前回の記事のおさらいと本記事の目的
ヘイトスピーチといえるのか
前回の記事では「たぬかなの発言は日本女性の大多数が思っていることである。彼女だけを差別主義者といえるのか」という内容でした。
差別で騒がれているが、もし彼女の低身長発言を差別的言辞としてとらえてしまえば、多くの日本女性は差別主義者になってしまう、と私ズンダは述べたわけです。
ちなみに、同内容を私ズンダのyoutubeチャンネルでラジオという体で発信しております。
ぜひご覧いただき、高評価&チャンネル登録をしていただけると幸いです。
またラジオのネタを募集しておりますので、この手の事に関して喋って欲しいなどの要望がございましたら、私ズンダのTwitterからマシュマロという投稿機能を利用してください。
さて、炎上した際、たぬかなは以下の発言をしています。
「配信の内容をヘイトスピーチだと指摘されました」とし、「そういう意図ではありませんでしたが、不快に思われた方が多いようなので撤回します、すみませんでした」と謝罪し、「いつもの配信の身内ノリで言葉が悪くなっちゃいました、ごめんなさい~…」とつづった(当該ツイートは後に削除)。
ここで重要なのは「そういう意図ではありませんでした」という文辞をどう見れば良いのか、です。
相手を傷つけるつもりがなかったが、相手を傷つけてしまう。
そういうことがいくらでもあります。
本音なのか言い訳なのか、それは当人にしかわかりません。
しかし、考えてもみて下さい。
「本当はそんなふうには思っていなかった」といえば、何を発言してもよくなるのでしょうか?
たとえば、ある国の独裁者が「我々は今から某国と戦争する」といえばどうなるでしょうか。
後から「そういうつもりじゃなかった」といっても手遅れですね。
そんなことを言われた瞬間に、各国による警戒や防衛の準備が始まるでしょうし、先制攻撃を仕掛ける国もあるかもしれません。
戦争になってから「そんなつもりではなかった」といっても後の祭りです。
私たちは自分たちの言葉には「心」があり、その「心」の内にある本音を重要視する傾向にあります。
「本当はこういうつもりだった」という本音です。
しかし、その言葉を受け取る側が常に本音を受け取ってくれるわけではありません。
ここから分かることがあります。
言葉には外在主義というものがあるのです。
つまり、その言葉を発した人の心の中よりも、言葉の表出のされたかたで判断するということです。
さて、ここからが本題です。
新書ブログなので、今日は皆さんに一つの本を紹介したいと思います。
この本に書かれていることは、今回の問題を考える上で非常に参考になります。
言葉は「真」か「偽」を考えるものではない
オースティンの言語行為論
二〇世紀の初頭に言語哲学なる分野が流行はじめ、言語を数学の記号のように捉える研究が盛んになりました。
その中の代表がバートランド・ラッセルです。
彼は一文を分析し、その文が「真」か「偽」であるかを判断する真理条件的意味内容を説きました。
本書の例文を引いてみてみましょう。
性格の悪い大学教授がいる。
この場合の真理条件(「真」か「偽」と判断できる条件のことです。)はなにか。
性格の悪い教授が大学に一人でもいれば「真」ですし、いなければ「偽」です。
当然ですが、日常の会話で人から聞いた言葉をいちいち「真」か「偽」などと考える人はいません。
これはあくまで会話の一文を取り出して検討してみると、こんなふうに分析できるよね!という話をしているだけです。
そして、そこを指摘した人物がオースティンです。
彼は「言語行為論」という概念を展開します。
和泉氏のまとめでは
「言語行為論の骨子は、言語の使用はいつもなんらかの行為だ、ことばを話すとはいつも何かをすることだ」です。
「真」か「偽」かなどという問いはそもそも日常会話では一般的なことではないというわけです。
ラッセルのやりかたでは私たちの言葉を分析しきれません。
日常生活において言語を用いて誰かとやりとりをする場面すべてで、私たちは何らかの言語行為を行なっていると言えます。挨拶をし、近況を尋ね、食事へ誘い、予定を確認し、質問に答え、約束をし、別れを告げる。こうした一連の言語行為を繰り返しています。
というように、日常のありとあらゆるやりとりは言語行為なのです。
そして、その言語は心の中を完全に伝えきることはできません。
もしみなさんが「言語使用の第一義役目は、心の中のメッセージを相手に伝えることだ」、「頭で考えたことを記号化して、その記号を相手に受け渡して、相手に同じ考えを伝える」のように考えているとすると、それは一種の幻想あるいは神話です。少なくとも、ヒトの言語活動を極度に理想化または理念化した発想だと言えるでしょう。(赤字はズンダ)
さて、この言語行為論を踏まえると「何かをいうことは、何らかの行為をした」ということになります。
つまり、「俺は某国と戦争するぞ」というのは本当かどうかは別として、その時点で世界に何かをなげかけた「行為」と見做されるわけです。
この言語行為論によって、私たちは日常における様々の会話について広く考えられるようになります。
人を馬鹿にするとはどういうことなのかーランク付けという考えー
罵りはヒトをランク付けしてしまいます。
人が誰かの悪口をいいます。
そこに含まれる意味は「その人物を低く位置づけることにつながる」と和泉氏は述べておられます。
これもまた言語行為ですね。
そしてある人に「バカ」という事は同時に権力関係を示唆しています。
というのも、「私はこの人をバカ扱いしてもいい」という設定を決めているからです。
これはつまり、権力関係の発露です。
勿論、ここに「信頼関係」があれば話はかわります。
私たちも同級生や仲間内などにおいて、ふざけて「死ね!」や「バカ!」などといったことがあるでしょう。
また、下位の人間が権力側に対して不平等に抵抗するためにこれらの言葉を発することもあります。風刺や批評とよばれるものです。
悪口を評価するためには、トークンが使われた文脈を吟味し、どのようなランキングが関わっているのか、ランキングの中での言う側・言われる側の位置関係はどのようものか、ということを最低限把握しなければなりません。
(ズンダ注)トークンとは?(印のこと。AとBとが同じバーバリーのTシャツをもっていたとする。シャツの製造番号は同じだが、しかし、AとBがもっているものが同じとはいわない。こういう違いの部分をトークンという。)
ヘイトスピーチとは何か-「集合」を「ランク付け」すること-
そもそも、ヘイトスピーチとは何なのでしょうか。
感情的で侮蔑を込めた罵声を相手に投げつけること、思っておられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、ここまでの内容で明らかなように単に「バーカ!」といっただけではヘイトスピーチにはなりません。
ランク付けであったり、信用関係のトークンを見ないとだめなわけです。
ランク付けを集合に投げることで、序列関係や権力関係を招き、差別の正当化に繋がるからです。
いってしまえば「身長が170センチ以下の男性は嫌です」ぐらいだとヘイトスピーチにはならないわけです。
もちろん、言われた方はむかつきますが、ヘイトスピーチではない。
それはなぜか?