民主主義ってなんだろうか?
こんな問いから始まる本を以前も紹介しました。
この数ヶ月間で講談社新書、岩波新書と「民主主義」に関する本が出続けています。
どの本も私ズンダは読過していますが、それぞれ路線が異なります。
講談社新書は歴史を交えながら古代ギリシャから現代民主主義までを幅広くとりあつかっています。
岩波新書は空井護氏による民主主義への思いが強く反映されており、学者らしい四角四面な文によって構成されています。
※岩波の新書は教科書的というよりも、筆者の思想を強く打ち出したものが多い。
では、今回紹介する本、山本圭『現代民主主義』(中公新書)はどうなのか。
中公新書の本は基本的には筆者の個人的な主観に偏った本は少なめです。
この『現代民主主義』という本も民主主義について語った思想家達の概説を書くに留めています。
そのため民主主義の概要を把握するには簡便な本であるといえるでしょう。
今回は現代思想における民主主義論をみていくことにしましょう。
現代思想は「政治思想分野」とは棲み分けがされており、お互いには交流がないどころか批判的にみています。
山本氏によれば「政治学研究者は現代思想の議論を抽象的な言葉遊びであると考え、反対に現代思想の研究者は政治学研究をそのつどの現象を追いかけた皮相的な議論をしていると思いがちである」とのこと。
氏は両者とも「問題関心は明らかに交差している」のであまりにも勿体ないと記しておられます。
では、みていきましょう。
民衆は政治に参加できているのか?
ージャック・ランシエールの民主主義論ポスト・デモクラシー
ランシエールは冷戦が終結し、共産主義の敗北し、民主主義の勝利が決まった後、「民主主義に民衆は参加できていない」という批判をします。
彼は職業政治家や行政官僚によるエリート支配が進んでいるといいます。
そして、人間が共同に存在する2つの様式、「ポリス」と「政治」とに分けます。
ポリス:
集団への参加と同意、権力の組織化、地位と職業の分配、この分配の正当化のシステムなどが働くプロセスの全体
要するに国家や行政といった統治の部分ですね。
これに対比されるのが「政治」です。
政治:
当事者を決め分け前があるかないかを決める感性的なものの付置を、定義状その付置の中に場所をもたぬ前提、つまり分け前なき者の分け前という前提によって切断する活動である
要するに現行の支配秩序に対して異議申し立てをするのが「政治」というわけです。
ランシエールはティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』のなかから、貴族に対して声をあげた平民達の逸話を引きます。
貴族達から相手にされていなかった平民達は「政治」を行ったのです。
そうすることで彼らは自分たちの要求を貴族に突きつけた。
私たちの声を政治家に届けるという活動。
こういうのをランシエールは「政治」とよんでいるのですね。
代表制は民主主義ではない
ランシエールは代表制を民主主義と見做してはいませんでした。
代表制は寡頭制、少数者による支配でしかなく、「身分、階級、財産」で代表が決まっているからです。
そこで彼は「くじ引き」に注目します。
古代ギリシャでも役職がくじ引きで決まっていたように、本当に平等なのはくじ引きだと考えるのです。
それはランシエールだけではなく、ダーヴィッド・ヴァン。レイブルックも『選挙制を疑う』で抽選やくじ引きなどのほうが平等なのではないか、といっています。
このように、冷戦後の民主主義論は、「一見すると、民主主義が実行されているように思える。しかし、そこに民衆の姿はあるのだろうか?」という疑心があります。
エルネスト・ラクラウーラディカル・デモクラシーとポピュリズム
勢力を失った左翼が新自由主義と闘う!ポスト・マルクス主義へ
討議民主主義を唱えたシャンタル・ムフと共に共著を出したアルゼンチン出身の政治理論家エルネスト・ラクラウもその一人でした。
彼はアルゼンチンで政治活動をしていました。
彼らは『民主主義の革命』において、既存のマルクス主義とは異なる「ポスト・マルクス主義」を主張します。
右派による新自由主義政策が勢力を伸ばしたことで、左派の存在感はなくなっていきました。
というわけで、左派はムフとラクラウはマルクス主義の更新を図ります。
マルクス主義の世界では階級や経済的立場によってその人の考え方が決まる、という階級還元主義でした。
人間の捉え方が単線的だったわけです。
