今よりも人生がもっとうまくいっていれば、と思っている人は数多くいるでしょう。
私ズンダもその一人であります。
けれども、そのためには自分の現状を把握し、能力を向上させなければならない。
能力主義(=メリトクラシー)がどんなに嫌いでも、社会は個人に能力を求めていますし、私たち個人も、何らかの成長を感じることで充実感を得られるようになっています。
何も変わらない日常を愛するには老成が求められ、
若い血潮にとって「変化なき日常」は苦痛なのです。
では、いったいどうすれば私たちは幸福感を得ながら、立派な水夫として人生の航路を漕いでいけるのでしょうか。
今回紹介する本『データ管理は私たちを幸福にするか?』は自己の状態を細かくデータ化することにより人々は幸福になれるといいます。
これは個人だけでなく、社会全体にとっても利益があると主張されている点が重要です。
もちろん、このデータ化は政府や企業による個人情報の支配や漏洩につながる可能性もあります。
危険性や倫理性の検討も本書では行われています。
それゆえ、この本の副題には「自己追跡の倫理学」と銘打たれているわけです。
この記事では全体をざっくばらんに理解できるよう紹介していきます。
自己の成長に興味のある方には必読です。
努力すればできる!はウソである
「できるようになる」ためには?
堀内氏は、人間は自身の意志を強く持つことで何かができるようになる生き物ではない、といいます。
コロナ禍における自粛を例にあげています。
「COVID-19コミュニティモビリティレポート」というGoogleマップから取得したデータをもとに人々がどれだけ移動していたかをまとめたものです。
これをみると、自粛をしていた人々の割合が大凡わかります。
第一回目の緊急事態宣言が発令された二〇二〇年四月七日から五月二十五日の東京都の人では、「辱場」では40%減、「小売店と娯楽施設」・「公共交通機関」では約60%減だった。
しかし、その約一年後となる二〇二一年五月六日から六月一七日のデータでは、「職場」では22%減、「小売店と娯楽施設」では27%減、「公共交通機関では31%減になっている。
外出自粛の割合は一年ほどで緊急事態宣言の発令時点のおよそ半分になってしまったわけだ。
私たちは最初期の段階ではコロナに怯え、自粛を積極的に行っていました。
ですが、時間が経つほどコロナへの恐怖になれたり、コロナの実態がそこまで恐ろしいモノではないと考えたりした結果、自粛する人々が減っていきます。
そして「コロナ疲れ」と呼ばれるように自粛に飽きてしまい、街へくりだすようになったのです。
もっと適切な例で言えば、ダイエットでしょう。
運動をしたり食事制限をすればいいのですが、これを続けられる人はごく一部であることは言を俟たないでしょう。
アクラシアを矯正するセルフトラッキングという考え
この「わかっているにもかかわらず、できない」状態のことを古代ギリシャ哲学で「アクラシア」といいます。
アクラシアとは「自制心のなさ」をいい、
アリストテレスによれば
「ある行為を悪いと知りながらも欲望のために行ってしまう心の傾向」
ということになります。
では、私たちはどうすれば「できる」ようになるのでしょうか?
