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才能がないから諦めることは悪いことか? 為末大『諦める力』を紹介する!



 

辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思って断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職との対談で知った。 「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。  仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。  

 

そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味が記されていた。それがいつからネガティブな解釈に変化したのか、僕にはわからない。

 

しかし、「諦める」という言葉には、決して後ろ向きな意味しかないわけではないことは知っておいていいと思う。

 

 今回紹介する本は為末大氏の『諦める力』です。

 

 この本は以前から折に触れて紹介してきましたが、一冊だけを取り扱った記事はなかったため、この度、書いてみることにしました。

 

 

 為末氏の陸上人生

 姉の影響から始めた陸上で一位をとりまくる

 

 僕も花形種目の短距離に取り組んだ。走り始めると、すぐに頭角を現した。身体的に早熟だったこともあり、経験を積むにつれてタイムは急激に伸びていった。

 

 全日本中学校選手権(全中)は、中学生最高峰の大会と呼ばれている。僕は中学二年の夏、一〇〇メートルで七位入賞を果たした。

 翌年、三年生になった僕は、同じ全中で一一秒〇八のタイムで同世代のトップに立った。

 

 その年、一〇〇メートル、二〇〇メートル、四〇〇メートル、走り幅跳びなど複数の種目で中学ランキングの一位

 

 というように、為末氏は尋常ならざる才能をもって中学時代の陸上競技を総なめしていきます。

 

 これだけ一位をとっていればさぞかし人生が楽しかったに違いないでしょう。

 勝事なこととして羨ましいですね。

 

 高校三年生から何かがかわったー能力の限界がきてしまうー



 三年生のインターハイから狂い始めた。  

 インターハイとは、全国高等学校総合体育大会のことだ。すべてのスポーツに取り組む高校生が憧れる、スポーツの祭典である。  

 

 僕はこの大会で一〇〇メートル、二〇〇メートル、四〇〇メートルの三種目にエントリーしていた。

 

 しかし、顧問の先生が僕に黙って一〇〇メートルのエントリーを取り消してしまっていた。一〇〇メートルのスタートリストに自分の名前がない。

 驚いた僕は先生に詰め寄った。一〇〇メートルでの優勝を狙っていた僕は、顧問の先生と言い合いになるほど激昂した。  

 

 冷静になってよくよく話を聞いてみると、先生が一〇〇メートルのエントリーを外した理由は、僕の肉体を思ってのことだった。

 僕は早熟で、高校生の段階である程度肉体は完成していた。

 

 だが、瞬発力と爆発的なスピードが必要な一〇〇メートルの試合で、肉離れを繰り返していた。

 

 

 為末氏は色んな種目にでていたのですが、徐々に体が限界をむかえ、コーチの判断から100メートル走にでられなくなってしまいます。

 

 このとき、コーチは肉体を理由に彼の出場を取りやめさせたといっていたのですが、為末氏はこの本のなかでもう一つの理由を想像しています。

 

 ライバル選手に勝てなくなっていたのも事実だった。肉離れを繰り返していたことを考えても、僕の肉体は一〇〇メートルに向いていなかったのだと思う。

 

 インターハイのエントリーを削除したとき、

 先生は「おまえは、この先一〇〇メートルでは勝負できない」とは言わなかった。

 

 だが、以前から四〇〇メートルハードルに取り組むことを勧められていた。おそらく先生は、かなり早い段階で僕の限界を見抜いていたのだとおもう。

 

 為末氏は徐々に100メートルで負けることが増えていたというのです。

 コーチはそれを見抜き、直言しなかったものの為末氏に別の方向へ行くように示していた。

 

渋々ながら同意した僕は、二〇〇メートルと四〇〇メートルに出場した。四〇〇メートルでは、当時の日本ジュニア新記録となる四六秒二七のタイムで優勝した。 

 

 こうして200メートルでも400メートルでも結果を残しているわけで、為末氏のもともとの力がどれだけ優れていたのかわかりますね。

 

 もうここまでの話をきいただけでも「とんでもない才能の持ち主だ」というのがわかります。

 

 しかし一方で100メートルに関して「能力の限界」に達していたわけですね。

 ここにその人ごとの限界や運命をみることができます。

 

 努力してもできないことはできないと理解した日

 

  僕は早熟で、小学生のころからぐんぐん身長が伸びた。しかし、その伸びは中学三年生でピタリと止まっていた。

 

 中学三年生のときの身長と、三四歳で引退するときの身長は、まったく変わっていない。ついでに言うと、体重もほとんど同じである。  

 

 肉体的な成長と歩調を合わせるように、一〇〇メートルのタイムも急激に伸びた。ところが、高校三年のインターハイ前までに記録した自己ベスト一〇秒六は、中学三年生での自己ベストとほとんど変わらなかった

 

 この部分、本当に悲しいですよね。

 中学時代の自分と高校時代の自分と変化がないってのは。

 

 成長が止まってしまったことを否応なく意識させられます。

 

 

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 世界ジュニアという大会で世界のトップクラスのアスリートを目の当たりにした。日本一の高校生たちがまったく相手にされずに予選落ちしていくのを見て衝撃を受けた。ジュニアといえど、世界レベルになると九秒台に近いタイムで選手たちは走る。  この衝撃は大きかった。  

 

 僕は、このとき初めて「努力しても一〇〇メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わった。

 

 あれほど大会で優勝してきた為末氏が初めて味わった挫折、もしかすると「自分にはムリなのかもしれない」という気持ち。

 

 これだけ才能のある人でも、上には上がいる。

 

 彼の筆致からありありとその苦痛と懊悩する様子が伝わってきます。

 

 私ズンダのような凡人とはまた異なる痛みなのでしょう。

 有望視されてきた人間にのみ存在するツラさです。

 

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 諦めて別のことをやればどうだろうか?

 

 

 ところが為末氏は顧問の先生にすすめられた400メートルハードルに目覚めます。

 

 それというのもハードル手前になると選手達が歩幅を合わせて不器用な飛び方をしていたからです。

 

 そこで彼は次のように考えました。

 

 「一〇〇メートルでメダルを取るよりも、四〇〇メートルハードルのほうがずっと楽に取れるのではないか」

 

 このような転換が彼のその後の陸上人生を豊かにしたことは私たちの記憶に新しい。

 

 ですが、100メートル走をやめた当初は悩みもあったそうです。

 

 僕は諦めたことに対する罪悪感や後ろめたさを抱きながら競技を続けていた。しかし、時間が経つにつれて、四〇〇メートルハードルを選んだことがだんだんと腑に落ちるようになった。

  「一〇〇メートルを諦めたのではなく、一〇〇メートルは僕に合わなかったんだ」

 

 

     女子五五キロ級には、国民栄誉賞を受賞した吉田沙保里さんという絶対的な強さを誇るチャンピオンがいる。一つ上の六三キロ級の伊調馨さんも、国内のみならず世界的にも圧倒的な強さを誇っている。しかし、伊調さんが吉田さんと同じ階級で戦っているとき、伊調さんは吉田さんにほとんど勝てなかった。伊調さんが世界の頂点に立ったのは、吉田さんとは違う階級に移ってから

 

  レスリングの伊調氏も吉田沙保里というとてつもない人物には勝てず、階級を変えることで金メダルを獲得できた。

 

 それを考えれば違う道をいくことは決して負けではないといえるのです。

 むしろ本人が何かしらかの「結果」を残せる道へ進まないことが「負け」なのではないでしょうか。

 

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 努力するより、自分が向いていることをやるべきである

 

 

 

 世の中には、自分の努力次第で手の届く範囲がある。

 その一方で、どんなに努力しても及ばない、手の届かない範囲がある。

 努力することで進める方向というのは、自分の能力に見合った方向なのだ。

 

 

 ただ、自分の憧れる存在が本当に自分の延長線上にいるかどうかということを、しっかりと見極めるのは非常に大事なことになってくる。自分とはまったく接点のない人に憧れて、自分の短所を埋めているつもりが長所ごと削り取っている人はかなりの数に上ると思う。僕はこれを「憧れの罠」と呼んでいる。

 

 

 私たちは誰かに憧れ、「あんなふうになりたい」と思います。

 けれども、その誰かはあなたとは違います。

 

 もとからもっている才能が異なるわけです。

 

 それを「努力」で埋めようなどとは片腹痛い。

 ムリなんですよね。

 

 異常なほどの努力信奉は人間の人生を狂わせますし、また他人に対しても「自己責任」を過度なほどに求める人物をつくりだしてしまう因果となっています。

 

 私ズンダが思うに努力主義に塗れている人間にみせるべきなのは

 普通の人間よりは優れているが、頂点に立つことはできなかった人々ではないでしょうか。

 

 彼らのように非凡ではある。けれども、頂点ではない。

 そんな人たちの人生観は大口をたたく、骨箱をたたいている努力主義者にとって良い薬になるはずです。

 

 可能性を少なくすれば何かに専心できるー諦めて「勝つ」ということー

  

 

 

 人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。

 

 いいことばですよね。

 「できないことをわかることが、できることを確定させる」といっているわけです。

 

  自分が子供の時もそうですが、挫折経験がないので夢を見がちです。

  なんでもできるとおもっている。

 

 そんな状態からはやく脱皮するのが人生の秘訣だと思うのですが、

 そのためには色んな事を経験させて、どんどん挫折させたほうがいい。

 

 その経験が満足の閾値を下げてくれますし、自分の方向性を定める方法でもある。

 

 

 人間には変えられないことのほうが多い。だからこそ、変えられないままでも戦えるフィールドを探すことが重要なのだ。  

 僕は、これが戦略だと思っている。  

 戦略とは、トレードオフである。

 つまり、諦めとセットで考えるべきものだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かして勝つかということを見極める。

 

 ここで重要なのは為末氏は「勝つことは諦めてない」ということです。

 

 

 あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。言い換えれば、踏ん張ったら勝てる領域を見つけることである。踏ん張って一番になれる可能性のあるところでしか戦わない。

 

 人から諦めろ、といわれたとき何か釈然としないものをかんじるのではないでしょうか。

 もちろん、諦めるのはつらいことです。

 

 けれども、自分にはその道が向いていなかったと思って、他の場所で闘うことも長い人生の選択としてあっていいはずです。

 

 私たちは努力という言葉に価値をおきすぎです。

 

 そんなものは意味がない。

 

 「勝てるかどうか?」を目標にしていきていきましょう。

 

 このぐらい勝ちに貪欲でいたほうが、よほど健全に生きられるとおもいませんか?

 

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 ズンダが過去に書いてきた反努力主義の記事一覧

 

 

 記事の合間にはさんだ記事も反努力主義のものだが、ここでは他の記事も紹介しておきたい。

 

 ちなみに私は世の中には何もする能力がない人が大勢いると思っていて、挫折しようが経験しようが、ムリな人は結局ムリだと思っている。

 

 

 

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 関連図書

 

 以下の本は

 

「努力なんてするな」というひろゆき氏の本と、

「努力のやりかたがあっているか?」というのを書いた本である。

 

 どちらも読んで欲しい。

 

 とにかく努力主義にはまりすぎないようにすること。

 

 が、適切なやり方は知っておくことが肝要だと考える。

 

 私ズンダの立場を述べておくと、基本的には努力してもマシにはなるが、大した結果はついてこないというものである。

 

 しかしながら、物事にやり方があることは事実だし(書道でもギターでも先生についたほうが一人でやるよりも早いことはいうまでもない)、もし効率的なやり方があるのだとすればそれらを組み込んだ上で努力してみることには大いに価値があるとおもっている。

 

 その上で諦めた方がすっきりするだろう。下手なやり方で何かを始める必要などない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Kindleで読むと無料です

 散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。

 

 

①部屋が散らからない
②いつでもよめる 
③引用がラク

 

 

 これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。

 

 

 

 

 

HSPの特長や診断を謳う人たちには気をつけろ!『HSPブームの功罪を問う』を紹介する!!



 

 

HSPという言葉を皆さんは聞いたことがありますか?

