今回紹介する本は表現者クライテリオン五月号です。
ポリティカル・コレクトネスとはなにか
アメリカのお寒い言論状況
「ポリティカル・コレクトネス(political correctness(以下PCと略す)を皆さんはご存じでしょうか。
「政治的正しさ」と訳される言葉で、私たちが「同性愛者」や「移民」や「人種」や「女性」を差別することは許されないという意味で使われています。
1970年代のアメリカ左翼の間で自身等の言動が差別的であるかどうかを検討し、是正するという思考が発祥の言葉です。
ポリティカル・コレクトネスの拡大と「キャンセル文化」
しかし、近年、この言葉は「自分の敵をその地位から落とすための道具」となっています。
例えば、森元首相が「女性の話は長い」といった件などもこれにあたります。
私ズンダとしては公の立場にある人間がこんな発言をするのは「マヌケ」だと思っており、発言の是非よりも政治家としての能力のなさに呆れています。
ですが、このぐらいの発言で連日ニュースで叩かれる必要があるのかといわれると疑問に感じてしまいます。
要するにどんな些細なことでも「これは差別ではないか!」といって騒ぎ、相手を貶めることができるようになってしまった。
それが今のポリティカル・コレクトネスです。
アメリカでは日常的にこうしたことが起こっており、「キャンセル文化」といいます。
例えば、日本でも女性への偏見があるCMが流されると、即座に炎上し、CM自体が中止していますね。*1
つまり、PCに該当する行為を「キャンセル」する。
それが慣習的になっているので「キャンセル文化」というわけです。
物言えば唇寒し、といいますが、アメリカではこれが深刻な問題になっています。
なぜかというと、何も発言ができなくなるからです。
人のちょっとした発言に偏見や侮蔑を感じるのは簡単です。
男性が「俺は色白で胸が大きい女性が良い」
↑
それは体型差別だ!
女性が「私は背が高い男性がいい」
↑
それは身長差別だ!
と、人が述べた発言に対して「差別だ!」といえてしまうからです。
実際、皆さんもこういったことについて差別といわれたらどう考えるでしょうか。
人それぞれ異性や同性への好みはあり、意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは人を選んで付き合っています。
それを差別といわれたら?
もはや私たちはなにもいえなくなってしまうでしょう。*2
これは文学の分野にまで及んでいるようです。
「この文学には女性への偏見があるから、読む前に注意しなければならない」という警告*3を求められています。
私たち日本人からすると、信じがたいですね。
著名人等のポリコレへの反発
勿論、言論人や学者などからすればたまったものではありません。
もし自分のしている研究などが人から「PCに当たるので、やめろ、差別主義者!」などといわれたら、学者は職を追われて、二度と研究ができなくなります。
実際、ピンカーなどはPCに違反するということでアメリカ言語学会( Linguistic Society of America = LSA)から除名請願がでてしまっています。
それゆえ2020年7月7日「ハーパーズ」という総合誌公式サイトにおいて「公正と開かれた議論についての書簡」と題された文章が載ります。
この中では現在の言論状況を「検閲的傾向(censoriousness)」があると述べています。
言語学者のノーム・チョムスキーや政治学者のフランシス・フクヤマ、ハリーポッターで有名なJ・K・ローリングらが署名しています。
クライテリオンは、なぜコロナとポリコレとを合わせたか
自粛論のみが流れる異常事態
さて、こういった現況の中、『表現者クライテリオン』は「コロナ疲れの正体 暴走するポリコレ」特集号を発売したのです。
今回の号の目新しさはリベラル側の人間である東浩紀氏や三浦瑠麗氏などが座談会に招かれ、保守である藤井聡氏や浜崎洋介氏などとやりとりしていることでしょう。
彼らは「保守」と「リベラル」という違いはあれども、コロナに於いて、「反自粛論」という点においては似ていました。
*4
その中身は以下のようなものです。
・テレビの放送内容が自粛派のみであり、まともな議論がされていない。*5
・自粛一辺倒ばかりの言論は「ポリティカル・コレクトネス」と同様の状況を呈している。(反自粛的なことをいうと「お前は頭がおかしい!」といって叩かれる。)
コロナにおいて自粛が正しいのか、それとも反自粛が正しいのかは未だに見解がわかれており、私たち素人には何もわかりません。
ただ一年も経ってみると、正直「こんなに騒ぐことだったのかな」という状態になっていることは事実です。
それがわかってきたので、「まん防」とやらをだしても、人々の外出は増加しているのだろうな、と。
私ズンダも、街をあるけば、お店が閉店していたり、休業状態になっているのをみています。
自分が普段から行っていたお店も、そこでやりとりしていた店員さんも、今はいません。
