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【朝日新聞】「エビデンス」がないと駄目ですか?村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)を紹介する!

 

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480684523/

 

みなさんこんにちは。ズンダです。

最近話題になった朝日新聞の記事で紹介されている『客観性の落とし穴』を今日は紹介します!

www.asahi.com

 

 この記事で取材を受けているのが村上氏です。

 

 Twitter上では非難囂々、「朝日はエビデンスなしの記事をかいているのか!」などと非難される有様です。実際、朝日新聞は諸々の捏造をしてきたので、「エビデンスなくてもいいじゃん!」という記事でこういうふうに叩かれるのは仕方がないことではあります。

 

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

私ズンダが今でも覚えているのは、慰安婦捏造と珊瑚記事捏造事件です。

なつかしい。

 

エビデンスや根拠がないことを書いてしまう。

これは非常に問題でしょう。

 

しかし、ここで取材を受けている村上氏はなぜエビデンス」にとらわれることを問題視しているのでしょうか?

 

私ズンダはこの本がでた直後に直ぐに読んでいたのですが、なかなか紹介する暇がありませんでした。せっかくの機会なので今回、どのようなことが書いてある本なのかみていこうとおもいます。

 

 

エビデンスによって見落とされるものとは?

学生の心ない発言にひそむもの

学生から次のような質問を受けることがある。 「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」  私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。

 

 とこんな出だしで始まるのが村上靖彦『客観性の落とし穴』(筑摩プリマ-新書)です。

 

 

村上氏がこの本を書いた理由は次のようなものです。

 

数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機である。

 

 つまり、数字にはあらわれることがない人生のそのときどきの体験を想像することがなければ、私たちは他人を理解できないというわけです。

 

 そこで挙げられている例として、生活保護の問題があります。

 

 学生と話している際、村上氏は「働く意思がない人を税金で救済するのはおかしい」といわれたそうです。

 

 確かにこの学生の発言は少し短絡的ですよね。労働しない人間がどういう人なのか?が考えられていない。

 

 何らかの「理由」があるのではないか?ぐらいは思ってもいいはずです。

 

でも、もしかすると、「働く意思をもたない」人にはなにかの事情があるのかもしれない。フィールドワークのなかで、うつ病で朝起きることができないひとり親家庭に出会うことがあった。その母親は、パートナーのDVから子どもを連れて逃げてきて、暴力の後遺症でうつ病に苦しんでいた。

 

 このような鬱病やヤングケアラーのような存在もいるわけです。

 そういう人々のことを全く検討に入れないのはおかしいですよね。

 

数字やエビデンスが人々をおかしくする

 

 

学生が、社会的に弱い立場に追いやられた人に厳しいのは、そもそも社会のなかにそのような厳しい視線が遍在しているからだ。そして、その言葉のなかに社会をどのように考えていくとよいのか、どう行動したら私たち自身が生きやすくなるのかのヒントもある。そこで、本書では、私たち自身を苦しめている発想の原因を、数値と客観性への過度の信仰のなかに探る。 一見すると、客観性を重視する傾向と、社会の弱い立場の人に直接の関係はなさそうだ。しかし、両者には数字によって支配された世界のなかで人間が序列化されるという共通の根っこがある。そして序列化されたときに幸せになれる人は実のところはほとんどいない。勝ち組は少数であるし、勝ち残った思っている人もつねに競争に脅かされて不安だからだ。

 

 

 そこで村上氏が考えたのは「数値と客観性への過度の信仰」のせいで、先の学生にみられるような「非情な人間」がでてきてしまう、ということです。

 

 

 

 ここで大事なのは村上氏は一応、数字も客観性も否定してはおられません。

 

 

とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している。それでも、数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。

 

 数字にでてないものは無視されてしまう。考えに組み込まれることがない。

 そういう傾向はおかしい、といっておられます。

 

この本の要約

 

 さて、この本は全八章まであります。

 村上氏による本の紹介は以下の通り。

 

第1章では、客観性という発想が生まれ、自然の探究が客観性の探究と同一視されるにいたった歴史を振り返る。  

第2章では、自然だけではなく社会や心理までもが客観的に考えられるようになり、それにともなって現代社会に生じた帰結を考える。  

第3章では数値による測定が誕生し、真理が数値で表されると考えられるようになった歴史を振り返る。  

第4章では、数値が重視された帰結として、役に立つことへの強迫観念が生じ、序列と競争が社会のルールになっていく経緯を追う。現代社会の差別と排除は、数値への信仰と切り離しては考えられない。  本書後半は、客観性と数値化への過剰な信仰から離れたときに、では、どのように考えていったらよいのかを提案する。  

