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リベラルとは何か?田中拓道『リベラルとは何か』を紹介する!!

 リベラルとは何か

 さて、今回紹介するのは田中拓道『リベラルとは何か』(中公新書)です。

 

 

 

 

皆さんも何かにつけて「リベラル」という用語をきくことが多いと思われます。

 

 そもそも、「リベラル」とは何なのでしょうか。

 

 この記事では本書より以下のことについてまとめていきます。

 

古典的自由主義と現代のリベラルができるまで
新自由主義との関係性

 

では、みていきましょう。

 

 

 リベラルとは何か?

 

リベラルの定義

 

 現代のリベラルについて、田中氏は次のように定義しておられます。

 

 あらかじめ定義を示しておけば、リベラルとは、「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」を指す。

 


 要するに国家が人々の生活や自由を支えながらも、個人の自由を尊重するというのがリベラルだ、ということです。

 

 もちろん、国家権力がどれぐらい個人の生活に入り込むかについては議論の余地があるでしょう。

 

 リベラルの歴史

 

 リベラル自体は十七世紀の自由主義にその本源があります。

 

 17世紀以降、ヨーロッパで商業市場が発展すると、新たに勃興してきた商人階級、つまりブルジョワジーを中心として、強大化する君主権力や中世以来の特権を保持しようとする貴族階級に対抗する改革運動が起こった。

 

 要するにそれまでは市場経済が発達していなかったために、貴族とそれ以外の人々でヨーロッパはわけられていたわけです。

 

 ところが、商人達がお金を稼ぎ始めると、貴族達に対抗できるだけの経済力をもちはじめます。

 

 すると「貴族は権力をもっている。しかし、金をかせいでいる俺らのほうが偉くない?なんで、好き放題、税金をとられるの?」となるわけです。

 

 ピューリタン革命や名誉革命が起こり、「個人の自然権と法の支配」という二つの原理が確立していくわけです。

 有名なロックによる『統治二論』(一六九〇年)はこの時期にかかれました。

 

 

 

 

 

 彼は人には「自然権」がある、と主張します。

 

 これは神によって与えられている不可侵の権利(貴族たちには冒すことのできない)のことです。

 

 そこには、「生命、自由、財産」の三つがあり、すべての個人は「生まれながらにして自由かつ平等な独立した存在」とかかれています。

 

 財産も個人の所有物であり、誰からも奪われてはならないものと主張しているのです。

 個人と契約した国家の役割は、こういった個人を守ることであり、人々が制定した法律によって国家権力は縛られる、ともいっています。

 

 このロックの思想は18世紀後半のアメリカ独立革命フランス革命でも意識されていました。

 これを古典的自由主義といいます。

 

 19世紀で自由主義は変貌する

 

 さて、19世紀になると商工業がさらに発展していきます。

 すると、ブルジョワジーの力が増大していき、古典的自由主義ブルジョワジーの利益を代弁する経済思想」へと変質していきます。

 

 ここら辺が私たち人間の卑しいところですね。

 押さえつけられていた人々が権力者をうちたおすと、今度は、自分たちが以前の権力者のように個人的な利益を増大させようと考えるはじめる。

 

 有名なアダム・スミスは『国富論』(1776年)で次のように述べています。

 

 生産物が最大の価値を持つように産業を運営するのは、自分自身の利得のためである。だが、そうすることで、多くの場合と同じく、見えざる手に導かれ、自分では意図していなかった目的を促進することになる。・・・・・・公共の善のために商売をしていると称する者が、実際にそれを成し遂げたことなど聞いたためしがない」 
 
 

 

 

 

 スミスは「神のみえざる手」によって、自分自身の利益になることをやっていれば、世の中のためになる、と楽観的なことを考えていました。

 

 そして、国家は自由な市場を維持し、産業を保護したり職業の移動や自由を制限しないようにしろ!と国家権力を斥ける主張するのです。

 

 こうして、現在、問題になっている新自由主義的な発想、市場経済に任せておけば世の中はよくなる」という迷妄がうまれます。

 

 ↓どうして経済学で私たちは豊かになれないのか。いったい何をまちがえたのか、が書いてある本。新自由主義批判。

 

 ↓新自由主義によって、たとえばチリがどのように悲惨な目にあったのかを書いた本。

 

 

 実際、19世紀では国家の国民総生産における政府支出は歴史家のマイケル・マンによると次のように減少しました。

 