Twitterやまとめブログで頻繁に目にしたことがあります。

 

「繊細で生きづらい人」という意味で使用されていることが多い。

 

 wikipediaの項目をみると、このように表現されています。

 

ja.wikipedia.org

 

ハイリー・センシティブ・パーソン(Highly Sensitive Person、HSP)とは、環境感受性Environmental Sensitivity)あるいはその気質・性格的指標である感覚処理感受性Sensory Processing Sensitivity)が極めて高い人たちを表す言葉である[1][2]。環境感受性とは、ポジティブおよびネガティブな環境刺激に対する処理や登録の個人差を表す特性的概念である

 

 



今回紹介する飯村周平HSPブームの功罪を問う』岩波ブックレット)には

この概念が精神科クリニックや宗教団体、インフルエンサーなどの商用に悪用されているとあります。

 

飯村氏曰く、HSPは「医療あるいは病理も出るに由来するものではありません」とのこと。

 

心理学の「感覚処理感受性」とよばれる性格や気質をあらわすものでしかないのです。

 

つまり、治療が必要な病気でもなく障害でもなく、単なる「高感度な人間」という特徴を述べたものでしかないのです。

 

日本においてはNHKの「ハートネット」や松本人志が司会をつとめる「ワイドナショー」や日本テレビの「世界一受けたい授業」などでとりあげられることで徐々に浸透していきました。

 

その後はTwitterInstagramなどを通して拡散され、私たちの中に浸透していったというふうに本書ではかかれています。

 

いったいこのHSPはどこが発祥したのでしょうか。

 

そして、こういった心理学用語を切り抜いて自分のアイデンティティとして捉えてしまう私たちの心理的な状況とはどのようなものなのでしょうか。

 

それをみていきましょう。

 
 

 

 

HSPってそもそも何なのよ?

提唱者はエレイン・アーロン

 

 1996年、アメリカの臨床心理学者であるエレイン・アーロンが、自己啓発本のなかでHSPという言葉を使用し始めたことに由来します。~(中略)学術的には、アーロン氏の本が出版された翌年に初表された論文が初出となります。アーロン氏の夫であり社会心理学者のアーサー・アーロンとの連名で、パーソナリティ・社会倫理学領域の一流研究誌に、いわゆる「HSP気質」に関する論文を発表しました。

 

余談ですが、夫のアーサー氏は、「吊り橋効果」でも知られる研究者です。揺れ吊り橋の上を男女で一緒に渡ると異性が魅力的に見える、というあの実験です。ただし、「吊り橋効果」研究の再現性には、疑義が生じていることも補足しておきます。

 

 というように、エレイン・アーロンがなんと「自己啓発本」のなかで使ったことがはじまりだったとかかれています。

 

 当ブログでは盛んに自己啓発を批判してきましたが、このHSP批判本にも自己啓発が絡んでくるとなると、もはや値遇の縁(ちぐのえん。縁があること)を感じざるを得ません。

 

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 またアーロンの夫であえるアーサーが「吊り橋効果」の提唱者であること、

そしての効果自体の再現性が疑われており、この夫妻自体が疑わしい人物なのではないか、という訝しんだ様子が飯村氏の文面からうかがえますね。

 

 

 「HSP気質」とは?

 



 「HSP気質」とは、学術的には感覚処理感受性とよばれる心理学概念です。

 アーロン氏は、シャイな人や内向的な人の背後には、新しく未知な状況において「いったん立ち止まり、指さし確認」をするような心理的特性があるのだと考えました。この心理的特性こそが感覚処理感受性(いわゆるHSP気質)とされます。

 

 

 ここからアーロン夫妻は心理尺度を作成するために「感受性が高いと自認する大学生」にインタビューし、感受性の高さを反映する27項目を抽出し、「HSP尺度」と名付けました。

 

 こうしてHSPという尺度が新しく生まれ、敏感な人の特徴が具体的に定められるようになったわけですね。

 

 

 

 HSPの定義を確認するのであれば、それは「ネガティブな刺激や経験から悪い影響を受けやすく、一方でポジティブな刺激や経験からは良い影響を受け取りやすい人」だといえます。つまり、感受性の高さゆえに、他の人よりも、「良くも悪くも」影響を受けやすいということです。

 

 発達心理学の分野においても1990年代後半から2000年代前半にかけて、差次感受性や生物感受性という理論が提案されたらしく、感受性に関しての研究が一段と進んだ時代だったということらしいのです。

 

 ここで大事なのはHSP「弱いこと」や「生きづらさ」を強調するためにつくられたのはないということです。

 

 実際には「敏感な人がいる」といっているだけであり、ここに適者生存や強弱などというものはありません。

 

 しかし日本でのHSPの捉え方はどうもHSPだといきづらい」という話ばかりが強調されています。

 

 ↓とはいっても、アメリカでも敏感すぎて「生きづらい」という人たちが増えていることが問題視されており、何かそういう流れなのだろうかと思ったりする。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 日本のHSPブームはおかしい

 

 



 飯村氏はGoogle検索、関連書籍の本題、Twitterにおける検索などから日本のHSPの需要の仕方が「生きづらさ」のみ繋がっていることを指摘します。

 

 

 

 

 

(本書19-20頁より。ただしTwitterの分析対象が150件しかないことから参考資料程度にすべき、とのべておられる。)

 

 HSPを自分が「何者なのか?」を自認するために利用している

 HSPというラベリング



 先ほども紹介したようにもともとHSPには「生きづらい」などという属性はありませんでした。

 

 これに対して「繊細で人よりも傷つきやすい。でも、繊細であるがゆえに、人よりも物事の良いところに気づき、感動したり共感したりすることができる」。こうした「物語性」が、HSPブームで語られています。

 

 HSPを自認する人々のなかには、その『価値」を強調し、HSP「特別な才能」だと強く信じる人もいるようです。これに関して、「自分自身がHSPであることを特別視」するさまは、過敏型のナルシシズム(自己愛)と類似すると指摘した研究者もいます。

 

 要するにHSPという心理学の概念を都合良く利用し、「自分は何者であるのか?」という疑問に答えを出しているというわけです。

 

 人によっては「自分はHSPという特別な人間なんだ!」と思うことで、他人との差別をはかり、自己愛的な傾向を示す人もいるといわれています。

 

 もしHSPが「障害」を表すラベルであったら、HSPを自身のアイデンティティにし、SNSなどで第三者に公表する人もっと少なかっただろう、と私は思うのです。つまるところ、HSPというラベルが繊細さのポジティブな側面にも着目したラベルであること、そして障害ではなく個人の性格や気質としてのラベルであること、そうした要因がこのラベルを人々に受け入れやすくしたのかもしれません。

 

ループ効果により人は概念を自分だと思い込んでいく

 

 



 ループ効果という科月哲学者であるイアン・ハッキングが提唱した概念があります。

 

 飯村氏は佐藤雅浩氏の論文からこの考えを説明されています。

 

 佐藤氏の論文は日本社会の「うつ」「自閉スペクトラム統合失調症などという症状がラベリングと化している。それを説明するためにイアンのいうループ効果が適用できるというものです。

 

 

①人々の分類や記述に関する新たな知識の創出

②それらの一般社会への浸透

③当事者(カテゴリーに分類された人々)による知識の自己適用や修正や拒絶

④当事者たちの意識や行動の変更

⑤それによる分類や知識の変化

 

 つまり、誰かが新しい概念を提唱すると、時間をかけて一般の人々にまでつたわります。

 

 すると受容した人々の間でそれらの考え通りに行動したり意識が変化する人々がでてきます。自己成就予言みたいなはなしですね

 

 たとえば、「自分は傷つきやすいからHSPといわれるものなんだ!」とか「社会にでたけど仕事でミスばかりだから、自分はASDにちがいない!」とかいう状態です。

 

 これらが広まった結果、最初の定義とは異なった使われ方をされるようになってしまう。

 

 

 

 (本書34頁より。HSPをループ効果で説明した図)

 

 このループ効果による説明、本当にわかりやすいですね。 

 わかりやすいというか納得してしまう。

 

 特にTwitterを長年使っているとこういうことは今まで何度も経験してきたように思えます。

 

 いや、Twitterだけではありません。書店でみた本題と似たような題を大量にみた経験ってないでしょうか?

 

 毎年、必ず流行の題名があり、似たような本がずらりと並ぶ。

 

 いつのまにかそれらの用語が一般大衆のものとなり、大衆達がそれで互いをラベリングしあい、そして用語の意味や用法が変化していく。

 

 ずっとこういった景色を見てきたような気がします。

 

学術的なHSPと一般に流布したHSPとの違いから危ないビジネスへ

 



 こうした結果、HSPは学術的なHSPとのズレが生じてしまっています。

 

 

 

 

 

 問題なのはHSPビジネスのようなものができていることだと言っておられます。

 

 

 HSPクリニックHSPは病気でもなんでもないのでそんな診断基準などないので何を治療するのか?)やHSPをみるための資格宗教、あるいは学校現場での生徒指導に取り入れられているなどともろもろの問題が発生している、とのこと。

 

 何かHSPという概念が発達障害などのような本当の病気と同じ扱いを受けており、そこから派生したビジネスに対しても警戒しなければいけなくなっているのです。

 

 本書はこうしたHSPの問題点を仔細に扱っており、見逃すことのできない一書物といえるでしょう。

 

関連図書と関連サイト

 

 

 

関連図書および関連サイトは本書にのっているものを選んだ。

 

 

 

www.japansensitivityresearch.com

 

 飯村氏が作ったHSPの情報サイト。

 

 これをみて正しいHSPとは何なのかを勉強したほうがよい。

 

 

 

 
本書を書いた飯村氏の本。
著者いわく「内容はやや難しいですが、本書ではあまり触れていないHSPの研究動向を知りたい方にはおすすめです」。
 

 

HSPにまつわる研究動向がとめられているらしい。

 

 

おそらく「ループ効果」についてのっているもの。

中古でしかかえない。

 

↓下記、自己啓発の危険性、そしてポジティブ心理学の杜撰さ、更に人間の格付けに関する卑しさについて書かれた本。

 

 

 

 

Kindleで本を読むのがおすすめです

 
 

 

 

 

 

 

 

【健常者との大きな違い】大人も子供も発達障害(ADHD・ASD)の人には世界がどうみえているのだろうか?井手 正和『発達障害の人には世界はどう見えるのか』を紹介する!

 

 

 あなたも僕も、家族も発達障害かもしれない

 発達障害を支援するようになった2005年

 はじめに皆さん、こういったことってありますか?

 あるいは、こういったひとたちをみてきませんでしたか?

 

 自分だけ、いつもと違う道を歩くことができない。  

 自分だけ、会話の輪にうまく入れない。  

 自分だけ、給食のほとんどを残してしまう。  

 自分だけ、同時進行で物事を進められない。  

 自分だけ、ボール遊びが苦手。  

 自分だけ、思ったことを言わずにいられなくて、相手を傷つけてしまう。

 

 これがいわゆる、発達障害の症状です。

 

 発達障害ということばがきかれるようになってから

だいぶ時間がたちました。

 

 私ズンダが新書で発達障害の本をはじめて本屋で目にするようになったのは

2011年頃です。

 

発達障害」は、2005年4月に施行された「発達障害者支援法」に記載されています。  これによれば「発達障害」とは、 「自閉症アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害学習障害注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」 (定義 第二条より)と定められています。

 

 自閉症 アスペルガー症候群 学習障害(LD) 注意欠陥多動性障害(AD/HD)  といったさまざまな障害はすべて「発達障害」という言葉に包括されることに

 

 

 とあるように2005年以降に施行された「発達障害支援法」によって、私たちにとって卑近なものとなったのでしょう。

 

 身近になった発達障害



 2004年以降のグーグルのトレンドをみてみましょう。

    データとしては右上がりになっているようにだんだんと周知の事実になっていく様が見られますね。

 

 

 

 

 それまでは自分にとって障害は近くにあるものではなく、ある特定の誰かのものでした。

 

 

 

 しかしその発達障害に関する本を読んだとき、私ズンダの考えは変わりました。

 

 私たちは気づいていないだけで発達障害の気(け)があるのではないか。

 

 診断されていないだけではないだろうか、と。

 

 発達障害を理解しよう



 今回紹介する『発達障害の人には世界はどう見えるか』(SB新書)は

 この障害をもった人たちが世界をどう捉えているのかを説明した内容になっています。

 

 健常者の「普通」と障害者の「普通」では意味が異なります。

 

 どういう状態にあるかをしることで、私たちはお互いを尊重し合うためのきっかけをつくれるはずです。

 

 では、みてみましょう。

 発達障害とはどんな状態か?

