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認知バイアスが知りたいあなたへ『天才科学者はこう考える 読むだけで頭がよくなる151の視点』(ダイヤモンド社)

 時間っていつのまにか過ぎ去っていると思いませんか。

 

 あれもしたいこれもしたい。
 そんな気持ちがあっても、気づけば寝る時間帯になっている。

 

 色んなことを知りたいけれども、時間的な余裕がない。

 もっと自分の人生を充実させたい。暮らしぶりをよくしたい。

 

 そんな人にとって、例えばメンタリストDaiGo氏のような動画は便利ですよね。

 

 彼は我々が豊かに暮らすために必要な知識を科学論文に基づいて、教えてくれています。
 
 正否は別としても、形式的な手続きとしては真っ当だといえるでしょう。

 

 そんな多忙だが、なんとか勉強したいという方々にお勧めの本があります。 

 

 ジョン・ブロックマン編『天才科学者はこう考える』(ダイヤモンド社)です。

 

 

 

 

 

 世界の見方を変えるとは?

 

 学者が揃ってメタ認知について述べる

 
 この本は151人の心理学、物理学、進化動物学、行動経済学、実業家を専門とした人々がネットサイト「エッジ」に寄稿した文章を編集したものです。

 サイトや会議を通して、一流の専門家達が交流し、活動してきました。

 

 本書では、その最新の知見を惜しみなく紹介してくれています。

 

 「はじめに」でデイヴィッド・ブルックス氏は「本書の寄稿の多くは、メタ認知の話だ。(中略)人間が物事をどう認知しているかを書いた寄稿が多い。」と述べておられるように、私たちの物の見方を変えるような驚くべき研究が載せられています。

 

 普通では考えることがないであろう思考に触れる機会を与えてくれる本なのです。

 

 SHA(手軽な抽象表現)とは何か?

 

 ジェームズ・フリン(オタゴ大学 政治学部名誉教授)は、私たちが専門家の考えを利用し、実人生に活かせる言葉を「SHA(手軽な抽象表現)」と呼んでいます。

 

 譬えとしては「市場」、「プラセボ」、「無作為標本」、「自然的誤謬」などです。
 確かにこういった抽象的な用語を理解しておくと、物事を解釈する際に役に立ちますよね。
 
 例えば、今、あなたは名前は知っているが場所を知らないお店に行こうとしています。
 そのとき、渋谷の地図をみなかったとします。
 そうすると、当然、お店が何処にあるのかわからないので、渋谷中をあるくはめになります。
 
 いつまで歩く気なのでしょうか。
 
 日が暮れても見つからない可能性がありますよね。

 これなら最初から地図をみて、目標のお店近くの指標に印をつけ、渋谷駅から目印を頼りに、経路を確認してたどり着いた方がいいわけです。

 

 編集したジョン・ブロックマンは「人々の認知能力を向上させうる科学的な概念は何か?」について次のように答えています。

 

「科学的な概念」は、哲学、論理学、経済学、法律学など、何かを分析する活動から生まれてもおかしくない。
 世界の理解に広く適用できるという条件を厳密に満たす「認知の武器」となるものであれば、短くまとめでも構わないものとする。

 

 

 では、ここからは私ズンダが面白いと思った説を紹介します。

 

 世界への認知を変える

 

 フィエリー・クッシュマン「ダブルスタンダードには二重の悲劇が潜むー作話の危険性」

 

 フィエリーは「私たちは、自分が特定の言動をとる理由について驚くほど無知だ」といい、何かをした理由を説明したときに必ず「作話」をしているとまでいいきります。

 

 すなわち、話を盛っていたり、創作していたりするというのです。

 

 我々の無意識な選択は多くの調査に寄って明らかになっています。

 

 

 ・デニスやデニースという名前の人は、デンティスト(歯医者)になりやすい。
 
 ・ヴァージニアという名前の人はヴァージニアに住む傾向が高い。

 ・人は悪臭の漂う部屋にいると、嫌悪感が道徳的感情に反映されて、無情な道徳判断を下しやすくなる
 
 ・女性は排卵周期の妊娠可能期間とそうでない期間とでは、前者のときに父親の元をあまり訪れたがらない。近親相姦の回避の表れで、母親を訪ねる場合は起こらない
 
 ・ホットコーヒーとアイスコーヒーでは、ホットコーヒーを手にしているほうが人間関係に「温かさ」の影響が反映されて、見知らぬ人に対して寛容になり、思いやりを示すようになる。

 

 特に上二つの例はダジャレのように聞こえますが、人は頻繁に耳にする言葉に親しみを覚えてしまうということなのでしょうね。

 

 さて、フィエリー氏はこうしたダブルスタンダード(意識と無意識の二つ)は悲劇を生むと述べておられます。引用します。

 

 

他者の行動については、好ましくない動機や稚拙な判断の表れだとすぐさま結論づける点だ。
 そうやって、無意識の影響を受けたかもしれない行動を、意識的な選択だと決めつける。
 もう一つは、自分自身の選択に関しては、自分が思い起こせる意識的な説明だけに基づいて行われたものだと思い込み、無意識の偏見が影響を及ぼした可能性を拒絶または無視する点だ。

 

 

  そして、人がダブルスタンダードで動いていることさえ知っていれば、「他者の行動については、当人が意識している動機を非難することなく受け入れられるようになる。そして自分自身の行動については、望まれてもいなければ目に見えることもない無意識の影響が働いていないかどうかを、これまで以上に調べるようになる」と結論づけています。

