はじめに
良い本ではあるが、欠点もある
今回紹介するのはいまをときめく書評家、三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。
SNS上で話題の本ですが、私ズンダはこの本の第六章目までは好意的で、それ以降の章に関しては良いとはおもっていません。
しかし、それはこの本の価値がないということではありません。
読んで学べることは多いと思います。
特に六章までの教養主義や読書の話などは多くの人に知って欲しいところです。
「本をよむことはすばらしい」などという言論がありますが、私ズンダは一概にそうとはいえないとずっと思っていました。
この本でかかれているような教養主義や自己啓発については以前から、ブログやnoteなどで政治と共に語ったり、あるいは「スプラトゥーン」というゲームをやっている人々に無自覚に巣くっている病魔として批判してきました。
六章目までに紹介されていること、あるいはその後の章内容の何が問題なのかを読書メーターでまとめました。
今回ブログの記事はそれを貼り付けておきます。
この本は六章目までなら読むべき価値のある本だとは思います。
明治以降の日本人において読書とはどんなものであったのか?
それがまとめられているからです。
しかし、問題はその読書史と七章目以降との内容が断絶してしまっていることにあります。
要するに、彼女の読書史に従うと「働いていると本が読めなくなる」というタイトルは偽りではないかとしか思えないのです。
この本の正しいタイトルは『なぜ日本人は自己啓発本ばかりをよんできたのか?』ではないでしょうか。
読んだ直後の感想文と疑問
社会学者・牧野智和を援用して語られる「ノイズ」という概念ー労働の問題なのか?ー
では、私ズンダのまとめをみてください。
この本、絶賛ばかりされているのだが、私ズンダにとっては理解できない本であった。第六章までの明治から1980年代あたりまでの読書の歴史についてはよい。特に教養主義と絡めた読書史は先人による研究が多くあるおかげで、著者の勉強が光る箇所であり、私も彼女が参照している本はある程度は通読しているので納得いった。
しかし、それ以降の社会学系の思想を借りて現代人はなぜ読書をしないのか?については全く理解ができなかった。
彼女は社会学者・牧野智和による「自己啓発はノイズがない」から伊藤昌亮の「西村ひろゆきの情報は安手なものでしかない」を批判し、現代人が本を読めない理由を劃然と浮かび上がらせる。
①労働で忙しいのでノイズが多い読書ができなくなった
②ネットの普及によるノイズレスな検索になれきってしまった現代人は、文芸書のようなノイズ過多な本を読めなくなった
と説明する。
ここでいわれている「ノイズ」とは次のようなものである。
知識=ノイズ+知りたいこと
情報= 知りたいこと(本書206頁より)
要するにネットなどでは自分の好きな情報だけを手に入れることができる。
youtubeも自分の好きな動画だけをみられる。
それゆえ、他のどうでもいいような、自分にとって必要のないもの=ノイズ、はそこには存在しない。
そんな生活になれた現代人は「情報だけを得られる自己啓発本やパズドラなどのゲームはやれるが、新聞・雑誌・テレビ・文芸書などの本はよめなくなってしまった」と
三宅はいう。ここに労働の忙しさも加わるのが三宅の「本が読めない理由」の論である。
牧野の説の是非はともかくとして、そもそも六章までを顧みても日本人の読書は
①労働者階級と自分とを区別するため
②大卒などへのスノビズムがあったため
とまとめることができる。
これは序章で彼女が苅谷剛彦を引用して語っているとおりである。
だとすれば、高学歴化が以前より進んだ日本人においてはもはや文芸書を読む理由がないことにあるのではないか。実はこれ自体は三宅も指摘しているのだが、ではなぜ労働の問題にできるのかがわからない。
彼女の読書史をみればわかるように、実はノイズは関係がなく、文芸書は何らかのスノビズムでしか求められないのではないか?
「ノイズ」という考えが突拍子もなくあらわれ、それで時代性を説明しきることに無理がある。
押さえておきたいのは彼女は「自己啓発本」を読書だとは思っていないということだ。これは読んでいればわかることだが、彼女はそれをはっきりとはいわないようにしている。
この本は《本のジャンルによる区別をしているが、著者の三宅はそれを敢えてみせないようにしている》のである。
彼女は「文芸書」を上においており、「文芸書」が読まれない事態を嘆いている。
そして、この「文芸書」が読まれない理由をノイズのせいにした。
「文芸書」自体がつまらないからよまれてないのでは?という問いはここには一切ない。
彼女の中では「文芸書」こそが「本」であり、読まれるべき価値のあるものである。
だが彼女はその価値判断を明確に記そうとはしない。
あるいは、「文芸書」にしかないような価値はかかれていない。
「なぜ文芸書にこだわるの?」かがわからないまま論が進む。
一般層が本を読まない理由が「働いているから」という主張事態が怪しく思えてくる。
本の売上は下がっていても、一般層は「自己啓発本」は読んでいるからである。
そもそも、ネットに「ノイズがない」というのも本当なのだろうか?
