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【要約】三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を批判的に紹介する!【感想】

 

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721312-6

 

 

 

 はじめに

 良い本ではあるが、欠点もある

 

 今回紹介するのはいまをときめく書評家、三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

  

 

 SNS上で話題の本ですが、私ズンダはこの本の第六章目までは好意的で、それ以降の章に関しては良いとはおもっていません。

 

 しかし、それはこの本の価値がないということではありません。

 読んで学べることは多いと思います。

 

 特に六章までの教養主義や読書の話などは多くの人に知って欲しいところです。

 「本をよむことはすばらしい」などという言論がありますが、私ズンダは一概にそうとはいえないとずっと思っていました。

 

 この本でかかれているような教養主義自己啓発については以前から、ブログやnoteなどで政治と共に語ったり、あるいは「スプラトゥーン」というゲームをやっている人々に無自覚に巣くっている病魔として批判してきました。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 六章目までに紹介されていること、あるいはその後の章内容の何が問題なのかを読書メーターでまとめました。

 

 今回ブログの記事はそれを貼り付けておきます。

 

 この本は六章目までなら読むべき価値のある本だとは思います。

 

 明治以降の日本人において読書とはどんなものであったのか?

 それがまとめられているからです。

 

 しかし、問題はその読書史と七章目以降との内容が断絶してしまっていることにあります。

 

 要するに、彼女の読書史に従うと「働いていると本が読めなくなる」というタイトルは偽りではないかとしか思えないのです。

 

 この本の正しいタイトルは『なぜ日本人は自己啓発本ばかりをよんできたのか?』ではないでしょうか。

 

 読んだ直後の感想文と疑問

 社会学者・牧野智和を援用して語られる「ノイズ」という概念ー労働の問題なのか?ー

 

 では、私ズンダのまとめをみてください。

 

 この本、絶賛ばかりされているのだが、私ズンダにとっては理解できない本であった。第六章までの明治から1980年代あたりまでの読書の歴史についてはよい。特に教養主義と絡めた読書史は先人による研究が多くあるおかげで、著者の勉強が光る箇所であり、私も彼女が参照している本はある程度は通読しているので納得いった。

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 

 しかし、それ以降の社会学系の思想を借りて現代人はなぜ読書をしないのか?については全く理解ができなかった。

 

 彼女は社会学者・牧野智和による自己啓発はノイズがない」から伊藤昌亮の「西村ひろゆきの情報は安手なものでしかない」を批判し、現代人が本を読めない理由を劃然と浮かび上がらせる。

 

 

①労働で忙しいのでノイズが多い読書ができなくなった

②ネットの普及によるノイズレスな検索になれきってしまった現代人は、文芸書のようなノイズ過多な本を読めなくなった

 

 

 と説明する。

 

 ここでいわれている「ノイズ」とは次のようなものである。

 

 知識=ノイズ+知りたいこと

 情報=    知りたいこと(本書206頁より)

 

 要するにネットなどでは自分の好きな情報だけを手に入れることができる。

 youtubeも自分の好きな動画だけをみられる。

 

 それゆえ、他のどうでもいいような、自分にとって必要のないもの=ノイズ、はそこには存在しない。

 

 そんな生活になれた現代人は「情報だけを得られる自己啓発本パズドラなどのゲームはやれるが、新聞・雑誌・テレビ・文芸書などの本はよめなくなってしまった」と

三宅はいう。ここに労働の忙しさも加わるのが三宅の「本が読めない理由」の論である。

 

 牧野の説の是非はともかくとして、そもそも六章までを顧みても日本人の読書は

 

 

①労働者階級と自分とを区別するため

②大卒などへのスノビズムがあったため

 

 

 とまとめることができる。

 これは序章で彼女が苅谷剛彦を引用して語っているとおりである。

 

 だとすれば、高学歴化が以前より進んだ日本人においてはもはや文芸書を読む理由がないことにあるのではないか。実はこれ自体は三宅も指摘しているのだが、ではなぜ労働の問題にできるのかがわからない。

 

 彼女の読書史をみればわかるように、実はノイズは関係がなく、文芸書は何らかのスノビズムでしか求められないのではないか?

kotobank.jp

 

 「ノイズ」という考えが突拍子もなくあらわれ、それで時代性を説明しきることに無理がある。

 

 押さえておきたいのは彼女は自己啓発本を読書だとは思っていないということだ。これは読んでいればわかることだが、彼女はそれをはっきりとはいわないようにしている。

 

 この本は《本のジャンルによる区別をしているが、著者の三宅はそれを敢えてみせないようにしている》のである。

 

 彼女は「文芸書」を上においており、「文芸書」が読まれない事態を嘆いている。

 

 そして、この「文芸書」が読まれない理由をノイズのせいにした。

 

 「文芸書」自体がつまらないからよまれてないのでは?という問いはここには一切ない。

 

 彼女の中では「文芸書」こそが「本」であり、読まれるべき価値のあるものである。 

 だが彼女はその価値判断を明確に記そうとはしない。

 あるいは、「文芸書」にしかないような価値はかかれていない。

 

 「なぜ文芸書にこだわるの?」かがわからないまま論が進む。

 一般層が本を読まない理由が「働いているから」という主張事態が怪しく思えてくる。

 

 本の売上は下がっていても、一般層は「自己啓発本」は読んでいるからである。

 

 そもそも、ネットに「ノイズがない」というのも本当なのだろうか? 

