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私たちはどのようにして学習しているのか?福島真人『学習の生態学』(筑摩書房)を紹介する!

書影

 

はじめにー言語化の変遷ー

 

ここでは学習の生態学で私ズンダにとって必要かつ面白かった箇所を
まとめておきたい。

 

NOTEでも書いているように私は言語化という言葉が
どこからきたのかをかいている。

note.com

 

NDLで検索すれば直ぐにでてくるが、日本に於ける「言語化」の
最初の使用例は大正時代における「新教育運動」の人々である。

ja.wikipedia.org

 

しかし、現在、Twitterで使用されている「言語化」には
彼らのような思想は全くない。そもそも「新教育運動からきている」という
認識自体をもっている人は、私以外、誰もいないだろう。

 

今の「言語化」という言葉に不可思議を感じ、それを調べて書いた人物が一応の所、私以外にいないからである。


上記の文は①医療系②広告系からきたものではないか?と示した文だ。

私自身も「言語化」という言葉を使用したことはあるが、
Twitteryoutubeなどでの使われ方は単なる「説明した/解説した」
ですむような用例が多いと感じるようになっていた。

 

それをわざわざ「言語化」と呼ぶことに何の意味があるのか不可解だったのである。
すると考えられるのは「誰かがどこからか拾ってきて、ネット上で広まった単語」なのではないか。


ここでは「言語化とは何か?」について語るわけにはいかないので
リンクから飛んで読んでもらいたい。

 

言葉で表現できないとは?暗黙知の問題

 

さて、今回の『学習の生態学で私が気になったところは


マイケル・ポランニーが述べた暗黙知についてである。

 

この「暗黙知」の意味は「ことばにできない能力」を指す。
言語化」はあらゆることを言葉にして職人や専門家がもつ能力を説明する意味で利用されているが、
暗黙知はこれとは逆で「表現できないもの」をいう。

 

この「暗黙知」自体は有名な概念であり、聞いたことのある人も多くいるだろうが
私が『学習の生態学』を読んで知ったのは暗黙知」を意識した後世の学者が
どういう研究をせざるを得ないはめになったか、ということだ。

 

つまり、「言語化」できない諸処のことは学問的に解明も記述もできない。
だとすれば「どこまでなら書くことが許されるか?」を前提にした人々が現れたのである。

 

 

 

 

・ポラニーは自転車にのったり、X線写真の曖昧な図から肺癌の影を見いだしたりを
専門家の技能や熟練について上手く語ることができないという。

 

・無意識の技能に注目するとそれがかえってできなくなる。
楽譜をみながらピアノを弾くピアニストに鍵盤をみてもらいながらひいてもらったとすると、意識してしまい、逆に弾けなくなる。

 

・何かをすることができる能力を詳しく説明することはできない。
これを「詳記不能」という。

 

ここまでポラニーの「暗黙知」を知っていれば常識的な内容におもわれる。

 

しかし、ここからは違う。

 


・「膨大な慣習や、認識への個人的情熱に支えられているという事態を明らかにする事であった。当然この主張は、非明示的な(あるいは語り得ない)慣習、技能、熟練およびそれらの教育、伝達といったものの認識論的な重要性に我々の関心を向ける事になる。
だが、問題は、ポラニーの主張が内在する、ある種の方法序論上の隘路である。我々の認識活動が膨大な暗黙知によって支えられているというのはいいとしても、それが詳記不能という事になると、一体それらはいかにして研究されうるのであろうか。」

 

と著者である福島は記しているように、ポラニーが暗黙知を提唱したために「人がはなしたことの正当性」が揺るがされるようになってしまったのである。

 

ラニーは次のようにいう。

 

・「分析は従属的知識を焦点にもたらし、それを金言ないし人相の特徴として定式化するかもしれないが、そうした詳記は一般に事態を尽くしていない。確かにエキスパートの診断か、分類家、綿の仕分け家は、その手掛かりを示し、金言を定式化する事はできようが、彼は自分の語るものよりもずっと多くを知っており、しかもそれらを実際的に―用具的な個別的要因として―知っているのみであって、明示的に、対象として
知っているのではない」

 

文中にある「金言」はmottoの訳語だが、この専門家から発せられる「金言」は彼の専門能力の実態を完璧に明らかにしたものではない。多くの何かがこぼれ落ちた「言語化」=「金言」なのである。

 

ここで大事なのはポラニーが民族誌的調査において言葉で彼らの行動や様式をききだしたとしても
それは彼らの言動の意味を理解することには限界があると指摘していることである。

 

民族誌とは

 

「諸民族の技能や習慣などの文化を具体的に観察して記述したもの。 ヨーロッパ人の世界進出が進むなかで異文化に関する知見が蓄えられて成立した。 比較のための材料を文化人類学民族学に提供。
」(コトバンク

