「炎上」という語が「ネット炎上」を意味するものとして使われるようになったのは二〇〇五年ごろからのことだ。特定の話題をめぐってネット上に投稿が殺到し、収拾がつかない状態になってしまうことを意味するものだが、当初はとくに「ブログ炎上」を、それも匿名掲示板のユーザーなどから仕掛けられたものを指すことが多く、この現象自体がまだ局所的なものだった。しかし二〇一〇年代になると、SNSの普及とともにその裾野が大きく広がり、より一般的な現象となっていく。(赤字太字はズンダ)
SNS上での炎上は毎日、何処かで必ず起こっています。
今まで数多くの炎上事件がありました。
それらをふりかえりながら、社会学用語を多用し、自体を解明していこうとします。
つまり本書の意図は、炎上という現象の構造を分析することではなく(そのための研究にはすでに優れたものがさまざまにある)、そうした現象をかくも 夥しく呼び起こしてしまう今日の社会、すなわち炎上社会の成り立ちを分析することにある。言いかえればこの現象のメカニズムを解き明かすことではなく、その社会的な意味と文脈を明らかにすることだ。そのためそこに意味を与えている要素、とくに感情、欲望、イデオロギーなどの様態に着目するとともに、その文脈を成している要素、政治や経済などの動向にも目を向けていく。
目次をみてみましょう。
第1章 自粛警察と新自由主義
第2章 SNSの倫理と新自由主義の精神
第3章 ハッシュタグアクティヴィズムの光と影
第4章 差別と反差別と反・反差別
第5章 誹謗中傷と共感市場主義
第6章 キャンセルカルチャーの論理と背理
要約すると以下のことがかかれています。
- 第一章ではバイトテロやコロナ禍における自粛警察
- 第二章ではSNSにおける炎上の背後には新自由主義を内面化したことによる道徳主義
- 第三章ではTwitterで行われているハッシュタグによる政治運動
- 第四章ではナイキが指摘した日本に存在する人種差別を日本の右翼とリベラルはどう扱ったか
- 第五章では戦後の「同情」と「共感」の変遷
- 第六章では「リベラルはどうして多様性を認めないのか」
本記事では第一章と第二章をみていきます。
日本人はなぜ他人に厳しくなったのか?ー新自由主義がもたらした道徳主義ー
小泉首相による構造改革とネットの普及
筆者は小泉純一郎による構造改革が人々に与えた影響が大きいといいます。
二〇〇〇年代前半の日本では、規制改革、行政改革、経済制度改革、さらに司法制度改革など、新自由主義的な諸改革が急速に進められていった。
一方でインターネットが普及し、情報化とグローバル化の大波が押し寄せてくるなか、それらの動きが相乗し、変革の波が社会の隅々にまで及んでいく。その過程でわれわれの日常は、それまであまり馴染みのなかった多くの語彙に取り巻かれることになった。リスク、セキュリティ、自己責任、ガバナンス、コンプライアンス、市民裁判、内部告発、厳罰化、などなどだ。
これらの語彙はいずれも、市場主義のもとでの自由競争についての、つまり各人が自由な市場の大海に出て、制裁を受けないようにしながら競争を繰り広げていくための振る舞い方についての、指針や規則を記したものだったと言えるだろう。
当初、それらはとくに企業の活動と、それを律する立場の法曹の活動に向けられたものだった。しかしその後、一般の市民生活の中でも流通するようになり、やがてわれわれ一人一人の振る舞い方を規定するものとなっていく。 その過程でわれわれの思考法は、そうした指針や規則を内面化し、いわば新自由主義的な流儀にのっとったものへと変容していったのではないだろうか。
要するに弱肉強食の自由社会へと日本が変えられて行くにつれて、そこに住む私たちも人間関係の諸作法が「新自由主義」なものへと変化していったというのです。
その結果、次のような思想に染まってしまったといえるでしょう。
人間は自由だが、義務がつきものだ。自由を守るためには責任が伴う。その責任を放下した人には厳しい罰則を与えてやる必要がある。
リスク、セキュリティ、自己責任、ガバナンス、コンプライアンス、市民裁判、内部告発、厳罰化を企業だけではなく個々人も負わなければいけない。
つまり、企業に求められていた規則が個人にまでも及んだわけです。
その結果、私たちは他者への思いやりよりも、厳しさを優先するようになってしまった。
誰かがこの道徳から外れたら、徹底的に打擲してやらねばならない。
そんな思想に気触れてしまったというのです。
人は「何を」問題にするのか?ー社会の「問題」を作成すること構築主義ー
私たちは社会であることが行われると、それに対して怒り、相手をたたき始めます。
たとえば、芸能人の浮気です。
しかし、これらの話は問題にするようなことでしょうか。
いったい人の浮気だとかシェフの発言だとかは私たちの人生にとって、そんなに大事なのでしょうか。
社会学者たちは人々のこうした行動について次のように述べています。
社会学者のE・デュルケムはかつて次のように論じたことがある。「われわれは、ある行為が犯罪であるからそれを非難するのではなく、それは、われわれがそれを非難するから犯罪なのである」。
つまり犯罪が犯罪であるのは、その行為そのものに内在する性質のためではなく、むしろ人々がそれを非難するからだという。その結果、それが犯罪として扱われるようになり、さらに犯罪となる。