 検索だけでいえばノイズは少なめかもしれない。しかし、SNSでの諍いをみればわかるように、ノイズだらけなので私たちは言い争っているのではないだろうか。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 『現代人はなぜ自己啓発書しか読まなくなったのか?』としたほうが、良かったと思う。

 

 この本の欠点と問題点をまとめておく。

 

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のおかしなところ

 六章以前と七章以降との断絶

 

 ①彼女の読書史から考えると、日本人の読書は教養主義によるものであった。そして、1970年代などの司馬遼太郎のような小説も自己啓発として読まれていた。

 

 ②つまり、日本人にとっての文芸書を読む理由とは自己啓発本を読む」ことであった。今の自分を更に大きな成長した自分になるための読書、それが三宅が描いた日本人の読書である以上、この結論は否定され得ない。

 

 ③ただし、三宅は牧野智和の見解を引き、それまで自己啓発は「内面」にとどまっていた。90年代になると「行動」をかえることに重点がおかれたという。

 だが、この主張を認めたとしても根本的には自己啓発本を読む」ということに変わりはないのではないだろうか?

 

 私はここで「内面」と「行動」の違いをのべ、

今までの「自己啓発」と異なる「自己啓発」を訴えることに大きな意味を感じない。

 

 意味があるとすれば、三宅が「労働のせいで人は本を読めなくなった」といいたいがために牧野の見解をもってきたかったということだ。

 

 三宅の考えはこうである。

 

 90年代から始まる「新自由主義的」な思想のせいで日本の労働環境は悪化し、不安定な暮らしを余儀なくされる人々が増加した。そのため社会に期待することをやめ「個人」が個々に自分たちを変えるいかなければならなくなった。要するに「行動」を変更せざるを得ない時代になった。人々は「自己啓発書」にその答を求めた。また労働時間の増加やブラック企業などによる搾取により現実での「ノイズ」が増えて、読書の「ノイズ」を嫌がるようになり、余計にノイズがない「自己啓発書」を買うようになった。

 

 一見すると筋が通っているようにみえるが、三宅のこの本にもあるように本の売上は80年代を頂点として下がっていた。

 

 そして、三宅がいうにはその原因は人口の多さによるものだったらしい。

 だとすれば、人々が本を読まなくなったのは、労働が原因なのではなく、人口ということにならないか?

 

 そしてやたらに労働時間の話ばかりしているが、三宅の本には「使える金」の話がない。

 驚くことに、彼女は本を買うには金が要ることを全く意識してないのである。

 

 日本人の賃金は97年にデフレに突入して以降、上がらなくなった。新聞の発行部数が減り始めたのもこの時代である。

president.jp

 

 現代は賃金自体は上がっているが実質賃金はマイナスであり、窮乏に陥っている状態といえる。この状態で人々が本にお金をつかえるわけもあるまい。

jp.reuters.com

 

 余暇時間をyoutubeSNSのような無料で楽しめるようなサイトやアプリが増加したのでそれらに時間を使っているだけなのではないだろうか。

 

 ④彼女はこの自己啓発書」「文芸書」とちがうと考えている。

 彼女は自己啓発書」を「本」だと思っていない。

 

 彼女がいう本とは小説や随筆、思想書のようなものであり「自己啓発書」ではない。  だが、そうであれば、「まえがき」の段階で「本の定義」を示すべきだったでのはないか。

 

 というのも日本における本の売上は80年代をピークにおちている。現在、売上上位を占める本は自己啓発である。つまり、人口減少にある日本人は「自己啓発書」という「本」はよんでいるのだ。だとすれば、日本人は「本を読んでいる」といえるだろう。

 

 彼女が望んでいる「文芸書」という「本」がよまれなくなっているだけではないか。

 

 その自己啓発が売れている理由が「ノイズを求めないようにしているから」というが、彼女が記してきた読書史に従うと、日本人の読書はもとから「自己啓発」目的であり、他者と自分を分けるためのスノビズムしかなかった。もとから「ノイズなど求めてない」のである。

 

 彼女は冒頭、教育学者の苅谷剛彦の言を引いているが、 「高学歴化がすすみ、殆どの人が高卒、半分が大卒になっている社会になれば読む本の傾向が変わる可能性がある」という推考を進めた方がよかったのではないか。

 

 つまり、「自己啓発」ばかりが売れるようになったのは、スノビズムが多くの人に解消されたからではないのか?

