今回紹介する本は『東大生、教育格差を学ぶ』(光文社新書)です。
東大生、教育格差を学ぶの感想文
東大生はおおむね自分たちが教育環境において恵まれている、といわれていることを知っているようである。彼らの中には「自分たち
の努力も認めて欲しい」という意見があり、これはもっともだとおもった。
いくら環境がいいからといって、彼らが何もしてこなかったわけではないし、その勉強への熱意や試験に受かるための目標設定、工夫などは正しく評価されるべきであることはいうまでもない。
東大生での教育論、やはり問題は自分たち東大生がマイノリティなのにもかかわらず、世の中を支配してしまうこと。
さらにはいかにしてSESが低い人々や学力のない人たち、反学校的な人たちを想像できるのか?ということを語っており、ほんとうにそうだよねって感じ。
学校が正しい、という価値観をもたない人々
『ハマータウンの野郎ども ─学校への反抗・労働への順応 』があげられていて、知識階級への反発、学問への軽蔑など、おもしろいな、と。
また、岸政彦がいう「他者の合理性」やライト・ミルズの『社会学的想像力』は松岡氏のデータによってやりやすくなる
相手のことは知識がないと想像できない。
「努力すれば何でもできる。努力したから東大に受かった!」はこの本のなかで東大生が何回もあげている。
自分の能力のみでここまできたんだという気持ちについて、
東大生は
「我々の努力自体を否定されるのもおかしいが、
一方で、環境で人の人生が決まりやすいのも認めなければならない」
といっている。
この慢心を改め、人の人生に対して寛容になることの大切さがかかれている。
松岡氏や教育学者が重視しているのは「教育格差」と「学歴格差」のうち前者である。このうち「教育格差」という生まれた瞬間から親の経済的事情により始まる格差を問題視している。
一方で、そもそも勉強が正しいのか?という東大生側の疑義も重要。
大学までいくことが正しいわけではない。
ちなみに教育環境が高いことをSESが高いといい、低いことをSESが低いという。Socio-economic Statusの略。
しかし、想像力は結局は、非対称的なものになるよね。
労働者はどうやって環境に恵まれた側のこと知ることができるのだろう。
どうやったら、理解ができるのであろうか。
その機会をどこで得るか。これが難しい。
学校外でということになれば、やはり、テレビやTwitterやyoutubeなどになるだろうか。
東大生は労働者側を労ることが出来ても、労働者側は知識を獲得することが難しいので想像力をつくることができないのだから。
メディアリテラシーにしても、東大生側は数多くの知識や学問を身につけることが得意だが、それこそ中卒や高卒などで仕事をしながらそういった問題に関心をもち、情報を処理していくことはむずかしい。
たとえば、この本一冊を読むのに、どれだけの時間がかかるだろうか?というのはその人の読書力や知的さによるだろう。
ときたま、底辺ほど同じように苦しんでいる人々に冷たい、などといわれているが、もしかすると、知識を得られないためにそうなっているのではないかと思えた。
この非対称性は常に人々のモノの見方にかかわってくるだろう。
だが、社会を作る側にまわるのは東大生なのでその非対称性が悪いともいいがたい。
知的な仕事に従事している人間と肉体労働が多い人々との埋めがたい差である。
いろいろなことを考えさせられる実に面白い本だった。おすすめ。
↓本記事に関係するものとして以下の文章もよんでもらいたい。