はじめに
みなさん、こんにちは。
ズンダです。
今日は哲学者、千葉雅也氏の『勉強の哲学』という本を紹介したいと思います。
勉強を哲学するというとややこしくきこえますが、この本は非常にわかりやすく勉強について説明してくれています。
勉強をすることで私たちはどのように感じ、どのように変化していくのかが語られています。
更に、勉強してしまっている人が陥りがちなワナにも触れられています。
ではみていきましょう。
勉強とは自己破壊である、とは???
勉強のマイナス面
いま、立ち止まって考えることが難しい。
溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが難しい。
本書では、そうした情報過剰の状況を勉強のユートピアとして積極的に活用し、自分なりに思考を深めるにはどうしたらいいかを考えたいのです。
SNSをみていればわかるように毎日のように何らかの事件やバズがあり、インフルエンサーを筆頭に多くの人たちがそれに過剰なほど反応して、一つか二つの話題に群がり、それぞれの考えを呟く。
そんな状態が続いています。
ここで千葉氏はそれを利用しつつも「有限化」してみてはどうか?といいます。
ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。
それが大事ではないかというのです。
また勉強に関しても全く勉強してない人などいないといいます。
誰だって毎日、何らかの勉強はしているものです。
それは座学じゃないだけで、仕事をしていれば新しい何かに出会い、反省し、学ぶことは多いでしょう。
これ自体がすでに「勉強」なわけです。
ただし、その「勉強」は立ち止まって「深く」勉強することとは異なります。
そしてこの「深い勉強」は「ノリが悪くなる」ことだといいます。
これから説明するのは、今までに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って「新しいノリ」に変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法です。
勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」がいったんできなくなります。「昔はバカやったよなー」というふうに、昔のノリが失われる。全体的に、人生の勢いがしぼんでいまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けているのです。
単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。
いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。
しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。
この第一段階、私ズンダはTwitterをみているとよくみかけます。
というか殆どがこの第一段階です。Twitterにおけるフォロー/フォロワーの関係は常に「ワイワイやれる」ばかりでしょう。
内輪ネタが多い。そのネタが舞い込まれる度に反応し、FF内でRT、共有しあいみんなで騒ぐ。
端から見ると「バカちゃうか」とおもってしまうものばかりです。
しかし、なんでこうなってしまうのでしょう?
ここで重要なのは「勉強は自己破壊」です。
勉強は「自己破壊」につながる
「勉強は自己破壊」とはどういうことか。
私たちは勉強と聞くといいものだとおもいますよね。
学校における勉強、点数があがり成績がよくなり、親や先生からほめられ、クラスメイトからは羨望のまなざしでみられる。
進路も自由に選択できるようになるし、大企業に勤めることができる。
ハッピーじゃないか!と思う。
しかし、千葉氏は「むしろ勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブに捉えたほうが、むしろ生産的だと思うのです。」
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは、「自由になる」ためです。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。
私たちは、基本的に、周りのノリに合わせて生きている。会社が学校のノリ、地元の友人の乗り、家族のノリ・・・・・・そうした「環境」のノリにチューニングし、
そこで「浮かせない」ようにしている。日本社会は「同調圧力」が強いとよく言われますね。
「みんなと同じようにしなさい」―それは、つまり「ノリが悪いこと」の排除です。
「出る杭は打たれる」のです。
しかし、勉強は深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではありません。深い勉強なんです。それを本書では、「ラディカル・ラーニング」と呼ぶことにしたい。
要するに、私たちはその環境における「共有」している「共感」のような世界のノリで楽しんでいる時間がある。あるいはそういう時期がある。
ところが「勉強」をしだすと、その「ノリ」はなくなってしまうわけです。
新しい技術を学ぶ、知識を得る。すると、世界の見え方は変わります。
たとえば、私ズンダも昔、簿記だの宅建だのの勉強をしたことがある。
すると、貸方借り方によるお金の把握が可能になったり、民法や建築物の立て方、素材、市への申請などを学ぶことで現実の見方がいっきにかわる。
別にこういった実用的なものだけでなく、哲学書などでもいいですが、
何かを学んでいくと「今までの自分と異なる存在」に自分がなったのを感じるわけです。
すると、今までの「ノリ」ではもはや「笑えなくなる」「楽しめなくなる」のですね。
これが「自己破壊」です。
そして付き合いのあった人たちからは
「なんか、変わっちゃったね。《ノリが悪いね》」
となってしまう。
これを「コード」と千葉氏はいいます。
その環境における「目的的・共同的な方向づけ」のことです。
AといったらBとかえす。
BといったらCとかえす。
こんなその狭い界隈にしかないようなやりとりがあるでしょう。
そういったコードが「勉強」によって破壊されていく。
友人関係がかわってしまうかもしれない。
よって、千葉氏もノリを壊したくない人には本書は必要ないというわけです。
人生の生き方はそれぞれです。
別にノリによって生きていきたければそれでいい。
なんなら、そのほうが上手い生き方といえるかもしれない。
第一段階、ノリによって生きる状態から第二段階へいき、第三段階へいこうとする人にとって本書は価値があるわけです。
言語によって人間はとらわれている
自分をかえる「勉強」の方法とは?
