は、外見を飾る「海老茶式部」や「生かじりの学問」を鼻にかける「準ハイカラー女学生」といった批判を数多く生み出したが、そうした「軽薄さ」は、「女学生」だけに見られるものだったわけではない。そもそも近代日本に於ける西洋文化受容そのものが折衷的なものだったからである。その意味では、「女学生」への反感は、その中に自らの姿を見出した教養層の「自己嫌悪」だったと見ることできるだろう。

 

 

 つまり、明治以降の西洋文化を摂取していくなかで、日本の知識人層は不安を覚えいたのです。

 

 「果たして、自分たちが学んだものは“西洋”なのか。それとも西洋ではない紛い物なのか」

 

 という不安です。

 これに対して女学生たちが学んでいた「学問」が自分たち知識人層が学んでいる“西洋”とやらと如何ほどの違いがあるのか、疑団を抱くようになってしまった。
 
 女学生達をみることで、自分たちの「軽薄」もはっきりと感じられるようになってしまったのです。

 

 これが『魔風恋風』、不安な知識人達の言説の一端が、意図せぬかたちで表れた作品だったのかもしれません。

 実際、明治二十年代の時点で、日本文化への回帰、国粋主義が叫ばれ始めたことを考えると、稲垣氏の指摘は当たっているようにも感じられますね。

 

 終わりに

 

 今回の記事は如何だったでしょうか。
 『魔風恋風』は今年の三月に岩波文庫で復刊されており、書店に並んでいるとおもわれます。

 この小説、現代人が読んでも楽しめるはずですが、ここで用いられている小説の技法については下のリンクから真銅正宏氏の論文をお読みになるとよいでしょう。

 

repo.lib.tokushima-u.ac.jp

 
 
 
 ということで、またお会いしましょう、ズンダでした。