独裁という言葉を聞くと皆さんはどんなことを思い浮かべますか。
やはり、有名なナチスのヒットラーやイタリアのムッソリーニなどを思い出すかもしれません。
独裁者と聞くと、絶対悪のように感じられるかもしれません。
前回の記事
でみたように、独裁者が権力に溺れ、民に対して暴虐の限りを尽くすようになることは歴史上、枚挙に暇がありません。
しかし、今回紹介する本『独裁の世界史』の著者である木村凌二氏は次のように述べておられます。
独裁には「メリット」があります。意思決定は議会制民主主義のそれと比べれば格段に早く、超法規的な措置をとれば「自粛要請」など必要ありません。個人の自由を制限してでも感染の拡大を防ぐ。
その点において、独裁者をいただく国家が、スピードと徹底の度合いにおいて有利であることは否定できません。(中略)民主主義が「ポピュリズム」に陥り、やがて「衆愚政治」に堕していく危険性も、強烈に浮かび上がりつつあります。
というように独裁には独裁の長所があり、民主主義には民主主義の欠点があることも事実でしょう。
そもそもヨーロッパにおいては「独裁」と「民主主義」は対置される制度ではありません。
「独裁」と「共和制」が並び立っているのです。
共和政という言葉はやや聞き慣れない方もおられるかもしれません。
古代ローマやフィレンツェで長きに亘り、平和と繁栄とを生み出し、独裁を防いできた政体それが共和政です。
木村氏は古代ローマ史が専門のためにこの本の大部分もローマ史になっています。
前回の記事において古代ギリシャの民主主義について書きました。
今回は古代ローマの「共和制」の誕生とその結末をみていくことにしましょう。
ローマの歴史
ローマの政体 概観
前七五三年 ロムルスによりローマが建国されます。
当初ローマは独裁制でした。
最初から民主主義の国などというのはありえません。
何処の国も強い人たちがその地域一帯を暴力によって支配し、まとめあげ、権力を一手に握り、一つの共同体をつくりあげていきます。
初代ロムルス王の一族が王政によって七代約二五〇年間、ローマを支配します。
七代目の王ルキウス・タルクィニウスが暴横でして、下水道工事にローマの民衆を酷使し、その息子は強姦事件を起こします。
圧政ゆえに前五〇九年、ローマの元老院によってタルクィニウス一族は追放され、独裁が終わりを迎えます。
元老院とは建国者ロムルスを助けて国家運営の一端を担った「一〇〇人の家長」たちの後裔が貴族になったといわれています。
ローマは共和制へ移行した
独裁後に古代ギリシャであれば民主制になるのですが、ローマ人は違いました。
彼らは「共和政」というものをはじめます。
これらが三つ巴になり、ローマの事々を決めていくようにしました。
民会の市民達が軍事・行政を司る政務官を選びます。
政務官の任期は一年。同じ人は連続してなることができません。
政務官の最高位が執政官(コンスル)です。
王様の役割を果たします。
こちらは二人おり、任期は一年。
コンスルは独裁者に匹敵する力をもっていましたが、二人を撰ぶことでお互いを牽制しあうようにしていました。
任期も一年なので権益を得て腐らないようにしていたわけです。
また貴族の集まりである三〇〇人の元老院もいました。
彼らの任期は終身で、政務官や民会へ助言をしていました。
民間は初期は立法権がありませんでしたが、要求したことで元老院に準じる立法権が与えられました。
コンスルや元老院が平民に不利な決まりを作ろうとした場合は対抗措置として二人から一〇人の護民官を選任し、利害を守ることができました。
こうした仕組みを作ることで、常にお互いの権力が暴走しないようにしていたのがローマの共和制でした。
なぜローマ人は共和制を撰んだのか
ローマ人は独裁を嫌い、タルクィニウスたちを追放しまました。
木村氏の推測によればローマ人達は「自分たちは自由人である」という思いを強くもっていた人々だといっておられます。
しかし、同時に身分の違いも意識し、それに準じた行いをすることを厭わない民族でもありました。
その象徴として「SPQR=Senatus Populusque Romanus」(セナトゥス・ポピュルスクェ・ロマーヌス」の四文字が未だにローマ市内にちらばっています。
「ローマの元老院と民衆」という意味のこの言葉は、ローマの主権者は元老院の貴族(パトリキ)と民衆(プレブス)の二つの身分であることを指しています。
・貴族と平民は結婚できなかった。
・選挙の投票数の割り当ても差があった。
という差別がありながらも、平民は不満があれば元老院にも意見し、ストライキも行っていました。自由のためにです。
ギリシャ人は民主政、ローマ人は共和政
