アメリカの大学生は傷つきやすい、といったら皆さんはどうおもわれますか?
日本の若者のはなしじゃないの?
と思われるかもしれません。
しかし、これはアメリカの話です。
世代的にはZ世代とよばれる人々です。
Z世代(ゼットせだい)、ジェネレーションZ(英: the generation Z)とは、アメリカ合衆国をはじめ世界各国において概ね1990年代中盤から2000年代終盤、または2010年代序盤までに生まれた世代のことである[1][2]。生まれながらにしてデジタルネイティブである初の世代である。Y世代(ミレニアル世代とも)に続く世代であることから「Z」の名が付いている。
物心がついたときにはインターネット回線が各家庭にあり、SNSも当たり前のように存在していた。
そんな時代に育ち、大学生になった彼らのことが本書では取り上げられています。
一言で言ってしまうと、今の大学生はみんな脆弱である、というのが本書で述べてあることです。
この脆弱の意味とは、鬱病や精神不安や自殺や議論などを避けたり、嫌いな意見や見解自体をこの世界から抹殺してみないようにする、などという意味での脆弱です。
要は無菌状態で成長させられ、何の免疫力もなく、自分と異なるモノに対してどうふるまえばいいのか、納得すればいいのか、うまく回復すればいいのか、そういった生きる上で必要な態度が身についていない子供のような大人になってしまった世代ということです。
この本でかかれているのは、年長者による若者へのありきたりな老いの繰り言ではありません。
社会全体が脆弱な若者作りに加担してきたという批評なのです。
弱い大学生たちとなぜいえるのか?
安全イズムの蔓延
ピーナッツアレルギーをご存じでしょうか。
マメ科のアレルゲンでほかによく知られているのは大豆ですが、ピーナッツは少量でも重篤なアレルギー反応を起こす可能性の高いアレルゲンです。アレルギーの症状は、口の周りがかゆくなって赤くなったあり、全身にブツブツが出る程度から、喉が腫れて呼吸困難に陥り、アナフィラキシーショックを起こして死に至るケースまでさまざまです。
というように死に至る可能性がある危険なアレルギーです。
アメリカはピーナッツを食すと危険性があるため親や先生達はピーナッツに触れさせないようにしました。
ところがその後、ピーナッツアレルギーをもつ子供達は90年代半ばでは8歳以下で1000人中4人だけだっあのが、2008年の調査では1000人中14人に増えてしまいました。
2015年に幼児期からピーナッツを含む食品を習慣的に摂取すれば、アレルギー性免疫反応ではなく防御免疫反応が引き出される」という仮説から実験が行われ、衝撃的な結果がました。
ピーナッツから「守られて」いたグループはアレルギー反応が出た子どもは17%だったのに対し、あえてピーナッツ製品を与えてきたグループではたった3%だったのです。
つまり、子供を「安全な状態」にすることで避けられるであろうと思っていた危険性が、「安全にしたため」に倍加してしまったということです。
トラウマの拡大解釈ー下向きの広がりという問題
これはピーナッツだけの話ではありません。
20世紀にはいって以降「トラウマ」という言葉がやたらにつかわれるようになりました。
過去に経験したことが不安のタネとなり、似たようなことが起こる度に思い返され、痛みを感じることです。
誰にでもそういったものはあるでしょう。
しかし、この言葉があまりにも拡大解釈されてしまうと、私たち人間は「何も経験できない」ということになります。
何をしても「トラウマになる可能性」はあるからです。
心理学者のニック・ハスラムは「コンセプト・クリープ」とよんでいます。
これには二つあります。
・下向きの概念(それほど深刻でないものにも適用される)
・外向きの広がり(関連する新しい現象をも包含するようになる)
彼によると、「トラウマ」は精神疾患の判断マニュアルであるDSMの初版と第二番まではあくまでも「身体的ダメージを引き起こす物理作用」としてのみつかっていました。
これが1980年の改訂版になると「PTSD」の心的外傷後のストレス障害まで加わるようになります。
つまり、経験したものがその後の人生に外傷として残るというふうになったのです。*1
ただし、判断基準は非常に厳格で主観的な基準ではみとめられません。
戦争、レイプ、拷問などの本当にえげつない行為から引き起こされるものがトラウマと判断されるのです。
ここに死別や離婚などは入りません。
つらいことですが、乗り越えられるものだと考えられているからです。
ところが2000年代になると治療共同体(薬物依存や精神疾患などの人らが共同でくらし、人間性の回復を促進するプログラム)の一部で「トラウマ」の概念が下向きに拡大します。