 発達障害に関しては先に紹介した法律に次のように記されています。

 

 「発達障害」は、2005年4月に施行された発達障害者支援法」に記載されています。  これによれば「発達障害」とは、自閉症アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害学習障害注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」 (定義 第二条より)と定められています。

 

 自閉症アスペルガー症候群や広汎性発達障害学習障害などをあわせて「発達障害」とよぶようになりました。

 

 

www.rehab.go.jp

 上記のサイトにある「「発達障害の理解のために」パンフレットダウンロード」には次のような図があります。

 

 

 

 この図にあるような症状が発現するのが「発達障害」です。

 

 発達障害スペクトラムである。

 

 スペクトラムとはなんでしょうか。

 


 それは境界線が曖昧なことを意味します。

 


 発達障害と一口にいっても、みんなが同じ症状が同じぐらいの深度であらわれるわけではありません。

 

 コミュニケーション能力が低かったとしても、それがどのぐらい深刻なのかは人によって違いがあるというわけです。

 

 

 

 これまで解説してきた障害の〝境界線〟を明確にすることは大変難しいということは理解しておいてください。  理由はいくつかあります。  

 

 1つめは、障害ごとの特徴がそれぞれ少しずつ重なり合っている場合が多いからです。例えば、自閉症アスペルガー症候群は多くの特徴を共有していますし、注意欠陥多動性障害(AD/HD)の方の中にも、学習障害(LD)で見られる特徴(読む、書く、計算するなどが極端に苦手)などが見られることがあります。  

 

 2つめは、年齢や環境により、目立つ症状が変わってくるので、診断された時期によって、診断名が異なることもあるからです。  

 

 3つめは、個人差の問題。一人ひとりの個性を単純にグルーピングできないのと同じように、「あなたは〝境界線〟のこっち側、あなたは〝境界線〟のあっち側……」などと明確に区分することなどできないからです。

 

 というように軽重が様々あります。

 

 要約すれば「普通の人より、生きづらい」ということでしょう。

 毎日生きていて、何かが引っかかる

 そういう人たちなのです。

 

 でも、いったいどういう「ひっかかり」があるのでしょうか。

 それは冒頭でも述べた「自分だけ普通の人と同じくできない」ということですが、

その診断基準が2013年以降に変更されており、これが本書で大きく主張されています。

 

 アスペルガー症候群の特徴、「感覚過敏」「感覚鈍麻」



 さて、氏が研究しておられるのはもともと「広汎性発達障害」でした。

 2013年に改名され「自閉スペクトラム症」と呼称されるようになりました。

 

 

 この私の研究領域である「広汎性発達障害」は、2013年頃を機に、 「自閉スペクトラム症(Autism spectrum disorder[ASD])」  と呼称されるようになりました。  

 

 そのきっかけは、米国精神医学会が発行した『精神疾患の診断・統計マニュアル』の第5版(通称『DSM‐5』)です(アメリカでは2013年5月に発行され、和訳版は2014年 10 月に発行されました)。第4版(DSM‐4‐TR)まで「広汎性発達障害」と呼ばれていた領域が、この第5版で新たに「自閉スペクトラム症(Autism spectrum disoder[ ASD]という定義で括られるようになったわけです。

 

 

 で、この改訂とともに診断基準もかわっています。

 

 

 ポイントは、 「感覚入力に対する反応特性」、具体的には「感覚過敏」「感覚鈍麻」が診断基準で重要となった ──という点です。

 

 

 ① 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害 社会的やりとりの困難(会話など) 非言語的コミュニケーションの困難 対人関係を築く能力の発達や維持の困難(行動調整など)

 ② 限定された反復する様式の行動、興味、活動 常同性(反復行動など) 限局的な興味 同一性へのこだわり(変化への不安など)  の2つにまとめられました。  

 さらに、②に関しては、「感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ、または環境の感覚的側面に対する並外れた興味」 という記載が加わったのです。  

 この記載が加わったことで、多くの専門家の間に、 「ASDの方々の苦労や悩みを知る上で、感覚過敏・感覚鈍麻を理解することがとても重要だ」  という認識が広まったのです。

 

 この感覚過敏については次のように説明されています。

 

例えば、(コロナ禍で使用中止にしているところも多いですが)公衆トイレに設置されているハンドドライヤー。水に濡れた手を突っ込むと風が出てきて、「ゴォー」という音とともに水を吹き飛ばしてくれる機械がありますよね。あのときに出る「ゴォー」という音は、決して小さな音とはいえませんが、定型発達者の方であればそれほど気になる音ではないと思います。

(中略)けれども、ASDの中の人には、あの機械の音も風も「絶対にムリ」と感じる人がいます。「突然あの機械の音が鳴ると思うと、悪阻録して公衆トイレに入るのをためらってしまう」と思う人さえいるのです。

 

 そしてASDの人はこの感覚過敏と感覚鈍磨(中には両方ある人がいる)をもっているといわれています。

 

2017年のアメリカの調査では、116名のASD児( 10 ~ 14 歳)の実に 92%以上が「感覚について問題がある」と回答しています(Green et al., 2017におけるADI-R, SSPによる評価)。  また、調査規模は小さくなりますが、2009年のアメリカの調査では、 18 人のASD者(こちらは子どもだけではなく大人も含む)を対象とした感覚の問題の程度を評価する質問紙への回答から、実に 94・4%が「感覚過敏に関連する特徴を示した」と報告しています。  このようなことから、およそ9割を超えるほどのASD者が感覚過敏や感覚鈍麻といった問題を抱えていると考えられるわけです。

 

 なぜ生きづらくなってしまうのか。感覚処理障害がもたらす悲劇

 

 これらの感覚系に異常があることがわかったのは技術的な進歩であり、fMRI

という脳の機能がどう動いているのかを把握できるようになりました。

 

 「感覚過敏」と「感覚鈍磨」は二つ合わせて「感覚処理障害」といい、ASDの人たちはこの感覚障害もあって、普通の人のようにふるまえなくなっていると考えられているのです。

 

 それはそうで、人によってはシャワーを浴びることすら痛みを覚えたり、人混みに恐怖を覚えたりもするわけです。

 

 一方で、感覚鈍磨であれば「普通であれば満足できる刺激でもたらない。だからもっと刺激が欲しい」となってしまい、たとえば冬であっても「半袖短パン」ですごしたりしてしまうわけです。

 

 これが何度も起これば、周りからは「あの人、なんかヘンだね」と囁かれるようになり、徐々に人から遠ざけられたり、あるいはそういわれる自分に嫌気がさし、心を閉ざしてしまうといった心境に追い込まれてしまうでしょう。

 

 これが発達障害の人たちの「世界」なわけです。

 

 発達障害はネッカーキューブにだまされない-錯視問題が通用しない-

 

 ネッカーキューブという実験をしていますか?

 錯視の問題です。

 

 

ja.wikipedia.org

 モノの見え方が複数にみえるといった錯視はどこかで皆さんもふれたことがあるとおもいます。

 

 ところがASDの人はネッカーキューブの見方の切り替えがおこりづらいのです。

 

 この図形だと二つの見え方があるのですが、ASDの人は一つの見方で長時間みる傾向があることが判明しています。

 

 彼らにはバイアスがみられないことが多いのです。

 

 彼らはみたままの刺激をとらえるのですが、健常者は物事を先行に経験したものと照らし合わせて受け取ろうとします。

 

 それゆえ、これやエピングハウス錯視のような錯視問題が通用しません。

ja.wikipedia.org

 ※ミステリー等で使われそうな伏線みたいである。

 

 このポンゾ錯視も遠近法の問題ですが、脳の錯覚がおこらないのでどの横向きの線の幅も同じにみえてしまうのです。

ja.wikipedia.org

 

 

 このような傾向から昔は「木をみて森をみず」と評されていましたが、最近ではそれこそがASDの特長なのではないかということで「木を見ているから森はみない」といいなおされるようになりました。

 

 発達障害の短所と思われていた部分を特長と見做すようになったのです。

 

 

 

 終わりに

 ここまでみてきたよう発達障害者は健常者と異なっている状態にあります。

 発達障害に関してはいまだ研究途上にあるものの、脳の反応がわかるようになったために私たちとの差異が目に見えてわかるようになりました。

 

 あなたの近くにいる「ちょっとへんだな、この人」という人はもしかすると発達障害かもしれません。

 

 しかし、特別おそれる必要はありません。

 

 発達障害の本をよみ、勉強することで、どう付き合っていけばいいのかに関する自分なりの答がみつかりやすくなるはずです。

 

 この本はあなたの周りにいる「ちょっとへんだな」という人を理解するためにあります。

 

 ぜひ、読んでみてください。

 

 彼らは私たちとは異なる感覚をもっているがゆえにそうなってしまうだけなのです。

 

 もっと詳しく知るためにー関連図書ー

 

 

 

 

 

毎度おなじみ、kindle。新書も最初から値段が100円ほどやすかったりするので、おすすめしたい。

 

 ↓この本だと価格差がある。

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

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アメリカのキャンセルカルチャーの問題点と例。グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト『傷つきやすいアメリカの大学生たち』を紹介する!

 

 

 アメリカの大学生は傷つきやすい、といったら皆さんはどうおもわれますか?

 

 日本の若者のはなしじゃないの?

 

 と思われるかもしれません。

 

 しかし、これはアメリカの話です。

 

 世代的にはZ世代とよばれる人々です。

ja.wikipedia.org

 

Z世代(ゼットせだい)、ジェネレーションZ(英: the generation Z)とは、アメリカ合衆国をはじめ世界各国において概ね1990年代中盤から2000年代終盤、または2010年代序盤までに生まれた世代のことである[1][2]。生まれながらにしてデジタルネイティブである初の世代である。Y世代(ミレニアル世代とも)に続く世代であることから「Z」の名が付いている。

 

 物心がついたときにはインターネット回線が各家庭にあり、SNSも当たり前のように存在していた。

 

 そんな時代に育ち、大学生になった彼らのことが本書では取り上げられています。

 

 一言で言ってしまうと、今の大学生はみんな脆弱である、というのが本書で述べてあることです。

 

 この脆弱の意味とは、鬱病や精神不安や自殺や議論などを避けたり、嫌いな意見や見解自体をこの世界から抹殺してみないようにする、などという意味での脆弱です。

 

 要は無菌状態で成長させられ、何の免疫力もなく、自分と異なるモノに対してどうふるまえばいいのか、納得すればいいのか、うまく回復すればいいのか、そういった生きる上で必要な態度が身についていない子供のような大人になってしまった世代ということです。

 

 この本でかかれているのは、年長者による若者へのありきたりな老いの繰り言ではありません。

 

 社会全体が脆弱な若者作りに加担してきたという批評なのです。

 

 

 弱い大学生たちとなぜいえるのか?

