zunda’sblog ズンダのブログ

zunda’s blog  ズンダのブログ

読書好きな弱者男性の管理人ズンダが古典、小説、批評文、経済、実用書、ガジェット、ゲームを中心に紹介するブログです。ご覧ください。Amazonのアソシエイトとして、当メディアは適格販売により収入を得ています。

【新書 感想】なぜ、あなたはその「政府」を「政府」としてみることができるのか?その理由は「オピニオン」にある

 

 

 私たちはどうして今ある政府を「政府」と捉えているのだろうか?

 

 なぜ、その辺にいるサトウさんやイトウさんは「政府」ではないのだろう。

 

 私たちの頭の中にある漠然とした「国家」や「政府」や「王」や「ナショナリズム」などの考えは何時の時代の誰によってつくられたものなのでしょう。
 
 そして、なぜそれらは力をもって人々を動かしているのでしょうか。

 

 今回紹介する本、堤林剣 堤林恵『「オピニオン」の政治思想史ー国家を問い直す』(岩波新書)はこの問題について有益な視点を与えている本です。

 

 では、見ていくことにしましょう。

  

 

 政治権力を維持するためには「オピニオン」が要る

 オピニオンの由来

 

 まず、「オピニオン」とはどういう意味なのでしょう。

 

 堤林氏は十八世紀スコットランドの思想家デイヴィッド・ヒュームの「統治の第一原理について」から「オピニオン」論を開始しています。

 

 哲学的な目でもって人間的な事象を検討する人びとに何より驚異と映るのは、多数が少数によって支配される時のたやすさ、そして彼らが自らの政権や情念を支配者に委ねてしまうあの盲目的な服従である。はたしてこの不可思議な出来事が何に起因するのかをたどっていけば、力(Force)が存するのは常に支配される側のほうであり、支配する者たちを支えているのはもっぱらオピニオンだということに気がつくだろう。したがって、統治の基礎となるものはオピニオンをおいてほかにない。そしてこの格率は、最も専制的にして最も軍事的な政権にも、最も自由かつ最も民衆に開かれた統治とまったく同じように当てはまるのだ。(太字はズンダ)

 

 さて、ここでヒュームは何を語っているのでしょうか。

 

 世の中には独裁国家とよばれる国があります。
 彼らは少数精鋭で大多数の人間達を支配しています。
 

 私たちはそれを恐ろしく感じることが多いはずです。


 でも良く考えてみると、「なんで、少数のやつらをぶちのめさないの?」っておもいませんか。

 大多数の人間たちは決起し、反乱を起こせば少数の人たちを打ち倒すのはそんなに難しくないはずです。
 
 これはいったいどうしてなのだろうか?

 

 ヒュームはそれを「オピニオン」の力だというのです。

 

 この意見は、ヒュームよりも七十年前にウィリアム・テンプル(十七世紀のイングランドの著述家、外交官)も「統治の起源と本性に関する一試論」(1680年刊行)同様のことをいっています。


 ヒュームはテンプルに依拠しているわけです。

((※ちなみに、『自発的隷従論』のなかでも、なぜ少数によって大多数が支配されるのか?について述べられている。彼はそれを「慣習の賜」という。

))

 

 彼らはオピニオンを「習慣的ゆえに皆が支持するもの」と述べています。

 そのオピニオンに従うことで、人々は少数派にも従うのだと。

 

 私たちがある政治権力に対して、何ら反乱や疑念を抱かないのは、このオピニオンが浸透しきっており、それに対して疑いをもたないからなのです。

 

 たとえば、明日から中国共産党が日本政府の代わりを務めます、という発表があったら、誰でも「え!?」となりませんか。

 

 これは今の所、中国共産党が日本政府の代替であるというオピニオンが形成されていないからなのです。

 

 オピニオンと正当性理論との差異

 