ある方向へ行きたいと思っているのにそれができないのだとすれば、つらいですよね。
そこで出てくる考えが「セルフトラッキング」です。
自己追跡と訳されるこの言葉は自己を客観視することで、今現在の問題解決方を取りやすくなる方法です。
そして、この考えの根底にあるのは「環境」です。
人は環境によって形づくられる生き物です。
孟子の「朱に交われば朱く染まる」や「孟母三遷」などの故事諺でも散々いわれています。
こういう考えを受けて、政府が行政的に介入することを
といいます。
人によっては「ナッジ」(=環境アーキテクチャ)で知っておられるかも。
行動経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーンの二人が共著者である『実践 行動経済学』という本があります。
それをきっかけに有名になった概念です。
一例を挙げると、タバコのパッケージがいいでしょう。
海外におけるタバコのパッケージは「肺ガン」の写真などが掲載されており、非常に恐ろしい箱で、タバコを買おうとした人が「こんなふうになりたくないなあ」と思って購入を躊躇するようなものになっています。
要するに、人の行動に対して
「こうしたほうがいいよ!」
「それしたら、まずいよ!」
というメッセージを密かに導入する方法、これをナッジ(ちなみにナッジは、nudge=小突く)というのです。
アメリカやイギリス、オランダなどでは積極的に導入されており、検証チームのようなものもつくられています。
定量化された自己(=QS)とはなにか
モラルアドバイザー(助言者)の存在
私たちは、IoTやスマート家電やIoMや自動運転など、ある程度の自律性を備えた賢い装置に囲まれつつあります
むろんこれらは人間の代わりになるものではありません。
しかし、私たちを「補完」する役割は果たせます。
本当に身近な例でいえば、目覚まし時計です。
私たちが自力で朝の七時に起きられるのであれば、こんな時計はいりません。
しかし、実際はそうではない。
どうしても朝が弱かったり、夜が遅かったりすれば決められた時間に起きることができないことは多々あるわけです。
そのため、私たちは目覚まし時計をつけます。
この本で述べられている「セルフトラッキング」とは自己をこういった装置によって「補完」し、生きていくということです。
私たちの「ダメさ」をなおざりにするのもー教育現場に丸投げして無理強いしたり、「ダメさ」とは無関係に作動する社会制度を模索したりするのもーもはや限界である。
それゆえ、しばしば期待されるような(おそらく不可能な)個人の学習性や高潔さに拘泥せずに、あるいはエリート主義的な分断統治を甘受せずに、私たち自身に補助具を加えることにも、解放的な価値があると認めるときが来ていると思うのだ。
と堀内氏は主張します。
更に哲学者スピノザの著書『知性改善論』を本歌取りし『現代の知性改善論』をうったえます。
不確実な状況の中で最善と思われる結果を達成するために、私たちの記憶力や、知能、意思決定、知覚(認識)、判断を、改善または補完する技術。
これらの補完は私たちの意思力とやらではなくて、装置によって行われるわけです。
本書では、技術をテクノロジーの意味で用いている。しかし、実践的には技術を用いたライフハックでもあるので、むしろちょっとしたコツやテクニック(つまり、tips)にまで拡大しても良いかもしれない。
こういったテクノロジーというのは身の回りにもよくありますね。
たとえば、血圧計だったり、コロナ禍で各家庭に広まったパルスオキシメーターなどです。
本来は病院にいかなければ判明しなかった体の変調は家庭にいながら気づけるようになった。
こうした「生体情報」を私たちは個人で把握できるようになっているわけです。
これらから与えられる数値、定量化された情報のことを
「QS=Quantified Self)」というわけです。
当然、血圧が高ければ食生活に気をつけなければならない。病院で薬をもらわなければならない。
その行動や気づきをテクノロジーが教えてくれる。
それがQSなのです。
これは価値があるでしょう。
Apple Watchをつけていたことで救われた命もあります。
このQSは今や世界的なムーブメントになっています。
その発端は、『Wired』誌の編集者であるケヴィン・ケリーとゲーリー・ウルフが二〇〇七年に掲げた理念に基づき、二〇〇八年にウェブサイトが開設されたことである(以下、QSサイトでは、認知向上やダイエット、心拍数、お金、排卵周期と妊娠ん、生産性、睡眠など、多岐にわたるトピックが扱われている。しかし、それに共通のモットーがある。すなわち、「数字を通じた自己認識(self knowledge through numbers)」、あるいは「データ駆動型の生活」である。
QSはQRへー個人から社会へー
個人活動で終わることがない生活
これだけ聞いていると、個人の人生を健康に富んだものとして役立つ装置だということがわかるでしょう。
ところが、個人の生活だけに終わらないのがQSの魅力なのです。
例えば、読書アプリ「読書メーター」では、読書の感想を書き込むと他のユーザーから「いいね」をもらえたり、コメントをもらえたりする。
