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WHOはどんな組織だったのか?託摩佳代『人類と病』(中公新書)を紹介する!

 今回紹介する本は託摩佳代『人類と病』(中公新書)です。

 

 

 

 

 題名の〈病〉とは単なる風邪やガンなどとは違います。

 

 人類を危機に陥れたスペイン風邪やペストなどの深刻な病のことを指しています。

 コロナウイルスが流行っている中、WHOという国際組織について「中国の傀儡ではないか」と批難されています。

 

gendai.ismedia.jp

 アメリカはWHOに資金拠出を停止という声明を出しました。

 

www.bbc.com

 実際、堤未果氏によれば、単なる人助けのためにある大志を持った人々による機関ではなく、非常に政治的な組織だそうです。

www.youtube.com

 

 そこで、今回はこの本のWHOの創立背景と各感染症に対して各国の思惑が書かれた部分を少しばかり摘出して、紹介することにします。

 

 つまり、WHOとは当初から政治的な組織であったのです。

 

 

 

 WHOの創立と理由

 

 戦前の国際連盟保険機関の後続として

 

 第二次世界大戦後に、国際連盟保険機関で働いていたゴーティエとビローは国際保険機関構想を練っていました。

 彼らは「健康」の意味を〈病気にかからない状態ではなく、肉体的、精神的、独特的に健全な状態を意味する〉と考えていました。

 そのためには世界が共通して情報や技術を提供し合って、国際的な病に対処することのできる機関が必須だったのです。

 

 アメリカがWHO設立を先導するー経済的繁栄のためにー

 

 一九四五年、サンフランシスコ会議が開催されます。

 ここでブラジル代表が輸送の増大により感染症が広まりやすくなる。そのため、国際的な保険事業が必要であると主張します。

 
 この提案は受け入れられ、アメリカが先導して国際保険機関設立に向けて動きます。
 なぜアメリカが動いたかというと理由は三つです。

 

 

 ①アメリカは第一次世界大戦スペイン風邪のような感染症を防ぎたかった。

 ②戦後のアメリカ社会、そして国際社会における平和と繁栄につながる期待があった。当然、感染症が流行れば世界中の購買力が下がるので経済に大打撃を与える。それを防ぎたかった。

 ③国際連盟保険機関の国際官僚と英米保険者は第二次世界大戦中から接触していた。ゴーティエとビローはイギリスとアメリカに国際保険機関の必要性を説いていた。

 

 イギリスVSアメリカー戦前戦後で世界の指導国が変わった

 

 一九四六年六月にWHO憲章起草のための国際保険会議がニューヨークで開催されました。
 
 会議の争点は敗戦国の加盟を認めるかどうかでした。


 イギリスは慎重な姿勢でしたが、アメリカは全ての国にひらかれるべきだとして、WHO憲章に署名した国すべてが加盟できるようになりました。

 

 もしイギリス側の主張が通っていた場合、「国連保険機関(Health Organization of the United Nations)という国連加盟国に限定した機関名になっていたといわれています。

 

 また問題になったのは自治地域の加盟です。
 
 戦後間もない頃、世界にはヨーロッパ各国の植民地が多数ありました。

 これらの地域は宗主国の承認があってはじめて「準加盟資格」が申請できるようになりました。

 しかし、多くの植民地をもっていたイギリスがこれに反発し、〈宗主国から代表派遣できる仕組み〉を模索しましたが、リベリアとの攻防の結果、準参加資格を認められた国出身の人間が代表として選出されることになりました。

 

 イギリスは戦後もなお、植民地に対して権威をもっていたかったのですね。

 イギリスに限らず、ヨーロッパ各国は第二次世界大戦後もアジアやアフリカ諸国への植民地経営をやめようとはしていませんでした。
 
 そのことは講談社現代新書の『入門 東南アジア近現代史』に詳しくかかれていますので、一読を。

 

入門 東南アジア近現代史 (講談社現代新書)
 

 

 ソ連アメリカー冷戦による対立ー

 

 こうしてアメリカ主導でWHOは設立されましたが、冷戦が始まったことで、アメリカ(西側諸国)対ソ連(東側諸国)の対立が生じました。

 