検索だけでいえばノイズは少なめかもしれない。しかし、SNSでの諍いをみればわかるように、ノイズだらけなので私たちは言い争っているのではないだろうか。
『現代人はなぜ自己啓発書しか読まなくなったのか?』としたほうが、良かったと思う。
この本の欠点と問題点をまとめておく。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のおかしなところ
六章以前と七章以降との断絶
①彼女の読書史から考えると、日本人の読書は教養主義によるものであった。そして、1970年代などの司馬遼太郎のような小説も自己啓発として読まれていた。
②つまり、日本人にとっての文芸書を読む理由とは「自己啓発本を読む」ことであった。今の自分を更に大きな成長した自分になるための読書、それが三宅が描いた日本人の読書である以上、この結論は否定され得ない。
③ただし、三宅は牧野智和の見解を引き、それまで自己啓発は「内面」にとどまっていた。90年代になると「行動」をかえることに重点がおかれたという。
だが、この主張を認めたとしても根本的には「自己啓発本を読む」ということに変わりはないのではないだろうか?
私はここで「内面」と「行動」の違いをのべ、
今までの「自己啓発」と異なる「自己啓発」を訴えることに大きな意味を感じない。
意味があるとすれば、三宅が「労働のせいで人は本を読めなくなった」といいたいがために牧野の見解をもってきたかったということだ。
三宅の考えはこうである。
90年代から始まる「新自由主義的」な思想のせいで日本の労働環境は悪化し、不安定な暮らしを余儀なくされる人々が増加した。そのため社会に期待することをやめ「個人」が個々に自分たちを変えるいかなければならなくなった。要するに「行動」を変更せざるを得ない時代になった。人々は「自己啓発書」にその答を求めた。また労働時間の増加やブラック企業などによる搾取により現実での「ノイズ」が増えて、読書の「ノイズ」を嫌がるようになり、余計にノイズがない「自己啓発書」を買うようになった。
一見すると筋が通っているようにみえるが、三宅のこの本にもあるように本の売上は80年代を頂点として下がっていた。
そして、三宅がいうにはその原因は人口の多さによるものだったらしい。
だとすれば、人々が本を読まなくなったのは、労働が原因なのではなく、人口ということにならないか?
そしてやたらに労働時間の話ばかりしているが、三宅の本には「使える金」の話がない。
驚くことに、彼女は本を買うには金が要ることを全く意識してないのである。
日本人の賃金は97年にデフレに突入して以降、上がらなくなった。新聞の発行部数が減り始めたのもこの時代である。
現代は賃金自体は上がっているが実質賃金はマイナスであり、窮乏に陥っている状態といえる。この状態で人々が本にお金をつかえるわけもあるまい。
余暇時間をyoutubeやSNSのような無料で楽しめるようなサイトやアプリが増加したのでそれらに時間を使っているだけなのではないだろうか。
④彼女はこの「自己啓発書」を「文芸書」とちがうと考えている。
彼女は「自己啓発書」を「本」だと思っていない。
彼女がいう本とは小説や随筆、思想書のようなものであり「自己啓発書」ではない。 だが、そうであれば、「まえがき」の段階で「本の定義」を示すべきだったでのはないか。
というのも日本における本の売上は80年代をピークにおちている。現在、売上上位を占める本は「自己啓発」である。つまり、人口減少にある日本人は「自己啓発書」という「本」はよんでいるのだ。だとすれば、日本人は「本を読んでいる」といえるだろう。
彼女が望んでいる「文芸書」という「本」がよまれなくなっているだけではないか。
その自己啓発が売れている理由が「ノイズを求めないようにしているから」というが、彼女が記してきた読書史に従うと、日本人の読書はもとから「自己啓発」目的であり、他者と自分を分けるためのスノビズムでしかなかった。もとから「ノイズなど求めてない」のである。
彼女は冒頭、教育学者の苅谷剛彦の言を引いているが、 「高学歴化がすすみ、殆どの人が高卒、半分が大卒になっている社会になれば読む本の傾向が変わる可能性がある」という推考を進めた方がよかったのではないか。
つまり、「自己啓発」ばかりが売れるようになったのは、スノビズムが多くの人に解消されたからではないのか?
それがなくなった結果、仕事に直結するであろう本しか人は読む気がなくなった。
この本は明らかに第六章以前とそれより後で断絶がある。
断絶をしないように書くのであれば、労働のせいではなくなるからである。
彼女は「新自由主義」や「ノイズ」という概念にひっぱられて錯誤をおかしたようにみえる。
労働で忙しくノイズのある本が読めない、という結論はこの本を通して読んでいればでてこない。
この本を読んで、
「労働のせいで本が読めない」という結論に納得している人々をアマゾンレビューや読書メーター、Xなどの書評家や学者などのコメントでみかける。
私ズンダは次のようにいいたい。
あなたがたは忙しすぎるので、
この本のタイトル以外を読んでないのか?
と。
おわりにー参考図書を紹介するー
この本を更に理解したい人のために、ズンダが選んだ本を紹介する。
下記の本はこの本の六章までに当たる。
私ズンダも自己啓発に関する本や教養主義の話は昔から好きでよく親しんでいたので
三宅氏の主張はこれから構成されていることがわかる。
↓稲葉振一郎氏の『「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み 』は
上に紹介した本と異なり、「新自由主義」という言葉が曖昧なまま、あらゆるものを説明する便利な用語として使われすぎではないかと警策した本で、一読の価値がある。