 

 安全イズムの蔓延



 ピーナッツアレルギーをご存じでしょうか。

 

nakanokodomo.com

 

 

マメ科のアレルゲンでほかによく知られているのは大豆ですが、ピーナッツは少量でも重篤なアレルギー反応を起こす可能性の高いアレルゲンです。アレルギーの症状は、口の周りがかゆくなって赤くなったあり、全身にブツブツが出る程度から、喉が腫れて呼吸困難に陥り、アナフィラキシーショックを起こして死に至るケースまでさまざまです。

 

 というように死に至る可能性がある危険なアレルギーです。

 

 アメリカはピーナッツを食すと危険性があるため親や先生達はピーナッツに触れさせないようにしました。

 

 ところがその後、ピーナッツアレルギーをもつ子供達は90年代半ばでは8歳以下で1000人中4人だけだっあのが、2008年の調査では1000人中14人に増えてしまいました。

 

 2015年に幼児期からピーナッツを含む食品を習慣的に摂取すれば、アレルギー性免疫反応ではなく防御免疫反応が引き出される」という仮説から実験が行われ、衝撃的な結果がました。

 

 ピーナッツから「守られて」いたグループはアレルギー反応が出た子どもは17%だったのに対し、あえてピーナッツ製品を与えてきたグループではたった3%だったのです。

 

 つまり、子供を「安全な状態」にすることで避けられるであろうと思っていた危険性が、「安全にしたため」に倍加してしまったということです。

 

 トラウマの拡大解釈ー下向きの広がりという問題

 

 これはピーナッツだけの話ではありません。

 

 20世紀にはいって以降「トラウマ」という言葉がやたらにつかわれるようになりました。

 

 過去に経験したことが不安のタネとなり、似たようなことが起こる度に思い返され、痛みを感じることです。

 

 誰にでもそういったものはあるでしょう。

 

 しかし、この言葉があまりにも拡大解釈されてしまうと、私たち人間は「何も経験できない」ということになります。

 

 何をしても「トラウマになる可能性」はあるからです。

 

 心理学者のニック・ハスラムは「コンセプト・クリープ」とよんでいます。

 これには二つあります。

 

 ・下向きの概念(それほど深刻でないものにも適用される)

 ・外向きの広がり(関連する新しい現象をも包含するようになる)

 

 

 彼によると、「トラウマ」は精神疾患の判断マニュアルであるDSMの初版と第二番まではあくまでも「身体的ダメージを引き起こす物理作用」としてのみつかっていました。

 

 これが1980年の改訂版になると「PTSD」の心的外傷後のストレス障害まで加わるようになります。

 

 つまり、経験したものがその後の人生に外傷として残るというふうになったのです。*1

 

 ただし、判断基準は非常に厳格で主観的な基準ではみとめられません。

 戦争、レイプ、拷問などの本当にえげつない行為から引き起こされるものがトラウマと判断されるのです。

 

 ここに死別や離婚などは入りません。

 つらいことですが、乗り越えられるものだと考えられているからです。

 

 ところが2000年代になると治療共同体(薬物依存や精神疾患などの人らが共同でくらし、人間性の回復を促進するプログラム)の一部で「トラウマ」の概念が下向きに拡大します。

 

 「身体的または感情的に傷ついたものとして個人が体験し(中略)個人の機能、ならびに精神的、身体的、社会的、感情的、あるいはスピリチュアル的な健康に持続的な悪影響を及ぼす」ならどんなものでもよしとされるようになった。

 

 つまり客観的な基準によって「トラウマ」を判断するのではなく、主観的になってしまったわけです。

 また「感情的に傷ついたこと」も加えられました。

 

  気軽に「トラウマです」といえる時代の到来です。

 

 

 ここで問題なのは「下向きへの広がり」です。

 これが広がってしまうとありとあらゆることがすべて「トラウマ」といえてしまいます。

 

 たとえば、子供が同級生に軽い悪口をいわれたぐらいで「トラウマ」になってしまう可能性があります。

 人から悪口をいわれない人間などいないのですから、ある程度まではたえるしかありません。

 

 

 日本でもADHDと自称するひとびとがいるけども・・・



 日本だとこれに似ているのは「ADHDASD」がありますね。

 

diamond.jp

 

バク:しばらく前は、「セルフうつ診断」がネットですごく流行ったんですよ。「うつでも恥ずかしくないんだ」みたいな風潮が世間に広まりはじめた頃ですね。それがなぜか今では、発達障害にシフトしているんです。

 おそらく、「生きづらさ」を病気のせいにしたい人がセルフ診断して、「病気だからしょうがないじゃん」と自己完結してしまっているんでしょうね。

──「生きづらさ」を病気のせいにしたい人、ですか。

バク:いや、今ね、そういう「ファッション発達障害の人、めちゃくちゃ多いんですよ。

ADHDだから遅刻してもしょうがないじゃん」とか「ADHDだから提出期限破っちゃった」とか文句を言うわりに、病院に行ってちゃんとした治療はしない。

 私も以前、「実際に受診して発達障害と診断されたら、人生が終わっちゃう感じがするから嫌」とか言われたことがあって、ええ~~!? みたいな(笑)。

──なるほど。そういう生きづらさの言い訳に利用する「ファッション発達障害」の人が増えたのも、「甘えじゃないか」という誤解が生まれた要因のひとつかもしれませんね。

バク:そもそも、本当の発達障害の人は、自分がそうであることに全く気がついてない場合が多いんですよ。私自身も、医者になってからたまたま検査を受けてはじめて、「ああ、あの生きづらさってADHDのせいだったのか」と気がついたくらいですから。

 

 要するに自分勝手に「俺はADHDだから」といってしまう。

 これは「下向きの広がり」の良い例なわけです。 *2

 

 痛みを回避することを目指し、痛みを回復することを避ける

 

 トラウマなどは誰もが抱えていたりするものですが、それは自然回復したり

あるいは認知療法などで回復させるものです。

 

 ところがこの誰も傷つけさせてはならない「安全イズム」とよばれる方向性は

それらを一切、無視し、傷つかない人生という不可能事を達成しようとしているのです。

 

 ハーバード大学心理学部のリチャード・マクナリーは次のように述べています。

 

 トリガー警告はトラウマ体験を想起させるものを回避しようとするもので、治療に逆行しています。回避したところでPTSDの症状は変わりません。授業の内容がきっかけで激しい感情的反応があったのなら、それは自分の心の健康を優先しなさいとの信号です。医学的エビデンスに基づいた認知行動療法を受け、PTSDの克服に努めるべきです。認知行動療法では、段階的かつ体系的に、トラウマとなっている記憶にあえてさらすということを、苦痛を引き起こす力が弱まるまで続けます。

 

 ここでいわれている「トリガー警告」とは以下のことです。

 

imidas.jp

 

 事前の警告。映画や本などで、その取り扱うテーマや記述、描写などに、一部の人の感情を害したり、気分を悪くさせたりするような部分があることを前もって警告しておくこと。これを怠ると観客や読者から訴訟を起こされかねない。

 

 何らかの文学作品を読む場合、殺人の描写があります、というふうに警告しておかないと学生から訴えられる可能性があるので最初に示しておかなければならないというわけですね。

 

 とんでもない考えで、こんなことまでやってたら学生は何にも触れられないと思うのですが、ゾッとしない時代になったものです。

 

 リチャード・マクナリーのいうとおりで何かをする以上は何かは付きものです。

 恋愛にしても結婚にしても失恋、離婚、死別などは可能性としてはあり得る。

 

 しかし、これが人生には付きものですし、私たちはそれを受け入れるしかない。

 

 何らかのトラウマや精神病にかかった場合は病院で適切な治療を受けるしかないわけです。

 

 リスクを完全になしにするという極端な方向へいってしまっているわけです。

 

 

 無論、傷つかないにことしたことはありません。

   *3

 

 著者であるグレッグもハイトも「社会正義」自体は問題視していません。不正や社会の不平等をなくすための方向性は支持すると述べています。

 

 ゼロコロナって、この話と同じでは?



 私ズンダは以前、以下の本を紹介しました。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 今時、コロナで騒いでいる人はそんなにみかけなくなりました。

 それでもマスクをつけるかどうかでTwitter上では罵り合いが続いています。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 ゼロコロナという言論は『傷つけやすいアメリカの大学生たち』でかかれているのと同じく、「安全イズム」が過度になった結果、コロナによる犠牲者をゼロにするという途方もない思想でした。

 

 もちろん、こんなことは不可能です。

 

 かくしてZ世代の特徴はこうなった



 この「安全イズム」がもっともみられるのが2013年頃に大学に入学してきた世代です。

 

 サンディエゴ州立大学の心理学教授で世代論の第一人者であるジーン・トゥエンジ(Z世代は鬱病や精神不安や自殺者が多いというデータをだしている)の見解を含めながら以下のような特徴があるといっています。

 

 ①「安全であることに夢中」で、彼らがいう安全には「感情の安全」が含まれる

 「感情の安全」を重視するあまり、「車の事故や性暴力だけでなく、自分と意見を異にする人たちからも安全であるべき」と考える者がたくさんいる。

 

 ②大学構内の雰囲気がかわった。セーブベースの設置や安全トリガー警告などの広がりをみせたのは、Z世代が入学した2013年からである。

 

 

 そして、彼らのような脆弱な世代をつくりだしたのは、彼らよりも上の大人達のせいである、というのです。

 

 これらの要因に関しては本書の第六章から読んでください。

 

 終わりにー関連図書一覧ー

 本書では大学におけるキャンセルカルチャーの理由が「安全イズム」の蔓延によってひきおこされたとし、その現況と、なぜ起きたかの六つの要因、さらにはそれへの対策などが語られている。

 

 大学生の軟弱さに焦点を当てているため一種の教育論の趣きがある。

 キャンセルカルチャーの思想的背景を扱ったというよりも、現在のアメリカで起こっている事件やその要因、対抗策が主にかかれているので、ルポタージュのようでもある。

 

 非常に読みやすい本である。おすすめしたい。

 

 また今年はこれらのキャンセルカルチャーについて書かれた本が多くでており、ほぼ同時期に早川書房から『「社会正義」はいつも正しい」』もでている。

 

 こちらはキャンセルカルチャーと遠因にポストモダン思想があり、これらフェミニズムクィア理論などがごちゃごちゃと混ざり合った状況を端正な筆致でかいている。 

 思想に興味のある人はこっちのほうが楽しめる。

 

 合わせて読むといいとおもう。

 

 具体的にどんな事件があったのかを知りたい人向け。

 もっと軽くキャンセルカルチャーについて知りたい人は以下の本を。

 BLM、銃規制、同性婚ダイバーシティ、妊娠中絶、移民について触れられている。

 『キャンセルカルチャー ~アメリカ、貶めあう社会』

 

 日本の社会においてキャンセルカルチャーはどうなっているのか。

 米欧ほどひどくはないが、Twitter上における炎上にはそれに近いものもあるのではないだろうか。『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

zunnda.hatenablog.com

 こちらも炎上問題を扱った本。

「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症

 

  格差や分断などで混乱しているアメリカの現状を知りたい人におすすめの本。

 『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相剋』

 

 また、悪口の問題に関しては以前、私ズンダが紹介した本を読んで頂きたい。

 ヘイトスピーチや差別発言についても考えることができる優れた書物である。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

  Kindle加入のすすめ

 前の記事でも述べたように私ズンダはとにかく部屋を汚くしたくない。

 そういうわけで本もkindleで読むようになってきてはいる。

 ただし、大部のものは本媒体ではあるが。

 とにかくがさばらないし、値段もやすいし、どこでももてるという点でkindleに勝るモノはないのですすめる。

 

 

 
kindleに関しては広告無しのペーパーホワイトを買えば何ら問題はない。

  

*1:※『ライ麦畑でつかまえて』で有名な作家サリンジャーの人生を追った映画がある。この中でサリンジャー第二次世界大戦後に不安障害になり、PTSDを発症していたが、当時の医学では認められていなかったことが描かれている。

*2:※ちなみに、『社会正義はいつも正しい』(早川書房)によると、海外ではこういった障碍などを利用し自分の政治的な立場をつくりだすことで強固なアイデンティティとしてわざと誇示する人たちがいるという指摘されている。212~214頁を参照)

*3:私ズンダはこの本を読んでいて少し気になったのは、これがいきすぎると今度は「自己啓発」になってしまいかねないということです。というのもこの本で書かれていることは結局、自己啓発系youtuberと同じだからです。その当たり、この本はやや射程が短い。深みがないのです。キャンセルカルチャーをとりあげたもので、その要因を社会にあるとしながらも、個人の努力で克服するように仕向けてある本はめずらしい。ある意味、実践的ともいえるでしょう。これが本書の最大の特徴ですね。

陰謀論に人はなぜはまってしまうのか?秦正樹 『陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム』を紹介する!