 

のことだが、ポラニーの暗黙知を踏まえると、今までの調査方式で、本当に彼らのいわんとしていることを明解にできたかといわれれば否ということになる。

 

こうした記述への疑義を受け取った知識人達は「楽観論派」と「悲観論派」にわかれる。


著名なのは知識工学のファイゲンバウムと哲学者のドレイファスである。

 

楽観派代表ーファイゲンバウムの知識工学(積極的言語化)ー

 

・ファイゲンバウムは多くの専門家が蓄えた専門知識をデータベース化した。その判断を機械に摸倣させようとした。
こうしたシステムを「エキスパート・システム」といい、知識獲得、構成の方法を知識工学という。
スタンフォード大学のファイゲンバウムはDENDRALというシステムをつくる。
質量分析、核磁気共鳴、その他の化学分析データを入力すると、能率良く道の有機化合物の分子構造を同定してくれる
ものであり、有機化学者の能力を超えた成功を収めたというので注目される。

 

・フェイゲンバウムは専門的知識には二つあるという。
「教科書にのっているような教科書的知識」、もう一つは「専門家が実務経験によって培ってきた
経験的知識」である。

 

・知識工学者はその知識を機械に加えていってデータベース化すればいいと考えた

 

・そのために知識工学者は専門家に「インタビュー」しなければならない。知識を抽出するためだ。
ここで「暗黙知の問題」がうまれる。この専門家が述べていることは彼の能力の実態をすべて明らかにしたものなのか?
という疑義である。

 

 

・ファイゲンバウムは次のようにいう。「非情に穏健的なこたえであり、教科書的であり、実際の方法ではない」と。

 

・これを公的表彰(ある種の表象モデル)という。
表象モデルとは以下のようなものだ。

 

・我々は自分の行動を説明する際、建前のようなことをいってしまう。
ジャワの農村では、「儀礼をやるときは、自分の家の周辺の人々を均等に招く」という
説明を農民からきくが、実際は招待範囲は均等になってない。つまり、現実の行動ではない。
「一般的にそうなんだ」ということであり、その人本人はそうしてないのである。
ちなみに実際的レベルで人々の行動を規定しているモデルのことは「操作モデル」という。

 

・そのインタビューの欠点をわかっていたファイゲンバウムが考えたやりかたは
「一般的質問を避けて、専門家に特定のモデルケースになるような具体例をとりあげてもらい、実際にどういう
判断を行っているか、一つ一つ話してもらう、というやりかたであった。
すると「金言」とは異なる内容になった。ここで大事なのは専門家の手続きを観察することだという。

専門家が「このデータを使う」といっていても、それを使っていなかったり、別の段階で使うことがあったという。
要するに専門家は「自分が何をどうしているのかをわかっていないで喋っている」ということになる。

 

そして彼らは専門家のそうした思考形式もモデル化していった。

しかし、ここで厄介なことがおこった。知識工学者がまとめ、機械へ入力する改善されたプログラムをみた


専門家は自分の考えを変えてしまったというのである。


「これがあなたのこの問題に対する思考です」と差し出された人は

「それでは物足りない。別の考えがあるのではないか?」


と新たに問題を感じ、それに対しての答えをかえてしまう。こういうのを

「解釈学的循環」という。

 

示されたものを受け取ると、そこで解釈の余地がうまれてしまい、最初の判断とは異なる解釈をしてしまう。


私たちが十歳の頃に読んだ本を、三十歳のときに読んだら解釈は変わるだろう。
それと同じで明示されてしまうことで受取手は新たな解釈をしてしまうのである。

 

これは現在のAIの問題ではどうなっているのかしりたいところである。

 

悲観論代表ードレイファスの五段階モデル(消極的言語化)ー

 

悲観論としてはドレイファスが有名である。

 

・彼は熟練技術獲得の五段階モデルを提唱した。
この考えはなじみ深い人が多い。入門から専門段階になるにつれて、私たちは思考を介在させないで自動的に物事を処理できるようになるといった考えである。

そして専門家の「直感」や「勘」といったものは
言語化、機械に入力はできずに終わる。

 

ドレイファスは次のように言う。

 

エキスパートはビギナーの段階に後退して、覚えてはいるが自分ではもう使わないような規則を口に出すことになる。
そうして得た知識をプログラム化すれば、コンピューターならではの速度と正確さ、それに膨大な量のデータを記憶し
検索する能力のおかげで、プログラム化されたのと同じ規則を使う人間のビギナーを上回ることができる。
しかし、規則と事実をいくら寄せ集めても、何千、何万の状況について経験を積んだエキスパートの知識を再現する事はできないのである。

