辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思って断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職との対談で知った。 「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。 仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。
そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味が記されていた。それがいつからネガティブな解釈に変化したのか、僕にはわからない。
しかし、「諦める」という言葉には、決して後ろ向きな意味しかないわけではないことは知っておいていいと思う。
今回紹介する本は為末大氏の『諦める力』です。
この本は以前から折に触れて紹介してきましたが、一冊だけを取り扱った記事はなかったため、この度、書いてみることにしました。
為末氏の陸上人生
姉の影響から始めた陸上で一位をとりまくる
僕も花形種目の短距離に取り組んだ。走り始めると、すぐに頭角を現した。身体的に早熟だったこともあり、経験を積むにつれてタイムは急激に伸びていった。
全日本中学校選手権(全中)は、中学生最高峰の大会と呼ばれている。僕は中学二年の夏、一〇〇メートルで七位入賞を果たした。
翌年、三年生になった僕は、同じ全中で一一秒〇八のタイムで同世代のトップに立った。
その年、一〇〇メートル、二〇〇メートル、四〇〇メートル、走り幅跳びなど複数の種目で中学ランキングの一位
というように、為末氏は尋常ならざる才能をもって中学時代の陸上競技を総なめしていきます。
これだけ一位をとっていればさぞかし人生が楽しかったに違いないでしょう。
勝事なこととして羨ましいですね。
高校三年生から何かがかわったー能力の限界がきてしまうー
三年生のインターハイから狂い始めた。
インターハイとは、全国高等学校総合体育大会のことだ。すべてのスポーツに取り組む高校生が憧れる、スポーツの祭典である。
僕はこの大会で一〇〇メートル、二〇〇メートル、四〇〇メートルの三種目にエントリーしていた。
しかし、顧問の先生が僕に黙って一〇〇メートルのエントリーを取り消してしまっていた。一〇〇メートルのスタートリストに自分の名前がない。
驚いた僕は先生に詰め寄った。一〇〇メートルでの優勝を狙っていた僕は、顧問の先生と言い合いになるほど激昂した。
冷静になってよくよく話を聞いてみると、先生が一〇〇メートルのエントリーを外した理由は、僕の肉体を思ってのことだった。
僕は早熟で、高校生の段階である程度肉体は完成していた。
だが、瞬発力と爆発的なスピードが必要な一〇〇メートルの試合で、肉離れを繰り返していた。
為末氏は色んな種目にでていたのですが、徐々に体が限界をむかえ、コーチの判断から100メートル走にでられなくなってしまいます。
このとき、コーチは肉体を理由に彼の出場を取りやめさせたといっていたのですが、為末氏はこの本のなかでもう一つの理由を想像しています。
ライバル選手に勝てなくなっていたのも事実だった。肉離れを繰り返していたことを考えても、僕の肉体は一〇〇メートルに向いていなかったのだと思う。
インターハイのエントリーを削除したとき、
先生は「おまえは、この先一〇〇メートルでは勝負できない」とは言わなかった。
だが、以前から四〇〇メートルハードルに取り組むことを勧められていた。おそらく先生は、かなり早い段階で僕の限界を見抜いていたのだとおもう。
為末氏は徐々に100メートルで負けることが増えていたというのです。
コーチはそれを見抜き、直言しなかったものの為末氏に別の方向へ行くように示していた。
渋々ながら同意した僕は、二〇〇メートルと四〇〇メートルに出場した。四〇〇メートルでは、当時の日本ジュニア新記録となる四六秒二七のタイムで優勝した。
こうして200メートルでも400メートルでも結果を残しているわけで、為末氏のもともとの力がどれだけ優れていたのかわかりますね。
もうここまでの話をきいただけでも「とんでもない才能の持ち主だ」というのがわかります。
しかし一方で100メートルに関して「能力の限界」に達していたわけですね。
ここにその人ごとの限界や運命をみることができます。
努力してもできないことはできないと理解した日
僕は早熟で、小学生のころからぐんぐん身長が伸びた。しかし、その伸びは中学三年生でピタリと止まっていた。
中学三年生のときの身長と、三四歳で引退するときの身長は、まったく変わっていない。ついでに言うと、体重もほとんど同じである。
肉体的な成長と歩調を合わせるように、一〇〇メートルのタイムも急激に伸びた。ところが、高校三年のインターハイ前までに記録した自己ベスト一〇秒六は、中学三年生での自己ベストとほとんど変わらなかった
この部分、本当に悲しいですよね。
中学時代の自分と高校時代の自分と変化がないってのは。
成長が止まってしまったことを否応なく意識させられます。
世界ジュニアという大会で世界のトップクラスのアスリートを目の当たりにした。日本一の高校生たちがまったく相手にされずに予選落ちしていくのを見て衝撃を受けた。ジュニアといえど、世界レベルになると九秒台に近いタイムで選手たちは走る。 この衝撃は大きかった。
僕は、このとき初めて「努力しても一〇〇メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わった。
あれほど大会で優勝してきた為末氏が初めて味わった挫折、もしかすると「自分にはムリなのかもしれない」という気持ち。
これだけ才能のある人でも、上には上がいる。
彼の筆致からありありとその苦痛と懊悩する様子が伝わってきます。
私ズンダのような凡人とはまた異なる痛みなのでしょう。
有望視されてきた人間にのみ存在するツラさです。
諦めて別のことをやればどうだろうか?