 

 

 みなさん、こんにちは。

 

 今回は


 秦正樹『陰謀論』(中公新書)を紹介します。

 



 

 陰謀論の論が流行る時代

 

 陰謀論とは何でしょうか?

 



 
 皆さんもQアノン、ディープステート、反ワクチン、コロナウイルス生物兵器説などをきいたことがあるかもしれません。

 

 インターネットではまことしやかにこれらの風説が書かれており、何かに疑いをもって調べ始めるといつのまにか信じ込んでしまう。

 

陰謀論を「重要な出来事の裏では、一般人に見えない力がうごめいている」と考える思考様式であると定義しておきたい。

 

 

 と秦正樹氏は述べておられます。

 

 たとえば、

 

「コロナのワクチンにはマイクロチップが入っており、人々の生体情報を獲得する陰謀だ!」

 

みたいな話のことです。

 

 陰謀論と誤情報との違い



 もちろん、メディアが誤情報を流してしまうことはあります。

 

 しかし、これは誰かが検証すれば修正できます。

 

 今だとTwitterなどですぐに

 

「この報道はウソではないか?」

 

 というツィートが拡散され、訂正を迫ることができます。

 

 しかし、陰謀論は違います。


 早期に検証して誤りを正すのが難しいのです。

 

 「何かあるから検証できないのだ」という「何か」をもってくることで陰謀論はその闇が深くなっていきます。

 

 皆さんも「何か」には気をつけた方がいいでしょう。
 
 実際は「何もない」のです。神のようなものです。

 

 陰謀論の発信者には金目当ての人たちがいる



 

 当然、陰謀論を信じ込ませるには陰謀論者による発信が必要です。

 彼等の中には本当に信じている人々もいます。
 
 しかし中には

 

陰謀論をばらまくことで金が得られるからやる」

 

 という人もいるのです。


 所謂、アフィリエイトですね。
 この広告収入はアクセス数が多いほどのびます。


 
 マケドニア共和国の地方都市ヴェレスには200~300人の若者が偽情報の記事をつくりだして。Facebookのシェア機能を使い月60万ほどの広告収入を得ることもあるそうです。

 

 

 ある意味で陰謀論にはまってしまった人は被害者ともいえるわけですよね。

 

 そもそも陰謀論にはまる人ってどんな人?



 陰謀論にはまる思考の持ち主を

 

陰謀論的思考」(conspiracy thinkingu)

陰謀論マインドセット」(conspiracy mindset)

 

 などといいます。

 

 要するに、陰謀論を信ずる人はそういう思考形式をそもそも持っていると考えられているのです。

 

 そのため、彼等はAという陰謀論を信じるだけではなく、Bという陰謀論にもはまります。

 

 日本人の三割は陰謀論



 

 秦氏は2001名を対象にアンケート調査をおこないました。

 日本にどれだけの陰謀論的思考をもった人間がいるかを調べるためです。

 すると3割だという結果になりました。


 更に言うとこれらの調査には

 

「社会的期待迎合バイアス」

または

「社会的望ましさバイアス」(Social Desirablity Bias)

 

とよばれるバイアスがかかってしまうといわれています。

 

 このバイアスは今回の例でいうと

 

「このアンケートに『はい』と答えると、陰謀論者に思われるから、『いいえ』と答えよう」

 

という社会でおかしい人と思われないようにするためにウソの答えを述べてしまうバイアスです。

 

 皆さんも「選挙にいきましたか?」と街頭インタビューを受けた場合、

行ってなくても「はい、いきました」と答えてしまいませんか?

 

 このバイアスを念頭に入れると日本における陰謀論者は三割を超えているかも知れません。

 

 陰謀論にはまる人の性質



 では、陰謀論的思考とはどうしてうまれるのでしょうか?

 

 そもそも、陰謀論を信じる人々は、今、目の前で起きている出来事や状態を是認できないという強い考えや意見を持っている場合が少なくないことが既存の研究でも明らかになっている。

 

 

 というように、自分の理想と現実とがかけ離れていると感じやすい人ほど陰謀論にはまります。

 

 ここまでくれば、私ズンダのブログをいつも読んでいる方は気づくかも知れません。

 

 自己啓発本とか逆張りが大好きな人は危険です。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 この歪んだ現実認識は「自分だけが真実を知っている」という考えに切り替わります。

 

 そしていつしか、周囲から邪険に扱われるようになり、孤立します。

 

 孤独感はやがて、多くの人は「真実」をわかっていないという考えにつながる。

それと同時に、「真実」を知っている自分は、自分を評価しない他者よりも優れているという自己評価が進み、さらにその思考を深めていくことになる。

 

 実際に、海外の研究では、ナルシズム(自己の評価を誇張したがる傾向)が高い人や、社会的に疎外されていると感じる人ほど陰謀論を信じやすい傾向にあることが報告されている。

 

 

 危険な特徴としては「真実がある。本当の何かがある」という理想的な像をもっていることでしょう。

 

 いってしまえば、アイドルですね。

 

 アイドルは糞便しないとか彼氏がいないとかそういうのを愚直に信じている人がこういった陰謀論にはまるのです。

news.yahoo.co.jp

 

 政治に興味のある人は陰謀論にはまる



 
 実は政治に興味があるほど陰謀論を信じる傾向にあることがわかっています。
 
 というか、人にはそれぞれ自分が興味関心を強くもっている分野があり、好みがある。

 

 そして人は自分が好きな情報を選びがちであるという政治コミュニケーション研究において、「選択的メカニズム」というものがあります。*1

 

 たとえば、あなたがAKB48を好きだったとする。

 彼女らが何らかの不祥事を起こしたとしましょう。これをAとします。

 

 しかし、彼女らのことが好きなあなたはその不祥事を受け止められない。

 その報道をしたメディアによる虚報ではないか?という情報Bがそこに流れてくる。

 あなたはBを選びとる。

 

 Aを選べばAKB48が不祥事を起こしたことになるからです。

 これが人の選択的メカニズムです。
 
 つまり、私たちは自分の好きなものに関しては情報を得て、「信じていたい」のです。

 だから政治に興味がある人ほど陰謀論にひっかかりやすくなります。

 

 もちろん、これは政治に限ったことではないです。

 

 ここが大事です。

 

 私を含めて、誰でも陰謀論に落ちる可能性はあります。

 

 陰謀論と批判を同一視してはならない



 しかし、私たちにとって大事なことがあります。

 それは陰謀論ではないか?」という他人からの批判を恐れてはならないということです。

 

 たとえば、ある政党のある政策がまずいものだったとする。

 これを「真」だと仮定しましょう。

 

 その政策は日本全体にとって害なので、国民は止めなければならないはずです。

 団体Aは日本のために政党を批判します。

 しかし、その政党を好きな団体Bが

 

「団体Aがいうことは陰謀論にすぎない!この政党がやろうとしていることは正しいんだ!」

 

 という反論してきたとしたらどうでしょうか。

 

 当然、陰謀論ではないのですから批判することは正しいはずです。

 

 けれども、何かを批判することが自動的に「陰謀論だ」と思ってしまうのであればそれはあまりに単細胞といわざるを得ないですよね。

 

 物事は検証して「真」か「偽」かを見極めなければならないのですから。

 

 陰謀論の存在を問題視することの必要性や重要性はあらためて言うまでもないのだが、その一方で、「それが本当に陰謀論であるか」についても、それと同じくらいによく注意を払わなければならないことも強調しておきたい。

 

 つまり、自分とは対立する意見に対して、それが正統な批判かどうかを吟味することなく気に食わない意見を「それは陰謀論だ」とラベリングして、意見を封殺してしまうことにつながる。

 

 お互いに陰謀論ではない議論ーいわば、「まとも」な議論ーをしている場合であっても、どちらかが「それは陰謀論だ」と決めつけてしまえば、まさに「論破」したような錯覚に陥ることになる。

 

 私ズンダはこの本でもっとも読まれるべきはここだと思っています。

 

 「それは陰謀論でしょw」という安直な思考や批判は別の側からみた陰謀論にすぎない。

 

 マスメディアのほうがわけのわからないインフルエンサーよりは信じられる



 それなら、誰を信じればいいんだよ!といいたくなるでしょう。

 わかります。

 

 著者の秦氏はマスメディアの危険性を指摘しつつも、しかしマスメディアのほうが正確性が高いといっておられます。

 

 私ズンダも基本的にはメディアのほうがマシだと思っている人間です。

 

 というのも、

 ネットをみていると、メディア批判は実に旺盛におこなわれています。

 

 また彼等の情報の何が間違っているかもTwitter状で頻繁に注視されています。


 「マスゴミ」という侮蔑語も誕生したり、朝日毎日新聞売国新聞とよばれたりしています。

 

 彼等は一定の人々から監視対象にはいっており、その真偽を疑われています。

 

 翻って、個人のwebサイトやブログなどはどうでしょうか?

 

 私は一部のTwitterアカウントを除けば、インフルエンサーなどの信憑性は検証されていないとおもいます。

 

 彼等の中にはマスコミを叩き、それを隠れ蓑にして自分の権威性を上げている人々がいます。*2

 

 集団に影響を与えるのはその集団の知識人枠である



 私が以前読んだ本に『マスメディアとは何か?』というものがあります。
  
 この本はマスメディアの影響力に関する実験を紹介した手堅い本です。
 
 メディアに疑いのまなざしを向けている人々にはぜひ読んで頂きたいのですが、メディア叩きにアイデンティティを得ている人にとっては耳が痛いかもしれません。

 

 その本にかいてある実験結果によると、人はメディアの影響を受けて考え方を変える人は殆どいません。


 
 では、誰の影響をうけるか?

 

 集団Aがあったとしましょう。
 その集団Aには色々な立場、階層があります。
 
 知的な人間からそうでない人まで・・・・・・。

 人は集団の中で、知的であり進取的な発言をする人物の意見を信じ込み、自分の意見をその長の意見に変えてしまうことがわかっています。

 

 要するに、メディアよりも集団Aの知識人のほうが影響力があるのです。

 これを当てはめると次のようになります。

 

 Twitterでマスメディアを叩いている集団、その集団の知的な人物の意見に人は染まる。

 

 ということです。

 

 この観点からTwitterをみると面白い



 

 これをわかった上でTwitterをみてみてください。

 

 どの集団にも知的な人物、リーダー的な存在がいます。
 そしてその集団は、その長の発言を支持し、応援します。

 更に、その長を批判した人物や見解を徹底的に集団で難じます。

 

 この実験はむしろTwitterで観測しやすい。

 陰謀論の問題はむしろ人々の「マウントを取りたい」という気持ちにあるのではないか。

 

 そんなふうに思われます。

 

 

「何事もほどほどに」という教訓について触れた。それに加えて、「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という姿勢こそが、今の社会に求められているように感じられてならない。

 

 ある意味で言うと、そんなに真剣にならないほうがいいのかもしれません。

 私たちは真剣になって調べたりすればするほど陰謀論にはまってしまうのですから。

 

 もっとしりたい人向けの本

陰謀論と絡むのはメディアである。

メディアへの不信感が私的なブログやインフルエンサーなどへの傾倒をうんでしまっているところはある

 

しかし、ここはメディアを叩く前にメディアについて勉強した方がいいというわけで、以下の本をすすめる。

 

 

 

陰謀論にしても何にしても、まず自分の行動がどんなものなのかをふりかえることが大事なのではないだろうか。

自身を客観的にみることで、冷静になる部分はある。

「正義」にはまりすぎてないか?

 

 
スマホという小型の携帯は人々をどうかえているか。そして人はどうすれば
抜け出せるのかを論じた本。面白い。さみしさから離れよう。

 

kindle unlimitedで読める無料本は多い。 ズンダブログで紹介した本も無料になっていることがある。

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*1:※後述されている「動機付けられた推論」(MOTIVATED RESONING)も同じであろう。

*2:※殆どの読者には関係ないが私がやっているスプラトゥーンの世界にもこれと同じくマスコミ、具体名をあげると東洋経済の記事に関して反射的な批判をする人物などがおり、どこの業界もインフルエンサーの立ち居振る舞いとは『権威と闘う自分』という左翼的なものなのだと思わされる。

マスク生活が子供に与える悪影響の可能性とは?明和政子『マスク社会が危ない 子どもの発達に「毎日マスク」はどう影響するか? 』を紹介する!

