皆さん、こんにちは。ズンダです。
今日紹介する本は御田寺圭氏による本です。
彼の活躍はTwitterやnoteが主であり、反ポリコレ、反リベラルを基調とした社会情勢を批判しておられる方です。
その文章は抒情的でありながら均整のとれたもので、社会の狭間に落とされた
【描写されない人々】を掬い上げています。
氏の文体には、ある種類の弱者を無視している社会への沸々とした怒りがあり、それが水底から文面に滲みでています。
その文章は潤びていながら、決して易きに流されることがない。
実に統御されたものです。
ここには不均衡な状態にある人間社会が描かれています。
たとえば、女性の貧困や自殺率が騒がれても、その倍ほど自殺している男性については触れられることが少ない。
または、たまたま成功した障害者が持て囃されるが、一方で生きることに四苦八苦している多くの障害者達は無視される。
「社会の弱者」と思われている人だけが「弱者」といえるのだろうか。
この視点から社会の暗黒面を剔抉しているのが御田寺圭氏なのです。
では、今回はこの本の中にある「マッチングアプリに絶望する男」をとりあげてみましょう。
ちなみにですが、この本の内容は社会の欺瞞をついた本であり、「弱者男性」のためだけの本ではありません。
※なお、本文の引用に、適宜、改行や赤字をつけていることをお断りしておく。
婚活という無慈悲な作業
スペックで振られる婚活
この章では、婚活をした結果、女性のことが信じられなくなり
「すべての女がサイコパスに見える。もう誰も信じられない」
と述べる男性の話が語られます。
彼はマッチングアプリで相手探しをしていましたが、拒否されることが相次ぎ自信をなくしていきました。
「マッチングアプリをやっていると、縁がなかったのではなくて、自分を商品のように品定めされた後で『これ要らない』と捨てられているような感覚に襲われるんだ」
「大学、学歴、会社名、年収――自分ではなくて自分にくっついている数字やスペックしか見られていない。で、そこからようやく会えても、ちょっとでも気に入らないことがあればブロックされるか、なんの連絡もされなくなって終わり。この年になってまだ就活をやらされているような気分で、みじめだった」
こう述懐する男性の哀しさは、モテない男性達であれば誰もが何回も味わったことある悲傷といってもよいでしょう。
特に日本に於いて(海外のことはしらない)は男性からの積極的な行動ーデートに誘う、食事の勘定をもつ、告白するーなどを求める女性が多く、男性側の負担が大きいのです。
つまり、女の人は男性任せで、責任を負うことがあまりない。
しかし、男性は手取り足取り女性のために差配してやらねばなりません。
この奴隷とも思える行為が男性にとって大きな苦痛なのです。
挙げ句の果てには無視され、嫌われ、ブロックされる。
地獄ですね。
勿論、こういったことは以前から行われてきたのでしょう。
しかし、御田寺圭氏は現実とは異なる空間において、それが露呈してしまったと指摘しておられます。
マッチングアプリに代表されるような空間では、現実世界の人間関係ではあるような社会的なつながりの抑止力がきわめて希薄あるいは存在しない。ゆえに、性的関係性においては「選ぶ側」のイニシアティブをもっぱら持っている女性側には、自分が有する権力をあえて抑制する道理がなくなるのだ。
御田寺圭氏はこの連絡をくれた男性に対して「そんな女性ばかりじゃないよ」と慰めの言葉をかけたようです。
しかし、近年のコロナ禍のせいで、マッチングアプリ使用者は急増し、おそらく彼のような目に遭う男性もまた増えていると推測されています。
女性優遇時代
また、社会全体として「女をもっと讃えよ」という風潮があることもこの問題に棹をさしています。
女性が男性に対して行う不愉快で、暴力的で、加害的かつ無礼なふるまいは、「有害な女らしさ」とはいわれなかった。咎められたりただされたりするどころか「女性の解放」「ガールズ・エンパワメント」「わきまえない女」などのネーミングを与えられ、社会正義の具体的実践であるとして肯定的に評価されてきた。
私たちは現在、女性についてあれこれいうと「女性差別主義者」とレッテル貼りをされ、言論封殺の憂き目にあうことが多い。
