人生を顧みて、時々思うことだが、私の人生は、はたして世間様のお役に立ったのだろうか。
養老孟司の思想がつめこまれた本
昔から有名だが、今もよんでほしい
養老孟司による随筆です。
堀江氏と対談したことで、若い人たちにも名前がしられたかもしれません。
何がかかれているのか?
特に難解な箇所もなく、心筋梗塞で手術をし、コロナ禍でひっそりと暮らす養老氏の思索の日々が書かれた本です。
当然、コロナ、専門家、安楽死、AI問題、五輪、自身の病気や死んでしまった猫のこともかいてあります。
そのどれを語っていても養老氏の人間観が滲み出ており、氏の経験を以てしてこれらの話柄が数珠繋ぎの如く一つの円をなしております。
何について話していても、根底にあるものは変わらない。秋の葉色がそれぞれの栄養状態や日の辺り具合や樹病によって千差万別あるにもかかわらず、それらを見ているだけで自然に一つしかない木の根元が訐かれていく。
そんな読書を味わわせてくれるのが養老氏の随筆が特徴です。
クリスマスに興味などない
私ズンダがこの本を読んだのは先月のクリスマス辺りのこと。
2021年の閑散としたクリスマスと違い、今年は人手が多く、電飾やクリスマスソングが矢鱈に流れておりました。
私は独り身ですし、特にクリスマスを祝おうという疑似宗教精神もありません。
それなのに人々がニコニコして歩いている。
むろん、これは若い人だけでありまして、多くの中高年には関係がない。
関係がない分、人がはしゃいでいるのをみるのがつまらない。
共感できないからですね。
私たちは人が夢中になっているものを理解できません。
自分にとってはどうでもいからです。その辺の塵芥と変わらない。
電車好きの人々が休日に電車旅行したり、NゲージやHOゲージを購入したりしていても、何が楽しいんだろう?とおもいませんか。
歳をとると、クリスマスはそういった行事の一つになります。
何かを与える側にだんだん人生はなっていく
子供の頃であれば父母から何かをもらう。
青年期になれば彼氏彼女から何かをもらう。
しかし、中高年になると、そんなものはありません。
誰かから何かを貰うことはなく、自分が相手に何かを与える側になってしまうのです。
このことを若い人は知っておく必要があります。
人は歳をとると、誰かから求められることがなくなるのです。
それを防ぐ方法は一つしかない。
与える側に回る。
それ以外で一本の葦が生き抜く方法はありません。
人との衝突が人生のつらさでもありおもしろさでもある
閑話休題。
いや、閑話休題というほどのこともでありません。
養老氏の『ヒトの壁』はその題名があらわすように【私たちの人生に於けるヒトがぶつかる様々な壁】をあらわしているのです。
クリスマスという華やかで暖かな行事ですらも、自身が老いれば人熱れで草臥れるだけの虚器にしかすぎません。
自身の状態によって、どれもこれもが変動し続けるのです。
ズンダは人付き合いが苦手だし、面白いと思わない。
私は諸々の制限が解かれた後、人々が街中に広がる様を喜んでみていました。
多くの人々の動きを久々にみられたからです。
けれども、クリスマスという独り身にとっては何ら刺激のない時機にくれば、その人々は私とは何ら縁のない存在にしかすぎません。
もとより自分は一人でいてもあまり感じることのない人間なのです。
というか、単純に疲れる。
私ズンダがこの本の中でもっとも感心したのは以下のところです。
人を相手にすると疲れる 自分が日常を生きて行くときに排すべきなのは何かといえば、「本日のコロナによる死亡者何名」という神様目線だと考えている。神様目線が生存に有効になるような社会を構築すべきではない。
コロナが終わった後に国民の中に対人の仕事をするより対物の仕事をする傾向が育てばと願う。具体的には職人や一次産業従事者、あるいはいわゆる田舎暮らしである。そういうことが十分に可能であれば国=社会の将来は明るいと思う。 対人のグローバリズムに問題は多いが、対物のグローバリズムに問題は少ない。自然科学は対物グローバリズムといってもいいであろう。物理法則は言語や文化の違いで変化しない。対人より対物で生きる方が幸せだと感じる人は多いと思う。
登校拒否児が増えていると聞くが、学校教育自体が対人に偏っているからではないかと危惧する。いじめ問題の根源はそれであろう。 子どもたちの理想の職業がユーチューバーだというのは、対人偏向を示していないか。なにか他人が気に入るものを提供しようとする、対人の最たるものであろう。人が人のことにだけ集中する。これはほとんど社会の自家中毒というべきではないか。 人ばかりを相手にしていると、私なんぞは疲れてくる。だから猫のまるなのである。
(赤字はズンダ)
これなど思わず膝をうちました。
私たちはSNSのせいで、過剰に人間とやりとりしすぎなのです。
そんなに人とやりとりすることなどない。
それがSNS以前の人間関係でした。
リベラリズムの思想についていけない理由。現実感がない。
私もyoutubeをやっていてなんですが、対人は疲れます。
そもそもヒトは本や洋服と異なり、自由気ままに動く。
それに自分を合わせなければならない。しかし、常に合わせることなどできないから、決まり事をつくって統制する。
前回の記事でジョン・ロールズについての本を紹介しました。
私がリベラリズムをあまり好きでないのは「自由はすばらしい!」という前提についていけないからなのです。
そういうヒトはどこぞの貴族なのかとおもってしまう。あるいは石油王の子供なのか。
実際、対人をやっていると「気随気儘にやられたら、腹しかたたない」です。
トマ・ピケティはリベラルな人々のことをバラモン左翼とよびました。
彼らは一般庶民の苦境など眼中になく、自身の理想、というか空想に酔ったまま社会変革を行おうとしている、そんな批判です。
リベラルな人はふつうに働いてみた方がいい
もし、この庶民の感覚あるいは対人のめんどくささがわからないのであれば、その辺りのコンビニやスーパーで働いてみるといい。
たぶん、リベラルに足りないのは対人です。
そして私ズンダは対人が苦手なので対物にいっているのでしょう。
一方で人間関係は大事です。でもまあ、どれもバランスですねとしかいえない。
とにもかくにも老境にいった養老氏の見解は今の自分と合致するところが多いにあり、大変楽しめたのでした。
「なんだか、つかれたなー。マスコミの論調にも世間の風潮にも。ひとりぼっちでモノを考えている人の考えをしりたいなー」という人に、養老孟司『ヒトの壁』はおすすめできます。
↓養老氏の本です。どれでもまあ、面白いです。納得できるというか、当たり前の考えに触れられます。そういうもんだよな~って思える本たちです。