ギリシャは民主制に、ローマは共和制の道を進みました。
どちらも独裁であったにもかかわらず、どうして異なる制度になったのでしょうか。 *1
木村氏は次のように言っておられます。
ギリシアの部族集団は、リーダー的な存在がいるものの、それ以外のメンバーとの間に大きな身分差がなく、共生的な「村落社会」を形成していました。
これに対しローマの部族集団は、有力な富裕層が貴族のような「氏族社会」を形成し、それぞれの氏族が、彼らに依存する民衆を抱えていました。
簡単にいえば、ギリシアの民衆が「○○村の私」という意識でいたのに対し、ローマの人々は「○○家とつながりを持つ私」というかたちでアイデンティティを形成していたのです。
いってしまえば、ギリシャ人はもとより平等的であったのですが、ローマはすでに貴族による支配がギリシャよりも進んでいたがゆえに、貴族と平民との区別がギリシャよりも意識的でした。
元老院などの組織を受け入れる素地が自然にできあがっていたということです。
ローマはなぜ帝国化できたのか
政体循環論と混合政体
ポリュビオスというギリシャのメガロポリス出身の貴族がいます。
彼は戦争で人質となった後、ローマの貴族のもとで歴史書を編んでいます。
彼の書いた『歴史』という書物に「政体循環」とよばれる政治体制の変遷を扱った項目があります。
彼の故郷ギリシャは以下のような変遷が起こりました。
王による独裁
↓
貴族政
↓
スタシス(党派による内乱)
※スタシスとは党派運動のこと。
貴族が自分の利権に関わる平民を味方につけ、別の貴族(別の貴族も別の平民を味方にしていた)と争うことがギリシャでは常態化していた。
現代でいうところの国民が分断され、互いを憎しみ合うことをいう。アメリカが適切な例。
↓
僭主の出現(混乱を収めるために独裁)
↓
民主政
こういう循環を「政体循環論」といいます。
政体が安定していなかった理由をポリュビオスは極端に偏っていたためとのべています。
それに対するローマは国内が安定していたので、領土拡大が出来たというのです。
では、なぜローマは安定したのか。
それが共和制のおかげだというのです。
彼にいわせればローマは「混合政体」型の国家です。
民会=民主政
つまり、この三つの政体を合わせもっているのがローマの「共和制」でした。
三つ巴の状態を作ることで権力が偏頗になることなく、お互いがお互いを掣肘しあう関係にあった。
このため内輪揉めがスタシスに発展せず
国が治まっていたというのです。
また国が本当に危機的常態にあるときは半年の期限付きで独裁官(ディクタトル)を指名し、独裁官が独りで国を率いることができるという例外をもうけていました。
この他にも木村氏は「ローマ人の国に対する執着心」や「公を大切にする教育」や「国のために尽くす信仰心」などをあげておられます。
共和制から帝国ローマへ
「共和制ファシズム」と「無産市民」の登場
さて、そんな共和制を誇っていたローマでしたが、前一世紀後半になるとカエサルが登場し、「帝政」となり、独裁化します。
五〇〇年間の共和制はなぜくずれたのでしょうか。
木村氏によれば「共和制ファシズム」と「無産市民」のせいです。
私たちはローマときくと安定した国のイメージがありますが、五〇〇年間、周辺国への進出と侵略の繰り返しでした。
ローマに限らず、古代国家は自国を維持させるために他国を蚕食するために国家予算の七割近くを軍事費としていたのです。
民衆は勝てば戦利品や土地が得られます。
貴族は武勲を得ることができます。
ローマの共和制は、独裁とは異なる政体ではあえりますが、軍事力にものをいわせる覇権主義であり、しかも専守防衛などではなく、「先手防衛」だった。つまり、攻撃こそ最大の防御であるという考えに基づいた軍国主義だったということを見逃してはいけないと思います。独裁を想起させるファシズムという言葉を、私が敢えてローマ共和制に用いるのは、専守防衛を是とする軍国主義であるという意味で、二〇世紀のファシズムと共通する部分があるからです。*2
といわれるように、マリウスもスッラもカエサルもポンペイウスもクラッススもみな領土拡張をこなしていった帝国主義者達だったのです。
戦争ばっかりしていると国は疲弊する
さて、戦争に明け暮れていたためローマの食糧自給率は著しく下がってしまいます。
男性が兵役でとられ、農地が荒廃するからです。
困窮した農民達は仕事を求め都市へ行き「無産市民」になってしまいました。
彼らが農地を手放すと、貴族達がそれを安く買いたたきます。
そして戦争で得た奴隷を農地で働かせ、富める者はますます富むようになります。
かくして、強烈な「貧富の格差」がうまれました!
