コロナが世界で蔓延し、日本でもこの疫病に対してどう対策したらいいのかで議論がごった返している今日この頃。
大きく分けて意見は二つ。
ある人は都市封鎖を、ある人は経済とコロナとの共存を唱えています。
ところで、フランスやイギリスなど先進国は政府が強権を発揮し、商売や散歩なども一切禁止、違反した者には罰を与えるなどの日本では全く考えることのできない状態になっておりました。
翻って、我国日本ではあくまで自粛要請であり、国民一人一人の判断や同調圧力に委ねられています。
ここで誰もが考えることがあります。
政府はどのぐらい力をもつべきなのか、ということです。
私たちは政府によって縛られるべきなのか、あくまで自主的な判断によって動くべきなのか。
皆さんはどう思われますか。
さて、今回紹介するのは今から140年ほど前にうまれたドイツの政治哲学者カールシュミット(一八八八~一九八五)です。
彼はドイツ、ワイマール共和国の濫立した政党や腐りかけた議会制に違和感を覚えていました。
政府が何かを主導し、決定することができない。そんな弱権に価値はあるのだろうか。
シュミットはワイマール共和国の制度に失望していました。
結果、ナチスドイツの御用学者になってしまいます。
いったい彼にとってワイマールの何が悪かったのでしょうか。
そして、なぜ政治には「決断」が求められるのでしょうか。
蔭山宏『カール・シュミット』(中公新書)をみていきましょう。
政治学の「例外」と「政治的なもの」
「例外状況」とはなにか
シュミットは『政治神学ー主権論のための四章』において、「例外状況」という概念を打ち出します。
「例外状況」は「現行の法秩序が停止される状況を意味し、時には人びとの生死が賭けられている状況にもなる」というものです。
ある状況になったとき国家は法律等を度外視して、強制的に国民の自由を束縛したり、戦争に従事させたりすることができる、「例外状況」は日常から離れたことを意味します。
政治には「決定」が欠かせない
更にここから、その「例外状況」を「決定」する存在こそが「主権者」だといっています。
例外状況を決定することの二重性
①例外状態であることを決定する
②例外状態の際に何をするかを決定する
この二つを指します。
ここまでいうと、独裁っぽくきこえてくるかもしれません。
主権者が都合のいいように「例外状況だから!国民の自由を禁ずる!」とやれなくもないからです。
しかし、シュミットの「例外状況」とはあくまで秩序に則った上での「例外」です。
「法秩序」は影が薄くなるけれども、「例外状況」を決定できる主権者がいる以上は国家の体は保たれたままである。
シュミットは国家の存立こそが最も大事であり、憲法や国家形態は二の次でした。
いわんとしていることはわかりますよね。
仮に戦争状態や流行病といった非常事態なのにもかかわらず「法律にかかれてないんで、何も出来ません」では困るわけです。
一方でそれが昂じてしまうと「独裁でいいじゃん」となってしまい権力者の好き放題やりたい放題を正当化してしまう可能性があるわけです。
これがシュミットが恐れられている理由です。
「政治的なもの」と「友・敵理論」とは?