 

 

 皆さんこんにちは、ズンダです。

 

 コロナもだいぶ落ち着いており、多くの人々はすでにコロナを怖いものだと歯考えなくなっているかもしれません。

 

 私ズンダも何度かコロナについて触れてきたように、そこまでコロナを問題視していません。

 

 しかしながら、マスクはつけています。

 

 なぜかといえば、マスクをつけていないと変な人に思われる可能性があるからです。

 

 私ズンダにかぎらず、こういう人は多いのではないでしょうか。

 

 また、お店や何らかの施設であればかならずマスクは求められます。

 

 外では外しておいて中ではいちいちつけるというのは面倒ですよね。

 

 そういう理由で結局、つけっぱなしになっていました。

 

 ところで、このマスク、実は子供の成育に問題があることをご存じでしょうか?

 

 子供は他人の顔をみて人の反応を勉強します。

 

 マスクによって表情が窺えない生活が長くつづくとその能力が育たなくなるというのです。

 

 このことを記したのが明和政子『マスク社会が危ない』です。

 

 明和氏の本は以前のズンダブログでも紹介したことがあります。

 

 私ズンダがたいへんに感動した本です。

 

 では、今回の本をみていくことにしましょう。

 

 

 

 マスク社会の弊害とはなにか?

 子供はどのように成長していくのだろうか

 

 

 

 

 新型コロナウイルス感染症の世界的大流行(パンデミック)から3年が経とうとしています。

 「子どもの脳は、大人のミニチュア版、小型版ではない」。  

 

 このことを当たり前のように理解している社会とそうでない社会とでは、人類が危機に直面したときの対応にこれほど大きな違いとして現れること、そして悲しいことに、日本は明確に後者であることを痛感した数年間でした。  

 

 たとえば、マスク着用の日常が子どもたちの脳や心の発達に与え得る影響について、国の施策に関わっている方と議論したことがあります。

 

 その時、「マスクをしていても、日本人は目でコミュニケーションするのが得意だから大丈夫」と発言されたことは、私にとって大きな衝撃でした(当たり前ですが、子どもは目だけでコミュニケーションすることなどできません。

 

 子供の脳は大人のミニチュア版ではない、とはどういうことでしょう?

 

 明和氏がいうには子供はうまれてから脳を成長させていきます。

 

 この成長を阻害するのが政府の施策だというのです。

 

 では、感染症対策として何がおこなわれきたのかを確認してみましょう。

 

 新しい生活様式とはなんだったか

 

2020年5月、新型コロナウイルス感染症対策の一環として、政府は「新しい生活様式」の実践を国民に提唱しました。その内容は、次のような項目から成り立っています。  

 

・人との間隔は、できるだけ2m(最低1m)空ける  

・会話をする際は、可能な限り真正面を避ける  

・外出時や屋内でも会話をするとき、人との間隔が十分とれない場合は、症状がなくてもマスクを着用する。ただし、夏場は、熱中症に十分注意する  

・家に帰ったらまず手や顔を洗う。人混みの多い場所に行った後は、できるだけすぐに着替える、シャワーを浴びる  

・手洗いは 30 秒程度かけて水と石けんで丁寧に洗う(手指消毒薬の使用も可)  

 

これらの中でも感染症対策の基本としてとくに強調されたのが、①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗いでした。

 

 この様式、当たり前になり、コロナ流行前からのように感じてしまいがちですね。

 

 私たちはすっかり馴染んでいるのですが、普通のことではありません。

 

 しかも、我々は大人なのでそれ以前の記憶がありますが、子供達はそうではないのです。

 

 彼らにはマスク以前の記憶がない。

 

 物心ついたときからマスク生活をしていたのです。

 

 子供の脳はどのように成長するのか

 

 

子どもの脳内ネットワークは、環境の影響を大きく受けながら発達していきますが、そのプロセスでは、環境の影響をとくに受けやすい、ある限られた特別の時期というものがあります。

 

これを「臨界期( critical period )」といいます。

 

 この臨界期(今は、「感受性期」ともよばれるともいっている。)という脳がぐんぐん成長していく時期があります。

 

 脳には神経細胞がはりめぐらされており、160億個あります。

 

 その数は胎児期から数ヶ月後までがもっとも多いのです。

 

 神経細胞には「樹状突起や「軸索」というアンテナがあり、「シナプス」とよばれる情報伝達構造で電気信号を送り、情報のやりとりをしています。

 

 これらの神経細胞は多ければ多いほどいいわけではありません。

 

 大人は一日で消費するエネルギーの20%が脳といわれており、人にとってそれほどエネルギー消費が大きいものなのです。

 

 それゆえ、脳は「必要なものだけを取捨選択」して「刈り込み」という作業を神経細胞にたいしておこないます。

 

 つまり160億個の細胞は次から次へと減らされていくわけです。

 

 

 大脳皮質の中で、感受性期が比較的早くに訪れるのは「視覚野」と「聴覚野」です。

 

 これらの脳部位の感受性期は、およそ生後数カ月頃に始まります。1歳前ぐらいにピークを迎え、7~8歳頃まで続きます。

 

 そして、就学を迎える頃には環境の影響を受けにくくなる。つまり成熟に達するのです。

 

 

 この「視覚野」と「聴覚野」は目からはいってきた情報を記憶と照らし合わせて何を意味しているのかを理解するためにあるわけです。

 

 つまり、この時期にマスクをつけていると人の表情から何かを見抜く力が「刈り込み」にあってしまい、顔色を窺うことができない人間になってしまうということです。

 

 たとえば、私たち日本人は英語の発音を呼んだり聞いたりすることが苦手ですよね。

 「L」と「R」との聞き分けや発音ができないとよくいわれます。

 

 なぜかというと、実はこの時期に英語環境にいないからです。

 

 日本語の発音ではこの「L」と「R」の音は存在しないために、神経細胞が「刈り込み」されてしまい、徹底的に学習しないと聞き取れない脳になってしまうのです。

 

 子供は人の顔をみて育っている

 

 「アイ・トラッキング」という装置を使うと、乳児に話しかけたときに、彼らがどこをどのように見ているかを可視化することができます。

 

 私たちの研究では、生後6カ月くらいから、相手の目よりも口元のほうを長く見ることが分かっています。  

 

 さらに重要なことがあります。乳児は、ただ相手の目や口元を見るだけではなく、その動きや音を自分でもやってみようとするのです。

 

 「ワンワンだね」と乳児に笑って伝えたら、乳児も「ワンワン」と言って、笑顔を返す。

 

 人が人の真似をする、「ミラーニューロン」という神経ネットワークが関与されているといわれています。*1

 

 

 この真似によって私たちは社会の慣習や学問などを学ぶことができます。

 

 ところがマスクをつけたままだと顔の半分が隠れており、何もわからない。

 

 

 ある表情(シグナル)はこういう意味を持っている(シンボル)という理解を、お母さん、お父さんといったごく身近な人との間だけでなく、家族以外のさまざまな他者にも当てはめ、広げていく必要があります。これを「 般化」学習と言いますが、これこそが社会性を育むために必要となるプロセスです。  

 

 現代社会において、乳幼児の社会性を育む場として大きな役割を果たしているのは、保育園やこども園、幼稚園などでしょう。こうした時空間で、子どもたちは多種多様な人々の表情やふるまいに触れる機会を多く得てきました。

 

 イギリスは国家主導でコロナ生活の影響を調べ、補助金をだしている



 こうしたマスクによる生活は日本でも海外でも長く続いていました。

 

 イギリスのBBCが次のような記事を配信しているそうです。

 

 

 2022年4月4日、BBC(英国国営放送)が、気になる記事を配信しました(Covid:Young child development worring, says Ofsted Boss)。Ofsted(Office for Standards in Education=英国教育水準監査局)という、日本でいう文部科学省の第三者研究機関にあたる公的機関があります。その機関が、コロナ禍での英国の子どもたちの現状についての報告書を公表したという内容です。  それによるとコロナ禍の2年で、すべての子どもではありませんが相当数の子どもたちに、言語の獲得の遅れや表情の乏しさ、不安傾向といったマイナスの影響が出ているそう

 

 また、言語療法士などの専門家を現場に派遣し、保育、教育現場に50億ポンド(8000億円以上)も投資しているようです。

 

 確たるエビデンスはまだ得られてないけれども

 

 むろんこれはマスクだけが要因とは限らないでしょう。

 学習の遅れはリモート学習のせいかもしれませんし、運動不足による鬱憤や脳細胞の減退のせいかもしれません。

 

 このマスクによる悪影響がどれほどのもなのか。

 今はまだ確かやかなものはないのです。

 

 しかし、人の成長発育を研究してこられた明和氏の発言は軽く扱っていいものではないとおもわれます。

 

 明和氏は医学の分野における「未病」や「予防医学」などを例にあげています。

 

 現段階に確然たる根拠がなくても、子供達が健常になれる社会のためにこのような提言をしているわけですね。

 

 身体接触の重要性

 子供達には「密」が必要であるーアタッチメント理論ー

 

 

 養育個体と身体を接触させる経験を通して、両者の社会的絆、すなわち「愛着(アタッチメント)」を形成することが不可欠です。  

 

 アタッチメントを最初に理論化したのは、英国の精神医学者、ジョン・ボウルビィ(1907~1990)でした。アタッチメントの本義は、ヒトを含む動物の子どもは親にしっかりとくっつく(アタッチする)ことで身体生理に起こる変動を安定化させ(ホメオスタシス)、生存確率を高めることにあります。  

 

 ボウルビィは、その原理を精神活動にも当てはめました。子どもが未知の危機的状況に陥ると、怖れ・不安などの情動の変化や、鼓動が高まる、瞳孔が開くといった身体変化が急激に起こります。

 

 未成熟な子どもは、その変化を自らの力で制御することができません。代わって、養育個体の身体にくっつくことで、それを安定化させようとします。こうした経験を「特定の誰か」との間で蓄積していくことで、子どもは精神の安定・安心を得ていくのです。

 

 たとえば、子供が育児放棄された話などを思い浮かべると良いでしょう。

 そういう目にあった彼らは正しい成長の機会が失われてしまい、病気の抵抗力が弱くなったり、鬱病や多動性障害、解離性障害などが思春期に現れやすくなるといわれているのです。

 

 ところが「密」を警戒するあまり子供達はヒトにくっつくことができない。

 アタッチメントが起こりにくい環境に今はあります。

 

 これに関しては明和氏の前著『ヒトの発達の謎を解く』(ちくま新書)がおすすめです。

 

zunnda.hatenablog.com

 

どうやって私たちは自信の身体感覚を得るのか?



