古田 徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』 NHKブックス を紹介する!!

実に面白い本だった。興味のあるかたにはおすすめできる。
ヴィトゲンシュタインの伝記的な部分は僅かしかないが、
前期の『論理哲学論考』をサクッとまとめながら、後期の『哲学探究』を詳しく解説する。『論理哲学論考』の詳しい解説は下記の本に委ねられているようである。
前期後期との違いは「無意味」か「意味不明」かでわけられる。
私はこれをよんでいて、昔は後期のほうが好きだったが、前期のほうが今のSNS社会にとっては有益な哲学があるのではないかと思いながらよんでいた。
ここ数日のVtuber、博衣こよりの炎上を例に取ろう。
彼女の炎上についての誰が悪かったのか。何がまずかったのかというのはさておくとして、SNS上の多種多様な人間が混ざることで多くの文脈がうまれる。
しかし、その文脈は後期ヴィトゲンシュタインが重要視したものを遙かに超え出でてしまっているのではないだろうか。もはや人は文脈などという人知で測れない域に達しており、縦糸横糸が複層的に重なり、誰も文脈を追えない。
むろん、後期の「文脈」というのも私が普段から重要性を説いていたものだが、前期の「無意味」というのも捨てがたい哲学なのではないだろうか。多くの人は後期のヴィトゲンシュタインを評価するけれどもさ。
ところで読んでいながら前期と後期との違いがはっきりとかかれている構成にはなっているのだが、「前期と後期とで変わらない部分ってないのかな?」という感想も抱いていた。言葉について語るところは語っていないのだが、前期のままであるところが気になった。
たとえば、科学主義についての批判は後年の遺稿にも残っているのだとすれば、「説明」ということについて彼は前期もう後期もかわらなかったのではないだろうか。
私はこのVtruberの話だけではなく、昨今のビジネス用語である《言語化》について批判的な人間であり、ヴィトゲンシュタインが今の時代にいきていたら、どうおもっていたのかききたかったりする。
↓noteで私がかいたものだ。
Kindleのすすめ
散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。
①部屋が散らからない
②いつでもよめる
③引用がラク
これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。
↓以下からkindleに加入できます。
難波優輝『物語化批判の哲学』を紹介する!!

美学者の本をよむことがふえた
何をよんでいるのか
美学者であり会社員であり慶應義塾大学の訪問研究員でもある難波優輝氏による本。近頃、美学者による本をちらほらみかけることが多くなった気がする。
私ズンダの若い頃はは佐々木健一(『美学事典『美学への招待』など)が美学者として有名だったと思っているが、数年前にでた井奥陽子『近代美学入門』を読過して以降、
美学者による本を読むことが増えた。
読んだ本を挙げると
ロバート・ステッカー『分析美学入門』西村清和編『分析美学基本論文集』津上英輔『美学の練習』青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する家から考える』
ノエル・キャロル『批評について芸術批評の哲学』などである。
また、私はゲームも好きなので、
イェスパー・ユー僂『ハーフ・リアル』、吉田寛『デジタルゲーム研究』、ゲーム研究の参照本といえる『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』を読んだ。
元々、文芸批評が好きだったので文学や絵などをどのように批判するかについて興味があった。
井奥氏の著書巻末にある読書案内から美学がここまで多種多様な分野を俎上にのぼせて批評について考えていることを初めて知り、
その精華結実を十分に味わいたいと思って、今日の読書に繋がっている。
加之、今回あつかわれている内容が私が批判してきた「自己啓発」「努力」「言語化」に近いものなのではないかと推したからである。
前置きが長くなったが、そういうわけで難波氏の該書も買ったのである。
物語に閉じ込めること
美談化して何を求めているのか
「物語批判」と題名にあるようにこの本はSNSやテレビでよくある「物語」を批判している。
たとえば、甲子園球児やオリンピック選手などがテレビでとりあげられると必ず、
「つらい過去があった」「親が癌だったが頑張った」「いじめられていた」などという「物語」がその人に付加されて我々の元にとどけられる。
私ズンダは上の髭男爵・山田ルイが述べた「無駄なものは無駄なのに、記事にしようとする人たちは価値のあるかのようにかいてしまう」ということをこの本を読んでいて思い出していた。
世の中の人は人生に対していちいち何かを与えようとしすぎなのである。
そういった書き方の狙いは我々に共感を呼び起こし、感動させるためだが、しかし、難波氏はそれが問題だという。
①誤解と欺瞞に陥る。
②物語を付加した側の狙いにのせられてしまうせいで、特定の情動でしか物事を感じられなくなってしまう。
③物語によって作られた自己像を本当の自分だと思い込み、それに沿った生き方しかできなくなる。
難波氏はこういった理由で、「物語」の危険性、つまり、個人をその「物語」でしか受け取れなくなることに危惧しておられる。
我々一般人が経験する例として、面接が挙げられている。引用しよう。
就職活動の面接で、
応募者はしばしば「これまでの人生」について自己語りを強要される。