皆さんも「それは、男性差別ではないか?」という言葉はあまり聞いたことがないでしょう。
世の中で騒がれるのは「女性の問題」だけであり、「男性の問題」は認知されていないか、軽視されるという有様です。
こういった視点を踏まえてニュースや新聞を見るようにしてください。
すると、御田寺圭氏の指摘の鋭さに気づくのではないでしょうか。
「男性はもっと無害になれ。女性を抑圧するな、女性にとってさらに有益かつ快適な存在になれ。歴史的な加害者としての反省を忘れるな」と申し立てる全社会的なメッセージはじつに功を奏した。現代社会の男性は前世紀とは比較にならないほど女性に対して「ただしく」ふるまえるようになった。
「正しくふるまえるようになった」、その結果として女性と交際したい、結婚したい男性は跼天蹐地するようになり、女性を求めることを諦めます。
男性にとって女性は畏怖の対象となったからです。
それは同じ人間ではなく、人間でありながらも社会から常に後援されつづける無謬性を得た女だからです。
モテる男が女を食い散らかし、男性像を悪くした
普通の男性達は「正しく」女性と接しなければいけない故に、女性と付き合うことを諦めました。
女性を「讃えよ」という社会になってしまった現在、
男性は何も言えなくなってしまったのです。
何か言えば、「セクハラ」「女性差別」「女性の権限をないがしろにしている」
と騒がれる時代です。
男性は怖くて女性に何も出来ません。
AEDという人の生命を救うために必要な装置ですら、我々は「セクハラ」といわれることを恐れて、使えなくなってしまっているのです。
しかし、そんな「正しさ」とは無関係な男性の一群がいます。
「モテる男性」です。
彼らはこんな社会になっていても、男性としての魅力が高く、女性を惹きつける容姿や学歴や年収などを持ち合わせているがために、多くの女性達と付き合い、そして、捨てます。
御田寺圭氏は、そこで捨てられた女性達の怨嗟がSNS上でドバッと流れ、非モテや弱者男性達が虐げられるはめになっていると推し、擱筆しています。
このような逆風の中にあっても、これまでどおりの獣性の発露を咎められることなく、女性からの行為を独占する一部の魅力的な男性はいまだ存在している。かれらは恋愛至上において多くの女性たちと付き合うが、結婚となると話は別である。言い寄る女性たちを冷酷に切り捨てる。不誠実な扱いを受けた女性たちは、自信の経験をもとに、SNSなどでますます男性の加害性や有害性を糾弾する。その怒りの声を真に受けたのは、女性を弄んだ張本人である彼らではなく、かつての時代なら良縁に結ばれていたはずの平凡で誠実な男達だった。女性の自由に翻弄され、しかし抗議することもできず、歴史的加害者としての罪を背負わされた男たちは、ひとりで生きることを選択していく。
終わりにー御田寺圭の役割とは何かー
なぜ、あることは社会問題になるのか?
つい先日、二〇代男性の四割がデートをしたことがない、という報道がなされました。
ここでも、やはり男女格差があるのがわかりますね。
・男性は40%
・女性は25%
という明確な違いがあります。
各ニュースで問題をとりあげていましたが、男女のデート経験の比率が異なる事に関しては触れられていませんでした。
このように明らかに違いがあるにもかかわらず、それについて触れるメディアは少ない。
いつもなら
「どうして、女性と男性で待遇が異なるのか?」
と意気揚々として語り出すはずですが、それがない。
なぜかと言えば「女性のほうが男性より求められている存在である」という事実を認めたくないからですね。
これ認めると、この問題においては男性の方が不遇なことがわかってしまうからです。
私たちの世界ではよくみれば問題なのではないか?と思われることでも、
藉藉と騒がれることなく、見それたままの事象があります。
たとえば、私ズンダが以前にプロゲーマーたぬかなの低身長差別について書きました。
この発言は「人権を奪ったこと」が問題とされていましたが、実は多くの人が意識していないことがあります。
「そもそも、女性はたぬかなと同じく低身長を好んでいません」
ということです。
身長は自身では殆どどうしようもないものです。
それなのにもかかわらず、差別扱いされていないのはどういうことなのでしょうか?