また、関連して社会学者のH・ベッカーは次のように論じている。「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだす」。
つまり逸脱行為が逸脱行為であるゆえんも、それを取り締まろうとする統制側の人々が、特定の人々を逸脱者として「ラベリング」するからだという。
さらにJ・キツセとM・スペクターはこれらの議論を社会問題の領域に適用し、次のように論じた。社会問題とは、ある「状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」から生み出されるものだ。
つまり社会問題が社会問題であるゆえんも、そこに客観的に問題が存在するためではなく、それが問題だとして人々が「クレーム申し立て」を行うからだという。
これらの議論は「構築主義」と呼ばれる立場に連なるものだ。犯罪、逸脱行為、社会問題などが必ずしも客観的に存在するものではなく、むしろ社会の側からの圧力を通じて「構築」されていくものだと考える立場だ。(大文字、赤字はズンダ)
要するに「問題」は「問題」として騒ぐ人々がいるからこそ「問題」になる、ということです。
このツナマヨ問題も、ネット上やメンタリストDaiGo氏のようなインフルエンサーが取り上げなければ、特に問題になることもなく通過しているはずです。
別に誰かを傷つけたり殺したりしているわけではない。
テレビ番組に出演したシェフが一言、苦言を呈しただけです。
ですが、これがSNSの時代なのです。
「投稿者」・「告発者」・「叱責者」という三つのトライアングル
有名人がある問題をとりあげ、それについての動画や意見を提出すれば、それだけで人々が動いてしまう。
著者の伊藤昌亮氏によれば、炎上には「投稿者」・「告発者」・「叱責者」の三つのアクター(出演者)がいるといいます。
今回の炎上でいうと、次のようになります。
投稿者=ジョブチェーンという番組
告発者=メンタリストDaiGo氏や視聴者
叱責者=告発者によって事の問題を知り、怒った人々
これらのアクターによって、問題が構築されたといえるでしょう。
でも、どうして彼らは自身と関係のない問題に口を突っ込むのでしょうか。
自己顕示欲のためにパフォーマンスを行う人間の性
社会学者のE・ゴフマンはかつて、人々が日常生活の中で行う自己呈示を舞台の上での演技になぞらえ、「パフォーマンス」として捉えた。
つまり人々は、「パフォーマー」として「オーディエンス」の前で各自の役割に応じて振る舞い、それぞれの場面に即した自己イメージを呈示し続けることで、自己のアイデンティティを構築し、維持していくという。
そうした捉え方からすれば、自らの経験をアピールするために若者たちが繰り広げた実演もまた、自己呈示のためのパフォーマンスだったと見ることができるだろう。(赤字青字太字はズンダ)
ここでは社会学者ゴフマンの「パフォーマンス論」が引かれております。
ゴフマンによれば、人々は自信の役割に沿った態度でふるまうことで自己のアイデンティティの確立をはかり、生きていくとのこと。
現代はこの「パフォーマンス」が更に拡張された時代であると筆者は述べておられます。
パフォーマーはそこで自己イメージを呈示し続けるが、オーディエンスはそれを受け取るだけではなく、「いいね」やリツイートなどのリアクションを通じてそれに評価を与える。そうした評価は明確に数値化されるため、パフォーマーはさらに多くの評価を獲得しようと、自己呈示の仕方を工夫していく。
一方でオーディエンスも単に受動的に反応しているわけではない。何をどう評価したのか、どこにどんなコメントを付けたのかなど、その評価の仕方そのものが他のオーディエンスから評価される行為となる。つまりオーディエンスもまたリアクションを通じて自己イメージを呈示することになり、パフォーマーとなる。
その際、自己呈示の市場としてのSNS空間がやはり大きな役割を果たした。人々はそこで、自らが新しい動きにいかにコミットしているかをパフォーマーとしてオーディエンスに示し、さらにオーディエンスとしてパフォーマーに反応することで他のオーディエンスに示し、そうした相互行為を繰り返しながらそれぞれの「意識の高さ」を、ひいては新しい時代への「市場適合度」を定め合っていく。
そうしたなかに投じられたさまざまな事例は、人々が自らの立場をアピールするための絶好の機会となった。
このゴフマンの理論と
先ほどの状態を再び見てみましょう。
つまり、投稿者、告発者、叱責者は互い互いが自己顕示欲のために「パフォーマンス」をしあう関係性にあるのです。
投稿することで自分を知れ渡らせる
告発することで自分を知れ渡らせる
叱責することで自分を知れ渡らせる
どのアクターにも内在しているのは
「自分はこういう役割なんだよ!みんな、自分をみて~~~~!」
という自己アピールと説明できるのです。
悪事も、その悪事を告発する人も、叱責する人も、煎じ詰めれば自分のためにしかすぎない。
「正義」のために何かをしているつもりでも、それは自分のためだったのです。
さて、ここから「新自由主義」に話は戻ります。
とりわけ二〇〇〇年代前半には小泉純一郎政権のもとで、さまざまな領域にわたる「構造改革」が急速に進められていった。その眼目は、市場原理のもとでの自由競争を促すために「小さな政府」を目指す、というものだったが、その際の基本理念の一つとなっていたのは、「事前規制から事後監視へ」という考え方だった。
