千葉雅也『センスの哲学』を紹介する。
センスについて考える
※本文中にある太字はすべてズンダによるもの。
今日紹介する本は千葉雅也氏の『センスの哲学』(文藝春秋)です。
千葉氏といえば私ズンダも以前紹介した『勉強の哲学』などで有名な方ですがこのたび、芸術などの「センス」とはどういったものなのか。どう鍛えていけばいいのかについて書いた本を出版されました。
小説みたいな哲学書
本書『センスの哲学』は中身が取りやすいようで取りづらい。
もう少しはっきりかけるところをに靄がかかったまま最後まで読むことになる本です。
私ズンダはこの本を読過しているときTwitter上で「小説っぽい」と呟きました。
この本、哲学的というか、もう小説的といったほうがいいような気がする。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) 2024年4月5日
普通の新書や論文であれば内容は直截簡明にかかれ、その章ごとに一定の理解をし、次の章にとりかかれる。
けれども、千葉氏の書き方は「尻尾はでているが、肝心の頭が先延ばしされたままでてこない」ようになっており、それがいかにも小説のように私には感じられたのです。
言いたかったことだけに限定すれば「はじめに」と「第一章」で大体でています。
ですので、その「頭」の部分を過大に求めすぎると肩すかしをくらうかもしれません。
しかし、それが余計に小説っぽいのです。
小説も要約してしまえば数行で済んでしまいます。
でも納得したり感動したりするには感情の起伏に身をまかせたり、論理的に思考を巡らす経緯がかかせません。
この本の書かれ方そのものが『センスの哲学』そのものをあらしているかのようです。
リズム(形のこと)の把握、あるないの切り替わり、0→1の「うねりとビート」を感じること、この千葉氏のセンスの説明は、まるで読書しているときの自分だと思いました。
また、ところどころに『勉強の哲学』で出てきた内容がさり気なく書かれており、以前の本を読んだ身としてはそこに気づいたとき「おっ!」と宝物を発見したような気持ちなります。
人の人生
センスのために文化資本をみよう
では、千葉氏はこの本でどのようなことをいっているのでしょうか?
見ていくことにしましょう。
千葉氏は哲学者ですが、中学時代には美大に進もうと思っていた時期もあったらしい。
小説をかいたり、ピアノを弾いたり、美術制作も書いたりしている千葉氏は「芸術と生活をつなげる感覚」を伝えたいとのこと。
センスのよしあしは「文化資本」に大きくよっているといわれています。
文化資本とはピエール・ブルデューが提唱した概念で一般的には
「親の文化を子が自然に受け継ぐこと」を意味します。
つまり、親が裕福であったり学歴が高かったりすると、その文化を子供は自然にうけとることができるわけです。
その文化資本が少ないほど子供が受け取る資本も少なくなります。
すると幅の狭い人間ができあがってしまう確率が高まるわけですね。
今だとちょうど講談社新書のほうで『体験格差』という本がでました。この本では親の資本力によって子供が体験できるものに違いがあるということが示唆されています。
※ちなみにブルデューの「文化資本」は社会学者含め、多くの人が勘違いしているという指摘が磯直樹氏によってなされているが、その是非は私ズンダにはわからないので一般的な使われ方で今回は説明した。仮に千葉氏の「文化資本」がブルデューのものと異なっていたとしても特に問題はない。
「ここで注意しておかなければいけないのは,誰かの研究成果がブルデューの立場
と違うからといって意義や価値を損なうわけではないということである。文化資本
概念はそれぞれの研究者がそれぞれの立場に応じて定義して使えばよいだろう。た
だし,ブルデュー「の」概念として文化資本を論じるのであれば,ブルデューのテ
クストに即して論じるのが論理的であり,引用の仕方として正しい。」(磯直樹「ブルデュー派階級分析の理論と方法」より。太字はズンダ。)
「文化資本」はセンスとどう関わるか
この「文化資本」が大きい人に勝つことは難しいが、そこでの判断力のポイントを学ぶことは可能だといっておられます。
「文化資本」がでかい人たちに対抗できるというわけですね。
いわば、人間とは「認知が余っている」動物で、余っているからいろいろ見てみたくなるけれど、自分を制限しないと落ち着かない、というジレンマを生きている。僕はそんなふうに人間を捉えています。(23頁)
・文化資本の形成とは、多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作ることである。(24頁)
この意味は、別のジャンルにあるジャンルを繋げる役割を果たします。
たとえば、ファッションの判断は、美術や文学の判断ともリンクする。ファッションが文学に、料理に、仕事の仕方につながるといった拡張を信じられない方も多いと思います。だんだんと体を柔らかくして、「ものごとを広く見る」モードに入ることが、センスを育成していくことです。(24頁)
といわれているように、一見すると関係ないようにみえるが、これが実は関係があるのではないかと「物事を広く見るモードに入る」ことが、センス育成の意味であり、文化資本の形成はこういう点で役に立つということです。
