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パトリオティズムとナショナリズムの歴史をしっていますか? 将基面貴巳『愛国の起源』(ちくま新書)を紹介する!

 

 

 

 皆さんこんにちは、ズンダです。

 

 いきなりですが、「愛国」とは何だと思いますか?

 国を愛することだとはおわかりだと思います。

 

 ですが、この「愛国」という言葉、本来もっていた意味とは違うことをご存じでしょうか。

 

 私たちが「愛国」という言葉を聞くと、どうも戦中が想起され、右翼や戦争好きな愛国者のことが頭に浮かんでしまうかもしれません。

 

 ところが、元来の愛国は意味が違います。


 今回紹介する将基面貴巳氏の『愛国の起源』は、

「愛国」という言葉の思想的な意味や、本来持っていた意義とは異なる使われ方になった理由を明らかにした本です。

 

 

 では、それがどんなものなのかみていくことにしましょう。

 

 なお、引用には適宜、赤字や改行をいれている。

 

 ローマ時代のセネカから「愛国」は始まる


 日本の「愛国」は翻訳語である

 

 まず。「愛国」という単語の元ネタは漢籍にあります。


 その意味は「君主が国を愛する」という意味でした。

 

 つまり、其の国の統治者である王様が国を愛することを「愛国」といったわけです。

 

 今と異なるのは「人々が国を愛する」ではなかったというところでしょう。

 

 これを明治時代の「明六社」の一員であった加藤弘之西村茂樹

 「パトリオティズムの翻訳後として採用します。

 

 以降、「愛国」はパトリオティズムの訳語になりました。

 

 キケロからパトリオティズム論ははじまる

 

 古代ローマの政治家兼名演説兼哲学者であるキケロはこのパトリオティズムについて語るときに無視しえない存在です。


 キケロパトリオティズムを語る際、次のことを前提としています。

 

・共同体を形成して共同生活を営むことが人間の天性である

 

 つまり、共同体を維持するための「公共善」をもっていなければならないのです。

 

 世の中なんてどうでもいい。
 他の連中なんてどうでもいい。

 

 そういう人たちは前提としてはいっていません。

 

 共同体には色んな水準があります。

 友達や隣人、村落共同体や都市共同体です。
 
 キケロが重視したのはパトリア(祖国)」です。

 

 パトリアには二種類あります。

 

・①自然的祖国(平時の生活。自分の生まれ故郷のこと)
・②市民的祖国(市民が法律によって共有する共同体のこと。軍事的行動。祖国を守るために兵士として戦うことも求められる。)

 

 市民的祖国はキケロにとっては共和制ローマでした。
 
 彼は市民として公共的義務を果たすべきだし、祖国のために命を落とす奉仕も大事だと考えていたのです。

 

 この①と②のどちらを優先するかによってキケロ後のパトリオティズムは趣きがかわっていきます。

 

 ただし、キケロは平時の公共的義務のほうが重要視していたようです。
 暴力は獣的なもので人間らしくないからです。

 

 中世のパトリオティズムは軍事的パトリオティズムと共和主義的パトリオティズム


 さて、このあと中世のスコラ哲学者、ガンのヘリンクス、エキディキス・ロマーヌスなどがパトリオティズムについて語り始めます。

 

 この記事では省きますが、彼等の「軍事的パトリオティズム(祖国を防衛する兵士こそがパトリオティズムにおいて重要という考え)を称揚しているからです。
  
 もっとも彼等も、平時に於ける共通善を私益より優先すべきという主張はしております。

 やはり、パトリオティズムで大事なのは「公共善」だというのがよくわかりますね。

 

 そして、公共善を守るためには「暴君」と化した自国の王ですら、敵になるという観点も見逃せません。

 

 同時にこれは、外国人や非国民を敵として糾弾する態度は必ずしも「愛国(パトリオティズムとはいえないことを指しています。

 

 パトリオティズム外国人などを排斥する思想とは無縁なのです。

 

 これはルネッサンス時代の一六世紀イタリアになると

「共和主義的パトリオティズムとして平時のパトリオティズムが花開きます。

 

 一五世紀イタリアの人文主義者レオナルド・ブルーニは

「このような正義と自由はフィレンツェ共和国市民達の努力の賜物である」

 ことをブルーニは認めます。

 

 一方で、

「其の正義と自由の恩恵には外国人も浴することができる」

 と主張しているのです。

 

 この考えは一七世紀イングランドの思想家ジョン・ミルトンも同様でした。


 私たちは愛国ときくと、「自国」「他国」とを分離させ、対抗させる思想だとおもいがちではないでしょうか?

 

 しかし、本来の「愛国」の流れは、そういったものとは異なっています。

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