千葉氏がいうには人間は「言語」によって則られていると言います。
言語を使えている、すなわち「自分に言語がインストールされている」のもまた、他者に則られているということなのです。
これは結構ピンとくる人もおおいのではないでしょうか?
Twitterでバズった「用語」、バズった「話題」などは言語を介して流行っていきます。
このとき、日本人である私たちは「日本語」でバズったものに反応し、何かを呟いている。あるいは呟かされているともいえるわけですね。
ここで思うのは英語、ドイツ語、フランス語、中国語でバズっているものを私たちが話題にすることは殆どないということです。
それを思えば言語によって私たちは左右されているというのもわかりやすいのではないでしょうか。
しかし、これは同時に
「言語を意識することで今バズっているものとも《距離をとれる》」
ことを意味します。
したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して「距離をとる」ためのものでもある
勉強とは、別のノリへの引っ越し
第二段階とはこの引っ越しの状態を意味します。
そしてそれはさっきも説明したように「距離をとる」ことを可能にする「言語」の力によっておこなうことができる。
新たな環境では、新たな言葉のノリに慣れることが課題となる。ものの名前、専門用語、略語、特徴的な話の持っていき方・・・・・・。その環境ならではの言い方をわざわざしなければならない。これまでのノリならこんな言い方=ものの見方はしない。そういう違和感があるでしょうー「わざわざ言っている感」がある。
新しい勉強をすると、新しい言葉を学ぶ。それを使う。
すると、何か違和感がある。
どういった場面で使うべきなのか、助詞や名詞などのコロケーションは何なのかがわからない。こういった状態を「言語の不透明性」とよびます。
ここで千葉氏は言語の使用法を二つに分けます
・「道具的」な言語使用
・「玩具的」な言語使用
前者は「塩とって」のように「依頼」し相手に何かして貰うための目的を果たすための使い方をした言語のことです。
外部に何かして貰う目的があっての言語です。
後者はダジャレや早口言葉のようにたんにそう言うために言っているという言語使用です。これはその言語をいうことを目的としてそれ自体のためだけにある言語です。
この二つを使い、ノリを打破できるといいます。
道具的な言語使用は我々が普段つかっている言葉です。
つまり、いつものノリです。
これを破壊するにはあえて不透明な言語であり、それだけで目的を果たせる「玩具的な言語使用」を多用するようにすればいいのです。
とうぜん、道具的言語の使用回数が減ればその世界のコードやノリからはなれることにつながります。これがまず第二段階目の自分がひきさかれるような状態にいたる道です。
こうすることで、普段のノリ、普段の言語から自分を解き放つことにつながり、「自由」への道を走ることができるようになるわけです。
この状態は言語偏重な人になるということです。言葉だけをいじって、自分をかえるわけですから。
アイロニーとユーモアを使えるようになれ
ノリを破壊するために
当たり前ですが、ノリからはずれたあなたを人々はキモイ人としてみることになります。
浮いた人のことです。
キモくなったあなたはどういうふうになっていくのか?
ここで千葉氏はツッコミ=アイロニー、ボケ=ユーモアと定義します。
勉強して浮いた人が、その界隈とは別の人間になります。
今までのノリでは自分はもう笑顔になれない。
そして、その人がその界隈に際会したとき、その界隈のノリに対して何をおこなうか?