 それがなくなった結果、仕事に直結するであろう本しか人は読む気がなくなった。

 

 この本は明らかに第六章以前とそれより後で断絶がある。

 断絶をしないように書くのであれば、労働のせいではなくなるからである。

 

 彼女は新自由主義「ノイズ」という概念にひっぱられて錯誤をおかしたようにみえる。

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 労働で忙しくノイズのある本が読めない、という結論はこの本を通して読んでいればでてこない。

 

 この本を読んで、

「労働のせいで本が読めない」という結論に納得している人々をアマゾンレビューや読書メーター、Xなどの書評家や学者などのコメントでみかける。

 

 

 私ズンダは次のようにいいたい。

 

 

あなたがたは忙しすぎるので、

この本のタイトル以外を読んでないのか?

 

 と。

 

 

おわりにー参考図書を紹介するー

 

この本を更に理解したい人のために、ズンダが選んだ本を紹介する。

 

下記の本はこの本の六章までに当たる。

私ズンダも自己啓発に関する本や教養主義の話は昔から好きでよく親しんでいたので

三宅氏の主張はこれから構成されていることがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
七章以降は労働と新自由主義の話である。
これは以下の本を読めば良い。

 

 

 

 

 

稲葉振一郎氏の『「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み 』は

上に紹介した本と異なり、新自由主義という言葉が曖昧なまま、あらゆるものを説明する便利な用語として使われすぎではないかと警策した本で、一読の価値がある。

 
 
 
↓『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』は概念と実相との結びつきについて検討した本であり、社会学の用語を使って説明することの便利さと危険性についてかかれている。

 

【読書感想文】千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋)を紹介する!!

 

 千葉雅也『センスの哲学』を紹介する。

 センスについて考える
 

 ※本文中にある太字はすべてズンダによるもの。

 

 今日紹介する本は千葉雅也氏の『センスの哲学』文藝春秋)です。

 

 

 千葉氏といえば私ズンダも以前紹介した『勉強の哲学』などで有名な方ですがこのたび、芸術などの「センス」とはどういったものなのか。どう鍛えていけばいいのかについて書いた本を出版されました。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 小説みたいな哲学書

 

 本書『センスの哲学』は中身が取りやすいようで取りづらい。
 もう少しはっきりかけるところをに靄がかかったまま最後まで読むことになる本です。

 

 私ズンダはこの本を読過しているときTwitter上で「小説っぽい」と呟きました。

 

 

 

 普通の新書や論文であれば内容は直截簡明にかかれ、その章ごとに一定の理解をし、次の章にとりかかれる。

 

 けれども、千葉氏の書き方は「尻尾はでているが、肝心の頭が先延ばしされたままでてこない」ようになっており、それがいかにも小説のように私には感じられたのです。

 

 言いたかったことだけに限定すれば「はじめに」と「第一章」で大体でています。
 ですので、その「頭」の部分を過大に求めすぎると肩すかしをくらうかもしれません。

 

 しかし、それが余計に小説っぽいのです。


 小説も要約してしまえば数行で済んでしまいます。

 

 でも納得したり感動したりするには感情の起伏に身をまかせたり、論理的に思考を巡らす経緯がかかせません。

 

 この本の書かれ方そのものが『センスの哲学』そのものをあらしているかのようです。

 リズム(形のこと)の把握、あるないの切り替わり、0→1の「うねりとビート」を感じること、この千葉氏のセンスの説明は、まるで読書しているときの自分だと思いました。


 また、ところどころに『勉強の哲学』で出てきた内容がさり気なく書かれており、以前の本を読んだ身としてはそこに気づいたとき「おっ!」と宝物を発見したような気持ちなります。

 

 人の人生

 センスのために文化資本をみよう

 

 では、千葉氏はこの本でどのようなことをいっているのでしょうか?
 見ていくことにしましょう。

 

 千葉氏は哲学者ですが、中学時代には美大に進もうと思っていた時期もあったらしい。

 

 小説をかいたり、ピアノを弾いたり、美術制作も書いたりしている千葉氏は「芸術と生活をつなげる感覚」を伝えたいとのこと。

 

 センスのよしあしは文化資本に大きくよっているといわれています。

 

 文化資本とはピエール・ブルデューが提唱した概念で一般的には

「親の文化を子が自然に受け継ぐこと」を意味します。

 

 つまり、親が裕福であったり学歴が高かったりすると、その文化を子供は自然にうけとることができるわけです。

 

 その文化資本が少ないほど子供が受け取る資本も少なくなります。
 すると幅の狭い人間ができあがってしまう確率が高まるわけですね。

 

