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日本人にとって包茎とはどのようなものであったか?


 

 皆さんこんにちはズンダです。

 

 今回紹介する本は、澁谷知美『日本の包茎』(筑摩選書)です。

 

 この本には以下のことがかかれています。

包茎はいつから使われるようになったか
包茎手術の必要性はなぜ訴えられるようになったか
☆戦前から包茎は恥ずかしいものであった。
包茎=手術、は商売である

☆男性によって作られた女性像が男性を苦しめている

 

 

 ということで、この記事では第一章「恥と包茎」をみていくことにします。

 

 

 包茎は恥ずかしい


 M検から分かる戦前日本人の考え

 

 著者は仮説「仮性包茎に対する恥の感覚は、美容整形医によって集客のために捏造された」を立てていました。

 

 しかし、調査していくと美容整形医がそんな広告をする前から、

日本人は「包茎は恥である」と思っていたことが判明します。

 

 M検をご存じでしょうか。

 第二次世界大戦で日本が負けるまで、ペニスや睾丸の状態を調べられる検査がありました。

 

 これはMara(魔羅。ペニス)の頭文字であるMをとってM検とよばれていました。

 徴兵や軍隊入営後や入学試験、就職試験でも行われていたようです。

 

 解剖学の権威であった足立文太郎は1899年に日本人の包茎について語っています。

 

 これは広島の歩兵485人を対象に長澤庚人軍医にとられたデータをもとに日本人の包茎について語ったものです。

 

真性包茎 約0.8%
仮性包茎 約28%(137人)
露茎   約71%(344人)
※露茎とは皮が被っていないことを指す。

 

 

 という結果がでていました。
 
 しかし、足立は「こんなに露茎している人がいるわけない。何か細工している。」と考えました。

 

 彼の予想はあたっていました。

 

 全露出者のうち317人に対して再調査を行ってもらったところ彼らはやはり「細工」をしていました。

 

 結果として、全体の7割から8割が皮かぶりであったことがわかりました。

 

 ところで「細工」とはなんでしょうか。

 鶏頭冠と言われる部分が男性の性器にはあります。
 
 その部分に余っている皮を被せるのです。

 すると、完全に剝けている人、露茎者に見せかけることができます。
 ※わかりにくればGoogle画像検索でしらべてください。

 

 これを足立は「秘密療法」と呼びました。

 

 つまり、戦前から日本人は包茎を恥ずかしいと感じていたわけです。


 そのためわざわざ検査のときに鶏頭冠に皮をのっけて、隠していたわけですね。

 

 なぜ皮かぶりを恥ずかしいと感じるのか

 

 足立は日本人が皮かぶりを恥だと思う理由を2つあげています。
 
 

 ①皮かぶりは異常である、と思っている
 ②皮かぶりと包茎の外見が似ているから隠したいと思っている。
 ※皮かぶりは真性、仮性、どちらにも使われていた。
 「包茎はなぜ恥ずかしいのか」について足立はふれていません。

 

 恥ずかしいと感じる理由は判然としないのですが、著者である澁谷氏は「土着の恥ずかしさ」と名付けています。

 

 なんだかよくわからないけど、恥ずかしいものだと人々が語り継ぎ、勝手に人を苦しめる機能を果たしているわけです。

 

 実際、皮かぶりがはずかしいので自殺した人や「徴兵検査で皮かぶりがバレるのがいやだ」という人、あるいは作家外村繁が徴兵検査で皮かぶりを馬鹿にされた話、などが紹介されています。

 

 

 包茎商売の誕生

 

 さて、包茎に悩む男性のために医師が包茎治療を請け負う商売が1883年の段階で確認されるようです。

 戦後の美容整形外科の走りですね。

 

 讀賣新聞紙上で今井眞齋という医師が包茎手術をすれば皮かぶりをなせおるし、ペニスのサイズも大きくできますという広告をだしています。

 

 1915年には包茎治療器が新聞にのります。

 1926年になると包茎整形外科を専門とするクリニックの広告も確認できます。

 1930年代では「女性の呪を聞け」という大きな見出しのあとで「包茎者よ・亀頭柔弱者よ・其害悪を知れ!!近代の女性は著しく性生活の平等性を要求する」などと書いてあります。

 

 こうして徐々に男性の包茎問題は「女性がおまえの包茎のせいで気持ちよくなれないから、どうにかしろ!」という性生活の問題にまで広がりをみせはじめます。

 

 勿論、広告文なのであり、戦前の女性がそれを気にしていたかどうかは定かではありません。

 

 本記事では触れませんが、この本の第三章第四章では戦後の雑誌を調べることで、「女性(男の創作か、あるいは一部の女性)に包茎嫌悪を語らせ、包茎医たちと協力し、包茎男性を追い詰めていった」とのべています。