 ソ連は国連が安全保障以外の問題を扱うことに消極的でした。

 

 妥協案として議長はアメリカ代表、副議長はソ連代表が据えられましたが、彼らによる軋轢はやむことがなく、たびたびつばぜり合いがおこります。

 

 たとえば、WHO設立のための批准国数を増やしたり、WHO本部をどこに設置するかといった議論で対立していました。

 最終的にはスイスのジュネーブに決定されます。
 
 WHOの誕生は冷戦時代の影を濃厚に反映しているのです。

 

 WHO憲章ー健康とはどういう意味かー

 

 一九四六年七月二二日に六〇カ国によってWHO憲章が署名されます。
 
 憲章の序文で、「健康(Health)」とは「単に疾病又は病弱の存在しないことではなく、身体的、精神的、社会的に完全に健康な状態」と明記されます。

 ゴーティエが執筆しました。

 

 鬱であったり虐待を受けたり、社会的に孤独なことは不健康である。

 そういったことがここで明確に打ち出されたのです。

 

 一九四八年四月七日にWHOは設立されます。
 
 会議から二年かかりました。

 これは英米ソ連と国際政治的な対立があったためです。
 
 ソ連の要望に応え、設立に必要な批准国の数は当初の二一から二六に増やされたために時間がかかったのですね。

 

 ここまで見てきたように、大国による国際政治力学の産物、それがWHOでした。

 もちろん、途中で見たように、リベリアのような小国がイギリスに対峙したことで通った議案もあるため一概にはいえません。
 しかしながら、「世界の健康のために」という崇高な思想のみで動いてはいないことがわかるでしょう。

 批准国があるということはそれだけ多くの国々の立場や都合が反映されてしまうわけです。

 

 WHOの活動には常に国際政治が渦巻いているといえるでしょう。

 

 

 では、WHOが果たした大きな成果とはなんでしょうか。

 WHOは完全に役立たずといってよいのか。

 良いところもあったのではないだろうか。

 

 その部分も見なければ公平とはいえませんね。

 

 天然痘根絶事業

 天然痘の特徴、症状、民間療法

 

 一九八〇年五月、天然痘は根絶が宣言されました。
 これこそまさにWHOの功績であり、WHOがなければ根絶されることはなかったでしょう。

 ではいったい、どのようにして天然痘対策はすすんでいったのでしょうか。

 

 天然痘は媒介物が存在せず、人間にしか感染しません。
 
 
 潜伏期間は約一週間で、発症すると高熱と寒気、頭痛が起こります。

 口の中や体に赤い発疹がみられ、それが膿疱となり、喉に膿疱ができると飲食が困難になります。
 
 膿疱はカサブタとなり、その傷は一生のこります。
 また、生存できたとしても失明する人が多かったそうです。

 

 天然痘はワクチンが開発されるまで伝統療法による迷信的な治療法がありました。

 ヨーロッパでは赤色が天然痘に効くと伝えられており、赤色の服を着たり、部屋を赤色の服で覆ったりしたそうです。

 日本でも福島の玩具、「赤べこ」や岐阜の「さるぼぼ」などは天然痘への対策として使われていたのです。

 

 予防接種の誕生

 

 一七九六年、イギリスの医師エドワード・ジェンナーが乳搾りをしていた人は牛痘にはかかるが、天然痘にはならないことに注目し、牛痘患者の手にできる水ぶくれに予防物質があると推測して、その液体の一部を少年に接種します。

 この発見により天然痘を予防できるようになりました。

 

 WHOが天然痘根絶に乗り出す、そして、ソ連が動いた

 

 さて、そこから二百五十年程たち、WHOは天然痘を対処すべき保険課題の一つとして認識していました。

 一九四八年には天然痘の共同研究委員会が設置されました。
 一九五三年には天然痘根絶に向けた五カ年計画が提案されています。

 

 しかし、多額の予算がつぎこまれることはありませんでした。

 

 多くの加盟国にとって、天然痘は地域の課題でしかなく、マラリアへの対策のほうが優先事項だったからです。

 