 身体感覚は、次の3つの要素によって構成されています。「外受容感覚」「自己受容感覚」「内受容感覚」です。

 

 「外需用感覚」は嗅覚や聴覚などの感覚。

 「自己受容感覚」は筋骨骨格の感覚。コップを動かすときの体の動かし方を学ぶための感覚です。

 

 そして、

 「内臓感覚」が一番大事なものでAIで再現されておらず、人間にしか存在しないそうです。

 

 ・腹がキュルキュルする

 ・痛い

 ・ドキドキする

 ・暑い

 ・おしっこがしたい

 ・おなかがすいた

 

 こういった感覚は人が人に寄り添うために必要なもので、これがアタッチメント形成に役立ちます。

 

 人は抱きしめあうことで「オキシトシン」や「セロトニン」などが分泌されます。

 これは哺乳類の生物でも観測されることらしいです。

 

 ただし、人の場合は親が子に授乳したりする際、笑顔を向けたり話をかけたりします。

 

 人と「密」につながらなければ、精神障害をひきおこしやすくなる



 

 

 こうした経験を日々積み重ねていくと、乳児の脳の中にはある変化が生じます。身体の内部に心地よい感覚が起こっているときに、いつも見聞きする人の顔や声が記憶として結びついていくのです。これを「連合学習」といいます。もう少し具体的にいうと、養育個体に関する外受容感覚と心地よい内受容感覚が、脳の「 島 皮質」という場所で統合され、記憶されていくのです。

 

  

 大脳皮質のしわの奥に隠れている島皮質は、自己意識、他者への共感、社会的感情、道徳的直観、音楽への感情的な反応、痛み、ユーモア、食の好みなど、ヒト特有の精神機能に深く関わっています。島皮質が成熟するのは、生後1~2歳ぐらいと言われています。この時期、養育個体との経験によって外受容感覚と内受容感覚の統合が進んでいくと、実際に授乳されたり、抱っこされたりしなくても、脳内で記憶として結びついた人の表情や声を見聞きしただけで、精神が安定するようになる。これが、ヒトのアタッチメントが形成される仕組みです。

 

 要するに1~2歳ぐらいで人と「密」に接する機会が失われてしまうと、誰かと一緒にいることで幸せに感じるという機能が育たなくなってしまい、精神が不安定な人になってしまうということです。

 

 「内部モデル」とよばれる脳の予測機能があり、「これをすれば、あれが起こる」というものです。

  対人関係にかかせないもので、幼少期に人と接することがすくなった人はこの機能が発達していないため、社会生活が送りにくくなるとされています。

 

 

 これに鑑みるに現在の日本社会は

 

 社会全体で子供達にネグレクトしている

 

 といえるのかもしれません。

 

 終わりに~国はマスクをどう考えているのか~そもそも、マスクは感染対策に役立っていない?~

 

 

 さて、今回の記事はいかがだったでしょうか。

 

 脳の研究から「新しい生活様式」がどのように子供達に影響するかを推察したのがこの本の内容です。

 

 果たしてマスクをしつづける意味があるのでしょうか?

 

 国のほうでは屋外においては「マスクをはずしてよい」といっております。

 厚生労働省のHPをみてみましょう。

 

www.mhlw.go.jp

 

 また、屋内であったとしても2メートル離れており、会話をしなければ外していてかまわないとかいてあります。

 

 いやしかし、そもそもマスク自体にどの程度の意味があるのか。

 

 この本では明和氏の本文の後、ジャーナリスト、鳥集徹氏との対談があります。

 

 その中で鳥集氏は次のようなデータを紹介しています。

 

 

鳥集  一応、私からマスクの効果についてお話ししますと、ランダム化比較試験(RCT)という、医学的に最もエビデンスレベルが高いとされる臨床試験の方法で、コロナに対するマスクの効果を調べた研究がデンマークで行われています。  

 

コペンハーゲン大学病院が2020年4月から5月にかけて成人6024人をマスク着用グループとマスク非着用グループの2つに無作為に分けて試験を実施したところ、1カ月後にマスク着用グループで新型コロナに感染した人の割合は1・8%、マスク非着用グループでは2・1%と、マスク着用による感染リスク低下の有意な差は確認できませんでした( Bundgaard, H., et al., Effectiveness of Adding a Mask Recommendation to Other Public Health Measures to Prevent SARS-CoV-2 Infection in Danish Mask Wearers : A Randomized Controlled Trial. Ann Intern Med, 2020. )  

 

また、インフルエンザなどの呼吸器系感染症に対するマスクの効果を調べた臨床試験も、過去に複数行われています。

 

そのうち、信頼性の高いRCTのデータを集めて解析した論文が香港大の研究グループから出ていますが、その結果もマスクに効果は認められないというものでした( XIAO, Jingyi, et al. Nonpharmaceutical measures for pandemic influenza in nonhealthcare settings―personal protective and environmental measures. Emerging infectious diseases, 2020, 26.5: 976-984.

 

 要するにマスクをしていようがしてなかろうが、コロナもインフルエンザも防げないわけです。

 思い出してみればWHOも当初「マスクは効果がない」といっていたわけです。

 

 エアロゾル感染は微粒子であり、マスクを通り抜けてしまうわけですから、当たり前といえば当たり前ですね。

 

 効果があるのはおそらくワクチンだけ、ということになりますが、鳥集氏自体はワクチンに対しても懐疑派のようです。

 

 私ズンダとしてはそもそもワクチンをうつか否かは、その人の年齢だと思っています。

 

 つまり、若い人にとってコロナは風邪です。

 それで亡くなる方は殆どいません。

 

 ワクチンをうつことによるリスクが高いとおもうのであれば若い人はうたなければよい。

 ただ高齢者の場合はワクチンによる危険よりもコロナでなくなる危険の方が高いかもしれない。そう考えるのであれば打てばよい。

 

 これが合理的な考えではないでしょうか。



 コロナ後の数年間、色んな議論がありましたが、いよいよこれからどうすればよいのか。

 誰が正しいことをいっていたのかを検討していくべきだとおもわれます。

 

 お勧めの参考図書とズンダの記事

コロナで騒ぐな、といっている中川氏の本。 書いてある内容は乱暴な感じがするが、コロナ全盛期のころどんな言論があったのかを ふりかえるのに意外に役立つ。そういえば、こんな話あったなあ・・・と思いながらおかしな言論をおいかけるのが面白い。

読売新聞によるコロナ報道を記録したもの。2021年の6月と、少し古い気もするが、コロナで日本中が怯えきっていたのはだいたい2021年の五輪あたりまでだった記憶があるので 悪くはないかもしれない。

ブログ記事でも紹介した、藤井聡木村盛世による対談本。 藤井はコロナの件で中野剛志らと喧嘩別れすることになった。 その前から仲が悪そうであった。 今となっては藤井聡の見識の高さ、交友関係の広さからくる専門性の拡張に感心するばかりである。 結局、コロナについて何か言おうと思えばそれ相応の人物の話をきくしかない。 個人的にはツテの広さが藤井と中野との差だった気がしている。

 

今回の明和氏もそうだが、京大系は、コロナを問題視しすぎてるのはおかしい派、が多い気がする。

藤井聡と高野裕久 との対談本。 公衆衛生の専門家の高野がいう「公衆衛生には経済も考えなければならない」は単なる自粛だけしていればよい、 という人々を一蹴する言葉であろう。

 

明和氏によるヒトの発達について書いた本。 読んでいて、本当に面白くかんじた。 子供時代から「どうして、この友達はこんなにあれてるのだろう?」という気持ちに きれいなこたえがでた瞬間だった。

ちょっと話がそれるが、当ブログでも盛んに実用書の類いを紹介してきた。 しかし、その中にかかれていることが本当なのか?といわれてきているので以下の本を紹介する。

日本は歴史的に政治とメディアに反応し、国民が同調圧力をうむ国だった。 戦前の国民とコロナ禍の日本人との類似性を見いだし、ホセ・オルテガのいう大衆化した知識人たちを批判する意欲的な本。

 

メディアの話が頻繁でいわれるようになっている。

メディアとはどこまで人々を洗脳できる媒体なのか。それに関しての研究はあるのだろうか?

そんな人におすすめなのは『マスメディアとは何か?』である。

単純なメディアたたきで憂さをはらしている論者がTwitter界隈では多いが、きちんとした人の本をしっかりよんでから考えたい人におすすめの一冊。

 

Amazonブラックフライデーでセール中!絶対に導入して欲しいkindle

AmazonブラックフライデーということでAmazon製品は特にお買い得です。

 

私がここ最近すすめているkindleも同様です。

 

今まで紹介してきた本はkindleでよめます。今回の記事もkindleで読んだことでラクに記事をかけています。

 

本のメモやハイライト、部屋が汚くならないなど本当に便利なので

読者にはkindleを本当につかってもらいたい。

 

 

kindleはペーパーホワイト広告無し、が断然おすすめです。

軽いし風呂でもよめます。

 

kindle scribeは直接的に本に文字をかいた感覚が味わいたい人向け。

個人的には高いとおもうが、ペンで文字をかくことで記憶力の上昇、また眠気が起こりにくくなるはず。

 

なので、欲しくないと言えばウソになる。

 

ただ、五万もするのでいくらなんでも・・・っていう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今まで細々とではあるが、コロナに関する記事を書いてきた。

 どの本も面白かった。

 

zunnda.hatenablog.com

 

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*1:※ただし、「ミラーニューロン」に関しては諸々いわれているらしく、近年、化学の再現性の問題が取り沙汰されている。(科学 2022年9月号(岩波書店)】を参照)これにかぎらず、行動経済学などの内容もその信憑性が疑われており、一読者としてはどこまで信用していいのかはわからない。とりあえず、疑心を抱きながらもその著者が本で述べたいことを私ズンダは紹介する。

note.com

ミニマリストは病気でも悲惨なものでもない!なぜ持ち物や服などを所有することをやめるのか?ミニマリストしぶ『手放す練習』を紹介する!

 今回の記事はミニマリストしぶ氏『手放す練習』です。

 生活にメリハリが欲しい人、年末に合わせて大掃除をしたい人にぜひとも読んで欲しい本です。

 

  kindle unlimitedにも入っており、無料でよめます。

 

 

 ミニマリズムを分かるようになるまでの長い自分語り

 ミニマリストを受け入れられるようになった



 ミニマリストに対して皆さんはどう考えおられるでしょうか?

 


「なんかうさんくさいな
「そんなに狭い部屋や同じ服ばかりを着て、何がおもしろいんだよ?
「修行僧みたい。自己啓発の一種」

 

 そんなふうにおもっておられるかもしれません。

 

 しかし、この二ヶ月ほど、ゴミ袋45Lを100袋ぐらい用いて、不必要なモノを捨てることを幾度となく繰り返していったところ私の考えに変化が訪れるようになっていました。

 

 「もしかして、これがミニマリズムなのか?」と。

 

 私が捨てていたゴミは私だけのモノではありません

 父母姉妹が残していった想い出の品や雑貨品、家具などもありました。

 

 これらのものは膨大でして、足の踏み場もないほどに家を埋め尽くしていました。

 

 転機が訪れたのは自身のPC机を処分し、居間の食卓をその代わりに使い始めたことからです。

 

 以前使用していたPC机は5000円程度でしたが10年ほど使い、至る所が壊れていました。

 何よりも奥行き50センチ、幅が80センチほどで小さかったのです。

 

 

 一方でダイニングテーブルは奥行き70センチ、横幅120センチもあり、PCのモニターを二台を十分おけるほどでした。

 

 これにより居間はいっきに広々とし、空間がうまれます。

 

 そして空間がうまれると同時に、机周りのゴミや雑貨が異常なほどにくっきりと目立ち始めたのです。

 

 つまり、何かをよけることで別の何かが初めて目にはいるようになりました。

 

 こうして、

 

 自分はこんなに汚い家に住んでいたのか!?