ポスト・マルクス主義はそれを否定します。
人間は社会や人との関係性によって自分たちの行動や態度を変化させている。
決して、不変なのではない、というのです。
たしかに私たちも上司なのか部下なのかで、相手への言葉遣いや態度を変えてますよね。
相手との関係性で自分を柔軟に変化させています。
マルクス主義ほど固定化されてはない、わけです。
結節点ー仮留めの思考ー
とはいっても、完全に固定化されていない、かといえば嘘になるでしょう。
その人の性格や決まった状況(職業や家族、友人関係)などはあるからです。
これをラクラウとムフは「結節点」と呼びます。
引用します。
意味の最終的固定性が不可能だということは、部分的な固定化はなければならないことを含意するーさもなければ、差異の流れそのものが不可能になるだろう。意味をこれまでとは異なったものにし、転覆させるためにも、何らかの意味がなければならない。(中略)こうした部分的な固定化の特権的な言説的地点を、私たちは結節点と呼びたい。
要するに、こういうことです。
A地点からC地点まで行きたいとしましょう。
A地点には東京タワーがあり、C地点にはスカイツリーがあります。
よって、あなたはC地点にいくためにスカイツリーを目指せばいいわけです。
ところで、もしA地点、C地点という記号だけだとしたら、あなたはAからCまでいくことができますか?
A=東京タワー
C=スカイツリー
と私ズンダが指定したことによって、「ああ、場所は東京なんだな」と特定できたわけです。
このように、何かを把握するためには必ず固定化されたものが必要なのです。
それが、結節点です。
そしてこの完全に固定化された結節点のことを彼らは「社会」と呼んでいます。
「社会」は一時的には固定化されていますが、時代を経るにつれて、徐々に変化していきます。
コロナ禍以前とコロナ禍を考えてみればわかりやすいでしょう。
そして、コロナ後といわれている「社会」も時間が経てば、また別の問題が生じ、変化していきます。
このように結節点は「一時的な固定」であり、完全に固定化されることは現実ではありえません。
それゆえ「社会」とよばれるものは「社会的なもの」呼ぶようにいっています。
さて、この考え方をみれば、ラクラウとムフがマルクス主義を更新しようとした理由がわかるとおもいます。
マルクス主義においては「階級闘争」が結節点として固定化されていたからです。
しかし先ほども記したように「完全なる固定」が存在し得ない以上、「階級闘争」という結節点も時間が経てば問題にならなくなります。
実際、中流階級が増えたことで「階級闘争」をする必要がなくなりました。
そのため、マルクス主義の人気はなくなっていったわけです。
これはまさに、世の中の流れが変わったためでしょう。
社会は変化する以上、常に「社会的なもの」でしかないのです。
その流れを意識しないことは欠陥であったわけです。
差異の論理と等価性の論理
さて、結節点から次の概念が導き出されます。
・差異の論理
諸要素を組織し、意味の空間を安定的に縫合しようとするものをいう。
・等価性の論理
「差異の論理」にたいして差異を不安定化するものを「等価性の論理」といいます。
ちょっとわかりにくいかもしれません。
本書の図をみてみましょう。
本書より
差異の論理はそれぞれが疎らな状態を意味しています。
ところが等価性の論理はE=敵がおり、ESに対しての要求Dは等しく扱われています。
これはEという敵を作り出すことで、DのESに対する要求を等価にしているのです。
つまり、一致団結させるために「今はまとまろうよ!」と呼びかけるのです。
大同団結みたいなもんですね。
もっとわかりやすく例え話を交えてみましょう。
例えば、日本だと
「公務員は国民の税金を使って飯をくっている。民間の給与は下がっているのに、公務員の給与はあがりつづけているのはおかしい!」
という話をよく耳にしたことがあるでしょう。
ここで公務員=仮想敵、が形成されます。
すると、その政治家が行っている他の政策がおかしいものだとしても、馬鹿な国民は「公務員を叩いているから、この人の他の政策がおかしくても、この人を支持しよう!」と考え始めます。
この段階で、様々な団体や人々がもっていた要求Dは公務員を叩くことが重視されるので、控えめになります。
人々は仮想敵を叩くためにまとまるからですね。
批判を軽減させることに成功しているわけです。