 

 「女の子が包茎を嫌がっているんだったら、手術しなきゃ・・・・・・」と考える男性心理を悪用したのですね。

 

 ここから考えるに、戦前のこういった広告も嘘偽りがあったのかもしれません。

 

 皆が包茎を恥ずかしがっていたとはいえない

 

 1920年の論文です。
 医師の平島今朝義(ひらしまけさよし)が熊本の兵士1053人を調べたところ今までの調査に比べると真性包茎の数が増えていることに気づきました。

 

 彼はこの理由を、完全に剝けているのが普通であると考えている人が減ったことや、包茎への羞恥の念をもつものが減ったのではないかと指摘しています。

 

 1937年にも札幌の兵士を調査した医師によって同様の傾向があると指摘されています。

 つまり、包茎を恥ずかしいと思わなくなった人々」「そももそも、包茎が何なのかを知らない人々」が混在していたというのが混在していたようです。

 

 2020年代の今、包茎を気にする人はどれだけいるのか?

 

 まあ、この辺りは今もそうでしょう。
 男同士で包茎云々の話など私の周りではしたことがありません。
 
 男女が恋愛や性行為から遠ざかっていることを考慮すると、私より若い人たちは更に気にすることが無くなっているかもしれませんね。

 

 仮性包茎は美容整形外科によって捏造されたか?

 

 

 さて、著者の澁谷氏は「仮性包茎が美容整形外科の集客のためにつくられた言葉なのではないか?」という二つ目の仮説、立ててました。

 

 しかし、これも否定する結果になりました。

 

 というのも、戦前から「仮性包茎」は盛んに使われていたからです。

 戦後70年代以降に盛んになる美容整形外科の広告よりも前の時代、です。

 

 澁谷氏は1890年代~1945年代までの医師による調査22件中10件において「仮性包茎という言葉が使われていたことを確認しています。

 

 その定義は現代と変わっておらず、「普段は皮が被っているが、剥こうと思えば剝ける」というものでした。

 

 医者は仮性包茎に優しかった-包茎には価値がある-

 

 さて、戦前の医師達は仮性包茎についてどのように考えていたのでしょうか。

 彼らは「仮性包茎は手術する必要性がない」と口々にいっていました。

 むしろ包皮は亀頭の表面をなめらかにしたり、乾燥や角質化を防ぐことに役立つと述べているのです。
 
 また、セックスの際にも「常に亀頭を保護して居るので快美の感じを助ける利益にもなるものである」と敏感になるおかげで快感を得やすいといっています。

 

 仮性包茎にきびしい意見もあった

 

 数は少ないですが、仮性包茎に対して峻烈な見解をもっていた医師もいました。

 当時、日下正大勇医師は仮性も手術するべきと述べていました。

 引用します。

 

 私の分類した程度の仮性包茎は、何れも、手術で整形するのが、一番適切な療法であつて、性病予防の目的にも敵ふのである

 

 

 といっています。
 
 彼は論文の「包茎手術285例のうち約8割が仮性包茎だった」と記しており、仮性という手術する必要性のない手術をしていたことを明らかにしています。

 

 澁谷氏の調べによれば1900~1945年までの文献28件中4件のみが仮性包茎でも手術したほうがよいと書いているそうです。

 

 要するにまともなお医者さんが多かったわけですね。

 それゆえ、次の項でみるように仮性包茎は医学用語として相手にされていませんでした。

 

 仮性包茎は正式な医学用語ではなかった

 

 包茎に関して記す医者は「仮性包茎」という言葉を使うようになっていましたが、戦前期の主要な泌尿器科学の教科書には「仮性包茎」はおろか「真性包茎」という言葉すらのっておらず、包茎がそこまで問題視されていなかったことを示しているといえるでしょう。

 
 人間の生命にとってそこまで考えるような病気ではなかったわけです。

 

 

 終わりにー男性らしさから逃げれば男は幸せになるのか?という疑問を添えてー

 

 包茎についてここまで書かれた本は今まで読んだことがありません。

 この本は戦前から2010年以前までの包茎言説に関して詳らかに書いており、包茎ってどう語られてきたのか?」が知りたい人にとっては最良の書物であることは間違いありません。

 よくぞここまで調べあげたものだなあ、と感心してしまいます。

 

 本記事では紹介していませんが、戦後になると医師とメディアとが肩を組み合い、包茎を放っておくと女の子にもてない!」などという下劣な言論が雑誌誌上を賑わせるようになります。

 

 つまり、包茎であることは「女から嫌われる条件」の一つとして語られるようになったのです。

 