 

 という認識をし、美しい部屋を作り出すために悪戦苦闘するはめになったのです。

 

 先日のブログの冒頭でもかいたように私はしばらくの間、ブログを更新しませんでしたがこういう理由があったのです。

 

 モノはいくらでもありました。

 

 その中の多くは

 

「価値はないけど、勿体ないからとっておこう」

 

 といったものばかりでした。

 

 そう、私はそれを使いもしないし、見向きもしないくせに「大事なモノだ」といっていたのです。

 

 ここに自分の欺瞞がありました。

 

 本当に大事ならいつも自分の側においておくはずでしょう。

 

 何ならスマホのほうが常に自分の身近にあるわけです。

 

 私はこの矛盾に気づいていなかったのです。

 

 そして、もう一つ、あることに気がつきました。

 

 私ズンダはジグソーパズルが好きなのですが、それとミニマリズムが繋がったのです。 

 



 

 「ジグソーパズルでは、ピースが埋まるごとに、次に何のピースが埋まるのかを決めることができる。掃除はあるモノを捨てると、次に何を捨てれば良いかが決められる」

 

    これは自分にとって大きな発見でした。

 

  「あれももったいない、これももったない」という感情を一回とらえなおし、

「本当にもったいないと思っているのか?」と問い返す。

 

 こうすることで、「実はいらないものだったんだ」と判断できる瞬間があるのです。

 

 そして、一つ捨てる

 

 一つ捨てると「これもさっき捨てたモノと同様だよな。じゃあ、捨ててもOKじゃん」となるので、更にもう一つを捨てられる。

 

 これを繰り返すと、膨大な量のゴミができます。



 そうこうしているうちに私の家はそこそこきれいなりました。

 

 もちろん、何の逡巡もなくモノをすてられたわけではありません。

 

 そんなとき、気になったのがミニマリストでした。

 

 私は彼らにあまり興味がなかったのですが、自分が多くのモノを捨てるにつれて、

もしかすると、一分の理があったのかもしれない。

 

 そんな風に思うようになったのです。

 

 というわけで手にしたのが今回の本、ミニマリストしぶ『手放す練習』でした。

 正直言えば、kindle unlimitedで無料で読めるので読んだという部分はあります。

 本を買って、家を埋めたくなかったという気持ちもありました。

 

 ですが、読んでみて思ったのは・・・・・・

 

 思ったより、ずっと考えてあるんだな

 

 皆さんも軽くみている人物や考え方などがあると思いますが、読んでみると意外に違うなあってことがあるでしょう。

 

 今年でいうと、ミニマリストしぶ氏の本と、零時レイ 氏『ナンパが最強のソリューションである』でした。

 

 後者もどこかで紹介したいのですが、ナンパだからといって彼自身が軟派な考えをしているわけではなく、実際は合理的な理由や納得できる理由があります。

 

 そういうわけで、しぶ氏の本をみていきましょう。

 

 ミニマリストとはなにか?

  語源からたどる



 ミニマリストの語源でもある「ミニマリズム(最小限主義)」はもともと1900年代より、建築や音楽、美術など「アート」の分野にルーツがある。

 

 作品の完成度を追求するために装飾を凝らすのではなく、あえて必要最小限の要素だけを残す表現スタイル。

 

 つまり、「ミニマルアートの専門家」をミニマリストと呼んでいた歴史がある。  その例に、ミニマリストの間で愛されている標語「Less is more(より少ないことは、より豊かである)」 は、近代建築の3大巨匠の1人であるミース・ファン・デル・ローエが提唱した言葉だ。

 

 というように最初は建築用語だったのです。

 

 余計な装飾はせず、必要なものだけを残す。

 

 一種の芸術表現だったのですね。

 

 これはデザインも同じです。

 

 

 デザインという言葉の語源は「de(削る)sign(示す)」であるとも言われている。 足して飾ることではない。  

 

 たとえばApple社の音楽プレイヤーiPodや、携帯電話のiPhoneは従来の製品よりも物理ボタンが少なく、直感的に操作できるデザインで多くの人に愛用されている。  

 

 そして、削れば削るほどに、 尖る。尖るほどに自分の大事なものが浮き彫りになる。だからこそ、いちばん大事にしたいものに気づけて、いちばん大事にできたら、人生から「後悔」や「生きづらさ」は消える。  

 

 つまり、生き方をデザインするとは「いちいち悩まないで済むよう、何をしないか決めること」

 

 

 そしてこれが本書におけるミニマリストと同様の意味になります。

 

 本書では「大事なことを強調するために、あえて少なくする人」をミニマリストと呼ぶことにする。

 

 ミニマリズムは自分を制作することにつながっている



 ミニマリストとは単にモノをすてる人のことをいうのではありません。

 

 一種の表現者なのです。

 

 彼らの世界ではいらないモノを捨てることは、自分の生き方、態度などを作っていく作業過程であり、表現なのです。

 本当に大事なモノの見つけ方は捨てることにあった

 

 私ズンダは先に「パズルピースと異なり、捨てれば捨てるほど新しく捨てるモノがみつかる」と述べました。

 

 これがミニマリズムだったわけです。

 

 自分の家には捨てるモノなどないと思っていたが、とつぜん、新しい景色が広がり、捨てるモノがみつかる。

 

 ちょっと面白いですよね。

 

 普通、新しいことを感じたり経験したりするために、何かを買ったり、手にしたりするはずです。

 

 でも逆に捨てることによって、別物がみえてくる。

 

 そして、見つかるのは「捨てるモノ」だけではありません。

 

 本当に大事なモノは何か、がみつかる、のです。

 

 当然、捨てていく過程で自分が捨てられないモノなどいくらでもあります。

 

 心を鬼にして捨てるのですが、どうしても必要なモノはある。

 

 で、それを最大限ギリギリまで考慮しながらやっていくと、自分にとって大事なモノがなんなのかわかってくる。

 

 捨てようと思っても捨てられなかったモノが、あなたにとって最高のモノなわけです。

 

 

 メルカリやヤフオクで捨てられないモノの市場価値をみてみる

 

 ちなみに私も昔買った本やCDなどを捨てようと思ったが、最初はなかなか捨てられませんでした。

 

 そのとき、レアだと思っている品をネットのメルカリやヤフオクなどで検索してみるのはおすすめです。

 

 すると、でてくるでてくる。

 

 自分がレアだと思っていたモノが数百円とか1000円ぐらいでうられている。

 

 数万、数十万の価値なんてないわけです。

 

 ここで客観的なモノサシを入れるのは大事だとわかりました。

 

 勿論、本当に大事なモノであれば他人のモノサシなどどうでもいいです。

 ただ、そうではないものにたいして「もったいない」と感じてるのであれば、一回、検索してみて市場価値をみるのは役に立ちます。

 

 マンガとか音楽CDとか所蔵している必要ってありますか?



 モノが捨てたくなるには、それっていつでもまた手に入るよね?という視点が必要だとしぶ氏はいっておられます。

 

 まずは捨ててみる。世の中のほとんどのモノは最悪「買い戻し」ができるのだ

 

 

 つまり、 僕にとってメルカリは「貸し倉庫」も同然、一時的にレンタルしているだけだ。そこに「所有」の感覚はいっさいない。

 

 この部分も納得ができるものでした。

 

 私ズンダなども子供の頃はマンガが好きで買って読んでいました。

 

 しかし今となってはマンガ喫茶などにいけば殆どのマンガはよめてしまう。

 

 マンガを買うお金や所蔵するための場所がムダだと感じるようになり、購入を控えるようになりました。

 

 実は最近、kindleで本をよむようにしています。

 これというのも本で買うと、がさばるからです。

 私のように本ばかりを読んでいると増え方が尋常ではないので、なるべくそうしています。



 「所有はコスト」であると同時に、明らかな不要品を捨てないまま持ち続けるのは「借金」も同然だからだ。所有はコスト、つまるところ「所有の利息」である。 過多な所有で365日、床面積ぶんの家賃を無駄に払い続け、さらには管理にかける時間と体力を消耗している。

 

 多くのモノって、また買えるんですよね。

 

 特に家にあったキッチン道具とか壁紙の代替品などは100円ショップのダイソー、セリア、キンドゥなどにいけば全てそろっています。

 

 しかも昔買ったものよりも高品質、安価、綺麗なのでこちらに買い換えたりしたほうがよほどに清潔感があるし、使い勝手もよい。

 

 こういった新しいモノを受け入れられるようになったのも、捨ててからです。

 

 要するに人間には「容量」というものが決まっており、その容量を超えると、人はもう何かを入れることができなくなる。

 

 どんな美味しい食事も食べ過ぎれば満腹をきたし、腹痛や嘔吐に至る。

 

 捨てたから、新しいモノを買う気になった



 私ズンダはこの数ヶ月、捨てていただけではありません。

 捨てた結果、必要なモノも判明したので新しい購入物もあります。

 以下のようなことをやっていました

 

 グーグルのPIXEL6a(本体一円。事務手数料3000円)やIKEAのオッドマン(一万円)、シャープの空気清浄機(17000円)やブラインド(10000円)や水回りの洗剤入や歯磨き粉入れ、歯ブラシ入れ、排水溝カゴをなくした(すべて100均一)などです。

 

 

 スマホは常に新しく性能が高めのものを買った方が良いと判断。壊れると困るので新品を常に持ちたい。写真動画も綺麗に撮れると諸々に役立つ。しかも端末台はかからない。来年春頃にPIXEL7aがでるとの噂があるので、この6aも半年後には放棄する。

 

 オッドマンは部屋のインテリアかつ収納性かつ本を読むときの足置きとして必要

 ブラインドは部屋の見た目を向上させ、古びたカーテンを一層させ、気分をよくする

 水回りは手洗いうがい、食器洗い、コーヒー入れなどで毎日、使う。機能性が高く手入れが少なく見た目がいい

 

 まだこれらは過程であり、このあと年末まで余計な家具やゴミを炙り出し、捨てていく予定です。

 

 モノはあっても、さみしかった理由



 しかし、これらのことは多くのいらないもの、余計なモノを捨ててから初めて欲しいと感じるようになりました。

 

 今まで自分は何かを積極的に欲しいと思わなかったのですが、なんのことはない

ゴミで満たされていたからです

 

 しかし、古くて汚くなった品々は自分を満たしているようで実は満たしていませんでした。

 何か漠然と空疎な気がしていました。さみしく感じていたのです。

*1

 

 

 それらは結局は、父母兄弟が残したものであり、自分が揃えたものではなかったからです。

 

 また多くの年代物は現在の生活に適しているわけでもなく、私の生活を豊かにしてくれるものではありませんでした。

 

 現在をいきる私たちにとって必要なモノは昔とは異なります。

 

 そしてその価値を知るには一定程度、あったモノを捨てて、新しく買う必要があります。

 

 当然ですよね。

 

 部屋の容量は決まっているわけです。

 そして、一人の人間が意識することができる量にも限りがある。

 すると、捨てるしか解決策はありません。

 

 しぶ氏は自分が所有しているものについて次のように語っています。

 

 

 僕は「何をどれだけ持っているのか、自分の所有物すべてを把握していて、1つ1つ所有の理由を語れるだけの量」 が指標と考える。

 

 もっているモノに対して、自覚的になり支配権を得ること。そのモノの魅力やなぜ手にしたのかを語れること。

 

 これを浮き彫りにさせる。

 

 まさに、デザインの世界、ミニマリストの真骨頂といえるでしょう。

 

 ~ミニマリズムを考えるためのお勧めの関連図書一覧~

 

 まずは本書を読んでください。

 一番簡単に読むにはkindle unlimitedに加入し、無料で読むことです。

 

 

kindleは本体がないと読めません。

で、本体でお勧めなのは「広告なし」でkindle paperwhiteです。

防水機能もあるのでお風呂場でも読めますし、軽く雨などでぬれても大丈夫です。

 

軽いし、大きさも6.8インチあるので問題はないでしょう。

 

また今月、kindle scribeというスライスペンで本に手描きでかける機能をもったkindleが新発売されます。

 

正直、これがいいのかわるいのか私ズンダにはわかりません。

値段も高く、いくらなんでもこれを買うのはなとおもっています。

 

 

 

 
 

 

次は『スマホ時代の哲学』です。
「さみしさ」「孤独」「孤立」を軸に現代人のスマホ依存症について現実的な考えかたを哲学者が検討したものです。思い当たることが多々あり「うっ・・・」となること請け合いです。
私ズンダはミニマリストしぶ氏のモノへの当たり方がこの『スマホ時代の哲学』で問題視されている「さみしさ」と関係性があるように思えました。
 

ミニマリズムで資本主義を考えると脱成長、自己啓発になってしまういい例としての本。
今まで当ブログを読んできた方々ならおわかりだろうが、私ズンダはこの考えには賛同できない。
しぶ氏は脱成長や脱資本主義というよりも、この現状でどう生きるべきかを模索した結果であり、個人の問題で完結しており、異なる。
 
↓当ブログの自己啓発批判

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:※ちなみにしぶ氏は本書で「孤独を選ぶ」という話をされていますが、この孤独は

 谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』と同じことをいっているので、近日、合わせて紹介します。これらに鑑みるに、私ズンダは自分がもっているモノと対話することなく、スマホ依存症のような状態にあったように思われます。