第5章では、客観性と数値が重視されるなかで失われた一人ひとりの経験の重さを回復するために「語り」を大真面目に受け取ることを提案する。そして個別の経験と語りを大事にすることが何を復権するのかを考える。  

第6章では、偶然性とリズムという視点から、客観的で数値化される時空間とは異なる経験の時間を考える。客観性から切り離された水準で経験の姿を位置づけたい。  

第7章では、一人ひとりの視点から経験を解き明かす思考の一つとして「現象学という技法を紹介を紹介する。

 

 このすべてを今回の記事で書くことはできません。

 そのため、私ズンダが一気に要約しますと次のようになります。

 

科学史家のダストンとギャリソンの『客観性』という本が紹介される。客観性の歴史19世紀からで、歴史は200年程度でしかなく浅い。

科学の発達に伴い「モノ」を客観的にみることが始まり、その後、心理学なども科学主義にのみこまれ人の心を「モノ」として分析するようになった。

これに対抗するにはケアの論理という数字ではなく一人の人間の経験をきくという考え方大事。

 

 

というのがこの本の内容です。プリマ-新書という気軽に読める新書だけあっていわんとしていることは非常に簡単です。

 

この本の背景と疑問ー「生活保護者」を批判する学生の正体は?

功利主義とか自己管理とか

 

 

そもそも、内容自体がそんなに大量の頁数を必要とするものでもありません。

「数字だけでなく、個人の経験を大事にしよう!」なのですから。

 

そのため、ベンサムやミルによる功利主義(最大多数の最大幸福)やウェアラブル端末などによる自己管理なども批判されております。

 

功利主義は多くの人間が望む幸福をなるべく多くの人間に渡せることをモットーとした主義です。ただし、この考えが少数の人間を傷つけるものかどうかはちょっと言い過ぎではないかとおもいます。

米原優 「功利主義と人権―ミルにおける功利主義的兼理論の検討―」というピンポイントな博論もあるようですが、私ズンダも「ミルとかそんな厳しめのことをいってたかな?」という感じです。

 

ウェアラブル端末による自己管理は社会による責任の分散ではなくて自己責任を強めてしまうという形で批判されています。自分のことはできる限り自分でしろという話になるからですが、これが自己責任論を強めるかもなんともいえないところです。

是に関しては、私ズンダが以前紹介した本『データ管理は私たちを幸福にするか?』をどうぞ。

 

zunnda.hatenablog.com

 

私たちは数字に管理されていると人に対して寛容さを失う!?

 

むろん、村上氏の危惧もわかります。

 

新自由主義的(この本で村上氏は新自由主義という言葉は使ってない)な社会にあって、人々は自己管理や自己啓発を自分で意識しないうち行わせられていて、それを促すために数字やエビデンスが使われているという論法なわけです。

下記の『ハッピークラシー』でかかれているような内容ですね。

 

私自身はそういう論も理解できますが、データや何らかの根拠を伴った議論というのは基本的なものであって、どんな理由をつけたところで無視して良いものではないとおもうんですね。

 

また、そもそもエビデンス重視している人間は非情」みたいに思ってるようですが、どうしてそうなるのかは本書を読んでみても理解できませんでした。

 

たとえば村上氏が例に挙げた学生、生活保護者に我々の税金を与えるのはおかしい」という話も、村上氏のケアの倫理からしたらヘンな話ではないですか?

 

もしその考えで行くのだとしたら、「どうしてその学生はそんな風に考えたのだろうか?」と学生の体験をきいてみて、それを書いたたほうがよかったのではないかとおもいます。

 

『東大生、教育格差を学ぶ』を学ぶ―他者を知るからやさしくなれるー

 

実際、今年、学生に講義して自分のもっている考え方を広げさせるという本がでています。

 

『東大生、教育格差を学ぶ』(光文社新書)という本です。

私のブログでも紹介しています。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

東大生に対して教育を中心とした先生方が「なぜ格差があるのか」という話を講義することで、東大生に知識を与えることで「他者の合理性」(=あなたにとって非合理的なことは、他の人にとっては合理的、ということ)を学ばせています。

 

これは人が他人を思いやるのはエビデンスやデータによる知識的なものがあるという前提にたっているわけです。

 

たとえば、下の記事のように東大卒のアイドルが炎上しました。

なつぴなつさんのものです。

 

もしこの人がアイドル業にかまけず、東大でひたすら勉強をしていれば違った視点がえられたかもしれません。

 

news.yahoo.co.jp

 

これとは逆なのが村上氏です。

村上氏の観点には、エビデンスやデータがあると「無感覚な人間」になるという理路があります。

 

要するに、人の語り(=ナラティヴ)でないと効果がないと考えておられるようなのです。

 