 イギリス
 1830年12%→1910年7%
 フランス
 1790年12%→1910年11%


 ※正直、フランスに関しては一%しかさがっておらず、いうほど政府支出が下がった例として挙げるほどなのかわからない。
 
 いわゆる、自由放任(レッセ・フェール)の時代に突入していきます。

 これがきっかけで自由貿易が広がります。

 
 

 西ヨーロッパでは1870年~1913年まで一人当たりの経済成長率は上昇をつづけました。

 しかし、格差は拡大していきます。

 

 資本家VS労働者階級ーイギリスの場合

 

 都市部に工業が発展すると、農村から都市部へと仕事を求めて流入する人々が増えていきます。

 当時、長時間労働の規制がなかったため一日に13~15時間ほど働く貧民たちが増大します。

 これを「大衆的貧困」といいます。

 かくして、「自由放任の経済政策は貧乏人を増やしているだけではないか」という考えがでてきます。

 

 これは労働者だけではなく、自由主義を標榜する一部の人たちからも自由主義への反発が現れました。

 都市部の専門職(技術者、教員、学者、公務員)や自由業(ジャーナリスト、著述か)などです。

 

 思想史家のリチャード・ベラミーは1870年~1913年におけるイギリス、フランス、ドイツなどの思想を「倫理的リベラリズムとよんでいます。

 

 この時期の思想は、社会主義と異なり市場経済を肯定する一方で、「自由」をたんなる私的利益の追求と結びつけるのではなく、個人の尊厳や道徳的発展と結びつけた。社会とは、たんなる私的利益の追求と結びつけるのではなく、個人の尊厳や道徳的集合である。(中略)自由を実現するためには、国家がすべての個人に能力の発展の機会を保障しなければならない。(太字はズンダ)

 

 

 ここで初めて現代と同じリベラル思想がうまれました。

 

 代表的な知識人にイギリスのジョン・アトキンソン・ホブソンやレオナルド・ホブハウスなどがいます。

 

 彼らは就労の機会、最低限の生活賃金、公教育、最低年金や累進課税、労働者への再分配を主張しました。
 ※ホブハウスが医療保険、失業保険を支持したのかは専門家の間でわかれている。

 

 この思想が1906~1914年に自由党政権下のロイド・ジョージが主導した「リベラル・フォーム」に影響を与えたといわれています。

 1908年に老齢年金、1911年に失業保険、国民皆保険が導入されました。

 

 フランスの場合

 

 フランスでは1840年に「大衆的貧困」という認識がうまれます。
 
 1870年に第三共和政が成立し、1890年代に急進共和派が主導権を握ると、自由放任主義を修正する公的扶助、労災保険、年金などを導入しました。

 「連帯主義」(ソリダリスム)という福祉国家を準備した思想があります。

 

 この思想潮流で有名な人々には、政治家レオン・ブルジョワ、法学者レオン・デュギー、社会学者セレスタン・ブグ、エミール・デュルケームなどがいます。

 

 ↓この辺りについて書かれた本なのですが、絶版でして、私も読みたいのですが、読めません。kindleで出して欲しい。

 

 

 

 

 

 フランス型リベラリズム「経済的な自由主義を修正を要望するが、結社の自由を擁護し、職業組合、共済組合などの中間集団は国家の統制から自由であるべき」と主張したところにイギリスとの違いがあります。

 

 国家権力と一定の距離をとることを忘れない。

 

 それがフランス流なのです。

 

 とはいえ、どちらにせよ国家が個人の自由を保障するために機能すべき、という点では変わりありません。

 

 アメリカの場合

 

 この傾向はアメリカでも20世紀初頭になると起こります。

 アメリカでは、19世紀末までハーバード・スペンサーの弱肉強食な進化論が幅を効かせていていました。

 鉄鋼、鉄道、金融などの発達でブルジョワジーが権力を得ると、労働者や下層階級が貧困に陥ります。

 

 彼らの保護をすすめる「革新主義(プログレッシビズム)」運動が擡頭します。

 

 民主党の内部で「リベラル派」が誕生します。

 

 大恐慌後に大統領となったフランクリン・ローズベルトはこの革新主義を実践し、ニューディール改革」を行います。
 
 失業対策や最低所得保障、ダム建設、鉄道整備などの公共事業。

 1935年には失業保険、公的扶助、年金を含む社会保障が導入されました。

 この時期の政治秩序をニューディール政治秩序」といいます。

 労働者や経営者の間の協力をもたらし戦後労使関係のモデルになります。

 