こうした様々な不安定化していた各々の要求Dの差異をなくしていくこと、これを等価性の連鎖とよびます。
そして、そうやって様々な集団や団体を集めていくことを「ヘゲモニー」といいます。
もともとはイタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシの概念ですが、ポスト・マルクス主義者の彼らもこれを受け継ぎます。
この「ヘゲモニー」を使うことでラクラウたちは、大規模な社会運動を起こしやすくなると考えました。
つまり、人々を連帯させ、社会問題に集団で立ち向かわせるやり方として、差異の論理や等価性の論理といった用語を用いたわけです。
環境運動やレズビアン運動、夫婦別姓やフェミニズ運動などが事例です。
これらはラディカルデモクラシーとよばれています。
引用します。
階層的社会の再構築の企図に直面して、左派にとってのオルタナティヴは、みずからを民主主義革命の領域に全面的に位置づけ、抑圧に抗するさまざな闘争のあいだに等価性の連鎖を作り上げていくことにこそある。
それゆえに左派の課題は、自由民主主義的イデオロギーを否認することにあるのではなく、むしろ逆にラディカルで複数主義的なデモクラシーの方向にそれを深化させ拡充していくことにある。(太字はズンダ)
要するに、マルクス主義者は民主主義を否定してはいけない。
むしろ、民主主義の体制下で問題を掬い上げ、民衆を扇動し、1つの旗頭のもとで社会運動を起こし、世の中の問題に対して、協力して闘っていこうじゃないか!
これがポスト・マルクス主義なのだ!と提案しているわけです。
ポピュリズムには民主主義の根源がある
さて、ラクラウは前述した提案をしていましたが、
これが拡大伸張していき、「ポピュリズム論」にまで及びます。
ラクラウのポピュリズムを山本氏は次のように説明しておられます。
ポピュリズムとは何か。それは「人民」(people)」の構築にかかわっている。
ここで人民とは、何か所与の利害関係を共有するグループや、国民や民族のような強い同一性によって規定された集団ではなく、むしろヘゲモニーによる政治的実践を通じて構築された集合的アイデンティティ(「私たち」)というアイデンティティ)を指している。
したがって、それは厳密に政治的プロジェクトの産物であり、そのかぎりでいかなる本質主義的な構成単位とも無援な政治的アイデンティティである。(太字はズンダ)
要は政治的要求を基に1つの集団になって、闘う人民達の運動、それがポピュリズムなわけです。
保守主義とラクラウとの差異
少し述べておくと、ラクラウは保守主義者ではないので、民族や人種などによる結束を度外視していますね。
保守主義者にとってはナショナリズムこそが共同体の紐帯になるので「本質主義的な構成単位」がむしろ重要なのですが、ラクラウのようなポスト・マルクス主義者にとっては、そこは大事ではありません。
何を拠り所にするかの違いがあるわけです。
↓今月でる新刊。否定されがちな「ナショナリズム」だが、これがなければ民主主義は成り立たない。そんなことが書いてある本。発売後に紹介します。
ポピュリズムこそが民主主義である-ポピュリズム批判する知識人の狙い-
民衆を1つにまとめ上げて政治的要求をもとに大衆運動を起こすこと、それが「ポピュリズム」です。
もともとポピュリズムは腐敗したエリートによる政治を糺し、人民主権への回帰を唱えるものでした。
それゆえ、ヘゲモニーを使って、民衆同士の連帯を図り、政治的実践を行うこととポピュリズムには何ら差異はないわけです。
というよりも、民主主義の中には間違いなくポピュリズムは含まれているといえます。
そもそも、そこに住んでいる人々の意志や要求が無視されてもかまわないのであれば、なんのための民主主義なのでしょうか?
ポピュリズム批判は、一部のエリート達による独裁を是認しているようなものでしょう。
知識人が「ポピュリズムは問題だ」というのを聞いて、皆さんはどう思われるでしょう?
知識人側に立って同意する人がいるでしょう。
世の中には、自分が凡夫なのにもかかわらず、傑出した人物に同意することで、「自分も傑出した人物である」と思いたい人がいるからです。
しかし、知識人側はあなたのような一般人と違って、基本的にはエリート集団です。
生活に困ってもないし、何なら政治家や官僚と癒着し、自分たちだけが甘い蜜を吸って生きているような人もいます。
そんな彼らのポピュリズム批判に一般大衆が同意する意味などあるのでしょうか?