(中略)自分が実際に生きた人生の流れではなく、面接のために自己の過去を組み替え、ときに文字通りの作り話=フィクションを面接の場で語らされる。自己分析という名の強制物語化によってその者は、自己の予測可能性を他人のために用意することを強いられている。(二一頁)
人生をゲームのメタファーとして捉えることのおかしさ
また、第二章では「人生はゲームか」について語られている。氏の答えは、ゲームではない、というものだ。ゲーム感覚で人生をとらえると、我々は人の能力をRPGでいうところの「ステータス」と同じふうにとらえてしまう。
「HP」「MP」「攻撃力」「防御力「魔力」「運」といったようにである。
ゲームによってはレベルアップした個人に対して、与えられた数値をこれらの項目にふりわけることができる。
だが、現実の世界にはレベルアップなどないし、数値も自由に振り分けることなどできない。私たちが出来るのは「英語を勉強しよう」までであって、そこから先、その人がレベルアップできるのか、どの能力がどこまで伸びるのかは誰にもわからないのである。
ここまでみていくと、難波氏のゲーム批判は「自己啓発」や「努力至上主義者」たちへも突き刺さるはずである。
人生をゲームと擬える。
つまり、メタファー=隠喩として捉えることは現実とは異なる点を見落としている。ここにメタファーの陥穽がある。
難波氏はメタファー研究者のマックス・ブラックを本書で引用している。私もここで孫引きしよう。
たとえば私ができるだけチェスの用語を使ってある戦いを描写するという仕事を与えられたとしよう。・・・・・・チェスの語彙を用いるという強いられた選択の結果、戦闘のあらゆる面が強調され、ある面が無視され、そして他の記述様式をとった場合よりもはるかに緊張感のある形で全体が組織されるであろう。チェスの五位がフィルターとなり変形をもたらすのである。・・・・・・ある戦闘をチェスゲームのように描写することは、その言葉の選択のしからしむる所、戦争特有の心情を揺り動かす側面を排除することである。
上記にある「戦闘特有の心情を揺り動かす側面を排除すること」に私は注目したい。
メタファーは我々の想像できる身近なものにあることを譬えなおし、理解を促す。
けれども、そのせいであることからこぼれ落ちていくものも当然ある。
引用例からすると、戦争をチェスに見立てれば身近なゲームにはなるが、それは戦争の実体を如実にあらわしたものではないだろう。盤上の駒を動かすような気軽な考えと実際の戦争とは異なる。
ただ、私たちはたまにこういう「ネット軍師」(ネット上で、専門家でもないのに、戦争やスポーツの作戦などについて好き勝手言う人間のこと)のようなことをどの分野でもやりがちである。
「言語化」もまた批判されるべし
スプラトゥーンというゲームについて
さて、本の内容を順におってきたが、ここで私なりに使えそうだと思ったことを中心に記しておきたい。
ここで、私ズンダはこの本を通して更に明確になったものとして、以前から批判してきた「言語化」を挙げたい。私が批判してきたものにスプラトゥーンシリーズ(任天堂、2015)における「言語化」がある。
まず、「言語化」という言葉の由来であるが、これはnoteで軽く書いているが、
①大正時代の新教育運動の旗手によってうみだされた言葉
②80年代に科学的で無機質な実証主義への反発
③博報堂や電通などの広告会社によってうみだされた言語化信仰(これも二種類あり、言語化に意味がない派と意味がある派があるように思える)である。
そして、このスプラトゥーンについて「言語化」している人々は③に属する。
「言語化ブーム」にのってTwitter上でスプラトゥーンについて語る人々である。
これは正に本書七一頁の節、「キャラクターをアニメートする」と同様の行動に思われる。
ここではMBTI診断を共有し合うことで自分たちの属性を決め、ありたい姿に近づこうとしていると指摘されている。
スプラ界隈においては「言語化」という作業によって自分を独得な位置におきたい願望をもっている人たちがいる。
これが彼等にとってのMBTIである。
彼等はプレイヤーとして一等ではないが、三等でもない。二等である。
普通であれば一等でないと相手にされることはないが、TwitterというInstagramやTikTokとは異なる文字主体のメディアを使うことで、自らを一等並に「スプラの何かがわかっている人間」として振る舞おうとしている。その何かが一等と比べてどうなのかは判然としない。彼等には検証がないからである。そしてこれはこの後繰り広げられる「パズル批判の哲学」とも大きく関わっている。これは考察なのだ。
考察、陰謀論、そして、言語化の暴走
さっきまでの議論を踏まえつつ、「言語化」を念頭におきながら、第三章、「パズル批判の哲学」をみていこう。
この章では人間は謎かけ、パズルを解く行為を楽しんできたという。スフィンクスの謎かけや探偵小説、思考実験などである。
ゲームでいえば『Baba Is You』やRPG、『シュタインズゲート』のようなノベルゲーなどだ。これらをプレイしているときに私たちは考察をおこなう。この考察はまるで陰謀論のようでもある。
どのように考察しているか。ここで難波氏は思想家・東浩紀が提唱した「データベース消費」を挙げる。
データベース消費とはなにか。
オタク文化においては、キャラの属性や作品特有の設定ー「データベース」ーが配列され、それらを取捨選択し、自分独自の二次創作や考察を生み出すことで、自己表現の欲求が満たされている。(一五八頁)
要するに考察とは、消費者側が物語を度外視して、断片的な情報から自説を構築するカルタシスや没入感を味わう作業だというのである。
また難波氏はリ・ジニンの『アニメの知識文化』にある「サイバネティックな遊び」を援用し、次のようにいう。