 

 リベラル・コンセンサス(1945~1975年)の時代へ

 生活はしやすくなったが多元性は確保されていないという不満

 

 イギリス、フランス、アメリカをみてきました。
 
 どの国も失業者の増加や貧苦に喘ぐ人々が増大したことを社会問題として捉えることで、彼らを救うための法律を整備していきました。

 

 この流れは1945年まで続いた第二次世界大戦から1975年まで続いていきます。

 

 階級対立を解消する鍵となるのは生産性の向上である。

 労働者は経営者荷協力して生産性を向上させ、経済全体のパイを拡大させる。経営者は労働者の雇用を保障し、生産性の向上に合わせた賃金を約束する。

 さらに国家が経済成長の果実を公共投資社会保障へ回し、個人の「自由な生活」を保障する。

 

 これを田中氏は「リベラル・コンセンサス」と呼んでいます。

 

 ここまできくと、大変素晴らしいのですが、やや欠点もありました。

 

・最低限の生活保障にとどまる。
・男性は工場で働く。女性は家事や介護で働くという役割分業、男女差別が残っていた。

 

 「自由な選択」からはまだ遠かったからです。

 リベラルは「価値の多元性」を重視しています。

 その人個人が、自由自在に生きられるような社会が望ましいと考えているのです。

 

 つまり、リベラル・コンセンサス下では、性差別や、生まれた環境による差別が達成されていないことに不満が残っていたというわけです。
 
 それゆえ、これ以降、新自由主義と文化リベラル(文化左翼のこと。経済のことは考えず、LGBTや民族差別などの問題に焦点を当てて行動する人たちのことをいう。)という二つの主義が運動をはじめます。

 

 オイルショック下でリベラル・コンセンサスは壊れる

 

 1970年代になると、世界経済は繁栄の極を迎えます。

 しかしオイルショックの影響により高インフレになってしまいました。

 ここで、サッチャーレーガンなどの新自由主義的政策が行われます。

 

 この政策はリベラル・コンセンサスと違っていました。

 国家の支出を抑えて、インフレ圧力を減らすものだったのです。
 
 インフレは需要が供給力を上回るとインフレになります。

 国家による支出で需要が作られます。
 すると、それがインフレを昂進させてしまうのです。
 
 オイルショックによるコストプッシュインフレを緩和するために政府支出を減らす(民営化などが最たる例)。

 こうすることで、政府はインフレを押さえ込もうとしたわけです。

 

 ↓この辺りの世界の経済政策について知りたい人は、どうぞ。漫画版もでました。

 

 

 ですが、政府が支出を抑え、緊縮財政になると、貧困な人々を助けるための政策は細々としたものへなります。

 

 公共事業の仕事や公務員などを減らしていくと、当然、仕事につけない人々がでてきます。
 ((※公共事業叩きや公務員叩きのの馬鹿げていることは「仕事がその分なくなる」ことに気づけないところである。

 一般人も自分で自分の首を絞めていることに気づくべきであろう。

 彼らは劣悪な環境で働かされるか、無職のままになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 すると、格差の拡大が止まらなくなります。

 結果として、
 経済成長率も低成長にとどまってしまいます。

 格差は急激に増加しました。
 
 

 イギリス
 失業率
 1980年7.1%→1984年11.8%→1990年8~10%

 相対的貧困率
 1985年6.7%→1990年13.7%

 アメリカ(アメリカの場合はそもそも失業率が高かった。)
 相対的貧困率
 1980年15.4%→1990年17.5%

 

 

 

 滑稽なことに格差が増大したことで、福祉への支出が増加してしまいました。

 失業者や低所得層が増えたためです。

 

 政府の支出を切り詰めたら、逆に福祉への支出が増えてしまった。

 こんな馬鹿げたことになっているわけです。

 

((

ミルトン・フリードマンハイエク新自由主義者として有名である。
 彼らは働けない人への最低限の生活保障のみを認め、それ以外の再分配や社会保障を原則として否定している。
 
 フリードマンは国家が廃止すべき事業として次のものをあげている。

①輸出入への規制。
②家賃統制と公営住宅などの住宅政策
③特定業界への生産量制限、産業規制、免許制、農業保護。
④通信、郵便への規制。
⑤公営道路、公営公園。
⑥平時の徴兵制。