廃墟のようながらんとなった空間がぽつんと一つ残されただけです。
端的にいって寂しい。
ああ、こうやって「共同体」は壊れていくのだと実感しました。
これがヨラム・ハゾニーが『ナショナリズムの美徳』で散々いっていたことなんだと痛感しています。
でも、人によってはあまり感じないかもしれません。というか、東京みたいに山ほどお店があり、何処が閉店したのかわからないような大都会に住んでいる人と、地方都市にいる私のような人間とでは価値がことなるのも当たり前でしょう。
クライテリオンに寄稿する保守はディヴィッド・グッドハートが述べた「エニウェア族」と「サムウェア族」を紹介して、ヨーロッパやアメリカにおける経済格差による人生観や世界観の違いを述べていました。
が、最近私ズンダが思ったのは、日本もそうなんだろうな、と。
東京や大阪などにいる人たちには、私ズンダがいる風景はみえてないんだ。
彼らにはわからないんだ、という寂しい気持ちが心の隙間に吹きすさんでいます。
むろん、ここで自身の場所による特異性を見いだして何かを語れば、この号でとりあげられている「部族主義」(ベンジャミン・クリッツァー「ポリティカル・コレクトネスの何が問題か」)の考え方におちいることは分かっています。
しかし、私は部族主義的な考えがPCに近いとはいえ、自身の居住まいから離れて何かを考えるのは不可能であるともおもうのです。
こんな状態をみると「コロナで死ぬよりも、収入源が途絶えたり、社交が減ったり、自尊心が失われたりして、精神病や自殺などに至る人の方が問題なのでは」と思わずにはいられません。
なぜか、「自粛しろ」という人たちはコレに関しては全く無視を決め込んでおります。
いったいにして私たちの問題はコロナでの生死それのみなのでしょうか。
理由としては
・そもそも安定した地位にいるので店がどんなにつぶれようが自分には関係が無い
・もとから一人が好きで、フリーランスをやっているから社交がない。
実際、コロナが流行って、youtubeやTwitterなどでは「これからは、やはり、フリーランス!組織に属して、会社へ行く時代は終わった!」などという言説をちらほらみました。
まあ、そら、勢いづくでしょうよ。こんな状態になってしまえば。
そういえば、去年、藤井氏は付き合いのあった保守系の人たちから強烈に批判されています。
この座談会、私ズンダも当時読んだのですが、正直、「人間関係のもつれ」としか感じられませんでした。
こんなに中身のない話ってなんなんだろう?と。
居酒屋で上司の愚痴をだらだら述べているサラリーマンって感じで、読む価値はありません。
今読み返して思うのですが、怪文書だなあ・・・・・・、と。
コロナとポリコレと
人間は自分の知らないことや経験していないことに関しては、どの人も赤子と変わらないので、色んな人に別段、失望したりがっかりしたりということは特にありません。
これは私の考えですが、ある論者の思想が好みであっても、その人だけが優秀なわけでもなんでもありません。
その人は「そのことについては優秀」なだけです。
プロ野球選手がプロのピアニストではないように、人に何かを求めたり期待したりするのは、特定のことだけにするのが「常識」ではないでしょうか。
実際、私ズンダが毎月新書を購い、色んな人の本を読むのも、一人の人の本しか読まないのを避けたいからです。
どうしても、その人の本だけしか読まないと、「彼がいってるから、すべて正しいに違いない!」となりがちなのです。
ですから、藤井氏が好きだろうが、中野氏が好きだろうが、正直、どうでもいい。
そのとき読んで、「こんな考えがあるのか」と思い、数年後に「あの人たち、当たってたな。まちがってたな」というぐらい軽い気持ちで見るのでいい。
つまり本を読むときは「この人、こういってるんだな。とりあえず、今の段階だとこれが正しそう」ぐらいでいい。
あとで時間が経って、間違いだとわかれば、「ああ、あれはまちがってたのか」でいい。
これが人間だし、保守主義だし、プラグマティズムなのではないでしょうか。
そして、なぜこの保守雑誌が「ポリコレ批判」をするかといえば、この「実践」が「実践後にキャンセルされる」ような空気感がでてしまい、ついには「実践そのものをすべきではない」という自己検閲にまで至ってしまえば、保守が終わるからでしょう。
「もう絶対にこれが正しいんだ!」となれば、その瞬間から、「ポリコレ」の始まりになってしまう。
表現者クライテリオン五月号は保守として「コロナとポリコレ」とを結びつけて、現在進行中の日本と世界との問題について語った、実に面白い号だといえるでしょう。
備考
ポリティカル・コレクトネスの歴史と今日日的な意味とについては知りたい場合は本号の以下の三つの記事だけよむとよい。
会田弘継 アメリカに吹きすさぶポリコレの嵐
ベンジャミン・クリッツァー ポリティカル・コレクトネスの何が問題か
加藤真人 社会に蔓延る「ポリコレ」
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