 さて、オピニオンは正当性理論(theory of legitimary)と比較されることが多いのであります。

 正当性理論とは「どうして、その政治的権威に人々はおとなしく従っているのか」という理由や根拠や限界などに合理的な説明を与えようとする理論のことです。

 

 本書の定義によれば、この二つは次のような違いがあります。

 引用します。

 

 正当性理論とは、支配服従関係を支えるオピニオンを調達するための合理的言説である。そしてオピニオンが常にボトムアップにしか作用しないのに対し、正当性理論はトップダウンの構図を有することも、ボトムアップの構図を有することもある。たとえば王権神授説はトップダウンで、人民主権論はボトムアップということになる。

 

 

 どのような正当性理論や統治形態が実際上オピニオンに支持されるかは、論理や真理によって旋転手金い決まるものではない。それは文脈に依存しており、文脈は歴史の産物である。またオピニオン論の教えるところによれば、理由や根拠や内容が何であれ、ある政権が大勢の人間によって共有されればそのオピニオンは力を帯び、現実に影響を及ぼす。(太字はズンダ)

 

 

 つまり、オピニオンとは「正しいか正しくないかではなく、その時代において、力をもってしまった意見」のことをいっているのです。

 そして、このオピニオンによって政治は動く、と。

 

 では、その代表例として第二章「死なない王」という「オピニオン」をみていくことにしましょう。

 

 何故、王様は王たりえるのかー王権神授説ー

 

 王権神授説という言葉はきいたことがありますね。

 王の権力は神によって与えられたとすることで、一人の人間に神様の威信をつけて、権威性を増そうという論です。

 

 これもオピニオンの一つの例です。

 当時、ヨーロッパの多くはクリスチャンだったので容易に受け止められやすかったわけですね。

 

 というのも新約聖書には次のような言葉があります。引用します。

 

 

 「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです」(十三・一)。

 「従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります」(十三・二)。

 「権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者〔神の代理人〕なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです」(十三・四)

 

 

 という権力者にとっては都合のいい言葉が並んでおり、王権を強化や保持させるためにたびたびこれらの節は引用されたといわれています。

 

 一方で新約聖書の「使徒言行録」は「人に従うより、神に従うべきです」(五・二十九)と神と人とを截然と分けて語っている部分もあり、権力への反抗理由として使われていました。

 

 これで王は神の力を与えられている言説が広まります。

 

 法的言説による「不死の王」の誕生ーローマ法ー
 

 

 王権神授説によって王が民を統治する理由付けは完了しました。

 しかし、これだけでは足りません。

 

 当たり前ですが、王様は人間なのでいつかは死にます。

 

 死んだときに誰かに王権を継いでもらわなければなりません。

 

 そこで考えられたのが「不死の王」です。

 堤林氏の説明を引きます。

 

 結論から述べると、王は法的フィクションになる必要がある。第一章冒頭でフィクションは人間の作為の産物であると述べた。法的フィクションとしての「死なない王」とは、王座につき、年を取り、病に罹り、怪我を負い、いずれ死に、また次に王座につく歴代の王たちみなを粘土のように合わせて練り上げられた概念としての王である。彼らは決して重複することも空白をつくることもなく、王位を占め続けるーあたかも一人の王がずっとそこにいるかのように。

 

 

 要するに一人の王は死ぬけれども、その後の王にも「王たる権威」を継いでもらう必要がありました。

 

「なぜ別の人が王としてふるまえるの?」という突っ込みが来るからです。

 

 皆さんが王様がいる世界に生きていて、その王が死んだとします。

 

 そのとき、自分の知り合いがいきなり王様に抜擢されたら、違和感がありませんか?