ツッコミとボケをするようになるのです。
これはわかりやすいですね。
学年がかわったり学校がかわったりすると、今までのノリと異なるノリを身につけてしまう。
すると以前の友人などとあっても、もはや話があわなくなっている。
そこで、ツッコミやボケをしてしまうわけです。
「なんでやねん」という一言も、同じノリのなかでは浮かびませんが、違うノリにいれば簡単に意識的にでてきます。
あるいは普通に話しているつもりでもノリがかわったので自然に「ボケ」がでてきてしまう。
これが今までいた界隈、環境のノリから離れてしまったということです。
これを「コードの転覆」といいます。
要は客観視することができるようになったということですね。
私たちは人のやっていることは案外わかりやすい。
岡目八目というように、他人の試合をみているほうがその失敗や欠点に気づきやすいモノです。
ノリからはずれた人は「メタな立場に留まる」ことができるようになります。
メタとは高次のこと、この場合だと人々が楽しんでいるノリを上から見下ろすようにしてみることです。
すると、彼らが何を楽しんでいるのかを分析できるようになります。
ノリと距離をとることで冷静に観察するというわけです。
こうして己に対してボケ&ツッコミをしつづけることで、ノリからの解放へ話がすすみます。
ナンセンスという「やりすぎ」はしてはならない
ここで千葉氏はナンセンスという「極限形態」を紹介しています。
これは、アイロニーとユーモアの延長線上にあるものです。
要するに「やりすぎ」のことですね。
この「やりすぎ」はやってはいけません。
あくまで千葉氏が紹介している理由は「ナンセンスをしっていれば、その下の状態までで留まることが出来る」からです。
ここでいうアイロニーとユーモアはやりすぎてはいけません。
アイロニーはやりすぎると、全てを否定するだけになってしまいます。
こうなると「言語なき現実のナンセンス」になってしまい、我々は何も語れなくなります。
ユーモアはやりすぎると「拡張的ユーモア」、「縮減的ユーモア」の二つにわかれます。
どちらも「やりすぎ」て誰も理解できない状態になることです。
当人は話がつながっているつもりで、たとえば、音楽の話が、フランスのトイレ事情の話になり、プログラミングの話になり、ムエタイの話になる・・・・・・ずっと元の話のままでありながらの「変換」としてこんな展開をすることが、できると言えばできる。
コードの不確定性(ズンダ注:コードをあえてずらすことがノリから解放される方法だが、それぞずらしつづけるどこへも到着できなくなり、ただ逆張りしているだけの狂人になることを意味している)を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。(中略)ユーモアの極限は、「意味飽和のナンセンス」です。
つまり、ユーモアもある程度までならば理解できるので笑える話、面白くみえるのですが、度を超すと単なる異常者にしかみえない。理解不能に至るからです。
困った視聴者は「縮減的ユーモア」をしている
私ズンダも放送をしていると分かるのですが、困った視聴者というのがいます。
こういう人は自分の話ばかりする。
最初は面白いから私もきいているのですが、どんどん自分の話、細かい話だけをしはじめる。
それは他の視聴者たちにはどうでもいい話なはずです。
この手の人は正に「ナンセンス」状態になっているわけです。
本書の言葉を借りれば自閉的な「縮減的ユーモア」とよばれるものです。
たとえば、誰かが『ドラゴンボール』を「懐かしいよねー」と言い始める。どのキャラが好きだったとか、想い出の場面とか、テンポよく話が流れていた。ところがその途中で、こんな発言が始まる。「ヤムチャと言えば、“負けキャラ"だよね、悟空に負けたときはどうでこうで、それから何々でも負けて、あと天下一武道界で天津飯に負けたときは、あの闘いは・・・・・・」
Twitterでこれに似た人物が多々使われることがあるので知っている人もおられるかもしれません。
このように本人しか楽しいと思っていないような話をずっと繰り広げてたりしてしまうのです。
私はこの「縮減的ユーモア」がもっとも多くの人がやりがちなミスだとおもいます。
自分の話をしすぎ、という欠点はビジネス書などにも必ずかいてありますが、これに等しい。
ただし、千葉氏の本ではそのユーモアは自己破壊の途上ででてきてしまうことが見逃すべきでない点ではあります。
固定しながら変化せよ
私たちは「勉強による自己破壊」を学んできました。
そこで、ボケ&ツッコミにより「ノリを壊し、新しい自由、新しいノリ」を学び、メタ視点を手に入れ、自由自在に変化する方法をしりました。
ところが、やりすぎると、自分がそれをいってるだけで気持ちよくなっている「享楽的な語り」といわれる状態で人と接するはめになってしまう。
千葉氏はそれを自分だけがノっているだけの最悪なノリといいます。
そのノリは決して固定的なものではなく、あえてそれにもツッコミをいれることで、変化をうながすことができるはずだというのです。
実際、これが勉強ということでしょう。
ノリにうつっていくなかで私たちはまた硬直してしまう。
ですが、そこから更に勉強をしつづけることでまた変化しつづけられる。
勉強とは自己破壊であり、そしてそれは死ぬまで続くものなのです。
ちなみに本書の補完として『メイキングオブ・勉強の哲学』という本がある。
これは、この本をどうやって構成していったかが書かれた本であり、電子書籍版でないものだと「資料」がついている。
私は書籍本でもっているが、電子版よりも紙書籍のほうがいいとおもわれる。
ブロガーにはこっちの本もいい。
終わりに
さて、いかがだったでしょうか。
私はこの本を読んだのは半年以上前でした。
今回紹介した理由はTwitterというものがこの本にかいてあるようなノリだとおもったからです。
タイムライン上に並ぶバズった話題、それに反応する人々は千葉氏が指摘するボケやツッコミなしの「ノリ」。
他の界隈がそれに対して「ボケ」や「ツッコミ」をすることで更に「ノリ」が拡大し、「ノリノリ」になっていってしまう。
この記事では紹介できませんでしたが、第三章以降はこの「ノリノリ」をどう防ぐのか。
私たちはユーモアやボケをどう調整していくべきなのかが語られており、超重要な箇所となっております。
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