 今だとちょうど講談社新書のほうで『体験格差』という本がでました。この本では親の資本力によって子供が体験できるものに違いがあるということが示唆されています。

 

 

 ※ちなみにブルデューの「文化資本」は社会学者含め、多くの人が勘違いしているという指摘が磯直樹氏によってなされているが、その是非は私ズンダにはわからないので一般的な使われ方で今回は説明した。仮に千葉氏の「文化資本」がブルデューのものと異なっていたとしても特に問題はない。

 

 「ここで注意しておかなければいけないのは,誰かの研究成果がブルデューの立場
と違うからといって意義や価値を損なうわけではないということである。文化資本
概念はそれぞれの研究者がそれぞれの立場に応じて定義して使えばよいだろう。た
だし,ブルデュー「の」概念として文化資本を論じるのであれば,ブルデューのテ
クストに即して論じるのが論理的であり,引用の仕方として正しい。」(磯直樹「ブルデュー派階級分析の理論と方法」より。太字はズンダ。)
 

 

 「文化資本」はセンスとどう関わるか

 

 この文化資本が大きい人に勝つことは難しいが、そこでの判断力のポイントを学ぶことは可能だといっておられます。

 

 「文化資本」がでかい人たちに対抗できるというわけですね。

 

 

 いわば、人間とは「認知が余っている」動物で、余っているからいろいろ見てみたくなるけれど、自分を制限しないと落ち着かない、というジレンマを生きている。僕はそんなふうに人間を捉えています。(23頁)

 

 ・文化資本の形成とは、多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作ることである。(24頁)

 

 この意味は、別のジャンルにあるジャンルを繋げる役割を果たします。

 

 たとえば、ファッションの判断は、美術や文学の判断ともリンクする。ファッションが文学に、料理に、仕事の仕方につながるといった拡張を信じられない方も多いと思います。だんだんと体を柔らかくして、「ものごとを広く見る」モードに入ることが、センスを育成していくことです。(24頁)

 

 

 といわれているように、一見すると関係ないようにみえるが、これが実は関係があるのではないかと「物事を広く見るモードに入る」ことが、センス育成の意味であり、文化資本の形成はこういう点で役に立つということです。

 

 何か真似てみたとき、何かが出てくる、それがセンス

 

 センスを我々はどういう時に感じるか。
 それは「ヘタウマ」の状態です。


 私たちは絵であれば何かを模写します。
 正確にうつそうとしますが、そんなにうまくいかない。これは「下手」といえる。

 

 ところが「ヘタウマ」とは

 

「再現がメインではなく、自分自身の線の運動が先にある場合です」

 

 と千葉氏はいう。


 ゴッホピカソもモネも現実にある存在を書いているが、明らかに現実そのままではないでしょう。しかし、その人の個性が浮いてくる。これがセンスの「生活感」です。

 

 定式化すると

 

 ・不十分な再現性+無自覚に出てしまう身体性

 

 です。

 

 そしてこれはセンスが悪いと一応はいえるわけです。
 
 現実をうまく模写できていない、書道でいえば臨書になってない。

 不十分な再現性なんですよね。

 

 ところが、これこそその人の個性でもある。
 
 つまり、悪いセンスなんだけれども、考え方をかえれば、あなた自身が出ているともいえる。

 ここで千葉氏は「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである」といいます。

 

 忠実な再現を諦める。諦めて、自分ができるモデルの再現をしていく。

 でも、一つのことに執着しているとここから降りることが難しいわけです。

 

 いわば、サンクコストですよね。
 一つに執着してしまう。

 ここで文化資本があると異なるわけです。

 

 文化資本ビッグデータ

 

 文化資本ビッグデータと同じです。
 
 幅広く、多くのことを知っていたり、体験したりしている。

 

 それゆえに特定のモデルに偏らずに済む。

 大量のデータから抽象され、生成する。


 モデルに対して再現志向ではなく、というのは、AIのように「学習」を経た上で、新たなものを生成することです。そのときの学習とは、モデルをより正確に理解しようとする「がんばる方向」ではなく、むしろ、忘却や省略や誇張などがポイントなのです。(47頁)

 

 「センス」は鍛えられる側面がある一方で、自分自身の「固有性」、「限界」からはのがれることができないもの

 

 さて、この「へたうま」これこそが我々各人がもつ「センス」のあらわれです。

 

 ここで「はじめに」の千葉氏の言を引きましょう。

 

 「みんな違ってみんないい」というのは、ウソっぽい明るさがあると僕は感じますが、もっと翳りのある話をします。
むしろ、人間の「どうしようもなさ」をどう考えるかという話になります。どうしようもなさ、はそこには、何か否定的なものが含まれます。人が持っている陰影です。(25頁)

 