何か真似てみたとき、何かが出てくる、それがセンス
センスを我々はどういう時に感じるか。
それは「ヘタウマ」の状態です。
私たちは絵であれば何かを模写します。
正確にうつそうとしますが、そんなにうまくいかない。これは「下手」といえる。
ところが「ヘタウマ」とは
「再現がメインではなく、自分自身の線の運動が先にある場合です」
と千葉氏はいう。
ゴッホもピカソもモネも現実にある存在を書いているが、明らかに現実そのままではないでしょう。しかし、その人の個性が浮いてくる。これがセンスの「生活感」です。
定式化すると
・不十分な再現性+無自覚に出てしまう身体性
です。
そしてこれはセンスが悪いと一応はいえるわけです。
現実をうまく模写できていない、書道でいえば臨書になってない。
不十分な再現性なんですよね。
ところが、これこそその人の個性でもある。
つまり、悪いセンスなんだけれども、考え方をかえれば、あなた自身が出ているともいえる。
ここで千葉氏は「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである」といいます。
忠実な再現を諦める。諦めて、自分ができるモデルの再現をしていく。
でも、一つのことに執着しているとここから降りることが難しいわけです。
いわば、サンクコストですよね。
一つに執着してしまう。
ここで「文化資本」があると異なるわけです。
文化資本はビッグデータ
文化資本はビッグデータと同じです。
幅広く、多くのことを知っていたり、体験したりしている。
それゆえに特定のモデルに偏らずに済む。
大量のデータから抽象され、生成する。
モデルに対して再現志向ではなく、というのは、AIのように「学習」を経た上で、新たなものを生成することです。そのときの学習とは、モデルをより正確に理解しようとする「がんばる方向」ではなく、むしろ、忘却や省略や誇張などがポイントなのです。(47頁)
「センス」は鍛えられる側面がある一方で、自分自身の「固有性」、「限界」からはのがれることができないもの
さて、この「へたうま」これこそが我々各人がもつ「センス」のあらわれです。
ここで「はじめに」の千葉氏の言を引きましょう。
「みんな違ってみんないい」というのは、ウソっぽい明るさがあると僕は感じますが、もっと翳りのある話をします。
むしろ、人間の「どうしようもなさ」をどう考えるかという話になります。どうしようもなさ、はそこには、何か否定的なものが含まれます。人が持っている陰影です。(25頁)
その破綻というのは、その人固有のものというより、「ある種のテンプレのその人なりの表現」だったりする。固有の人生がなぜか典型的な破綻に取り憑かれてしまう人間という存在の愚かさが、人をそこへ巻き込む悪魔的魅力となる。
そのようなものを魅力と捉えるのはよくないという意見もあるでしょう。それを言う必要もある。しかし人間の個性的悪を消し去ることはできません。それを消し去ろうとすることこそが巨悪であると僕は信じます。ゆえに、重要なのはやはりジレンマです。(214頁)
要するに我々はうまくなろうとして誰かを真似る。あるいは文化資本のある人々が羨ましいとおもう。
しかし、私たちの中にあるなんともいえない「固有のセンス」はどんな状況にあろうが存在しており、他人と自分との差を感じながらも、自分のそのセンスと一緒に生きていくしかないわけです。
その「センス」はいいものかもしれない、わるいものかもしれない。いいものをめざし続けるか、諦めて自分の個性を受け入れるか。そこに強烈なジレンマがある。
千葉氏がセンスの陰影をかるく残念そうにいう理由は個人の「限界」にあるからです。
私たちは何かを学ぶ。書店にある自己啓発本も、youtubeにあるビジネスの動画も、
みな学ぶことを素晴らしいとし、人は無限に成長できるかのようにのたまう。
ですが、個々人の中にある「センス」はその人の個性をあらわすと同時に、「限界」もみせてくるわけです。
模写で考えれば、「完璧に真似できなかった」という諦観があり、一方でそれゆえの輝き=その人のセンス、もある。
この本ではその「限界」=「固有性」にその人の特色が反映されるとみていますし、最終的には「センスについてあれこれこねくり回してイジろうとしても、どうにかなるものではない」というその限界性を認識することで「センスを超えたオチ」がついているのです。
ここまで追ってくると、人生論ですよね、これは。
人の人生はままならない。ゲームのステータスのように調整したい部分を鈕(つまみ)で都合良くあげたり、下げたりなんて出来ない。
しかしそれが人間が生きるということであり、何か芸術作品をつくるということなわけです。完璧で理想的な条件、そんなものはやってはこない。何処かで仮固定して何かをやっていくこと、それがセンスのあるなしを超えた状態であり、私たちの結果なのです。
最後に小説のような表現で、センスを纏め、千葉氏は本書を結んでいます。
・どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。一人暮らしの狭い部屋は、ラウシェンバーグの画面に似ている。(216頁)
リンク
読書案内
千葉氏が本書の参考文献としてすすめているもの、ズンダが個人的にこの本を読むときに頭に思い浮かべていた本を紹介する。