リが強調するのは、サイバネティックな遊びにおいては、情報の反乱に翻弄される快楽と、統一と制御への衝動が同時に作動している点だ。ユーザーは無数に増殖するルートやエンディングを楽しみ、カオスの奔流に飲まれることを享楽する一方で、たどり着けそうでたどり着けない「トゥルーエンド」を求めてやまない。(一六三頁)
氏は情報で制御、最適化し、「物語」に沿ってではなく、それを断片化してアレコレ考察すること、これを「パズル的自己」と呼ぶ。
パズル的理解は、「正解がただ一つある」という前提を維持することで、情報の中で溺れることをも楽しむ、じりじりとした探索感と「思いつき」のカタルシスを生み出す。(一六四頁)
だがこれもまた、現実に当てはめたときにそれでいいんか?という疑問が浮かぶはずだ。
難波氏は現実は解答が一つ用意されているものではない。いろいろなものが複合的に解をなしていたり、答がないようなものもある。ひたすら考察だけをしているのは健全な思考なのだろうか。
もちろん、私たちは色んな仮説を組み立て、真実へたどり着こうとする。アブダクションという思考である。だが、ともすればこの思考は「自分にとって都合のいい仮説をつくっているだけの人」をうみだしかねない。これこそが「言語化」のヤバさである。
陰謀論の実践で起こっているのは、仮説の比較検証を放棄し、「最も刺激的なは仮説をひたすら増幅する」行為だ。仮説の量産そのものが目的化し、検証や反証が等閑視された「仮説ポルノ(hypothesis pornography)」と言ってもよいような危うさがある。しかし、本来のアブダクションは、複数の仮説を形成して、それらを比較することでまともな知識になるというもののはずだ。それゆえ、ただひとつの仮説を形成するにとどまるパズルもまた、根本的には、仮説ポルノなのである。(一六六頁寄り。太字はズンダ。)
かなり手厳しいが、しかし受け止めなければならない。
大事なのは、自分勝手な仮説をふりまくことではなく、その仮説を検討することだ。
ここで触れておくと難波氏はパズル的態度を否定しているわけではない。
社会学者のミズルの「社会学的創造力」を用い、単純な唯一解に陥るのではなく、個人と構造とを行き来しつつ、自説を検証し、磨いていくパズル的態度のであれば価値があるとしている。
おもちゃ遊びの方へ
このあと「ギャンブル」があるがそれは割愛する。
また、氏の最終的な物語化への防波堤、解決策は「おもちゃ遊び」にある。
意味や目的がない偶然の遊びを尊ぶおもちゃ遊びこそが「物語」「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」で批判されていた「自己語り」「達成感やスキル」「唯一解を求める仮説ポルノ」「偶然にある崇高さ」を解体してくれるものとして称揚される。
私ズンダにはこれが対抗策になるのかはわからないが、一つの案なのだろう。
私が嫌っている「自己啓発」「努力」「言語化」などの問題点がこれらの4項目によって生まれ出ているのだという説明に同意するのであれば、「おもちゃ化」による解毒剤の誕生は興味深い考えであるといえよう。
よく炎上している特殊編成の定義について【スプラトゥーン3】
※noteにかいたのと同じ文章である。

数日前、特殊編成と思しき編成をしていた人物がTwitter上で対抗戦を断られ、炎上した。〈特殊編成〉についてはこれまでも何度か問題視されている。
私は〈特殊編成〉の定義には興味がない。対抗戦などやらないからである。この記事はそんな自分が〈特殊編成〉についてどんな見方をしているかを把握し、そこから何が取り出せるかを試してみたものである。
定義はないけど……
特に定義はないが、しかし、何らかの共通した違和感があるから〈特殊編成〉といわれているのであって、何の特徴もなければ誰も〈特殊編成〉といいだすことはないはずである。もしかすると、幽霊の正体みたり枯れ尾花かもしれないが……。
要するに、習慣的、口承的に〈特殊編成〉と考えられる概念があることは間違いない。存在している。
ただ、それがいつまでたっても定義されないがゆえに、定期的に炎上しているといったふうである。
私なぞは《言語化》が好きな方々が《言語化》すればいいんじゃないの?と思っているが、《言語化》を好む人たちは〈特殊編成〉に寛容だったり、あるいは相対主義者だったりするので、そういうことはしたがらない。
自分のツィッターでみる〈特殊編成〉
意識し始めたのは
では、私ズンダはどのようにみていたのだろうと思って、過去のTweetをみてみた。
Tweetを遡ると2022年には意識しはじめているようである。
特殊編成だからブロックします、っていわれそう
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) August 23, 2022
しかし、頭の中の記憶を辿るとスプラトゥーン2の頃からそんなことはいわれていたし、私が未プレイのスプラ1でもそういう事例はあったのだろう。
私などは対抗戦をやるような水準の人間でもないし、また、だいたい毎日オープンやらプラベやらをひらいているので敢えてやりたいとも思わない。
リスナーと参加型オープンをやっていたとき
ただし、オープンを二時間ほどやっていると一回か二回は「特殊編成」にであう。この〈特殊編成〉という言葉についてはこの段階ではとりあえず、自分も他の参加者も〈特殊編成〉と反応した場合のことをいおう。
対抗戦をやらないから特殊編成云々でなやむことがない。でも、対抗戦をやるリスナーが特殊編成にあたったときはだいたいキレてるね。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) September 29, 2024