 なかなか受け入れがたいはずです。

 

 「不死の王」とはその違和感をなくすためにあります。

 

 ローマ法が「不死の王」の起源

 

 十一世紀末にローマ法が発見されます。
 ローマ時代にユスティニアヌス帝が編集させた法典です。
 
 これがボローニャに集う学者達によって研究され、既存の法に利用されていきます。

 宗教的言説によって教皇などは自身の価値を担保していましたが、世俗の力関係というのも意識せざるを得ませんでした。
 
 その際、法学者達の力を借りて、自分たちの力を法的に強化する必要があったのです。

 それゆえ、ローマ法の発見は彼らにとってもありがたいものでした。

 

 では、どういった内容の法律が権力側の役に立ったのでしょうか。

 

 権力とローマ法ー後世に与えた三つの法ー

 このローマ法が中世において王権を強化するために利用されます。

 

王法理論
②十全なる権力(plenitudo potestati))絶対権力(potestas absoluta)
③団体(universitas)

 

 

 

この三つの考えがローマ法から導き出されました。

 

①からみましょう。
王法理論(lex regia)」です。
 
 

「君主の欲するところのものは法の効力を持つ」
「君主は法の拘束を受けない」

 

 これは王だけでなく教皇も「教会の君主」や「真の皇帝」を名乗って王法理論を利用していました。

 

 ②の「十全なる権力」「絶対権力」王法理論とは逆に、教皇のための概念が皇帝や王に用いられるようになったものです。

 

 ローマ法を下敷きに教皇の首位性や統治権を表しており、後者は非常事態において人定法のみならず自然法や神法をも超えて法を制定しうる権力を教皇に帰すため、教会法学者によってつくり上げられた

 

 といわれています。

 こうした考えは皇帝や王にとっても自身の権力を増大させるのにつかえるものだったので積極的にとりいれられていきます。

 

 ③の「団体」はローマ法では「多くの人々の集合体」という今の私たちの語感と同じようなものでしたが、教会法学者によって「擬制的人格」(persona ficta)という法的フィクションを与えられ、組織の永続性を意味するようになります。

 

 堤林氏は現代で言うところの「法人」といっております。
 たしかに「法人」で受け取ればわかりやすいですね。

 


 「団体」理論は、教会全体はもちろん聖堂参事会や修道会、公会議、教区にも、また世俗領域では大学や職業組合などの小さな集団から都市国家神聖ローマ帝国そのものに至るまで、ありとあらゆる組織に援用された。(中略)団体が時を超越したことはその適用範囲に新たな地平を招いた。その職位に就く歴代の人物の繋がりを過去から未来まで見通すことで、本来集合体ではないはずの教皇や皇帝、そして国王をも団体として捉えることが可能になったのだ。「団体は死なない」(universitas non moritur)。ゆえに王国も死なない。

 

 というわけで、この「団体」が王にまで適用範囲が広がったことで「王は死なない」まであと一歩になりました。

 

 死ぬ王と死なない王-王の二つの身体-

 

 さて、歴史家のエルンスト・カントヴィッチは「前任者の人格と継承者の人格とを同一視する法的フィクションとしての「威厳」(dignitas)、およびそこから導かれる原理「威厳は死なない」(dignitas non moritur) を述べています。

 

 この「威厳は死なない」もまた教会法学者がつくり、教皇を務めた人間が死んでも教皇の「威厳は死なない」という意味で使われる概念でした。

 

 この論理が教皇から皇帝、国王へと移されて「死なない王」の言説が完成します。

 

 ここまでみてくればわかりますが、教皇も皇帝も国王も、みんな自分の権威性を強めるためにありとあらゆる論理を活用しています。

 

 自分たちが上に立ち続けるためです。

 

 

 チューダー朝イングランドでは「王の二つの身体」という論理がとなえられます。

 

 王には二つの身体があります。

 

自然的身体(body natural)

政治的身体(body politic)

 

 

 前者は私たち普通の人間と同じくいつかは死ぬ存在です。
 後者は王朝や王位や王冠といった権力機構、つまり「死なない王」のことを指します。

 

 こうしたフィクションを保つために象徴的行為が行われているわけです。

 

 その例として、戴冠式があります。

 