 

 

これはポラニーのいった「金言」や「表象モデル」と同じである。形式的で教科書的な凡庸なことしか
専門家はいえなくなっている。専門家自体が自分の能力を言語化できないわけだ。

 

むろん、知識工学者もそんなことはインタビューを繰り返していく内にわかっており、
それ故、彼らも「どこまでなら言語化できるのか?」を探っていったわけで、そんなに迂闊でもバカなわけでもない。

 

ここまできたところで、どのように「暗黙知」を扱うかで記述の仕方がうまれる。
ここからが私ズンダにとって面白い箇所だった。

 

暗黙知が前提の学問ーブルデュー

 

 

・ライル流の論理行動主義的な伝統に立脚して、そうした認知的な内部プロセスについての言明を避け、それを行動主義的(あるいは生態学的、社会学的)に還元していくか、それとも認知主義的な前提を維持しつつ、かつドレイファスのいうような、機械的な推論(規則主義的)と人間の認知過程の鋭角的な差異を意識しつつ、その認知過程について近似的なモデル、ないしはシミュレーションを行うか、どの方向を選ぶかという点である。

 

行動主義的な分析をすると「規範、技能、知識」は社会的な性格をもつとされ、それが順次「訓練」の過程によって「内在化」されるという過程が想定されることとなる。パーソンズの社会的規範の内面化やブルデューの「ベルベル人の家」という論攷などがそれである。


・この「ベルベル人の家」で語られたことは子供達は親や環境による躾によって自分たちを成長させることができるが、
自分たちでそれが何なのかを「言語化」できない。自分の行動の説明を自分自身で完璧に説明しつくすことができない状態がかたられており、これがブルデューの概念で有名な「ハビトゥス」や「文化資本」の書き方につながっているという。


要するに内的に自己の専門性や行動原理を表記することが不可能である以上、外部のせいにするしかなくなってしまったというわけである。

 

これを知ったとき、ちょっと驚いた。
というのもブルデューは一応、実証的にやっているが、暗黙知があり、それゆえ、自分の行動を記述できない


だから、「人の行動は環境に基づくものである」という推論だとすれば、この「暗黙知」という概念は別物に飛び移っているだけではないか?とおもってしまった。

 

論理が飛躍しているようにおもえるからだ。

というのも暗黙知」が何なのかわからないが、その「暗黙知」を前提にいれてしまう。


そして、その前提をもとに「文化資本をかんがえつく」というのはいくらなんでも無理がないか?

 

この辺り、ブルデューの研究者にでもうかがってみたいところだ。しかし福島氏の書き方をみているとそのように
感じてしまう。

そして次のようにかかれている。

 

基本能力+歴史的知識体系の総体がブルデューのいうハビトゥスだが、この基本的な能力について、彼は「認知的」といった言葉を使用しつつも、その内部過程については決してモデル化しない。
それを表現する際に、彼がライルから借用した「傾向性」(disposition)という用語を多用するところからも、ブルデューハビトゥス概念には、常に行動主義的な含意があり、いくら「認知」を語ったところで、
それは本質的に認知主義とはあいいいれないものである。

 

 

というように行動主義的な記述はこうしてみると「曖昧なことなので曖昧にかけてしまう」という欠点をもっているようにおもえる。そこに論理の杜撰さが亀裂となってあらわれてもおかしくない。

 

一方で「暗黙知」を前提とすると、行動主義にならざるを得ず、知識工学系は不利である。

 

終わりにー言葉に出来なくても、モデルがなければ行動主義は意味をもたないー

 

ここで福山はいうのは民族誌などをつくるためにインタビューをしたとき


「ただ公表するというのではなく、我々が追求する暗黙知との構造との関係で、どのように位置づけられるかという、
その認識論上の座標を明確にする事なのである」という。

 

環境派のいうとおりすれば、記述主義の山だらけ、現象学的な瑣末主義に頽落していくだけであり、
それを防ぐために認知科学的なモデル思考が必要となる、と福山は述べる。


私が以前から紹介している
アンダース エリクソン ロバート プール 『超一流になるのは才能か努力か? 』のような本はこの「暗黙知」で等閑視されていたものをいかにして言葉にするかということをしてきた本なのかもしれないと


『学習の生態学』をよんで改めて思ったのであった。

 

 

ちなみにこの本は医療現場や原子力発電などの失敗すれば直ちに人命にかかわる現場においてどのように学習をおこなっていくのか?について書いてある本である。

 

今回私がまとめた部分は自分の興味関心のあるところだけだが、他ももちろん面白いので読んでみるとよい。

 

なお私ズンダ、貧困にて、本や飲み物などをカンパしてくださると助かります。

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