対抗戦をやりたい人は普通をもとめてるんであって、変わり者をもとめてはないんだろなあ。わざわざメンツをあつめて対抗戦をやりたい以上、特殊編成との例外的な試合はムダに感じるわけか。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) September 29, 2024
上記のTweetを読む限りでは、私は〈特殊編成〉を、
〈変わり者。かわった武器をもった人たち〉と認識しているようだ。
これは私がオープンをやった際の参加者達も同様に捉えている。
・同じ武器だけのチーム
・tier表で下位に存在するような武器だけのチーム
・あまり使い手をみかけない武器で構成されたチーム
この辺りを〈特殊編成〉といっていることが多い気がする。
〈特殊編成〉と左利きとマイノリティと
俺の左利きはマイノリティであり、特殊編成だが、これを以て右利きの人間に負担を分配しろとはおもわない。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) April 25, 2025
こういうことをすればこういう反応がくるだろう、というのは歴史的に学べるはずなので、特殊を選ぶのであればそれに嫌悪を催す人間がいることもわかるはずで、だとすれば、そういった反応をわかった上で特殊編成を選ぶ態度が要るのではないか。自覚的に責任をとる、という引き受け責任を。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) April 25, 2025
そして、自分が左利であるがゆえに諸々、不満を覚えることが多い話をしている。
たとえば、改札口の切符入れやICカードを読み込む位置は右側にあるが、これは右利きの人が多いからであり、左利きの人間はこれらを自然に左手に持つものなのでいちいち左腕を右側へ伸ばさなければ改札口をとおることができない。
おそらくこのことを右利きの人は想像もしたことがないのではないだろうか。
利き腕による細かい差異は他人から指摘されないと気づかないものだ。
左利きである私が初めて気がついたのも料理教室に通っていた際、お玉を左手で咄嗟にもったとき先生に、「左利きなんですね」といわれたからなのである。
ちなみにカッターで紙を切るときも左手でもつので、年配の方から、
「ギッチョなんだ?」といわれたことがある。
しかし私は自分が左利きだからといって左利き専用のものをつくってほしいと思ったことはない。人や社会に求める気はない。そこまで苦労をしていないからである。
そこから、自分が〈特殊編成〉である以上、相手から嫌われたり避けられたりすることはスプラの世界ではよくあることなのだから、そういった編成をしていると判断された場合、遠ざけられてもしょうがないのではないか。
わかった上で責任をとるべきではないかといっている。
これは少数派やマイノリティが黙って従っていろといっているわけではない。
しかし、編成に自由がきくゲームの世界で、その主張が正当化できるかは一度かんがえたほうがよいのではないか。
これは編成に限らず、戦法も武器もだが、他人と一緒にやるゲームである以上、面倒なことに対戦相手を慮る必要がでてくる。一人で済む行為とは違う。
私が好きな読書や一週間に二回いくジムでの筋トレやランニングとは異なるのだ。
一人で済ませられないのである。
ここで問題になるのは〈特殊編成〉が明確になっていないせいで、〈特殊編成〉と思う方も思われる方も、曖昧模糊とした認識でいざるを得ないことである。
蓋し、〈特殊編成〉はそろそろ定義され、共通了解を得られるべきある。ただし、共通了解がもっともむづかしそうではあるが。
このネタで何度も炎上しつづけているのをみると烏滸の沙汰にしかみえない。
もしかすると炎上の種としてわざと定義しないようにしているのかとおもってしまう。あるいは、ゲームは得意でも、知的労働は苦手なのだろうか?
〈特殊編成〉はなぜ嫌われるか?
〈特殊編成〉を嫌う人たちが望んでいること
特殊編成って定期的に炎上しているのおもしろいな。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) May 19, 2025
特殊編成ってマイノリティのことだとおもってるけど、わざわざマイノリティと戦う理由がなければ、それはやはり断られちゃうんだろうねえ。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) May 19, 2025
でもまあ、定期試験の範囲内でいかに高得点をとれるかという競争が好きな種類の人だと仮定すると、特殊編成は範囲外からの出題であり、対策の効果がでないから面白くないということならば理解できる。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) May 19, 2025
ただまあ、どっちに説明義務があるのかという話になる。断ったほうか断られたほうか。流れてきた画像が事実として、自身を特殊編成と自認しているのであれば、それは共通了解を得ていなかったとしても特殊編成であり、相手側は定義づけしなくても、そのままお返しすれば矛盾においやれる。
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) May 19, 2025
私自身は、〈特殊編成〉はたまにみかける武器で編成されたチームだと思っているようである。
そして、〈特殊編成〉が嫌われている理由はそもそも出くわす確率が低い武器で構成されたチームとたたかうことに価値を見いだせないからだとしている。
世の中の人は同じような武器編成をしたチームと戦い続けることで、自分たちの成長を感じたいと思っているのだろう。
これはTOEICなり漢検一級などを何回も受ける人たちを想像してみるといい。
