学校でも会社でもTwitterでも、
どこの場においても「人それぞれだよね」という結論が出される瞬間、ありませんか?
私ズンダは子供の頃から、この言い回しが嫌いで、「じゃあ、喋らすなよ」と思いながらきいておりました。
突拍子もない意見なのか、自分の発言ことは人から受け入れられることが少なく、相手と話していても結句、「人それぞれ」といわれて物足りなく感じました。
今回紹介する本はこの「人それぞれ」が正しいのか?ということがかかれています。
結論からいうと、著者の山口氏は「正しい」と考えておられません。
いったいそれはなぜか?
見ていきましょう。
一九六〇年代に相対主義が広がる
相対主義とは「人それぞれ」という主義のことです。
第二次世界大戦後に植民地諸国が独立戦争のけ、次々と独立していった時代であり、拘引兼運動(アメリカにおける黒人の権利運動)やフェミニズム運動(女性の権利運動)、さらには同性愛者の権利運動が盛り上がった時代でもありました。
ここにヴェトナム反戦運動も加わります。一九六八年には運動はピークに達し、世界的に学生や市民の大規模な反乱が起こります。
つまり、昔は「女は家にいろ!」「黒人はひどい扱いを受けるのが当然」「国家のために戦争で死ぬのがふつう」といった価値観があったわけですが、時代は変わり、人々は「杓子定規で決まった考え方はただしいのか?」という疑問をもちはじめます。
という背景があります。
うちのブログでもよくとりあげられる一九六〇年代です。
今SNSで騒がれているフェミニズム(ツイフェミ)やキャンセルカルチャーなどはこの時代の流れを汲んでいます。
「女性の権利を!」とか「差別反対!」とかです。
運動初期の段階では「黒人」対「白人」、「男性」対「女性」といったものでした。
徐々に多数派集団と少数派集団の対立ではなく、「人それぞれ」という考えが蔓延してきます。
「内輪もめ」が始まったからです。
異議申し立てを行っていた集団内部で、さらなる多様性が発見されていきます。
たとえば、女性の権利運動を行っていた「女性」たちの内部で、「黒人女性」たちが「白人女性による支配」を告発しはじめました。さらに、「白人女性」といっても、高所得の人と低所得の人とではやはり立場や利害関係が異なります。
というように、大きな枠では捉えきれない細かな違いが運動途中で意識されはじめ、彼等は分裂してしまいます。
結果として運動の目的であった黒人や女性や同性愛者への権利は重要である、という考えは浸透しました。
ですが、異なる個人が連帯しつづけるという課題が残ります。
フランス現代思想と新自由主義
この後、ジャック・デリダやドゥールズやガタリに代表されるフランス現代思想がはやります。
彼等はこの問題を考え、論理や言葉をあえて組み替えることで人の思考の枠組みを変化させ、解決しようと目論みました。
ですが、相対主義的な要素は新自由主義に絡め取られてしまいます。
一九九〇年代に入るとアメリカにおいて新自由主義が隆盛を極めます。
これらは経済学者のミルトン・フリードマンやリバタリアニズムの哲学者ロバート・ノージックの思想を背景としています。
要するに、
「自由で人それぞれな世界において、国家の介入は殆どないほうがいい。国家の権力が強まるよりも市場に任せておけば物事は合理的に推移し、万事うまくいきやすい。」
という考えです。
山口氏によれば現代思想は「自由だけで無く平等の理念を重視していた」が「新自由主義はその名のとおり自由を偏重し、平等を軽視します。」というものらしいのです。
しかし、先ほどもみたように、一九六〇年代の公民権運動やフェミニズム運動があり、「自由こそが素晴らしい」という流れに新自由主義はぴたりと合致してしまったわけです。
こうして一九六〇年代の運動は一九九〇年代の新自由主義に吸収されていきます。
新自由主義は、個々人の自由を偏重して平等を軽視します。
個々人は、他人に迷惑をかけない限りを何をしてもよいと考えます。これは、一見すると他人を尊重しているように思うかもしれませんが、要するに他人と関わらないでおこうということです。(中略)つまり、新自由主義こそが「人それぞれ」の思想だといってもよいでしょう。
↓これらのことをもっと詳しく知りたい方は私が書いた記事を読んでください。
人それぞれというが、共通した部分がかなりある
そして日本においても新自由主義は伸張します。
鉄道や郵政の民営化、国家公務員の削減。
金子みすゞの詩「みんなちがって、みんないい」(私と小鳥と鈴と)などがでてきます。
でも、人はほんとうに「それぞれ違う」のでしょうか?
人は実はそんなに違はない、のです。
第二章をみてみましょう。
サピア・ウォーフの仮説とよばれるものがあります。
言語学者のサピアとウォーフの名前を合わせてつくられた仮説です。
これは「言語が違えば世界が違ってみえる」という言語相対主義をあらわしています。