つまり事前に規制することで人々の活動をあらかじめ調整するのではなく、そうした規制はできるだけ少なくし、自由な競争ができるようにしながら、一方でルール違反が起きた場合に備えて事後の監視を厳しくし、適切な制裁ができるようにする、という考え方だ。 端的に言えば、そこで目指されていたのは、競争をしやすくするとともに制裁をしやすくするための環境作りだった。
こうして二〇〇〇年代を通じて急速に進められていった新自由主義的な諸改革と、それに伴う人々の意識改革、意識変容の成果の上に、一〇年代になって形作られていったのがSNS空間という新たな場だった。そのためそこでの人々の振る舞い方の規範、いわばSNSの倫理は、その下部構造での人々の振る舞い方の規律、いわば新自由主義の精神の影響を強く受けることになったのではないだろうか。
私たちは新自由主義の論理により、他人へ厳しくすることを覚えてしまった。社会の規範はいつしか私たちの内面に這い寄り、リストラや削減等が人間関係にまで及ぶようになった。
そこにSNSが平行してそだっていき、ゴフマンの「パフォーマンス論」のネットでの拡張が行われ、ついには人を罰することに拍車がかかるようになっていった。
それが私たちの社会で「炎上」が続く理由なのです。
終わりに
炎上が主題になっていますが、現状、ネット界ではリベラルが旺盛な活動をしており、それに反発する人々(一般層や右翼)と闘いあっている様が見受けられます。
本記事でも紹介したようにリベラルは構築主義による社会手への問題提起をし、カール・ポパーの述べる「寛容のパラドクス」(「寛容な社会」を作り出すために「寛容でない人間を閉め出す」というパラドクスのこと)という思想があるからです。
つまり
「なんで、リベラルは多様性を認めないんだ!」
と我々は往々にして思うのですが、リベラル陣営からすると
「リベラルは多様性を認める。しかし、それは万事を認めるのではない。多様性を汚したり、正義から背いたものは認めない。それは排除する」
ということなのです。
それゆえ、現在のネット上の問題にはリベラリストが絡んでいることが多いわけです。
彼らは常に社会的な問題提起をしつづけなければ世の中がよくなることはない、という考えだからですね。
しかし、一方で学生運動が下火になっていった70年代を思わないでもいられません。
ネットにおける「ツイフェミ」(=Twitter上でフェミニストとして活動する人々のこと。)の度重なる問題提起により、フェミニストたちは若い男性たちから嫌われはじめています。
結局、活動が激化すればするほど、ノンポリな人々からは
「気持ちが悪い。やりすぎ。」というふうに捉えられて、引かれていき、関心を失われるのです。
↓今もまた、こんな問題が起こっている。
リベラルは問題を起こすために存在している
リベラルの原理として人々から嫌われるのはしょうがないのかもしれません。
誰もが日常を普通に送っているだけであり、顕在化していない社会の問題に一喜一憂などできないからです。
その潜在を明らかにするのがリベラルなので、どうしても反感を買いやすいわけです。
『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』は、今現在、ネット上での「炎上」に興味のある方にはおすすめできる本です。
この本をよむと、「ああ、こういう事件あったなあ」と懐かしむ気持ちにつつまれます。
それを筆者が社会学の理論を使って説明づけしていくので理解が深まります。
社会学用語で世界を説明できるのか?
ただし、社会学によってそういったことが何処までいいきれるのかは不明です。
社会学用語を使うと、どんな人間の行動も説明できてしまうかのように感じますが、実際は検証されておらず、本当に日本における炎上問題を解明できるほどの力があるかは誰にもわかりません。
これにかぎらず「新自由主義」で何処まで世界を焙りだせるかも不明ではあります。
リベラルの思想はレッテル貼りしても問題ない
正直言えば、第三章以降の方が納得しながら読める本です。
というのも、三章以降はリベラルが中心になっており、彼らは理念通りに動くので「リベラルってこういうことするんだよな」というレッテル貼りが非常に有効なのです。
つまり、レッテル通りに動いてくれる人たちを活写するのは容易なのです。
たとえば私も引用したことがある社会学者のギデンズという人物がいますが、彼の理論を利用したところで、それが実社会に合っているかどうかは相当疑わしい。
上の『モダニティと自己アイデンティティ ─後期近代における自己と社会』(ちくま書房)の解説部分を読んでください。
ここでは解説者がアメリカやヨーロッパにおけるギデンズの受容と欠点を記しており、社会学用語による社会を闡明に腑分けすることの困難がかかれています。
このような問題を含んでいる本書ですが、事件のあらましや実態をわかりやすく記述しており、「SNS炎上史」として読むことができるので、十分に楽しめるはずです。
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
尚、引用文で改行している箇所があることをお断りしておく。