満足いく点数や合格をしていたとしても受け続ける人たちがいる。
どれだけ点数を上げていけるか。何回、合格や満点をとれるか。
試験は全くの想定外で構成されているわけではない。
出る問題の大部分は一定の水準を超えない。
また、出題のされた方(問題数、大問小問数)などが突然かわることはないし、TOEICがIELTSや国連検定のようになることもない。
だからこそ、普段の勉強や対策が活きるわけである。
〈特殊編成〉とはこの「普段」を打ちこわしてしまう。対策の甲斐がない、一回性のものなのだ。そこに成長や充足感を覚える人はそんなにはいないのだろう。
もちろん、どこかの段階でその「普段」は退屈になる。誰と対抗戦をしていても負けないようになればどこかで飽きるだろう。
もしかすると、そのときはじめて〈特殊編成〉とやってみたくなるのかもしれない。
しかしながら今回は、〈特殊編成〉ゆえに断られた側が自分自身を〈特殊編成〉と自認していたようで(「特殊編成が征く対抗戦」というタイトルで放送していた。)、自爆してしまった。こうなると自分自身で〈特殊編成〉だとわかった上で、相手に〈特殊編成とは?〉とききかえしているわけで、論外である。もはや語るに値しない。
〈特殊編成〉を定義するやりかた
ところで、〈特殊編成〉の定義について興味のある方は以下の中の定義の仕方からぜひ、〈特殊編成〉を考えてみてもらいたい。ただしその苦労してつくりあげた定義が多くの人に了解されるかどうかはわからないが。
植原亮『科学的思考入門』からとったものである。
特殊編成の定義でいうと、
明確化定義
操作的定義
必要十分条件による定義
直示的定義
辞書的定義
約定定義
理論的定義
のどれかか、それとも写真のように定義はムズカシイとみなすか。
植原亮『科学的思考入門』より。 pic.twitter.com/J8IL5yXIeX
— Zunda@youtuber・ゲーム垢 (@Zunda33788057) May 19, 2025
↓Grokにまとめてもらった。
以下に、質問に挙げられた各種の定義についての簡潔な説明を日本語で提供します。
明確化定義
曖昧な概念や用語をより明確にし、理解しやすくするために行う定義。文脈や使用目的に応じて意味を特定する。
例: 「自由」を特定の政治的文脈で「法的な制約がない状態」と定義する。
操作的定義
概念を観察可能・測定可能な具体的な操作や手続きに基づいて定義する。主に科学や研究で使用される。
例: 「知能」を「IQテストの点数」と定義する。
必要十分条件による定義
ある概念が成立するために必要な条件と十分な条件をすべて満たすように定義する。論理的・厳密な定義方法。
例: 「三角形」を「3つの辺と3つの角を持つ閉じた図形」と定義する。
直示的定義
具体的な例や対象を直接指し示すことで概念を定義する。抽象的な説明よりも具体例を用いる。
例: 「この赤いリンゴのような色」を「赤」と定義する。
辞書的定義
辞書に記載されているような、言葉の一般的な意味や用法を説明する定義。日常的・標準的な使用に基づく。
例: 「猫」を「小型の肉食性哺乳動物で、鋭い爪と柔軟な体を持つ」と定義する。
約定定義
特定の文脈や目的のために、任意に意味を定める定義。合意に基づいて使用される。
例: ある研究で「高収入」を「年収1000万円以上」と定義する。
理論的定義
ある理論や学問的枠組みの中で、概念をその理論に関連する他の概念や原理を用いて定義する。
例: 物理学で「エネルギー」を「仕事をする能力」と定義する。
【スプラトゥーン3】あるある
noteの文章を同じものである。

・オープンもしくはXマッチ中に挨拶してくる人物がいる。ほぼこちらが負けたときにだけ挨拶してくる。こちらが勝ったときに挨拶してくる人物は殆どいない。いやらしい性格である。
・負けた際に、「武器が弱い」「利敵行為といっていいぐらいに弱い」「編成がおかしい」と通報していても任天堂からBANされることはない。任天堂側が用意している以上、プレイヤーだけの責任にはできないから。
・夕方や休日などは有象無象の割合が増加する。だいたい10時以降になると本気の人がふえるせいか、編成や強さが安定しがち。
・文章を読めない人が多く、誤読される。おかしな話だが、文字を読めない人が多いのでnoteを中心に意見表明をしていると、何を書いていてもバレないので自由に活動できるという利点はある。
・妄想が激しい人がいる。特に根拠がないのにもかかわらず、自分の想像をやたらに膨らませて自説を語りたがる。ところが読んでいると、論拠になるものが何もあげられていないので、「○○は△△である」ということがなぜいえるのか、読んでいても一切わからない。
しかし、世の中には書き手と同じく不思議な人たちがいて、そういった文章を読んでいても、納得してしまうらしい。
なぜそう言えるのか、という正当化は論文、専門書、新書(推理小説ならばいいが、普通の小説には正当化がない。)のどれでもおこなわれており、書いてある内容に納得できるかは、文のレトリックにだまされなければ、ここにかかっているが、これらの本を読まないと身につきにくい。
大学にいけば必ず先行文献を読むよういわれるはずなので妄想をしないようになっていく。
私は論拠という明確なものが必ずしもあるわけではないし、本人の演繹推論でもいいと箇所があると考えている。
問題にしたいのは、「理由」がなんにも挙げられていないことだ。もちろん、理由には説得力の強弱があり、それがあまりに突飛だと妄想や陰謀論とよばれてしまう危険性がある。
だが、拙い理由すらもない場合、どうしてそういえるのかがわからない。そこにどういうワケがあるのか書かれなければ理解などしようがない。
「神様はいます」といわれて、何ら理由もないのに納得するのだろうか?