私は長年にわたって、看護師や子育て支援の対人援助職、そしてヤングケアラーや精神障害の当事者、ろう者(耳が聞こえない人) やアイヌの出自を持つ人など社会的な困難の当事者にインタビューをお願いしてきた。インタビューでは質問を準備せずに二時間ほど気の向くままにあちこち話題が飛ぶのに任せて語っていただく。(電子書籍版 本書61頁)

 

この考えはおそらく、NBM(=ナラティヴベイスドメディスン)からきているのでしょう。

 

Narrativeとは物語の意であり,個々の患者が語る物語から病の背景を理解し,抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法である。NBMの特長として,①患者の語る病の体験という「物語」に耳を傾け,これを尊重すること。②患者にとっては,科学的な説明だけが唯一の真実ではないことを理解すること。③患者の語る物語を共有し,そこから新しい物語が創造されることを重視することが挙げられる。EBM(evidence based medicine)偏重時代の中で,NBMはEBMを補完するためのものであり,互いに対立する概念ではない。

 

www.jaam.jp

 

 ちなみに、このNBMと現在流行の言語化については

私ズンダのNOTEをどうぞ。

note.com

日本の大学の授業

 

 

私は、この手の話はまず議論する前に知識が重要だと思っていて、最低でも生活保護に賛成か反対か?」という議論するためのpros&consは抑えた上でやらないとダメだとおもうんですね。

 

議題にしたい内容について何も知らない状態ではじめても、胡乱なこたえしかかえってこないのは当然でしょう。

 

いうまでもなく、こういった土台作りをした上で学生が生活保護に反対です」という結論を出したとしても、それはその人個人の考えなので我々がどうこういえる問題ではありません。

 

freeconsultant.jp

 

そういえば数週間前に以下の書き込みがTwitter上で話題になりました。

 

 

 

これは大分前からいわれていたことですね。

2011年に発売された佐々木 紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか? 』(東洋経済新報社)にも似たようなことが書いてありますが、大量に本をよみ、レポートをかかせたり購読したりすることでその授業における共通知をつくりだし、生産的な議論をさせるという手法がある。

 

村上氏がこの本をかくきっかけになった学生などにもこういった授業をしていれば、何かがかわっていたかもしれません。

 

私はこの手の学生は、エビデンスが大事」という考えすらもっていないのではないか?と思っているのですが、どうでしょうか。

むしろ、データなどを軽視した結果、村上氏の意にそぐわない発言をしているのではないだろうか。

 

しかしこれもすべて想像の域をでません。学生に関しては何もかいていないのですから。

 

合理主義者は非情なのか?

最後になりますが、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』第二巻の下巻「神託まがいの哲学と理性への反逆」(155~157頁)に次のような一節があるので紹介しておきます。

 

非合理主義的な態度が万人の平等を承認しない態度に巻き込まれていくのは間違いない、と。これは、非合理主義が感情や情熱にきわめて大きな役割を与えていることと関連している。

 

なぜなら、われわれはすべての人に対しておなじ気持ちをもてるわけではないからである。(中略)だから、低劣な感情や情熱に訴えかけがなされるなら、人間を分類してしまうことはより確実に生じるであろう。

 

われわれの〈自然な〔生まれつきの〕〉反応というものは、人類を友と的に分けること、つまり、感情の共同体としてのわれわれの部族に属する人びとこの共同体の外部に属する人びととに、信じる者と信じない者とに、同胞と異邦人とに、階級の仲間と敵とに、指導者と服従者とに分けてしまうのである。

 

(中略)合理主義的態度を棄ててしまうならば、つまり、理性や論証や他者の意見などへの敬意を棄ててしまい、人間本性の〈より深い〉層を強調するならば、思考とはそのような非合理な深層に隠れているものの表面化にすぎない、という考えがみちびかれてこざるを得ないだろう。

 

それは、ほとんどのばあい、思考者の思考ではなく、その人間のほうを重く見る態度を生み出さざるをえない。

 

それは、〈われわれの血とともに考える〉とか、〈民族の遺産とともに〉とか、〈自分たちの階級とともに〉考えるといった信念をみちびく。

(読みやすいように改行、強調をいれた)

 

 では、また、次の本で。

 ズンダでした!

※誤字脱字、論旨のおかしいところがあれば直すのでいってください。

 読書案内

 

この本に関しては下で紹介してます!

zunnda.hatenablog.com

 

先ほど紹介したポパーの本です。今年、岩波文庫で新訳がでました。

大変読みやすい本です。

 

 

 

 

 

 

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私ズンダ、弱者男性なのでお金がありません。しかし読みたい本はいっぱいある。

ということで、みなさまからの芳志を募っております。

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