私はコロナ禍について、未来予測とは異なったベクトルの関心を持っている。それは「日常という幻想」のすき間から、非常時だからこそ垣間見える過程や構造を観察し、深く検討することである。例えば、本書で私は「対面で会うことが必然的にはらんでしまう暴力性」について繰り返し語っている。オンラインでの対面を可能にするインフラが整備された結果、「対面せずに会う」という経験が一気に広がった。それは仕事や勉強、診療やカウンセリングに新しい可能性を見せてくれたが、同時に「なぜ人は対面を必要とするのか」という、かつてない問いをもたらしてくれた。 対面には暴力性があり、オンラインはそれを軽減/消去する。
今回紹介する本は『なぜ人に会うのはつらいのか メンタルをすり減らさない38のヒント 』(中公新書ラクレ)です。
コロナによって引き起こされた「ひきこもり」状態。
そこから見つかった様々な問題点を精神科医の斎藤環氏が分析し、佐藤優氏がそれに合いの手を入れていく。
テンポのよい対談になっています。
「38のヒント」とあるようにコロナによってもたらされた問題を個々人がどう対処していくかがかかれています。
そのヒントは実用書にありがちなものでもあるし、一方で「そんな考えもあるか」と思われるものまであります。
今回はこの対談で面白かったところを紹介してみます。
※赤字はズンダ、また、読みやすいように改行している箇所がある。
対面すれば暴力が発生する
人間はとかく面倒である
感染症は収まってもらいたいけれど、コロナがもたらした今の社会状況はなくなってほしくない」と言う人が、それなりの数いたのです。これも、ちょっと想定外だったのですが。
佐藤 自分にとっては「自粛社会」が望ましい、と。
斎藤 特に、やや「発達障害」的な側面を持つ人たち、要するに「人と会うこと」に対する「耐性」が低い人たちなどは、現状が非常に心地いいと言うのです。私は「コロナロス」、あるいは「コロナ・アンビバレンス(相反する感情を同時に持つこと)」と表現するのですが、こういう人たちにとっては、「対面が前提」の世界はまさに地獄で、コロナによってようやくそこから脱出することができた。
世の中には感じやすい人たちがいます。
話題のHPSだったり、発達障害気味の人たちです。
彼らは感受性が豊かだったり、人付き合いが苦手だったりするために対人関係をうまく構築することができません。
その結果、人と話したり付き合ったりを避ける傾向にあります。
もちろん、そんな障害をもっていない方々でも人と付き合うのは面倒くさいことはあるでしょう。
そんな人たちからすれば、政府から堂々と「自粛要請」が出たことはありがたい。
自分が誰かとやりとりする機会や時間が増えたからです。
また、社会からお墨付きを頂けたからですね。
誰かと交流していなくても「自粛」を求められているから、正々堂々としていられるわけです。
斎藤氏もあまり人と対人するのは好きではなかったらしいのですが、今回のコロナで全く人と付き合わないのもイヤだという自身の感情に気づいたといいます。
斎藤 もう少し具体的に話してみましょう。繰り返しになりますが、私自身、対人恐怖症気味、発達障害気味の人間で、人と会うのは基本的に苦痛なのです。約束の時間が近づくと、妙に緊張したり不安になったりもします。ところが、不思議なことに、実際に会って話をすると、とたんに心が楽になる。毎回この繰り返しで、会えば楽になるのが分かっているのに、会うまでは苦痛を感じたりするわけです。
それでも人と会うことは必要である
斎藤 人が「人と会うこと」に対して感じるニーズ、あるいは耐性には、「会いたい」「会うのはつらい」そして「その中間タイプ」という、ざっくり言って三つの類型がある。そういう構造が、今回のコロナでかなり浮き彫りになったと思うのです。
この三つの分け方は取り立てていうまでもありません。よくある分類でしょう。
ただし、それがコロナによって明確に感じられるようになったというわけです。
斎藤 まず申し上げておきたいのは、ここで言う暴力は「他者に対する力の行使」すべてを指す概念で、いいとか悪いとかいう価値判断とは無関係だということです。「力」には物理的なものから、心理的、形而上学的なものまで含まれます。ですから、そもそもすべての暴力が非合法であり、悪だと言うことはできません。
人と会えば、性格の相性や地位や年齢差などで私たちは態度を変えます。
自分の同級生と遊ぶときと取引先と話すときでは全く違うでしょう。
これが対面による「暴力」です。
否応なく自分の態度を変えざるを得ない状態に追い込まれる。
そういう力場が発生してしまう。
それゆえ、斎藤氏は人と会うことは「暴力」といっているわけですね。
ありのままの自分ではいられないからです。
斎藤 ここで重要なのは、この暴力がなかったら、恐らく人間は生きてはいけないだろう、ということです。言い方を変えれば、生きていこうとしたら、暴力に曝されることから逃れられない。 もう一度、初体験の緊急事態宣言の時のことを思い出していただきたいのですが、あの精神的なロックダウンに近い自粛期間中、たとえるならば、我々は宇宙空間のような無重力状態に置かれました。そして、それが解けた後は、地上に足をついてしっかり体重を感じた。その重さに嬉しさも感じれば、再び立たなくてはならない煩わしさや憂鬱さも覚えたわけです。
暴力の発生が「偶有性」を、不確定な人生を学ぶ機会をつくりだす
斎藤 もう少しだけ、謎に分け入ってみます。人には、実際に会わないと満たされないものが二つあると、私は考えているんですよ。「欲望」と「関係性」です。人間同士が会うことの意義が最大化されるのは、この二点に関してだと言っていいと思うのです。