 
 要するに、人間の行動には二つの基準があるので、もう少し幅広く人の行動について理解するようにしましょうね、というわけです。

 

 まさに上述したように認知の仕方が変わるような例ですよね。
 
 人間の行動原理を知ることで、自分や相手が‘なぜこんなことをしたのか’について推察が及びやすくなったり、寛大な気持ちになれるのですから。

 

 とはいっても、Aの理由はBが原因である、と決めつけるのは注意が要ります。

 

 デイヴィッド・ピザーロ「試合の勝利とはいていた靴下には関連があるーアポフェリア」

 

 

 彼は次のように述べておられます。
 要約します。

 

 

 人の脳はパターン検知にすぐれている。そのメカニズムで物体や事象や人の間に隠された関係を明らかにしている。
 もしこの能力がなかったら、情報を整理整頓することができなくなるので、支離滅裂なものに感じてしまうだろう。

 

 このパターン検知ができない精神疾患をドイツの神経科学者クラウス・コンラッドは「アポフェニア」と名付けた。

 

 しかし、行動科学の報告により、これは健康で教養のある人にも起こりうるということが分かってきた。

 

 ・今日履いている靴下と勝利には関係があった。

 ・予防接種を受けさせない親は予防接種と病気に因果関係があると思っている。

 ・不規則なノイズに仮説を実証する結果を見出す科学者

 

 こうしたアポフェニアは日常的に起こるものであり、因果関係については注意深く考えるべきだろう。

 

 

 

 上述のように、我々は世界への認知を新たにしても、それを使いこなせるわけでもなく、また新しい誤解の渦に呑み込まれる可能性があるわけですね。

 

 用語の問題点ー名付けの誤謬

 

 むしろ、SHA(手軽な抽象表現)を学んだところで、馬鹿になっていくだけなのかもしれません。

 

 スチュワート・ファイアスタインは「名前がつくと、わかった気になるー名づけの誤謬」で、「名前を知れば、それに対応する現象も理解した」状態になってしまうことを「名づけの誤謬」と呼ばれていると紹介しておられます。

 

 例えば、パーキンソン病の患者について「寡動」や「振戦」という用語が使われています。
 これは「動きが遅い」、「いつも震えている」と伝えているだけにすぎません。

 

 なぜそういった現象が起こるのかについては依然として判明していないのです。

 それなのにもかかわらず、「パーキンソン病の主症状は寡動である」といわれてしまうと、我々は納得してしまう傾向にありますね。


 
 つまり、「名づけの誤謬」は本来たいした意味のない言葉を不当に科学的に見せてしまう危険性があるわけです。

 

 SHAへの疑義も忘れずに!

 

 これはもちろん、今回の記事冒頭に記した「SHA」についても同様のことがいえます。

 

 本書の最終項目において、エルンスト・ペッペル〈「知性のゴミ」を捨てるにはー手軽な抽象語〉はこの問題を扱っています。

 引用します。

 

 認知の武器は知性のゴミであふれている。(中略)「SHA(手軽な抽象語)」がいかに私たちの創造性を制限しているかを確かめてみてほしい(このSHAという言葉そのものがいい例だ。)

 

 

 もはや完全にSHAを小馬鹿にした文章になっています。
 中身も非常に面白いので詳述は本に譲ります。

 

 ただ大事なところについてはまとめておきましょう。

 

 SHAで科学的な知見を得たつもりになって、外部世界を見ようとしても、結局はSHAという概念にとらわれて、また世界を見誤ってしまうというわけです。

 私たちの現実は一つのSHAなどで語り尽くせるものではありません。

 
 実際はもっと言葉にすることの出来ない複雑多岐な構成によって、世界は成り立っています。

 

 しかし、何処かでケリをつける必要があります。
 上述したように「検知パターン」がなければ、私たちは情報の渦を処理しきれなくなり、自分を保てなくなるからです。
 
 エルンストは自分もまたSHAにつきまとわれていることをわかっています。
 SHAを抜きにして人間は生きていくことはできないが、無分別にSHAを使っていいことにはならないと主張しています。

 

 終わりに

 

 ジョン・ブロックマンの「まえがき」を否定するかのような言説を巻末にもってくるとは実に洒落てますし、知的に誠実だともいえましょう。

 

 実際、この本を読んで「何かが分かった気になる」ことが一番まずいのかもしれません。

 我々は常に誤解と一緒に歩み続けなければならない。しかし、無分別に信じ切ってもいけない。

 

 


 
 そんなことが書いてある本でした。

 では、またお会いしましょう。
 ズンダでした。

 
 

  ↓これも人間の判断の仕方について書いた本です。有用。

zunnda.hatenablog.com

 


 

 本書でやや気になった点

 1 日本語がおかしい
 2 副題の内容が本文で語られていない
 
 1について

 なぜ[自分ごと]としてとらえないのか。社会学者は多くの検証に基づく[理由を理解]している 。(P483)

 [自分ごと]という日本語は一般的ではない。「他人事にしか感じないのか」と訳した方が適切ではないか。

 また、[理由を理解]は「理」が連続して二回も使われており、稚拙な訳文ではないか。
 「理由は解っている」や「理由は判明している」などでもいいのではないか。 

 2について

 「なぜ自爆テロリストは男性ばかりなのかー性選択」を読んでも、「なぜ」の部分が全く書いていない。副題詐欺である。
 性による男女差について語っている章なので、もっと別の名前をつけるべきでないのか。