 

 もともとフリードマン無政府主義者だったので、国家が何かをすることが許せなかった。
 この思想の影響下にあるものの代表が先日、youtubeでチャンネル開設し、低評価がつきまくった竹中平蔵氏である。

 

hochi.news

 

 

 

 フリードマンと比較すると、その酷似に驚くだろう。

 

 ↓竹中氏が何者なのかを書いた本。

 


 
 更に彼らは民主主義についても懐疑的であったことも添えておく。

 ※ただし、この民主主義という訳語がおかしいというのは頻頻とみる。

 先日発売した空井護の『デモクラシーの整理法』でもその問題点が書いてある。

  たとえば「社会主義」や「共産主義」が「民主主義」とは異なるとはいえる。 

  だが「デモクラシー社会主義「デモクラシー共産主義は成り立つことは可能なのである。

  このことを知りたい方は、以下の本をどうぞ。

 

 

 

 

 ↓新自由主義は民主主義を崩壊させていくことを書いた本。

 それと、新自由主義は今までの資本主義と変わらないのではないか?延長線上の話では?という新自由主義で何かを説明することを批判した本。

 

 

 

 

 

 

 新自由主義に対抗できなかった文化リベラル


 また、リベラルも文化リベラルという経済を考えない思想家達の群れになってしまったために新自由主義に対抗しようとはしませんでした。

 そもそもどちらとも「国家が個人の介入せずに、多元性を重要視する」という点においては同じだったのです。

 

 つまり、新自由主義と文化リベラルは兄弟関係にあります。

 

 

 


 

*1

 

 

 国家が介入しない、自由放任(レッセ・フェール)になった結果がどういうものだったか。

 前述したように19世紀、20世紀初頭のイギリス、フランス、アメリカで起きたことをみればわかるでしょう。

 人々はせっかく安定しつつあったリベラル・コンセンサスを壊してしまい、再び二世紀前の世界に戻ってしまっている。

 それが現在の世界経済なのです。

 

 

 


  
 

 ワークフェア競争国家へ

 新自由主義の亜流ーワークフェアとは?ー


 
 ワークフェア競争国家という言葉があります。
 
 田中氏は新自由主義が世界を席巻したという考え方には懐疑的です。
 
 新自由主義は国家が推し進める「ワークフェア競争国家」へと変化したというのです。
 *2

))

 

 

 政治経済学者のボブ・ジェソップやヨアヒム・ヒルシェの言葉を借りて、1990年代以降に新自由主義を修正して生まれた新しい国家像を、「ワークフェア競争国家」と呼ぶ。

 

wellfair=福祉
workfair(造語)=就労のための福祉

 

 ワークフェア競争国家には三つの特徴があります。
 まとめてみましょう。

 

 ①グローバルな国際競争に勝つための経済的・社会的な条件を国家がつくり出す。海外から投資を引きつけるための産業インフラ、情報インフラの整備、金融での規制緩和
 PISA(国際学力調査)を使い、教育目標を比較する。
 ②貧困層低所得者層に対する福祉は「ワークフェア」へと転換する。雇用保護が縮小され、労働市場が流動化し、低賃金労働がつくりだされる。公的扶助、失業給付はけずられる。
 職業訓練や就活労働を条件とした給付へとおきかえられる。
 ③国家は民間アクター(国の支出を削るため、民間に委ねるようになる)と協力関係を築く。育児や教育や介護の分野で規制緩和によって民間企業の参入が促された。
 政府はガバメント→ガバナンスへ変化した。

 

 ↓安倍政権下において日本がどれだけ新自由主義によって壊されているかを書いた本。

 

 

 

 

 このワークフェア、まさに安倍政権だったよな、と思わざるを得ませんね。

 というか小泉内閣以降の日本が正にこれだったわけです。

 

 政府が支出を削り、民間に仕事を任せ、責任放棄し、「何もしてくれない」

 

 国民が声をあげて求めても「国に甘えるな!」という意味不明な言葉が飛んでくる。

 

 そんな社会に日本はなってしまっているわけです。

 

 国が何もしないのだとすると、いったい、政治家は何なのか?ってなるのが普通の頭だと思いますが、新自由主義に被れてしまうと、そういう当たり前の疑問すらもわいてこなくなる。

