中公新書から『ジョン・ロールズ 社会正義の探求者』という本が刊行されました。
ロールズといえばリベラルについて語る際、必ず言及される政治哲学者です。
政治哲学とはあるべき社会を考察することです。
リベラリズムを標榜する人々はロールズの『正義論』を基に社会の方向を進めていこうと考えています。
それゆえ、必ずロールズの名前が出てくるわけですね。
彼の本で有名なのは『正義論』と『政治的リベラリズム」という本の二冊です。
ロールズの『正義論』は理想的、『政治的リベラリズム』は現実的といわれ、後者を「理想から後退した」と批評する声が以前からあります。
ロールズはなぜ『政治的リベラリズム』をかかなければならなかったのか。
彼を変えたものは何か。
今回は前者から後者へ至るまでの流れを紹介します。
正義論で語られたこと-政治的リベラリズムとの関係するもの-
原初状態、無知のヴェール、コミットメントの負荷、マキシミン・ルール
政治的リベラリズムとは、簡単にいえば、現在のような価値観の多元化した社会に於いて求められるリベラリズムの構想であり、論争的な価値観に依拠しない仕方での社会制度の正当化を目指すものだ。ロールズ自身も認めているように、これは『正義論』からの重要な変更をともなうものだった。
と本書でかかれているように、ロールズは『正義論』と『政治的リベラリズムは』は違うと認めているわけです。
ロールズは『正義論』において誰でも基本的な自由を求めるという前提をおいて考えていました。
これを「公正としての正義」といい、この公正さを確保するために用いられるのが「無知のヴェール」です。
原初状態の当事者は、このヴェールによって、自他を区別するいっさいの情報(たとえば才能・体力・人種・ジェンダー・冨など)から遮られる。たとえば、かりに自分が富裕層に属するという情報が与えられたなら、再分配を斥ける、ないしはそれを最小化するような正義の構想を選択することが合理的な推論になるだろう。自分にとって有利となる正義の構想を選択するためのこの種の情報が伏せられているがゆえに、各当事者は同一の合理的な推論にもとづいて正義の構想を比較検討することになる。自己を優先するバイアスがはたらなかないのであるから、この合理的な推論は同時に普遍的な推論である。
要約すると、金持ちは自分の財産を他の人に分配したいとは思わない。自分のお金を人に与える合理的な理由がないからだ、ということです。
すると、彼らの目は曇ります。自分のお金をどうして貧乏人どもにやらなければいけないのだろう、と。
しかし、これは自身の立場に基づく「正義」の書き換えになってしまいます。
たとえば、病院へ急ぎいかなければならない。しかし病院前の横断歩道が赤信号でなかなかいけない。
むりやり渡ってしまおう!
これは明らかに「自分の都合が悪いから、社会のルールを破っている」わけですね。
このように人は自身の立場や環境によって「正義」をねじ曲げてしまいます。
ですが、これだと「純粋な正義」の概念が消えてしまう。
「正義」とは何か?が考えられない。
ゆえに「無知のヴェール」という前提条件をもってきて、人々皆が「正義」と捉えるもの、を規定したわけです。
同時に現実的な側面として「コミットメントの負荷」というものが想定されます。
これは、市民を代表する立場にある当事者は、自分たちが遵守できない、あるいはかりに遵守できるとしてもきわめて大きな負荷がかかりそうな合意を取り決めようとはしない、という想定である。たとえば、全体の利益のために利他的な自己犠牲の継続を要求するような正義の構想は、明らかに負荷が過大である。
いくら「正義」と叫んでみても、現実的に不可能なことはあります。
今できる可能性があるものと全くないものとをわけなければならない。
そのためには「コミットメントの負荷」を頭の片隅において、「正義」を考察しよう、というわけです。
実際、ロールズのいっていることは正しく思えます。
私たちはどこまで自己犠牲が可能なのでしょうか。
人のために何かをしてあげたい!といっても限度があります。
このためロールズは次のように結論づけました。