 その破綻というのは、その人固有のものというより、「ある種のテンプレのその人なりの表現」だったりする。固有の人生がなぜか典型的な破綻に取り憑かれてしまう人間という存在の愚かさが、人をそこへ巻き込む悪魔的魅力となる。
 そのようなものを魅力と捉えるのはよくないという意見もあるでしょう。それを言う必要もある。しかし人間の個性的悪を消し去ることはできません。それを消し去ろうとすることこそが巨悪であると僕は信じます。ゆえに、重要なのはやはりジレンマです。(214頁)

 

 

要するに我々はうまくなろうとして誰かを真似る。あるいは文化資本のある人々が羨ましいとおもう。

 

しかし、私たちの中にあるなんともいえない「固有のセンス」はどんな状況にあろうが存在しており、他人と自分との差を感じながらも、自分のそのセンスと一緒に生きていくしかないわけです。

 

 

その「センス」はいいものかもしれない、わるいものかもしれない。いいものをめざし続けるか、諦めて自分の個性を受け入れるか。そこに強烈なジレンマがある。
 
 

 

千葉氏がセンスの陰影をかるく残念そうにいう理由は個人の「限界」にあるからです。

私たちは何かを学ぶ。書店にある自己啓発本も、youtubeにあるビジネスの動画も、

みな学ぶことを素晴らしいとし、人は無限に成長できるかのようにのたまう。

 

ですが、個々人の中にある「センス」はその人の個性をあらわすと同時に、「限界」もみせてくるわけです。

 

模写で考えれば、「完璧に真似できなかった」という諦観があり、一方でそれゆえの輝き=その人のセンス、もある。

 

この本ではその「限界」=「固有性」にその人の特色が反映されるとみていますし、最終的には「センスについてあれこれこねくり回してイジろうとしても、どうにかなるものではない」というその限界性を認識することで「センスを超えたオチ」がついているのです。

 

ここまで追ってくると、人生論ですよね、これは。

人の人生はままならない。ゲームのステータスのように調整したい部分を鈕(つまみ)で都合良くあげたり、下げたりなんて出来ない。

 

しかしそれが人間が生きるということであり、何か芸術作品をつくるということなわけです。完璧で理想的な条件、そんなものはやってはこない。何処かで仮固定して何かをやっていくこと、それがセンスのあるなしを超えた状態であり、私たちの結果なのです。

 

最後に小説のような表現で、センスを纏め、千葉氏は本書を結んでいます。

 

 ・どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。一人暮らしの狭い部屋は、ラウシェンバーグの画面に似ている。(216頁)

 
 
読書案内
 

 千葉氏が本書の参考文献としてすすめているもの、ズンダが個人的にこの本を読むときに頭に思い浮かべていた本を紹介する。

 

 

 

 

 

【読書感想文】うさんくさい「啓発」の言葉 人”財”って誰のことですか?

https://publications.asahi.com/product/24772.html

※後に追記します。

 

企業や国、自己啓発本に染まった人間たちが語る不可思議な造語、「人財、メイト、人罪、人在、高度プロフェッショナル制度」といった怪しげな言葉の数々、これらを『「啓発」の言葉』と本書は呼ぶ。その実態はなんのことはない、労働者などを夢みさせ、新しく進歩的で公平な社会が実現したかのようにみせかけるための空疎なものである。 私たちはこうやって言葉に洗脳され、言葉で「何かが変わった」かのように思わされてしまう。Twitterでよくみる光景である。私ズンダがnoteやこの読メで紹介してきた本などもこれを説明している。

 

 

【簡単に学べて、役に立つ!】船木亨『倫理学原論 ――直感的善悪と学問の憂鬱なすれちがい』(ちくま新書)を紹介する!

倫理学原論の書影 ちくまwebより

 

 

どんな人が読むべきか?

疑・倫理学な本

 

かなり問題のある本である。

その問題とは倫理学を学びたくて読む本ではないということだ。

 

この本は、今まで倫理学について専門で勉強してきたり、数多くの本を読んできたりしてきた人向けである。

 

書かれた目的は倫理学を知らない人たちへ向けたものなのだが、この本を最初に読んでしまった場合、倫理学に触れないまま突過してしまう可能性がある。

 

まず、『月報司法書士という司法書士向けに倫理学を解説するために寄稿された論文が基になっていることを前提にして読まなければならない。

 

新書にするために加筆訂正されたものが今回の書である。

倫理学を学んでいない人向けに書かれたためか著名な思想家の名前などは散見されるものの、大部分が、著者である船木氏による思弁で構成されている。

 

学問的な記述なのではなく、一種の随筆、もしくは哲学的な倫理学であるといってよい。倫理学を学ぼうと思って購入した人は呆気にとられるだろう内容である。

 

どんな中身か?

