民主主義ってなんなのだろうか。
私たちの大部分が生まれた頃から存在する民主主義。
発祥の地である古代ギリシャから現在の私たち日本人にまで繋がっている民主主義は、2500年という豊かな歴史をもっています。
今回紹介する宇野氏の本に以下の一節があります。
民主主義(デモクラシー democracy) という言葉が生まれたのは古代ギリシアです。語源となったデモクラティア(demokratia) は、人民や民衆を意味するデーモスと、力や支配を意味するクラトスが結びついたもので、「人々の力、支配」が元々の意味でした。
これは非常に納得がいきますよね。
私たち国民が政治家を選び、私たちで自分の国の行く末を決めていく、という力強い意志を感じる語源です。
この記事は原点である古代ギリシャの民主主義をみてみることにしましょう。
今回紹介する本は宇野重規氏『民主主義とは何か』(講談社現代新書)です。
民主主義を語ることの難しさー2500年、完成することはなかったー
民主主義を絶賛する人は少なかった
民主主義は常に疑問視されてきた主義でした。
よくある疑問として
「政治的な知識がない人々が適格な代表者を選ぶことができるのか?」
があります。
現在、民主主義こそが最高の制度だと認識する人は多いでしょう。
しかし、その民主主義はいまだに何なのかを定義できないのです。
著者の宇野氏も次のようにいっています。
私たちが自明だと思っている民主主義ですが、よくよく考えてみると、それが何を意味するのかわからなくなってしまいます。
「民主主義は多数決の原理だが、少数者を保護することでもある」 「民主主義とは選挙のことだが、選挙だけではない」 「民主主義は具体的な制度だが、終わることのない理念でもある」
民主主義を語るとき、どうしても「~ではあるが、それだけではない」という語り方がつきまといます。
これらの問いは多くの知識人達によって投げかけられてきたものでした。
たとえば、「民主主義は多数決の原理だが、少数者を保護することでもある」とは今でもよくききます。
現実的に考えると、多数決を取った候補者や政党が勝つのが民主主義です。
少数派を保護するとはどういう意味なのか、いまいちわかりません。
そもそも一般人達の意見を酌み取ることが本当にできているといえるのでしょうか。
民主主義が理想的な制度だというのはおかしいのではないか?
下の本には近代デモクラシー以前の民主主義がどのように語られていたかが紹介されている。
基本的には
「民主主義を高く評価している知識人はいなかった」
という事に尽きる。
知識や教養のない粗野な一般人が政治家を選ぶことの危険性をみな指摘し、警戒していた。
例外的にはトクヴィルがややアメリカの民主主義に期待を寄せている。
かの有名なプラトンの弟子であるアリストテレスは次のように述べています。
アリストテレスは、政治的支配について、一人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて君主政、貴族政、民主政を区別しましたが、興味深いのは、それぞれについて堕落形態があると論じていることです。すなわち、僭主政、 寡 頭 政、衆愚政です(より正確には、アリストテレスは、良き多数者支配をポリテイアと呼び、デモクラティアを否定的な意味で用いています)。いずれの堕落も、統治にあたる人間が公共の利益ではなく、私的利益に突き動かされることによって生じるとアリストテレスは考えました。
つまり、どの制度であっても私的利益が公共を壊すようなことがあれば、何主義であろうが堕落するのです。
それは民主主義に限らず、です。
ですので、「民主主義はすばらしい!万歳!」などというのはあまりに楽観的でお粗末な見立てでして、実際はそんなことなどなかったし、知識人たちの言説も民主主義礼賛などしてはいないのです。
読者が民主主義とは何なのかを掴み取るほかない
様々な語られたかをしている民主主義について宇野氏は「この問題に対し、歴史的にアプローチしようと考えています。」といい、
「ある意味で、一人ひとりの読者がそれぞれに「民主主義を選び直す」ことが本書のゴールなのです。」
と民主主義をどう受け取るかは読者に任せると述べておられます。
実際、本書で紹介されている多くの思想家達、プラトン、トクヴィル、コンスタン、ミル、アリストテレス、ルソー、シュンペーター、シュミット、ダール、ロールズ等々、彼らの民主主義に対する考えも異なっており、一つに絞りきれないのです。
論者の数だけ民主主義がある、といった感じです。
よって、始まりの地である古代ギリシャについてみることが最も優先されるべきでしょう。
どの論者も、民主主義解釈は古代ギリシャからはじめるからです。
それでは民主主義とはどんな歴史があるのか、みなさんと一緒に見ていきましょう!