 いつの時代もメディアというのは人々を洗脳し、問題でないものを問題にする媒体なのだな、と思わせられますね。

 

 これも広告費のためとはいえ、包茎であることが悪であるかのように男性を不安に陥れ、手術台へ向かわせた罪は許されるものではないでしょう。

 ※メディアについて知りたい方はこの本をどうぞ。数々のメディア研究の本が紹介され、メディアがその歴史において何をしてきたのかわかる本です。

 

 

 

 

 

 特に本の著者である澁谷氏はフェミニストなので、これら雑誌で語られる「男性がつくった女性の見解」が、男が男を苦しめている。

 

 それらは、広告費を出している医者のもとへ走らせるための想像上の女でしかないと厳しく批判しておられます。

 

 そこから、「男性が男らしさから逃れるため」に、包茎言説を客観的に浮き彫りにさせた、と本書の価値を語っておられます。

 

 男が男に認められるためには、彼女や妻を持つ、つまり「女をひとり所有する」ことが最低限の条件となる。とすれば、彼に「生きづらさ」を与えているのは、「女にもてないおまえは半人前」と突きつけてくる一般の男達である。(中略)この構造は「包茎」を「ハゲ」や「チビ」「デブ」「ブサイク」「無職」「低収入」「低学歴」などに置き換えても変わらない。この互換性の高さは、「男の生きづらさ」とは、女にもてないこと、そのじつ、男から男として認められないことのつらさにほぼ集約できるのではないか、と思わせるほどだ(本書221頁より)(太字はズンダ)

 

 

 なるほど、たしかに私たちは「女や社会からこういった条件を求められている」と思い込んで、自縄自縛に陥っているところがあることは事実でしょう。

 

 これは澁谷氏の言う通りです。

 

 一方で澁谷氏は次のようにもいっておられます。

 

 「女から男への暴力はどうでもいいんですか」とか「女性間暴力には目をつぶるんですか」という質問が飛んでくることが予想される。これらの暴力は存在するし、ぜひとも解決したい。しかし、一人の力には限界がある。まずは筆者は、礫社会学ジェンダー研究を通じて、看過されがちな男性間暴力を可視化することを担当したい。(太字はズンダ)

 

 

 とも述べており、女性無謬説は取らない、と明言しておられます。

 

 実際、私ズンダのブログでも再三にわたってとりあげてきたように、「女性は女性で、男性に望んでいるものが明らかにある」という現実を無視することは許されないでしょう。

 

 たとえば、澁谷氏は「無職」「低収入」「低学歴」などが「男から男として認められないことのつらさにほぼ集約できる」と書いています。

 

 しかし、以前紹介した「婚活本」やネットで活動されている「すもも氏の調査」でも明らかなように、これらの諸要素は“女が男に望んでいる"ことです。

 

 女の人は男性に収入を求めていますし、容姿も学歴も正社員も求めています。

 

 

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 これらの諸要素は男によって作られた願望ではなく、女性達が恋愛や結婚相手に望んでいることです。

 よって、「男のいきづらさ」とは男だけにつくられているものではありません。

 女によっても「男のいきづらさ」はつくられているのです。

 

 そして、もし「男らしさ」から逃れたとしましょう。


 たとえば、「俺は男らしさから逃れた。無職でもいいし、低収入でもいい。」とその男が若いときから考えたとします。

 

 彼はそれによって、女性から相手にされなくなることがわかっていません。

 つまり、「男らしさからおりる」=「女性から相手されない」を知らないのです。

 

 その場合、その男が女性と恋愛したり結婚したりすることは絶望的になります。

 

 女性はそんな男性を、恋愛や結婚対象として見ることが出来ないからです。

 

 よって「男らしさ」からの離脱や解放が、ほんとうに男性にとって良い結果を生むかどうかを、しっかりと考える必要があります。

 

 この「男らしさからおりればいい」という言説はその人の人生を狂わせる可能性があるからです。

 

 それは「勉強がすきでないなら、お金がないなら、中卒でもいいじゃないか。高校や大学になんていかなくてもいいじゃないか」という意見に似ています。

 

 ですが、いかなければ生涯年収が変わるだけでなく、就職のしやすさにも影響します。

 

「○○からの解放」はあまりにも無責任な意見だと私ズンダは考えています。

 

 私にとってはこういったイデオロギー的な思考法は現実を蔑ろにしている点で嫌気がさします。

 

 では、イデオロギー的はどうしてダメなのでしょうか。
 
 そして、私たちは逆らうことができるのでしょうか。


 次回の記事、中野剛志『小林秀雄政治学』でみていくことにしましょう。

 

 

 では、またお会いしましょう、ズンダでした。

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