ちなみに、発表などで、「主張がつよい」「我がつよい」などといわれたら、「先行文献を読んでない、客観的でない。勉強不足」という意味である。
・批判を行わないため何が正しくて何が間違っているのかを一生、ごまかし続けている人たちがいる。そして、そんな人間のことを尊ぶ人がいるが、批判されなければ誰でも神様になれるだろう。独裁者と変わりなし。
・羣して黨せず、といった態度がなく。徒党を組んでいる連中がいる。
・XPを否定したがる人間がいるが、これはスプラトゥーンのプレイについて語るための方便でしかない。誰かを「下手」というとき担保になるのは「XP」のみであり、XP以外に「うまい」という基準はこの世に存在しない。
あるとしたら、「自分にとって都合のいい主観的な〈うまい〉」だけである。
自分のXPに触れずに、スプラのプレイについて延々と語り、更にその人が誰かをしぼらずに不特定多数を「下手」といいつづけていた場合、(Twitter上にそういう人間がいる。)警戒するなりバカにするなりしたほうがいい。
プレイについて語れるのは所詮、自分のXPまでであり、それ以上はもちろん、「厳密」にはその下のXPについても語れない。私はもはやc帯やb帯時代の自分を思い出せない。しかし、経過してきたという点だけみれば、まだ見ぬXPよりは語ることが許されそうではある。
「語り得ぬ事は沈黙せねばならない」
中野剛志『政策の哲学』を紹介する!!

中野剛志『政策の哲学』が発売された。
「バビロン的思考様態」、「X、または、Xでない、または、XかXでないか未定」の中間態が現実であり、予測不可能な「政治経済学」の本質に戻るためにロイ・バスカーの批判的実在論、その弱点補強のためにポランニーの科学哲学を援用した本。
今までも中野氏の本は読んでいたが、今作は主流経済学に対して、「なぜおかしいといえるのか」を科学哲学の考えを利用し、「実在論的にそもそも完全に間違えている」とまで述べている。
財政破綻論や最近の財務省叩きなどで経済に興味をもった人間が手に取るには少々、難しいかもしれないが、根本的な誤りを指摘するやりかたとして読んでおくといいかもしれない。
まず、ロイ・バスカー自体を普通は知らないのでこの本もどうみるべきなのか、難しい。
『社会を説明する[新装版]』がおそらくバスカーの考えを知るために最も手頃だろうが、折衷主義ではないかという批判はありえそうだし、実際、中野氏はそれに対しても一応、弁解はしている。
三章までバスカーについて説明した後、四章以降は「国家」「政策」において批判的実在論の応用を説き、六章ではバスカーの弱点をポランニーで追補。ここでいうバスカーの弱点とは、科学的な方法について彼自身の考えでは曖昧模糊としており、これでは科学が偶然の産物になってしまうのではないかという批判がある。「経験的な吟味とは何か」「よりよい説明とは何か」が不明なのだ。
この点についてふれているのが榊原研互『超越論的実在論の批判的検討:R。バスカーの所説を中心に』であり、ネットでよまれたい。
で、ここを科学者であるポランニーの「暗黙知」を利用することで中野は穴埋めしているわけだ。
またケインズなどとの関係も描き、九章ではMMTの説明と信用貨幣論が「実在論」の基礎をもつことを明らかにし(社会関係、創発)、インフレーションの説明すらも次のようにいう。
貨幣は『信用ー負債』の社会関係」から創発されるが、創発とはより低次の現象に還元して説明することはできない現象を意味する。ただし、より高次の現象は低次の現象に還元されはしないが、その影響を受け、その制約を受けることに注意しなければならない。~(中略)~貨幣はより低次の行為主体に還元できず、行為主体はより低次の物理的な実在に還元することはできないが、他方で、より低次の物理的な実在は行為主体を制約し、ひいては行為主体間の「信用ー負債」の社会関係に影響を与える。すなわち、貨幣の価値(すなわち物価水準)は実物資源の賦存量という物理的な制約の影響を受けるのである。すなわち、貨幣の価値(すなわち物価水準)は実物資源の賦存量という物理的な制約の影響を受けるのである。
つまり、インフレを低次である実物資源のリソース(賦存量)に制約を受けた高次のものだとのべ、実在の階層構造の中に位置づけられる創発した実在であるという存在論的な理解に裏付けられているといい、実在論の価値を称揚する。
この「創発」と「階層」などが還元的な解釈を斥け、社会全体の複雑性・開放系を説明する謂いとなるわけだ。
加えて、九章で大事なことはMMTやそれを受け取った人々との間でたまに論争になる「裁量」について中野が語っていることである。中野自体はレイ、ディモワーニュは「裁量」を否定していないという。
彼等の「JGP」について、要約すると、「彼等は自動的なプログラムとして作動するようなことをいっているが、JGPを採用するかどうかも構造的なマクロ経済的プログラムをどう設計するかという判断は、政治裁量である」と述べている。
そのJGP自体もまた不確実な現実においては可謬から逃れられないという。
最後の章に於いてEBPMを評価していないのも印象に残った。
あらゆる主流経済学をのぞいた学問を総動員させ、相対主義に陥らず、多様に問題を考える「方法論的多元主義」をとると中野は宣言する。
内容はこんな感じだが、個人的にここ一年ほど《言語化》という言葉に苛ついており、特に私がやっているゲーム、『スプラトゥーン3』が発売して以降、この言葉をもちいて「《言語化》することでゲームがうまくなる」などという人間たちの胡乱な思考が気持ち悪かったので、「真理」や「実証」などについて語ることが多いように思われる分析哲学の本を読んできた。
私ズンダの結論としては現代における《言語化》はマーケティング用語であるが、そんな折り、中野氏が主流経済学批判をするためにバスカーを用いて「科学的とはなにか?」について本を出したというのは運命的なものを感じた。
また、その妥当性がどうかはしらないが、批判的実在論について詳しく説明されて面白みを覚えた。
実験的な思考ではあるが、読んでみる価値のある本である。
読書案内
中野剛志による他の本も紹介しておく。
『貧困とは何か ――「健康で文化的な最低限度の生活」という難問』を紹介する!

憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に
日本国民は達していないと主張する著者・志賀信夫による「貧困」概念の歴史と
「貧困」の根絶について書いた本。
「絶対的貧困」→「相対的貧困」→「社会的排除」という発展過程があるといい、
絶対的貧困の理論を提示したチャールズ・ブースなどを紹介する。
ここでの紹介で大事なことは彼は、
「階層の問題に触れてはいても、
階級の問題には触れていない」ことにあると志賀は述べる。
ちょっとこの辺りで、ややきな臭く感じてしまう。
というのも「階級」となるとマルクス主義
を思わせるからである。
ブースの行動自体は評価されているが、彼の問題点は「階級はそのままでいい。階層固定を問題視したこと」というわけである。
ここから更に章を進めると、志賀の問題意識は「階級の根絶」にあり、
そのためにはマルクスの力が必要だという話になっていく。
後書きにおいて、マルクス研究者の佐々木隆治に教えを請うたといい、生産関係論から見直すことを訴える第五章が「書けなかった」というが、それはマルクス的な考えではどうにもならないというのを自覚してたからなのではないかとおもってしまった。
本当にマルクスに価値があると思っているのか不思議に感じる。
私はこの本を読んで、とある文章を思い出していた。
経済学101というサイトに載っている
ノア・スミス「経済学者はマルクスを読むべきか?」と
ジョセフ・ヒース「学問としてのマルクス主義はなぜ凋落したのか」を思い出していた。
どちらも無料で読めるので検索してみるといいが、
この2人がいっていることは、
「マルクス主義でなくとも、経済学者は市場の失敗の問題などについて色々いっており、なんでそれらを無視して、マルクスに飛びつくの?もっと経済学の勉強をしたら?」
ということである。
貧困の歴史ついては有用な本だと思われるので、興味のある方は読んでみるとよい。
貧困への対策に関する思想的な方法としては同月にでた山田鋭男『ゆたかさをどう測るか ウェルビーイングの経済学』のほうが上である。
山田のは特に小さい経済活動、一種のアナーキズム的な共生型の経済、社会的連帯経済(SSE)についての説明があり、そういった思想を述べた思想家一覧(シャルル=フーリエ、サン=シモン、ロバート・オーエンなど)が載っていて便利だし、
弱点も指摘している。またマルクスに対して望みも期待もしておらず、良い本だった。
渡邉 雅子『論理的思考とは何か?』を紹介する!!共感・道徳・作文・SNS・朝日新聞・エモ記事

今井むつみ『学力喪失』につづいて、名著である。
論理的思考は国によって違いました
ヨーロッパの思考法
「論理的思考」とは誰もが必要だというがその実態とはなにか?
先ず著者は、世界を席巻するヨーロッパの思考、4つの論理を紹介する。
論理学、レトリック、科学、哲学である。
これらについて説明した後、「論理的だと感じるためには、読み手側が期待した論理が展開されてなければならない」という米国の応用言語学者カプランの説を引く。
つまり、「ああ、この人、論理的だ!」と感じるためにはその社会における合意がなされていなければ「論理的だ!」とはならないのである。
考え方は4軸になる
次にマックス・ウェーバーの
「形式合理性」=「決定済みの目的に対して、最も効率的な手段、あるいは理論上確実な手段を選択する合理性」
と
「実質合理性」=「何が行為を決断するに値する価値を持つ目的なのか」
を示す。
ウェーバーはこの異なる合理性をもった文化が対立し、衝突しあうという。
ここの二つに「個人の主観」と「集団による客観」を交差させたのが
「経済領域」「法技術領域」「政治領域」「社会領域」の4つの合理的行為である。
これらは併存しながらも、社会によってどの領域を優先させるのかに違いが出るという。
この4つに当てはまるのが順番に、アメリカ、イラン、フランス、日本である。
そして、それは学校で課される作文にあらわれるという。
これは氏の実験において有意だったらしい。曰く、
「思考法を理解するために、学校の作文に注目する有効性は、異なる領域を代表する国の子どもたちが同じ絵を見てその絵をどう説明し、理由づけるのかという作文実験の結果と、その実験結果を裏付ける教育の目的と実践から明らかにされている」
らしい。
アメリカは「効率性と目的の達成」
フランスは「公共の利益」
イランは「真理の保持と規範の遵守」
日本は「共感と哀れみ」
である。
国柄もあるだろうが、作文の方向性には歴史的な経緯がある
ここで付言していくと、イランを除く作文教育には転換点がある。
要するに最初から、アメリカ式やフランス式だったわけではない。
アメリカでは当初、イギリスの植民地だったこともあり、ラテン語の華麗な文体がすかれていた。
フランスでも1950年代からヘーゲル哲学の弁証法にならった作文指導法がうまれた。
宗教色の強いイランではいくらか改変があったものの、所謂、論理性を兼ね備えながらも神の秩序が果たされるのが論文の結果という考えがあった。つまり、神の教えを再現しただけにすぎないというのだ。