 戴冠式は大聖堂で教皇あるいは高位聖職者から王の頭に冠がおかれ、塗油されます。

 こうすることで、王が神の代理人であることを象徴しているわけです。

 

 これをカントロヴィッチは「政治的身体」と名付けました。

 

 このような言説を通して、「死なない王」という概念はオピニオンを得て、中世の王権は続いていったのです。

 

 終わりに

 

 この本の面白さは国家にかぎらず、世の中にはありとあらゆるフィクションがあるといい、そのフィクションは正統な根拠や理屈があるから支持されているのではなく、当時の力関係や偶然といった環境のおかげで成り立っているというカラクリを明らかにしていくところでしょう。
 
 本書でも言及されているカール・シュミットは、パリ不戦条約の欺瞞を曝き、国家の暴力的な本質を白日の下に晒しました。

 

 堤林氏のこの本もそれをやっているのですが、結論は異なっています。

 

 私たちの幸福について考えたときにその実態をバラすことは本当にいいことなのだろうか?と結尾において述べておられます。

 

 本音や剥き出しの現実の暴露というものは、いつでももてはやされる。建前や善意に寄りかからない論理は強靱に見えるし、苦労して押さえてきた欲望を肯定してくれれば気が楽になる。(中略)いわばそれは手品の種明かしのようなものなのだ。カーテンの内側を知る者は、手品師本人か、特権を与えられたごく一部の人間か、その裏を見破る第一級の知性の持ち主だけである。

 

 

 つまり、賢い人々はこの世界のウソに気づいており、それを告発し、人々に真実を伝えてしまう。それは真実を知りたい多くの人にとって痛快である、と。

 

 デモクラシーの生気においてなお人間の関係を友と敵、さらには捕食者と獲物として捉え、平等な原則として扱う努力を放棄するのであれば、デモクラシーはデモクラシーであることをやめるだろう。

 

 デモクラシーは欠点があります。しかしその欠点だけをみて、デモクラシーを潰したところで、私たちには何が待っているのでしょうか?

 

 堤林氏は次のように続けます。

 

 ならばわれわれ―人間の生を尊ぶ国と時代に生まれてその恩恵に与ってきたわれわれ―決してこのカーテンを開けるわけにはいかないのだ。そう決意するならば、普遍的人権が真理であるか幻想であるか関係ない。カーテンの裏を覗かなければそれは舞台上の真実であり続ける。なぜならば現時点ならば、われわれはフィクションにも現実を動かす力を与えるもの、すなわち権力の源泉たるオピニオンを握っているからだ。


 
 私たちの世界には欺瞞が沢山あります。
 沢山ありますが、それを知らないふりして受け入れることによってもたらされる利便も沢山あるのです。
 
 もし、真実を曝いて、世界が崩壊するとしたら、あなたは真実を求めるでしょうか?

 

 この本は政治に於ける擬制のつくられ方と、それを支持させるオピニオンを点検し、結果として、フィクションであっても、それによる幸福や満足が得られるのであれば、価値があるという結論に至ります。

 

 同時にAIや遺伝子治療などにより、人間が今の人間の姿でなくなったときに「政治」は「オピニオン」の必要性を失い、暗澹たる未来が待っているという第六章も私たちにとってかかせないでしょう。*1

 

 文体は少し文学の香りが馥郁としており、抽象度の高い話であっても読みやすくなっています。

 

 「どうして私たちはその政府に信任をあたえているのだろうか?」という疑問を持っている方には、ぜひおすすめの本です!

 

 では、またお会いしましょう。ズンダでした。

 ↓ちなみに本書の記述に誤りがあったので、訂正されている箇所があることに注意。

https://www.iwanami.co.jp/files/moreinfo/4318760/errata.pdf


f:id:zunnda:20210502153909j:plain

*1:これは中野剛志『富国と強兵』でもかかれている。つまり、国民が国民として政府に要求するだけの価値がない存在になってしまったとき、誰が政府に是正を求めることができるのだろうか?