 

 私はネットをみて、呵々大笑しています。

 
 

↓ バブル以降の日本の政治、経済が新自由主義によって支配されていった様を

書いてある本。必読。

 

 終わりに

 

 今回はリベラルについてみていきました。

 この本を読むと、リベラルとは何なのか?というよりも、新自由主義とどうやって闘うべきなのか?に関心がいきます。

 

 今こそ、リベラル的な経済政策が必要とされているのにもかかわらず、文化リベラルにはまりこんでいるリベラルが多いせいで新自由主義に対抗できる人々がいない。

 

 たとえば、日本だと民主党などが文化リベラルでした。

 

 この辺りのことは近年、指摘されております。

 

 

 

 

 

 ↓鼎談本なのでよみやすいかも。

  

 私たちは豊かで幸せな人生を送れればそれに越したことはありません。

 ここ数十年、ミクロの問題だけを考える自己啓発本が注目されていました。

 

 しかし、問題はミクロだけではないはずです。

 

 今こそ社会問題から目をそらさずに、対抗していくべきときなのでしょう。

 

 では、またお会いしましょう。

 ズンダでした。

 

 

zunnda.hatenablog.com

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 ↓ちなみにミクロな幸せについて知りたい方は以下の記事へどうぞ。

 

 

zunnda.hatenablog.com

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*1:※ただし、田中氏はハーヴェイやリュック・ボルタンスキーらがいう「68年の運動」が新自由主義を応援してしまったことを記述しているが、同一視はしてはならない、という。

 

 

 新自由主義は、経済的な価値を一元的に強調するとともに、保守的な道徳とも結びつき、人々の生き方や働き方の選択肢を狭める方向に向かっていった。
 一方、文化的リベラルは個人の生き方、アイデンティティ、社会のあり方の選択肢を広げようとした。(中略)文化的リベラル派、社会文化的な価値の多元性を強調することで、新自由主義とは異なる選択肢を示すものだったと理解しなければならない。


 といっておられます。

*2:※一応、ワークフェア競争国家について紹介はするが、私ズンダはこの部分を読んでも、自分の考えている新自由主義ワークフェア競争国家との違いがそこまでわからなかった。

 つまり、ガワを変えただけの新自由主義、政府そのものが新自由主義者になってしまった状態を「ワークフェア競争国家」というのが妥当なのだろう。

 田中氏曰く「新自由主義ワークフェア競争国家は、市場活力を重視し、経済的繁栄を最優先すべき価値と見なす点では共通する。しかし、新自由主義がもっぱら国家の役割を市場へと置き換えようとするのに対して、ワークフェア競争国家は人びとを市場へと動員する国家の強力な役割を認める。」ということらしい。

 

 そして、就労への義務やグローバルな社会で戦うことのできる人材育成を国家が求める。
 つまり、国家の積極的な関与が教育や就職に置かれているところが国家を軽視している新自由主義とは異なる、というのである。
 

 しかし、この本にも書いてある(頁86~88)ことはワークフェアが単なる新自由主義の延長線上でしかないことの証左ではないだろうか。

 

 積極的労働市場政策への支出(教育や訓練に対する政府支出、GDP比)を見てみる。


 アメリ
 クリントン政権期(1993~2001年)
 0.20%から0.17%へ減少
 イギリス
 ブレア政権(1917~2007年)
 0.23%から0.29%へ増大。
 だが1990年は0.39%だった。

 

 どちらの国も大陸ヨーロッパ諸国が一%以上の支出を行っているのには敵わない。

 これが意味することは「国が何かしますよ」といっただけで、実際は国が支出を削り、民間任せにしている以上、新自由主義とかわらないのではないか。

 ワークフェア競争国家と名付けたところで現実は,新自由主義を更に推し進めているにすぎない。
 ((※ネットで調べていたらアズビヨン・ヴィール『福祉国家の興亡』(こぶしフォーラム24)にワークフェア新自由主義の酷似についてかいてあるようだ。

 

ただ、第二次安倍政権というのはまさに「ワークフェア競争国家」が念頭にあったのだろうな、とは思える。

 ちなみに比嘉宗平「ワークフェア政策の射程」(立命館法政論集 2006年)によればイギリスとデンマークワークフェアの相違がかいてあり、前者はサッチャーリーズムの連続性が濃く、後者のほうがワークフェア本来の理念に沿っているという。