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*1:このCM、別に差別でもなんでもなく「いまだに女性が平等になれていない社会とかダサいよ!」ということを言いたいCMなのだが、読解力には各個人の差があり、CMで流すには難しかったのだろう。
*2:ここで例を挙げたことについては、個人の好みだといえる範囲だと個人的には考える。が、反面、差別的だよなあ、とおもわないでもない。身長の高低や胸の大きい小さいで異性を判断している人は多いだろう。この生得的などうしようもない部分について判断されるのは人間ってつらいよな、と思ってはいる。しかし、そういったことで人を判断し、選択しているのも現実である。問題は、何が差別なのか。それを区切るのがあまりにも難しいということなのだろう。
*3:これを「トリガー警告」という。作中の表現が引き金となり差別を感じるので、先に警告するという考え)
*4:※この反自粛論というのは注意がいる。つまり、「自粛なんてしなくていい!」といってるのではない。 その「自粛」が何ら理性的、科学的でもなく、単に「恐いから」という動物的本能に基づいて行われている現状に対して、彼らはキレているのである。
ここには何の学問的な根拠もなく、メディアによる連日連夜の洗脳でしかない。毎日「今日の感染者は○○人です」と宝籤の番号発表のような報道をしているのはたしかに異常だといえる。
また、この状態は言論統制下と何も変わらないのでないかとも彼らは指摘している。
*5:
・自粛派の人間に「保守」や「リベラル」がいたが、どちらも自身の思想から外れた主張をしている。
((保守は「共同体」を大事にするはずだが、コロナで自粛をしてしまえば社交や文化的な行為がなくなり「共同体」は崩れる。
リベラルは「自由」を求めており、政府権力が好き勝手に増大することを避けなければならないはずだった。
それなのに自粛に賛意を示すリベラリストが多かった。*6:※これは前から思っているが、藤井氏は京大教授であり、医者や統計の専門家などから話を聞いたり勉強会を開いたりできるツテコネがある。
が、これに反論した三人にはそれがない。
そのため、コロナについて語るにはあまりにも難しかったと思われる。
いってしまえば、この点に関しては私たち素人と何も変わらない水準なのである。
座談会の内容もニュースで報道されている内容を述べるばかりで、説得力がなかった。
もし違いがあるとすれば、所謂「地頭」ということになるが・・・・・・。それを元に自粛論を展開できるだろうか。
だいたい専門家でないと何も意見がいえないというのなら、もう「MMT」について語るのはやめたらいいんじゃないか、といえなくもない。
別にMMTについてはもっと詳しい人たちが日本にいるわけで、その人たちに任せてもいいはずである。
それなのに、なぜ黙れなかったかといえば、結局、日本国のためになると考えたからではないのか。
MMTerは日本の言論界において何の影響力もない。知名度もない。
しかし、三橋氏や藤井氏や中野氏は言論活動を十年以上続けていて、そこそこ名前が知られていた。
そんな人たちが結集して、宣伝したからこそ、日本でMMTはそこそこ広まった。
こんなことは誰だってわかっているはずである。
無名の人がどんなに正しいことをいっていても、誰も耳などかしてくれない。
それならば、藤井氏が今の日本の経済状況で完全自粛などしたら日本の未来が途絶えると考え、彼が保守としてコロナ論について語るのがそんなにおかしいことなのだろうか?
無論、何らの根拠もない夢想な見解であればきくに値しない。
我々は藤井氏がコロナについて何かを語った際「藤井氏が全て一人で研究して、反自粛論を述べている」と勝手に思い込みがちだが、そうではないのは彼が発表している文を読めば明らかである。
また、藤井氏が頻繁に批判している西浦氏の論文や、あるいはその報道の在り方についてこの三人は何かいうべきではないのか?
常日頃、メディア批判をしていたはずだが、どうしてそのホコはおさまってしまったのだろうか。
むしろ、国の一大事に何か発言することが保守の役割ではないのだろうか。
私はこの辺り、完全に矛盾しているとしかよめない。
なぜ、MMTを語るのは許されて、コロナは語れないのか。
無論、コロナは「命がかかっているから」という反論はありえよう。
しかし、この三十年間の停滞による自殺者や出生率の低下のほうが
よほどに生命を奪っている現実は見逃せまい。
そして、それに拍車をかけているコロナについても無視できるはずがない。
この点、本当に頭がよかったのは三橋貴明氏(彼は自分を保守だとはいっていない。が、この辺りの人と関係がある。)である。
彼はコロナに関して「政府の経済政策や補償」の問題以外は語ろうとしなかった。
むしろ、コロナを使って、反緊縮の思想をどれだけ一般国民に知らせるかということだけに焦点を当て、仕事をしつづけている。まことに賢明な人だと言うほかない。