 


では中身はどうかといえば、それは「反倫理学に近い。

 

倫理学という学問に価値はあるのかといった考察がなされる。

 

学問が権威となり、その権威のもとで決められた倫理に従うのが一般の人々であっていいのだろうかという問いがなされる。

 

倫理学という学問は宗教の教義のようになってはいないだろうか?

選ばれた学者達が様々なことについてかたる。

妊娠中絶やクローンや五輪におけるドーピングや安楽死やコロナ対策でどうふるまうべきなのか等々。

 

ここには一般人の直感は消えていて、理性中心の学者等による見解が披露され、

彼等を中心に方針が決まっていく。

 

しかし本当に大事なのは普通の人の直感による感性なのではないだろうか?

 

というのが本書を貫く考えである。

この考えに似たものとしてズンダの以下の記事を参照してほしい。

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 

私ズンダにはこの問いにそこまでの説得力は感じなかった。倫理学の見識を元に行動を決めるような人々を殆どみたことがないからである。

 

特にTwitterなどで自分の意見を盛んに述べている人たちをみても、そこには無定見な先行文献を顧みない人々が多い。孔子「述べて作らず」など何処吹く風、風馬牛である。

 

本当に一般人の直感頼みでいいのか懐疑的である。一方で、専門家頼みの危険性というのも上記の記事で紹介した『専門家とは何か?』の通りだ。

 

日用生活に沿った常識、慣習こそが倫理の基本


ここで重要視されるのは日用生活に沿った考えである。

あらゆる物の根底には人々の生活からうまれる習慣があり、法律も倫理も学問の答弁から誕生しているのではなく、人の生活様式から発生しているという。

 

これはヴィトゲンシュタインやプラグマティストあるいは保守主義を思わせる。

 

私ズンダは保守主義者なのでこれを否定する気はない。

 

ただし、人々の実感だけでは精確を欠すると思っている。

それゆえ、学問的な権威は必要であり、それだけの従事する知性をもった人々による研覈が求められるのではないか。

 


川島武宜 『日本人の法意識』やスーザン・バンディズ編『法と感情の哲学』などと読むと更に勉強になるだろう。

 

 

 

読み方としては倫理学の本を読んできた人々が一旦、 そこで学んだ常識的な見解を疑うために利用するといい。

 

船木氏がいうように学者等による倫理の本を読んでいると 固定化された概念に従って物事を考えるようになってしまい、 それが真理探求に役立っているように錯覚しがちではある。

 

その倫理学の見方というものを一回やめて、見直すのもいいのかもしれない。

 

 

 

読書案内

本書で学ぶべきは既存の倫理学の是非である。

よって倫理学で何が問題視されているのか、どんな語り口があるのかを知らなければ

倫理学原論』を十分に味わうことはできない。それゆえ、この本は問題なのである。読者はまず倫理学固定観念を身につけなければならないのだから。

 

ということで読書案内は倫理学をまとめて学べる本と個別的な事例に沿って倫理するものにしてみた。

 

倫理学の道具箱』

はレファレンス本として使える。
色々学んでいくと「この用語の意味ってなんだっけ?」となりがちだが、
そういうときにこの本があると判然とする。ただし、日本がどこか不自然で
わかりづらいところがある。

 

昭和堂の『倫理学

 

は教科書なので、全体を見通すのに使える。
本来はこういう本を読んだ人が今回の書を読むべきだろう。

 

倫理学入門』

 

倫理学全体から個別の問題までを
軽く勉強できる本。値段も手頃で分厚い本でもないので
倫理学で何をやっているのか軽く身につけたい人にはいい。

 

『つなわたりの倫理学

 

は新書ではあるが個別の事例に対して
「相対的」なこたえをだすのではなく、妥当な答えを出そうとする
野心的な書。

 

特に巻末にある倫理学者マーサ・ヌスバウムアマルティア・セン
ついて詳述されているところが勉強になる。本書自体もヌスバウムに沿った
答えを出すことに特色がある。倫理学相対主義に陥らせない工夫がされている。

 

『現代倫理学入門』

 

は古いし、文体も硬いが内容は面白い。
特にカントを利用した倫理学が繰り広げられるので学術的な倫理学
どんなものかをつかみやすい。船木氏はこういう倫理学を否定されているのかもしれない。

 

 

『メタ倫理学入門』

 

は「メタな倫理学」についての教科書。


倫理学で考えられている倫理とはどんなものか」を考えるのがメタ倫理である。
そしてそのメタ倫理だけで多くの学者、思想家がおり、様々好き勝手に語っている。
とにかく人間はああでもないこうでもないと語るのが好きなんだというのがよくわかる。
A派、B派、C派(折衷派)の面々の名前と思想を学ぶのに使える。


私は最初、船木氏の本は「メタ倫理学」なのかと思って手に取ったのだが
読んでみると全く異なるモノだったので驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【新書紹介】山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』を紹介する!!!