「低身長差別だ!」と騒ぐ人が少ないからです。
先述したように私たちの世界には問題とされる事があります。
しかし、それが「問題扱い」されるようになるためには経緯が必要なのです。
詳しくは『社会問題とは何か: なぜ、どのように生じ、なくなるのか? (筑摩選書)』を読んで下さい。
告発者として
さて、私ズンダは御田寺圭氏の真骨頂は問題提起にあると思っています。
先般、デビッド・ライス氏やすもも氏等が御田寺圭氏について
「解決策が書いてない」という指摘をしておられました。
これに反論して御田寺氏は「解決策は書いてある」と述べておられます。
実際に解決策があるかどうかはこの本に関しては私はあまり気にならない。
勿論、解決策が書いてある方が読後感としてはすっきりするのですが、世の中には問題提起のために書かれた本や社会情勢を描出するだけの本がありまして、
「解決策がない」という批判は「それは、お前の都合だろ」としか思えず、ちょっと驚いてしまいました。
※ちなみに御田寺の本を初めに読んだときの感想は、デビッド・ライス氏に近い。ただし、私は「批判することかね?」と思ってしまったのだった。おそらく二人の思想上の立場が違うことによるのだろうが、言論人でもない私にとっては、騒ぐようにも感じられない。別にこういう書き方の本はあるしなあ・・・っていう。
昔、大阪の市長を務めていた橋下徹が頻繁に「対案をだせ」といっていましたがそれに準じたものですね。
しかし、先ほども述べたようにあることを問題とみなし、それを広める人間や本は必要です。
講談社文芸文庫に入っているような近代に関する評論本などを想起するといいかもしれないですね。
あるいは昔、筑摩から出ていた日本思想体系のような本。
これらもだいたい解決策など大して書いてません。
社会として問題にすべき事柄を主張しているだけで、
最後まで読むと「え、こんな終わりなの?」となってしまうことが多々ありました。
が、この手の本は日陰に光を当てて、世の最暗黒を外へ引っ張り出すことに価値があるわけです。
そもそも、社会全般の弱い男性に対する問題意識の欠如などは、すもも氏本人がツィートにおいて御田寺氏と同様のことを散々述べており、彼の提案する解決策なども至って普通もしくは突拍子もないものでしかありません。
実際、弱者男性は一般的には認知されてないのです。
第五章「不可視化された献身」の最後に御田寺氏は次のように記しています。
「分断を癒やそう」といった言葉を近頃はよく見聞きする。
癒やすもなにも、まだ分断の向こう側にいる人の姿をみつけられてすらいないはずだ。
この通りではないでしょうか。
Twitterで男女論を熱く語りインフルエンサーになり、知的営為に耽っている人々にとって「弱者男性」や「キャンセルカルチャー」や「フェミニスト」などの問題は一般的かもしれない。
しかし、世間一般の仕事にあくせくしたり、趣味に耽溺している人たちにとって
これらの問題というのは問題になっていない。
彼らは「女性差別」が問題だという認識はあっても「弱者男性」については
「なんですか、それ?」
というでしょう。
それほど住む世界が違うのです。
デート未経験四割や東大による年収が低い男性云々という研究は、弱者男性ほど恋愛や結婚が厳しいという裏付けであり、御田寺圭氏の警鐘が至当なものであったということでしょう。
それに対して、いまだに
弱者男性への支援はなにもはじまっていない。
政治家も庶民も彼らの存在をしらないのです。
「蜻蛉鳴きて衣裘成り、蟋蟀鳴きて嬾婦驚く」という言葉があります。
カゲロウが鳴いた段階で冬の服を織るべきなのに、コオロギがないてから怠けた婦人はようやく気づくという意味です。
私たちも問題には早く気づいたほうがいい。
それによって初めて対策ができるのだし、救われる命もあるはずです。
御田寺圭は終章で
「私は物語を否定するために、この本を書いた。」
といっていらっしゃいます。
物語とは既存の価値観のことです。
○○は弱者である、という既存の価値です。
ですが、私たちは弱者が何かを再考すべきときにきている。
見過ごされた疎外者を現すために御田寺氏は本を物したわけです。
それは対策をうむための一手であり、意義深い言論活動であると十分いえるのではないでしょうか。
よりよく楽しむための読書案内と恋愛がらみの記事紹介
ところで、私自身はブログ等で御田寺氏の本やゲンダイの記事を紹介したこと紹介したことがあるが、恥ずかしい話だが、実は彼がnoteで大人気だということは全くしらなかったのである。
この本を購入する数週間ほど前に、はじめてしった。
Twitterもフォローしていないし、noteも読んでいない。
しかし、Twitterをやっていると、彼の書き込みが誰かのイイネによって、ぐうぜん目に入る。
何をしている人なのか知らないが、人気あるんだなあ・・・ぐらいにみていた。
今度、その人の本が発売される。目次をみる。
ちょっと買ってみようかな。購入に至る。
それで、この本を読んでみて実に驚いたのである。
「あれ、俺の考えに似ているな」と。
私は男女論に関しては山田昌弘氏や田中俊之氏の本を読んでいく内にブログやTwitter内でも触れるようになっていった。
そもそも遡れば、男女論自体、Twitter上では盛り上がっているが、本田通氏の『電波男』でいわれていることの焼き直しである。
更に、フェミニストの問題なども含めて、男女論について語っていたのは小谷野敦氏ではないだろうか。
エリック・ゼムールの『女になりたがる男たち』などは、購入した当時、ネットで誰も触れておらず、ブログで本格的に紹介したのは私がほぼ初めてだと思っていた。
ところがここ数年、ネット上の男女論の盛り上がりで、彼ら学者の名前をTwitter上でみることが増えた。
これは新書紹介ブログとしては実にうれしい。
自分のブログは参考になどされていないだろうが、自身が紹介してきた学者や本などが巷間で話題になることはこのブログを書き始めたときからの本願であったからである。
今回はじめて本を読み、こういう考えの持ち主だったのかと理解した次第である。
この本を全て読んだ方は以下の本を読んでみるといいかもしれない。
似た傾向のことを書いてあり、おそらく満足できるだろう。
モテについてマシになる方法とは?