 ところがここで、ソ連が突如として天然痘問題に参入します。

 WHO設立後、ソ連は一度も世界保健総会に代表を派遣してきませんでした。
 一九五八年、初めて派遣された代表が天然痘根絶計画」を提案します。

 

 当時、ソ連では近隣のアジア諸国から天然痘がもちこまれ、国内を脅かすような病気になっていたのです。

 また、アメリカに対抗するための策として持ち出してきたという理由もありました。 マラリア対策で保険事業を引っ張るアメリカに好き勝手させられなかったのでしょう。

 

 コロナウイルス後の日本人

 

 自国が困ると、急に態度を変える。
 世の中とはそういうものです。

 そしてこれは国に限ったことではありません。


 個人もそうだということを覚えておきましょう。

 

 特にコロナウイルス後の日本をみていると、私はつくづくそう思わされます。

 今まで「政府の役割」に対して、見向きもしなかった人々が財政出動への賛意や国による強制的な緊急事態宣言を求めるなど、それまでではありえなかった光景です。

 この人たちは「政府の役割などない」といっていたはずだが、手のひらを返して、恥ずかしくないだろうか?とおもうのですが、そこは鉄面皮、厚顔無恥の徒だなあ、と。

 

 そうやって政治を軽視していたから、こんな事態になっているのでは?とおもわないでもありません。

 

 ソ連アメリカが共同で天然痘退治へーベトナム戦争の影響ー

 

 さて、ソ連の提案はマラリア対策への予算偏重と西側諸国からの反発により、なかなか進展しませんでした。

 

 ところが、この案にアメリカが乗ります。


 一九六〇年代、ベトナム戦争における実質的な敗北により、アメリカは国際的な権威が低下し、信頼回復のために一手を討つ必要がありました。

 

 そこで天然痘を政治的に利用することで、アメリカの地位に梃子入れしようと考えたわけです。

 

 というわけで、一九六六年の世界保健総会で、天然痘根絶計画の強化策がアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の支持を以て採択されました。

 

 その後、ソ連アメリカは啀み合いながらも、お互いに協力しました。
 WHOも彼らの野心を知りながらも、それにより感染症を駆逐できるのであれば利用しようと考えていました。

 

 結果、一九七七年一〇月、ソマリアで最後の天然痘患者が確認され、一九八〇年、ついにWHOは天然痘の世界根絶宣言をおこなったのでした。

 

 WHOへの見方を変えるべきである

 

 詫摩氏は次のようにまとめておられます。

 

 感染症との闘いは、治療法やワクチンの開発など、医学の発展に大きく助けられてきたが、同時に、国際政治の影響も受けてきた。

 その一方で、各国の関与をうまく活用しながら専門家たちを中心に、人間の健康を確保するための、地道な努力が積み重ねられてきた。

 このように感染症との闘いは、国際政治のなかで、いかにその本来の目的ー達成可能な最高水準の健康を達成するーを確保していくかの闘いでもあった。 

 

 WHOは各国の思惑を享受しながらも、強かに利用する術を得て、病気と闘ってきました。

 

 さて、今のWHOにはこの気概や戦略があるのでしょうか。

 私には分かりません。

 

 しかし、彼らを単なる善意の徴としてみるのではなく、一種の政治的存在として見ていくことが、今、我々一般人には求められているのではないでしょうか。

 

 我々はWHOを「政治を利用し、また、利用されながらも、感染症と闘う組織」としてみるべきなのでしょう。

 

 前述したように、WHOは常に政治と共にありました。

 それは今に始まったことではないのです。

 

 彼らは国際政治の中で、舵取りをしながら、感染症に立ち向かう組織だったのです。

 

 WHOを純粋な善としてみること自体がおかしな話なのです。

 彼らはもっと狡猾であり、その狡さの中で病と闘ってきた人たちの集まりであることを、私たちは歴史から学ぶべきではないでしょうか。

 

 彼らの活躍もあって、我々の生活は「健康」たりえた側面があるのですから。

 

 

 ↓疫病が起こった後の社会でなにが起こるのかを歴史的にみた本。今の時代に適している。