他のユーザーとのコミュニケーションが読書週間を継続させ、アプリの継続使用の動機ともなるわけだ。
要するにサービス提供者は実践の広がりの中で、利己的な関心が利他的なものに繋がることを、ユーザーがはっきり意識出来るように使用を変更し始めているのだ。つまり、ユーザーは、セルフトラッキング・データの提供という隠れた貢献だけでなく、動機を生み出すシステムの一部として、より具体的で、より意識的な貢献を促されているわけである。
このような、他者との関係性を維持・改善する目的でセルフトラッキングを活用する実践は、QSと対比して、「定量化される関係性(Quantified-relationship)」(以下QR)と呼ばれている。
QRの特徴は「可視化」「動機づけ」「監視」にあります。
当然、誰かとアプリなどで交流を図ることは、自分がしたことが「可視化」され、それを評価されることで「動機づけ」が起こります。
加えて、それは自分の行動が誰かに「監視」されていることでもあるのです。
ですからQRを論じるときは能力を伸ばすためにヤル気やきっかけだけでなく、
「監視」されているという問題も論じられているわけです。
「監視」と自律の難しい関係ーオデュッセウスとフーコーの監視論ー
この「監視」という言葉をきいて、本ブログや政治や哲学などを好きな方は
「生権力」で有名なフーコーを思い出すでしょう。
政治権力に自身の生体情報を握られ、監視下におかれている。私たちは気づかぬ間に支配されている、という考えです。
しかし、この「監視」が一概に悪いのかどうかは考え物です。
オーストラリアの哲学者・生命倫理学者ジュリアン・サブレスク(ゴッドマシンという思考実験で有名な人)は古代ギリシャのホメロスが著した『オデュッセイア』を例に、「自律性」の問題についてかたっています。
本書の記述を約めて要約します。
オデュッセウスは航海中にセイレーン上半身が女性、下半身が鳥の怪物たちが棲む島を通り過ぎる必要がありました。
セイレーンは歌声で人々を誘惑し、うっとりした人を食い殺すという怪物です。
オデュッセウスは対抗するために船員の耳を蜜蝋で塞ぎます。
そして、自分のことは船のマストに縛り付けました。
島に近づいたところでオデュッセウスは誘惑され部下に対して
「自分の縄をとけ!」と騒ぎ出しますが、彼等はその縄を更に堅固に縛ります。
かくして、オデュッセウス一行はセイレーンの島を通過できたのでした。
というのが、『オデュッセウス』にある逸話です。
この話は何を伝えたいのでしょうか。
それは「人間の自律性」についてです。
人は自由が大事だ!と腐るほどきいたことがあるでしょう。
しかし、そんなにいうほど「自由に価値」はあるのでしょうか?
自由であれば、幸せなのでしょうか?自由の目的は?
オデュッセウスは部下達に縛り上げられなければ、セイレーンの餌食になっていました。
彼は自分自身に制約をとりつけることで、自分を守ったのです。
これと同じようにセルフトラッキングは技術を利用することで、自分の能力がどの位置にあるのか。何ができて、何ができていないのか。
そして、利他性を帯びたQRにより、一定の制約を受けることで、かえってその人個人の自立性が増す!ということが本書では語られています。
私たちは自由に価値があるのかどうかを一度考え直すべきときがきています。
本書の紹介はここまでで終わりにしますが、フーコー=監視論、というありきたりな考えについても堀内氏は第五章において検討しておられます。
そのため、興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思いますし、フーコーの使われ方も論者によって差があることは非常に重要な点だとおもいます。
当ブログでも「自律性」については以前紹介しておりますのでよかったらよんでみてください。
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
よりよく楽しむための読書案内
さて、本書は能力向上にセルフトラッキングが使えるという話をし、更にそこから浮上する「監視」についても筆が及んでいる。
「監視」については第四章以降で十分に語られているので、本書を手に取って読んでいただきたい。
noteで触れてしまった。
以下、本書を更に楽しむための私ズンダの過去記事および書籍を紹介する。
↓西垣通、河島茂勢によって書かれた『AI倫理』(中公ラクレ)である。
自律性についてAIを通じて語った本で、AIから「人間における自律」が浮かび上がるという逆説的な語りが面白い。
↓AIを通した人間の学習や自律性の違いについて語った本。
『啓蒙思想2.0 政治・経済・生活を正気に戻すために』 (ハヤカワ文庫NF)。
保守主義の価値を讃えながらも理性を重視する左翼的なチカラも社会を維持したり、人類の向上には貢献すると述べた本。そのためにナッジなどを適宜利用していくべきと主張する。
ご存じ、Apple Watch。本書を読んで、セルフトラッキングに惹かれた人や健康事情が気になる人はつかってみてほしい。
毎度、おなじみkindleの紹介。読書のお供に役に立つ。
↓コロナにおける権力のありかたや最新の治療について書かれた本の紹介。