嫉妬論の書影 光文社公式HPより

 

 

政治学者が嫉妬について書いた本。
政治学者なのに心理学で問題になりそうな「嫉妬」について書くのだろうか?という問いに対し、
民主主義社会におけるここ数年の出来事は嫉妬の要素があるからだとこたえている。


嫉妬を考える政治学の研究が引用されており、そんなに意想外な主題でもないらしい。
私が知っているものだとエリートでありながらもそれに見合った仕事にありつけなかったエリートによる反逆をピーター・ターチンが「エリートの過剰生産」(Elite overproductionm)と述べており、これも嫉妬によるものだといえよう。

 

第二章の「嫉妬の思想史」ではプラトン、イソクラテスプルタルコストマス・アクィナスなど13人の思想家たちによる「嫉妬論」が紹介されており、思想史としてまとめられており勉強になる。結局、嫉妬というのは自分に近い相手方がいる場合に起こりやすい。


私たちは全く知らない金持ちや遠い芸能人などをみてもそんなに嫉妬することはない。
むしろ、同級生や先輩などの近しい間柄の人が「上にいること」に対して嫉妬を抱きがちであろう。


その嫉妬に関するアレコレを紹介したあと第五章で「嫉妬と民主主義」についてかかれる

 

「嫉妬」の感情は相手を蔑み卑しい感情ばかりではない。嫉妬するからこそ政治家や大企業などにいる人々への不平不満が炸裂し、
民衆は政治に興味をもち、上流への是正を促すという利点があるのだ。 


もし、民衆が嫉妬を覚えなければ彼らの政治関与へのエネルギーは小さいものとなり、
利得を貪るだけの倨傲な代議士らをのさばらせてしまう「嫉妬による世直し効果」があるのだという。


これには同意である。結局、嫉妬は人間にはつきものだし、
高飛車で貪婪な人間が不正を行っていることはよくある。その修正のために嫉妬による力は機能するだろう。「ルサンチマンではないか?」というのは事実かもしれないが、それが必ずしも悪いわけではない。

 

 
↓以下、政治絡みの本を紹介した記事です。読んでくださるとうれしい

【読書感想】応用性のある哲学 『信頼と裏切りの哲学』を紹介する!!

 

 

どんな内容の本か?

 

紹介するといっていますが、議論の中身を仔細に伝えることはまずできない本です。

この本の結論だけをいってしまうと実は非常に穏当なものでしかありません。

 

哲学者達の議論が諸々参考にされながら、その説を剔抉し反論や異論を加えつつ、著者がまとめた信頼の要素「認知的・感情的・制度的」が多層的に重なりあい、不信や裏切りなどがどのように誕生するかを検討していくといったものです。

 

そのため大事なことは「認知的とはなにか?」「感情的とはなにか?」「制度的とはなにか?」を確認しながら読むことです。

 

これらを確認した後に不信、裏切りの項について思索が展開されますが、

それは至って当然の結論に至ります。

 

本書を読み終えたとき、私ズンダは「あれ、これでおわりか」とおもってしまいました。

一方で、読書中、この考えは「使える」とも思いました。

 

当然、信頼や裏切りというのは我々の日常において頻繁に繰り返されていることです。

誰かに対しての信頼なくして恋愛も家庭生活も学校も会社も成り立つことはありません。

 

人と付き合わないで生きていく人は極一部でしょう。

 

こうして私がブログをかいたりXをしていたりしても、常に誰かはみています。

私も誰かが自分の書き込みをみているかもしれない可能性をもちながら、ブログ、X、NOTEに文字を連ねているわけです。

 

ですから、この本の内容は実に哲学的考察でありながらも実践的です。

 

それゆえ「当たり前」に感じられてしまい物足りなさを覚えてしまうという欠点があります。

 

ただ私個人のここ一、二年の興味に本書を照らし合わせてみると、時宜にあった拡張ができることに気づきます。

 

私ズンダはどのようにこの本を受け止めたか―スプラトゥーンというゲームー

 

私ズンダにとっての関心事は

 

「テレビゲームにおけるオンライン上の信頼はいかにして成り立つのか?」

 

ということでした。

 

私ズンダは「スプラトゥーン」というゲームをずっとやっていますが、

このゲームは四人チームで相手四人と戦います。

 

オンライン上の知らない三人が味方にきて、私と一緒に相手チームと戦います。

その結果、勝ったり負けたりするわけですが、

「どうして味方はあのときにこんな行動をとったのだろう?」と思うことが多い。

 

ここには味方への「信頼」があり「期待」があると考えられます。

お店へいって商品を店員さんにわたし、お金をあげることで商品がこちらのものになる。

 

これは客と店員との信頼によるものです。

 

この信頼は万引きすれば一瞬で崩れ、「裏切り」になります。

 

それと同じで「スプラトゥーン」というゲームにも「信頼」と「裏切り」が不即不離で存在しているのです。

 