「身体的または感情的に傷ついたものとして個人が体験し(中略)個人の機能、ならびに精神的、身体的、社会的、感情的、あるいはスピリチュアル的な健康に持続的な悪影響を及ぼす」ならどんなものでもよしとされるようになった。
つまり客観的な基準によって「トラウマ」を判断するのではなく、主観的になってしまったわけです。
また「感情的に傷ついたこと」も加えられました。
気軽に「トラウマです」といえる時代の到来です。
ここで問題なのは「下向きへの広がり」です。
これが広がってしまうとありとあらゆることがすべて「トラウマ」といえてしまいます。
たとえば、子供が同級生に軽い悪口をいわれたぐらいで「トラウマ」になってしまう可能性があります。
人から悪口をいわれない人間などいないのですから、ある程度まではたえるしかありません。
日本でもADHDと自称するひとびとがいるけども・・・
日本だとこれに似ているのは「ADHDやASD」がありますね。
バク:しばらく前は、「セルフうつ診断」がネットですごく流行ったんですよ。「うつでも恥ずかしくないんだ」みたいな風潮が世間に広まりはじめた頃ですね。それがなぜか今では、発達障害にシフトしているんです。
おそらく、「生きづらさ」を病気のせいにしたい人がセルフ診断して、「病気だからしょうがないじゃん」と自己完結してしまっているんでしょうね。
──「生きづらさ」を病気のせいにしたい人、ですか。
バク:いや、今ね、そういう「ファッション発達障害」の人、めちゃくちゃ多いんですよ。
「ADHDだから遅刻してもしょうがないじゃん」とか「ADHDだから提出期限破っちゃった」とか文句を言うわりに、病院に行ってちゃんとした治療はしない。
私も以前、「実際に受診して発達障害と診断されたら、人生が終わっちゃう感じがするから嫌」とか言われたことがあって、ええ~~!? みたいな(笑)。
──なるほど。そういう生きづらさの言い訳に利用する「ファッション発達障害」の人が増えたのも、「甘えじゃないか」という誤解が生まれた要因のひとつかもしれませんね。
バク:そもそも、本当の発達障害の人は、自分がそうであることに全く気がついてない場合が多いんですよ。私自身も、医者になってからたまたま検査を受けてはじめて、「ああ、あの生きづらさってADHDのせいだったのか」と気がついたくらいですから。
要するに自分勝手に「俺はADHDだから」といってしまう。
これは「下向きの広がり」の良い例なわけです。 *2
痛みを回避することを目指し、痛みを回復することを避ける
トラウマなどは誰もが抱えていたりするものですが、それは自然回復したり
あるいは認知療法などで回復させるものです。
ところがこの誰も傷つけさせてはならない「安全イズム」とよばれる方向性は
それらを一切、無視し、傷つかない人生という不可能事を達成しようとしているのです。
ハーバード大学心理学部のリチャード・マクナリーは次のように述べています。
トリガー警告はトラウマ体験を想起させるものを回避しようとするもので、治療に逆行しています。回避したところでPTSDの症状は変わりません。授業の内容がきっかけで激しい感情的反応があったのなら、それは自分の心の健康を優先しなさいとの信号です。医学的エビデンスに基づいた認知行動療法を受け、PTSDの克服に努めるべきです。認知行動療法では、段階的かつ体系的に、トラウマとなっている記憶にあえてさらすということを、苦痛を引き起こす力が弱まるまで続けます。
ここでいわれている「トリガー警告」とは以下のことです。
事前の警告。映画や本などで、その取り扱うテーマや記述、描写などに、一部の人の感情を害したり、気分を悪くさせたりするような部分があることを前もって警告しておくこと。これを怠ると観客や読者から訴訟を起こされかねない。
何らかの文学作品を読む場合、殺人の描写があります、というふうに警告しておかないと学生から訴えられる可能性があるので最初に示しておかなければならないというわけですね。
とんでもない考えで、こんなことまでやってたら学生は何にも触れられないと思うのですが、ゾッとしない時代になったものです。
リチャード・マクナリーのいうとおりで何かをする以上は何かは付きものです。
恋愛にしても結婚にしても失恋、離婚、死別などは可能性としてはあり得る。
しかし、これが人生には付きものですし、私たちはそれを受け入れるしかない。
何らかのトラウマや精神病にかかった場合は病院で適切な治療を受けるしかないわけです。
リスクを完全になしにするという極端な方向へいってしまっているわけです。
無論、傷つかないにことしたことはありません。
著者であるグレッグもハイトも「社会正義」自体は問題視していません。不正や社会の不平等をなくすための方向性は支持すると述べています。
ゼロコロナって、この話と同じでは?