シュミットが言うには「政治的なもの」とは「人間の連合または分離の強度」を指しています。
わかりにくいですね。
たとえば、政党や思想によって我々は〈敵か味方か〉の判断を行っています。
そして集団Aの「敵」となった人は集団Aから「分離」していると主観的に判断された場合にはじめてBとして誕生します。
これが彼の政治論の中でも有名な「友・敵理論」です。
「政治的なもの」における最たる区別は、ある集団相互に於いて、敵であるか味方であるかというのです。
そして主権者とは最終的に、客観的な分析を超えた主観的判断による「決定」をなさなければならないということもここではっきりします。
つまり、各党、各人ごとに自分が依って立つところの思想や利益などがあります。
それらが集団化し、ぶつかり合っているのが政治の舞台なわけです。
そこで政治家は調整を行い、均等に富や自由などを分かち合えるようにしていくわけです。
ところがどんなにやろうが完全にその対立を除くことはできません。
どこかで不平等を感じてしまうからです。
そこで「決定をくだす者」=主権者、が要るわけです。
主権者は主観的に線引きを「決定」している存在なのです。
「友・敵理論」はこの主権者の価値を説明しているともいえるでしょう。
こうしてみると、シュミットは我々一般人のように安定した生活や娯楽を望むような世界を政治と完全に対置させているようにみえます。
私たちは違う考えをもった人たちがいたとしても、適当に流すか、距離を保って曖昧にすごすことが多いからです。
いちいち激怒して、ぶつかりあってなどいられないので、模糊として生きる道を選ぶ。そういうのが普通でしょう。
実際、政治思想家のレオ・シュトラウス(『ホッブズの政治学』)はシュミットの
思想を次のように捉えていました。
蔭山氏の文を引用します。
シュミットの「政治の世界」の場合は政治的緊張関係であり、おのれの属する集団が政治的に結束し、他の集団と敵味方関係になる可能性に発する緊張感であり、それが「真剣さ」の根底にあった。
シュミットは「政治のない世界」を描くことによって「政治の世界」の特徴を逆照射する。「政治のない世界」とは友と敵を区別することのない世界である。言い換えれば、「それを根拠として、人びとが生命を捧げるよう要求され、血を流し、他の人たちを殺戮せよと強制されうるような対立が存在しない」世界でもある。(中略)シュミットにとって、それは個人主義的世界の極地であると同時に、「真剣さ」を要求されることのない世界だった。(中略)「政治の世界」のキーワードは「真剣さ」だった。そうして真剣さを担保するのは生命が賭けられているということ、時に生命の犠牲を要求されることがあるという事実に由来する緊張関係だった。※青文字はズンダ
このようにシュミットは政治を真面目に考え、決断するということを基調にしていたため、議会主義や自由主義を否定します。
シュミットは『議会主義論』のなかで次のようなことを述べています。蔭山氏の説明を引用します。
議会主義の核心には、意見を自由に闘わせることによって真理が生まれてくるという、一種の市場原理に立脚した主張があった。言論の自由を認め、自由な意見交換や討論が行われる過程で、真理なり正しい判断が生まれてくると信ずることは、かれにとって、真理というものが他の意見との関連で他律的に決定されることを承認し、みずから正しいと思うことを議会において実現することを最終的に断念することにほかならない。(中略)自由主義に政治の世界で必要な断固たる決断の要因が欠落している根本的理由はここにある。※青文字はズンダ
シュミットに限らずですが、私たちは見解の異なる人たちとある一定以上の諍いが起こらないように何処かで妥協します。
議会においてもそれが行われてしまっているわけです。
ところが議会に価値を置いている人たちは「話し合っていれば、誰もが満足できる至純の結果が待っている」といいがちなのです。
しかし、それは本当に正しいのか?
誰かと調和するために「本当に正しいと思っていることを断念する」のはいいことなのでしょうか?
このようにシュミットの思想は何処までも生真面目であり、政治に真剣さを求めるものでした。
彼にとって、おざなりな政治は政治ではなかった。
それゆえ、ワイマール共和国のドイツを望ましいとは考えられなかったわけです。
シュミットがナチスドイツを支持した理由は、自分の思想を実現してくれる人物が現れ、その機会が到来したからなのでしょう。
終わりに
今回紹介したのはほぼ第一章についてのみであり、前期シュミットといわれる時代の一部のみです。
シュミットの思想自体は矛盾はありつつも、大凡は一貫しております。
蔭山氏にいわせると、「主権、国家、政治という三つの概念が一貫して語られている」とのことです。
この新書ではシュミットの代表作すべてについて触れられており、後期シュミットの『陸と海』や『大地のノモス』や『パルティザンの理論』なども説明されてます。
が、私ズンダ個人としては前期シュミットこそがもっとも面白く感じられました。
蔭山氏は今日の世界に鑑みてシュミットを語るという軽率な行為は控えていますが、私のような一読者としてはどうしても今日日的な問題と結びつけてシュミットをよんでしまいます。
するとやはり、前期シュミットの方が受け取りやすくなってしまう向きがあります。
記事では紹介しませんでしたが『政治的ロマン主義』などはかなり理解しやすい。
政治というよりも人間心理を解剖した本で、私が以前書いた記事『何者』と通底していることから、実に興味深く読めました。
ここ最近、中公新書の紹介が増えてますが、やはり中身が濃いのは中公だなあ、と思いながら、読みあさっています。
ではまた、お会いしましょう。
ズンダでした。