すると、どうなるか。
混合政体のバランスに変化が生じます。
今まで民会で政治的な主張をする余裕のあった平民達は没落していきます。
貴族達だけが裕福になり、一方の平民達は落魄する。
故に、貴族への恨み辛みが平民の間で高まり、祖国愛は消え失せ、「自分だけが助かればいい!」という「個」の生存本能が蠢動しはじめました。
こうなると共和制は崩壊していきます。
改革派貴族のグラックス兄弟が平民のために改革をしましたが手遅れ。
その後のスッラの改革は元老院が自分たち貴族の力を増すような改革をしてしまい、平民と元老院の「閥族派=利権を手放さない人たち」との対立は激しくなります。
貴族が働かせていた奴隷達が剣闘士スパルタクスらの蜂起に合流して反乱軍を形成するまでになってしまいました。
その規模はローマ軍を斥けるほどだったといわれています。
この混乱の中、イベリア半島を制圧したカエサルがローマに凱旋し、カエサルがコンスルになりクラッスス、ポンペイスの二人と一緒に「第一回三頭政治」がはじまります。
ローマの共和制はこうして終焉しました。
共和政でも、いずれは終わる
独裁者を防ぐために有効な共和政でしたが、最終的には帝政を招いてしまい、その気運を防遏することはできませんでした。
共和政が崩れ去った理由をまとめると以下のようになるでしょう。
古代国家は領土拡張政策によってしか、自国を豊かにすることができなかった。
戦利品や土地の獲得、奴隷の売買等を通してしか成り立たない時代の限界がそこにはある。
政体の崩壊理由は、
各階級の格差が広がるせいである。
その国の中での経済格差が共同体の絆を打ち壊し「公」→「個」への重視に切り替わってしまう。
↑の記事でも触れましたが、私たちは他の国との格差によって悩むことはありません。
しかし、自国内での格差が広がっていくと不平等であると感じやすく、それが不満の原因となり、暴動などに発展し、政府転覆といった事態になりやすいのです。
まさに共和政ローマもこのようにして共同体をズタズタにきりさかれたといえましょう。
↓ちなみに、ローマと同じようなことが今まさにこの日本においても行われていることを皆さんご存じでしょうか。
私たちは知らず知らずのうちに、同じ日本人を批判し、追い詰め、貶めることに参加しています。
必読本といえましょう。
終わりに
ということで今回の記事はいかがだったでしょうか。
木村氏がローマ史専門ということもあり、この本の大枠はローマ史にあるといってよいでしょう。
なぜ独裁者は誕生してしまうのか。
なぜ独裁の長所と短所は何か。
そういったことを各国の独裁者に視点を合わせながら、綴られております。
しかしまあ、人間は何主義だろうが何政だろうが、うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはうまくいかない・・・そんなだけのような気もしましたね。
私たちは政体について考えるよりも、運命について考えた方がいいのかもしれません。
ローマにしてもフィレンツェにしても、世の中に自国だけが存在していれば共和政を維持し続けることができたのかもしれません。
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
ブックマーク&読者登録、おねがいします!
↓コロナ禍ですが、本の中でローマを旅行してみてください。
ここいらでギリシャとローマの通史を学んでみるのもいいかもしれません!
ということでおすすめの本をはっておきます。