私ズンダは以前、以下の本を紹介しました。
今時、コロナで騒いでいる人はそんなにみかけなくなりました。
それでもマスクをつけるかどうかでTwitter上では罵り合いが続いています。
ゼロコロナという言論は『傷つけやすいアメリカの大学生たち』でかかれているのと同じく、「安全イズム」が過度になった結果、コロナによる犠牲者をゼロにするという途方もない思想でした。
もちろん、こんなことは不可能です。
かくしてZ世代の特徴はこうなった
この「安全イズム」がもっともみられるのが2013年頃に大学に入学してきた世代です。
サンディエゴ州立大学の心理学教授で世代論の第一人者であるジーン・トゥエンジ(Z世代は鬱病や精神不安や自殺者が多いというデータをだしている)の見解を含めながら以下のような特徴があるといっています。
①「安全であることに夢中」で、彼らがいう安全には「感情の安全」が含まれる
「感情の安全」を重視するあまり、「車の事故や性暴力だけでなく、自分と意見を異にする人たちからも安全であるべき」と考える者がたくさんいる。
②大学構内の雰囲気がかわった。セーブベースの設置や安全トリガー警告などの広がりをみせたのは、Z世代が入学した2013年からである。
そして、彼らのような脆弱な世代をつくりだしたのは、彼らよりも上の大人達のせいである、というのです。
これらの要因に関しては本書の第六章から読んでください。
終わりにー関連図書一覧ー
本書では大学におけるキャンセルカルチャーの理由が「安全イズム」の蔓延によってひきおこされたとし、その現況と、なぜ起きたかの六つの要因、さらにはそれへの対策などが語られている。
大学生の軟弱さに焦点を当てているため一種の教育論の趣きがある。
キャンセルカルチャーの思想的背景を扱ったというよりも、現在のアメリカで起こっている事件やその要因、対抗策が主にかかれているので、ルポタージュのようでもある。
非常に読みやすい本である。おすすめしたい。
また今年はこれらのキャンセルカルチャーについて書かれた本が多くでており、ほぼ同時期に早川書房から『「社会正義」はいつも正しい」』もでている。
こちらはキャンセルカルチャーと遠因にポストモダン思想があり、これらフェミニズム、クィア理論などがごちゃごちゃと混ざり合った状況を端正な筆致でかいている。
思想に興味のある人はこっちのほうが楽しめる。
合わせて読むといいとおもう。
具体的にどんな事件があったのかを知りたい人向け。
もっと軽くキャンセルカルチャーについて知りたい人は以下の本を。
BLM、銃規制、同性婚、ダイバーシティ、妊娠中絶、移民について触れられている。
『キャンセルカルチャー ~アメリカ、貶めあう社会』
日本の社会においてキャンセルカルチャーはどうなっているのか。
米欧ほどひどくはないが、Twitter上における炎上にはそれに近いものもあるのではないだろうか。『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』
こちらも炎上問題を扱った本。
「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症
格差や分断などで混乱しているアメリカの現状を知りたい人におすすめの本。
『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相剋』
また、悪口の問題に関しては以前、私ズンダが紹介した本を読んで頂きたい。
ヘイトスピーチや差別発言についても考えることができる優れた書物である。
Kindle加入のすすめ
前の記事でも述べたように私ズンダはとにかく部屋を汚くしたくない。
そういうわけで本もkindleで読むようになってきてはいる。
ただし、大部のものは本媒体ではあるが。
とにかくがさばらないし、値段もやすいし、どこでももてるという点でkindleに勝るモノはないのですすめる。
*1:※『ライ麦畑でつかまえて』で有名な作家サリンジャーの人生を追った映画がある。この中でサリンジャーは第二次世界大戦後に不安障害になり、PTSDを発症していたが、当時の医学では認められていなかったことが描かれている。
*2:※ちなみに、『社会正義はいつも正しい』(早川書房)によると、海外ではこういった障碍などを利用し自分の政治的な立場をつくりだすことで強固なアイデンティティとしてわざと誇示する人たちがいるという指摘されている。212~214頁を参照)
*3:私ズンダはこの本を読んでいて少し気になったのは、これがいきすぎると今度は「自己啓発」になってしまいかねないということです。というのもこの本で書かれていることは結局、自己啓発系youtuberと同じだからです。その当たり、この本はやや射程が短い。深みがないのです。キャンセルカルチャーをとりあげたもので、その要因を社会にあるとしながらも、個人の努力で克服するように仕向けてある本はめずらしい。ある意味、実践的ともいえるでしょう。これが本書の最大の特徴ですね。