個人的に思うのが、男女論の解決策と終焉というのはみえている。
マクロ的には日本経済の回復や政府による梃子入れ。
ミクロ的には個人による自助努力。
この努力というのも決してひとりぼっちで行うのではない。モテない人がいくら一人で頑張ってもムダである。
とにかく他人の介添えによる努力しか意味がない。
その際、モテない男性同士で絡んでも効果がないので、モテる男性に頼るほかない。
また、近場にそういう人がいない場合は、モテる方法を書いた本でも読んだ方がたしにはなるかとおもう。
この手の本、馬鹿にされがちだが、私が昔読んだとき、あまりにも「モテない人側」に自分が入っていることを知り、心の底から恥じた。
たとえば、『モテる技術』の目次をみてもらいたい。
この本についてはどこかで書きたいが、私は目次をみるだけでドキリとする。
非モテであれば、この目次をみただけで「自分ってモテない男の思考なんだ」とわかるのではないだろうか。
そして、私も非モテだからわかるのだが、だいたい非モテの人はこういう本を馬鹿にする。
「こんな本なんかでもてるようになるわけない」
「こんな程度でどうにかなるほど自分はすぐれてない」
「こんなナンパな本を読むような軽薄なやつじゃない」
「逆張りしたい!」
実際、こんなので女の子が黄色い声をだして近寄ってきてくれるわけではないのは事実である。
しかし、マシにはなる。
-100を-99とか-98にして、勝率をあげていくしかない。
残念だが、我々はモテる男とは違う。
劣っているので、マイナスなのだ・・・・・・。認めるしかない。
少なくとも、目次をみて「自分だ、これ・・・」と思った人は一回、素直になってモテる奴らのいうとおりにしたほうがいい。
モテない人が一人でがんばっても、モテないままである。
こういうことをしても、彼女ができるかどうかは分からない。
やらないよりマシというだけであるが、後悔が薄れることは確実なのでやったほうがいい。
なんでもそうだが、マシなほうがいいですよ、やっぱり。
あと逆張り癖は身を滅ぼすのでやめること。
↓私、ズンダのNOTE記事です。
私自身はここに書いてあることは皆知っているんだろうな、とおもっていたが、最近、Twitterの書き込みやスペース等で非モテ男性の話をみたりきいたりしているうちに、思っている以上に常識ではないのかもしれない、と思うようになった。
そのため、絶版ではあるが、古本屋などでよんでみてもらいたい。
一方で、『モテるために必要なことはすべてダーウィンが教えてくれた 進化心理学が教える最強の恋愛』は今年でばかりの本であり、kindleでも読めるのでいいかもしれない。
どちらの本もだが、女性蔑視の色はほぼない。
また、男女論の終焉は上記に加えて下記の理由で徐々に関わる人が減るだろう。
恋人が出来た段階で大半の人はこの界隈の書き込みに興味がなくなり、疎遠になる。
また、結婚し、子供ができればなおのことそうなる。
というか、男女論というのは結婚して子供がいる人たちからすれば、どうでもいい話なんだろうと思わないでもない。
もはや、立っている舞台が異なる。
子育てに忙しい男女からすれば、中学生~大学生ぐらいで経験し終わってしまう恋愛云々の話を、二十代後半~四〇台あたりの未婚やモテない人々が騒いでいる。
そんな彼らをみて、既婚者がどんな気持ちでいるのかは気になるところである。