この辺りを考察するときに『信頼と裏切りの哲学』は非常に役立ちそうだなと思っています。

 

読んでいてグァラ『制度論』とヒースの『ルールに従う』を思い出したのでこちらもおすすめです。

 

特にヒースの1~3章の道具的合理性などは近いが、『信頼と裏切りの哲学』はそのなかでも焦点をかなり絞っている本であり、ヒースのは頁数も分量もでてくる思想家や実験の紹介ふくめて射程が長い。

 

 

 

他メディアで書いた感想文

 

以下はXや読書メーターにかいた感想です。

 

 

 

・認知的信頼

・感情的信頼

・制度的信頼

 

 

これらが多層的に関わり合うと考える。
 どの信頼にも一概には言い切れない部分があり、
それを他の部分で補う。この三点を引き継いで、不信、裏切りなどがどうして起こるかを語る。 
読むべき部分を指摘できない本だった。


 オンラインゲームではなぜお互いが協力しあうのか?
ということを考えるときに本書を利用してみると
自分には有益な書物なのではないかとおもえた。 
それが理由で手に取ったわけだしなあ。
あくまでも内的コミットメントに拘ってる感じがあったけど。もう一回よんでみるか・・・


難解ではなくしっかり説明された本なので読むこと自体は苦ではない。
問題はこれを読んでいる自分がここから何を引き出せるか、
何を思えるかということである。その論理の積み重ねも結論も分かる。
というか、当たり前ではないかこれは?といった内容のあまり、
読後感がない。読む前と読んだ後での自分の変化を感じない。
本によって思想が極度に変わるなどということは
青年期でもないかぎりは滅多にないことであるが、


この本はホッブズ、ヒューム、カントを軸にしながら
信頼について書いていくために思想家の紹介のようになっているきらいがある。


そして、ここで挙げられている彼らの思想も、
哲学系の本を読んでいる人間であれば知っていて当然のものである。
それらから信頼を考えることはいいが、
こういう思想家の説を追っていくことで分かることに感興を覚えることが
私にはできなかった。


ただし、不佞にとって益があると思ったのは
ビデオゲームにおけるオンライン上の味方に対して私たちは何を求め、
期待し、信頼し、そして不信や裏切りを抱くのかということをよく考えていたからである。 
その観点からすれば、本書はそれに十分に応えてくれたと思える。使える本になる。

【100分de名著】朱 喜哲 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を紹介する!【感想文】

 

 

※追記

著者の朱氏に反応していただいた。

プラグマティズム分析哲学的なローティの思想への批判などは

二月刊行予定の

『人類の会話のための哲学: ローティと21世紀のプラグマティズム』で行っているらしい。

実に楽しみである。

 

 

 

 

 

ローティについての入門書である。


《西洋哲学に一貫してみられる「真理」の探求への批判》
《終極の語彙》

《リベラル・アイロニスト》

《再記述》
《言葉による非‐人間化》

 

などが扱われている。


ローティを利用して何かを述べたい人にとっては良い纏めになっている。


たとえば人と喧嘩になったり論争になったりしたときに


「それは君の《終極の語彙》でしかないよね」

といえば
相手のことを論破した気になれるだろうし、


「《言葉は人を非‐人間化》するのでエビデンスはいらない」


などといった使い方もできるだろう。

 

個人的にこういう哲学の使い方はどうかとおもうが、
しかし、哲学を現代的に利用するとなれば論法の一つとして
各哲学者の思想を集めて、自分の手駒として使うのも一つの摂取の仕方ではある。


権威主義的にはなるが、
一般層が時代に名を残した人の知恵として現代に活かすやり方としては
いいかもしれない。 


ただ、この本には言語哲学相対主義の話がのってないので、
読んだ人はローティを相対主義者」とおもってしまうのではないか。
もちろんそういう見方されているし、ありだとはおもうが、
ローティへの批判も書いてあった方がよかった。

 

「公共的な社会正義と私的な利害関心」では
ハンナ・アーレント『人間の条件』を思い出した。
ローティが他の思想家などの影響をどのぐらい受けていたのかも
知りたいところではあるが、入門書である以上、
これは仕方がない。ないものねだりである。

 

東浩紀『訂正する力』もどうぞ。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

本書は一時間もあれは読過できるのでおすすめである。

値段も600円ぐらいで買える。

 

以下に並べたのはローティ自身の本とローティについての研究書、またアーレントの「公私」がわかる『人間の条件』である。

またローティを読むに辺り必要な哲学の歴史をまとめた本を紹介している。

どれも読みやすくわかりやすいので、この100分de名著を読んだ後は

ぜひ読んで欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
もし社会の連帯についてもっと広く、または具体的にどうすればいいかを
詰めたことを知りたい方は以下の本をおすすめする。非常に面白い。