確かに「欲望」や「関係性」というのは他人がいて成り立つものではありますね。
私たちは他人を目にすることで、自分が他人と何が異なるのかを意識してしまう。
容姿などは良い例でしょう。
「関係性」も、人とやりとりするからこそ、意識してしまう。
そして、他の要素が入ってくるほど「偶有性」、つまり、思いがけないことが起こるわけです。
ここで氏が挙げておられるのが教育、特に「医療実習」です。
斎藤 医学を例に取れば、実習現場の在りようは、偶有性に満ちていて不確実そのものなのです。教科書通りにはいかない、その場で経験、吸収すべきナレッジをたくさん含んでいる。時間をかけて深く考えれば、教科書の記述に即したことが起きていたとしても、目の前の事象はまったくそうではないように見えることが、しょっちゅう発生するんですね。学生には、実習を通じてそうした不確実性の幅も「込み」で習得してもらう必要があるわけで、座学のみ、臨床実習抜きで医者になったら、本人も患者も怖くてしょうがない。
コロナ禍のためにオンライン授業が行われている。
当然、人と人とは付き合わなくなり、関係性が存在しなくなってしまう。
オンラインによって、知識がただ与えられるだけであり、人から人への伝達という部分が失われ、教科書を読んでいるのとさほどかわらなくなってしまっています。
これが学校で直接ならえば、先生に質問したり、友達と教えあったりが簡単にできる。
また、そのときの空気感や匂いなど微妙なものもあります。
つまり、「知識」以外のすべてが捨てられてしまうわけです。
無論、以前紹介したようにそもそも日本の教育は「知識伝達型」であったことは否めません。
しかし、こういった実習の話をきくと、このコロナの状態ほど異常ではなかったのではないかと思わされます。
このような偶有性が消え去ることにより、もしかするとありえたかもしれない
「関係性」の可能性はなくなります。
たとえば、飲み会や文化祭などの行事を通して異性同士が仲良くなり、そこから付き合いに発展したり、何らかの性関係を結ぶかもしれない。
そういった「予定にいれていなかったこと」が起こりづらい世界になってしまうのです。
東大事件ー別の価値観をどこかでもつことができればー
「彼は中学から東海に通う『内来』ではなく、高校入学組のいわゆる『外来』です。ですが、入学早々に生徒会長選挙に立候補していたのが印象的でした。彼は落選しましたが、それも仕方ないことだろうと思います。彼の演説はあまりにも真面目で、東海に合っていなかったからです。
東海は進学校ですが、校風は極めて自由です。いじめもありませんし、先生と生徒の仲もいいです。外来の生徒は、入学当初はみんな真面目なのですが、だんだん東海に染まっていく。卒業するころには内来とほぼ変わらないくらいはじけているのですが、彼はまだ真面目な段階だなという印象を受けました。大抵、生徒会長選挙の演説には、おふざけ要素をいれる人が多いんです」
先日、東大で受験生や老人を切りつける事件が発生しました。
この文春の記事にあるように、加害者は高校から進学校に入学し、コロナのため行事などが削られたりしたために、東海の校風に馴染むことができなかったことが窺えます。
私たちの成長は教科書や参考書だけに因っているものではありません。
人間は人間を疎ましく思いながらも、他人によって自分の欠点や気づきなどを教わる生き物でもあります。
悪いことも教わったりするのですが・・・・・・・、これもまた「偶有性」でしょう。
だから、人は自由意志で何かをしているわけではないんですよね。
周りの環境が及ぼす影響があるわけです。
むろん、その対人がいきすれば、それはそれで問題が起こることはいうまでもありません。
本当に、折衷的な結論で申し訳ないのですが、バランスが大事なのだと思います。
↓対人で悩む人は以下の記事をどうぞ。
欲望の低下ー欲望は他人からつくられる・ポストモダニストとしてー
斎藤氏はひきこもりなどのカウンセリングもしているため、彼らの欲望低下についてものべておられます。
斎藤 なるほど(笑)。そういうふうに、強制的に閉塞空間に置かれると、直接的な欠乏ゆえに性欲、食欲、物欲などが亢進しやすくなるのだと思います。ただ、私がここで述べたいのは、「人に会わないと、欲望が減退する」ということなんですよ。
斎藤 比較的どころか、無茶苦茶低いのです。朝起きて、ご飯を食べて、日がなぼーっとして寝る、みたいな全く欲望のない人も珍しくありません。私は、ひきこもりの回復の指標は消費活動をどれだけするかだと考えているのですが、たいていのひきこもりの人は一年間に一〇万円も使わないです。
そして、この欲望低下の理由を斎藤氏は次のようにラカンの言葉をひいて説明します。
斎藤 難しい問題ですが、その点については、フランスの精神分析家ジャック・ラカンの「欲望は他者の欲望である」という有名なテーゼを紹介しておきたいと思います。欲望や意欲というものは、自分の中から自然に芽生えるもののように見えて、実は他者が起源で、他者から供給し続けてもらわないと維持できない、とラカンは説きます。
要するにテレビやSNSによる広告によって、私たちは「あれがほしい。これがほしい」という欲望を作られてしまう。それゆえに消費行動を起こすという考えですね。
服好きなズンダとしてはー人間は変わってしまうー
「お前が着ている安い服は、メゾンブランドが作り出したデザインをパクっている。お前はメゾンブランドをみて《なんで、こんなヘンテコな服があるのか。なんでこんな高いのか》などというが、何も知らないからそういえるだけだ」
終わりに