ところが為末氏は顧問の先生にすすめられた400メートルハードルに目覚めます。
それというのもハードル手前になると選手達が歩幅を合わせて不器用な飛び方をしていたからです。
そこで彼は次のように考えました。
「一〇〇メートルでメダルを取るよりも、四〇〇メートルハードルのほうがずっと楽に取れるのではないか」
このような転換が彼のその後の陸上人生を豊かにしたことは私たちの記憶に新しい。
ですが、100メートル走をやめた当初は悩みもあったそうです。
僕は諦めたことに対する罪悪感や後ろめたさを抱きながら競技を続けていた。しかし、時間が経つにつれて、四〇〇メートルハードルを選んだことがだんだんと腑に落ちるようになった。
「一〇〇メートルを諦めたのではなく、一〇〇メートルは僕に合わなかったんだ」
女子五五キロ級には、国民栄誉賞を受賞した吉田沙保里さんという絶対的な強さを誇るチャンピオンがいる。一つ上の六三キロ級の伊調馨さんも、国内のみならず世界的にも圧倒的な強さを誇っている。しかし、伊調さんが吉田さんと同じ階級で戦っているとき、伊調さんは吉田さんにほとんど勝てなかった。伊調さんが世界の頂点に立ったのは、吉田さんとは違う階級に移ってから
レスリングの伊調氏も吉田沙保里というとてつもない人物には勝てず、階級を変えることで金メダルを獲得できた。
それを考えれば違う道をいくことは決して負けではないといえるのです。
むしろ本人が何かしらかの「結果」を残せる道へ進まないことが「負け」なのではないでしょうか。
努力するより、自分が向いていることをやるべきである
世の中には、自分の努力次第で手の届く範囲がある。
その一方で、どんなに努力しても及ばない、手の届かない範囲がある。
努力することで進める方向というのは、自分の能力に見合った方向なのだ。
ただ、自分の憧れる存在が本当に自分の延長線上にいるかどうかということを、しっかりと見極めるのは非常に大事なことになってくる。自分とはまったく接点のない人に憧れて、自分の短所を埋めているつもりが長所ごと削り取っている人はかなりの数に上ると思う。僕はこれを「憧れの罠」と呼んでいる。
私たちは誰かに憧れ、「あんなふうになりたい」と思います。
けれども、その誰かはあなたとは違います。
もとからもっている才能が異なるわけです。
それを「努力」で埋めようなどとは片腹痛い。
ムリなんですよね。
異常なほどの努力信奉は人間の人生を狂わせますし、また他人に対しても「自己責任」を過度なほどに求める人物をつくりだしてしまう因果となっています。
私ズンダが思うに努力主義に塗れている人間にみせるべきなのは
普通の人間よりは優れているが、頂点に立つことはできなかった人々ではないでしょうか。
彼らのように非凡ではある。けれども、頂点ではない。
そんな人たちの人生観は大口をたたく、骨箱をたたいている努力主義者にとって良い薬になるはずです。
可能性を少なくすれば何かに専心できるー諦めて「勝つ」ということー
人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。
いいことばですよね。
「できないことをわかることが、できることを確定させる」といっているわけです。
自分が子供の時もそうですが、挫折経験がないので夢を見がちです。
なんでもできるとおもっている。
そんな状態からはやく脱皮するのが人生の秘訣だと思うのですが、
そのためには色んな事を経験させて、どんどん挫折させたほうがいい。
その経験が満足の閾値を下げてくれますし、自分の方向性を定める方法でもある。
人間には変えられないことのほうが多い。だからこそ、変えられないままでも戦えるフィールドを探すことが重要なのだ。
僕は、これが戦略だと思っている。
戦略とは、トレードオフである。
つまり、諦めとセットで考えるべきものだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かして勝つかということを見極める。
ここで重要なのは為末氏は「勝つことは諦めてない」ということです。
あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。言い換えれば、踏ん張ったら勝てる領域を見つけることである。踏ん張って一番になれる可能性のあるところでしか戦わない。
人から諦めろ、といわれたとき何か釈然としないものをかんじるのではないでしょうか。
もちろん、諦めるのはつらいことです。
けれども、自分にはその道が向いていなかったと思って、他の場所で闘うことも長い人生の選択としてあっていいはずです。
私たちは努力という言葉に価値をおきすぎです。
そんなものは意味がない。
「勝てるかどうか?」を目標にしていきていきましょう。
このぐらい勝ちに貪欲でいたほうが、よほど健全に生きられるとおもいませんか?
ズンダが過去に書いてきた反努力主義の記事一覧
記事の合間にはさんだ記事も反努力主義のものだが、ここでは他の記事も紹介しておきたい。
ちなみに私は世の中には何もする能力がない人が大勢いると思っていて、挫折しようが経験しようが、ムリな人は結局ムリだと思っている。
関連図書
以下の本は
「努力なんてするな」というひろゆき氏の本と、
「努力のやりかたがあっているか?」というのを書いた本である。
どちらも読んで欲しい。
とにかく努力主義にはまりすぎないようにすること。
だが、適切なやり方は知っておくことが肝要だと考える。
私ズンダの立場を述べておくと、基本的には努力してもマシにはなるが、大した結果はついてこないというものである。
しかしながら、物事にやり方があることは事実だし(書道でもギターでも先生についたほうが一人でやるよりも早いことはいうまでもない)、もし効率的なやり方があるのだとすればそれらを組み込んだ上で努力してみることには大いに価値があるとおもっている。
その上で諦めた方がすっきりするだろう。下手なやり方で何かを始める必要などない。
Kindleで読むと無料です
散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。
①部屋が散らからない
②いつでもよめる
③引用がラク
これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。