日本の場合は明治時代の規範的な作文から反発がうまれ、自由作文を提唱した芦田恵之助の精神が受け継がれ、戦後の一時期はアメリカ式になるがその後は綴り方教育にみられるような奔放な作文教育が施されるようになる。
これは大正自由教育運動であろう。やや話は逸れるが私ズンダは以前、noteにおいて《言語化》についてかいている。その中で「今はやっている《言語化》は日本の作文教育の延長にあり、大正自由教育運動と似ている」と書いた。
日本の作文教育と《言語化》
この渡邊氏の本を読んで「やはり」と膝をうった。この本の141頁にあるように日本の作文は「共感」や「道徳的」なものを目的としており、そこには他人との考えを過剰なほどに意識した作文が求められているのだ。
それはアメリカやフランスと異なり、実証性や分析をともなうことがない
「なんとなく、そうだよね」という「感想文」を正解とするものなのである。
要は日本においては、「それってあなたの感想ですよね?」は風土にあってない、アメリカやフランスかぶれの論理思考だということだ。
だから、ひろゆきはフランスにいるのかもしれない。
余談だが、ひろゆきの人気がでたということは日本でも感想文的な考えがマヌケだと思われ始めているのではないか。
さて、こうなると、《言語化》と騒いでいる連中の文章が単なる感想を何か価値があるかのように書いているのにも合点がいく。
また、前回の記事でもかいたように「道徳」を問題にして、人を叩きまくっているのかもわかってしまった。
《言語化》やSNSの書き込み、これらはの特徴は「共感」「道徳」だが、それこそが学校教育で習ってきた「作文教育」だからである。
日本の「感想文」は、真情を読み取る物語の読解とセットとなって、他者の五感を自己のもののごとく取り込み感じることで、他者の期待を理解し、その期待に応える行為を志向させる。そのような行為は、対立を避け、場の調整を行う高度な認知(現在では社会性に関わる非認知能力と呼ばれている)を養う機能がある。感想文は状況によって複雑に変化していく人間の心情と、場を構成する人間と自然と社会環境の関係を読み取って反応できる共感力を鍛え、子どもを社会かする。それは、形式的な善悪を超える道徳観を育てる。(赤字はズンダ)
と渡邊はまとめている。
※渡邊自体は日本の教育を否定はしてない。そこに一定の価値があることを認めている。もちろん、弱点もだ。
要するに日本の作文教育は他人の考えを理解し、自分の考えを是正していくことに力点があり、自己の主張をなすために「データやエビデンスなどを使う」ものではなく、「共感や道徳を使う」ものなのである。
↓エビデンスに疑いをもつ朝日の記事。だいぶ騒がれたが、この考えは学校教育を真面目に受けた結果なのではないか?
教育学者の幸田国広はこういった国語教育を「隠れた道徳教育」と読ぶ。
日本の国語教育とは生徒同士の自主的な相互理解という名目の監視を通して、 他人との違いを敏感に感じさせ、根拠ではなく、雰囲気による矯正、自己規律を誘うものだったのだ。
普通にいきていれば文章を書く機会などそんなにはない。
大学教育において、レポートなどを通して初めて継続的に文章を書く機会が得られる。
むろん、学部や大学によっては卒論はおろかレポートもまともにかかないまま卒業する人たちもいるだろう。
日本の大学進学率は約50パーセントである。半分は大学へいってない。
すると、最終的な「書く」という機会を得られるのは高校までであり、高卒にとって「書く」とは「共感と道徳を利用して作文すること」になる。
また、そういった人たちがSNSで「書く」とは学校でならった要素を凝集した「作文」のことになるだろう。
私はこの『論理的思考とは何か』を推す。
これは私たち日本人の思考様式にかぎらず、SNS言論が
「なぜ、こんなにも『共感』や『道徳が大好き』なのか」
を説明している本でもあるからだ。
こたえは簡単だ。
日本人はSNS上でもお互いの共感や道徳を《学校教育でならった作文と同じように》はかりあっているのである。
バカではないだろうか。
朝日新聞と西田亮介の「エモ記事論争」
昨今、西田亮介氏による朝日新聞、「エモ記事」への批判があった。
その流れの中で、今年3月下旬、朝日新聞デジタルのサイト「Re:Ron」に〈その「エモい」記事いりますか?苦悩する新聞への苦言と変化への提言〉という記事を寄稿しました。かいつまんで言えば「最近の全国紙の紙面は、読者の感情に訴えかけるようなエピソード中心のものを優先しすぎて、エビデンスの提示やデータの分析、社会への提言がおろそかになってやしないか」と指摘するものです。
この西田氏のいう「エモい記事」の数が昔からあったものなのか、量が増えているのか、そういった定量的な話はまだでてきていないと思う。
ただ、朝日新聞の記者からすると
「学校でならった作文のやりかたを厳守しているだけです」
というのが本音なのではないだろうか。
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