彼らがポピュリズム批判をしたとき、自分たちの権益を守りたいだけなのかもしれないのですよ。
そう考えると、単なるポピュリズム批判には、何か裏があると考えるべきでしょう。
「空虚なシニフィアン」を用いて、等価性の連鎖をひきおこせ!
さて、ラクラウは『ポピュリズムの理性』という本で大衆運動を起こすために等価性の鎖を象徴するものが必要だといっています。
彼は具体的な中身のない形骸化した言葉に求めます。
たとえば、「正義」や「自由」や「平和」といった言葉です。
まあ、邦楽の歌詞でもいいし、ちょっとした演説などでも頻繁に目にする言葉でしょう。
あまりに使われすぎていて、胡散臭い用語にしかみえなくなっているぐらい陳腐な一群ですね。
ただし、陳腐だとしても、これらの言葉は私たちのココロに突き刺さります。
こういう使い古されていて、中身はない。
しかし、なぜか魅力がある言葉を「空虚なシニフィアン」とラクラウは呼んでいます。*3
ラクラウは「空虚なシニフィアン」は、人々を駆り立てる1つのスローガンの役割を果たすと考えたのです。
「正義のために闘おう!」
「自由のために闘おう!」
「平等のために闘おう!」
どうですか?
なんとなく、闘いたくなってきませんか?
何が正義で、何が自由で、何が平等なのかはわかりません。
けれども、ココロが沸き立ち、動きたくなる。
こういった「空虚なシニフィアン」で人々の間に等価性の連鎖をつくり、自分たち民衆の要求を政治家に呑ませるような連帯感を生ませる。
これがポスト・マルクス主義の思想家ラクラウの実践的な政治の在り方でした。
ラディカル・デモクラシー(急進的な民主主義)といわれる所以ですね。
左派ポピュリズムの戦略
ラクラウは2014年に死んでしまいます。
彼と共著者であったシャンタル・ムフは、今の先進国をみて「ポピュリスト・モーメント」の時代が来た、といっています。
ムフの主張は下記の通りです。
・新自由主義による緊縮政策によって、中流層は下層へこぼれ落ちた。
・左派はポピュリズム戦略に訴えて、既得権益(エスタブリッシュメント)に対抗し自由民主主義を回復しなければならない。
おもしろいことにムフは1980年代には、社会主義の戦略をといていました。
ところが、今では「民主主義をとりもどす」ためにポピュリズム戦略を取ろうとしています。
私たちのように理論家や思想家でもない人々は「社会主義」とか「民主主義」とかにあまり固執する必要はないと思います。
*4
問題は私たちが自由で平等で幸福に生きることができるかどうかに重点をおくべきでしょう。
そこに「○○主義だから、ダメなんだ」という考えはおすすめしません。
「僕は金融資本主義を支持しているので、日本人の大多数が貧乏になっても、食いっぱぐれて、死にそうになっていても、その結果、日本の国力が弱体化しても、OKです!」
という、こんなアホな帰結を招きかねません。
あなたは思想のために死ねる人間ですか?
そうでないのなら、こんな考え方は捨ててしまいましょう。
終わりに
今回は左派による民主主義論を紹介しました。
特にラクラウについて詳述しましたが、理由としては次のような動機があります。
①民主主義国家の人間として、自分たちが政治に参加しているといえるのかを知ってもらいたかった。
②本記事を読んだ政治活動に興味のある方々に、どうすれば人々をまとめて、政治的影響力をもてるようになるのかという思想を知ってもらいたかった。
記事中でも触れましたが、ヨーロッパやアメリカではコロナ禍というもあって、反緊縮的な思想が一段と力をもち、「財政制約のせいで何もできない」という緊縮思想に一穴が入り、こぼたれています。
しかしながら、日本では未だに緊縮的な発想が政治家や知識人を覆っており、多くの一般大衆を苦しめています。
そこで反緊縮思想家の活躍が望まれるところですが、あまり一団としての力が発揮できていないように思われます。
本記事で紹介したようなラクラウのような理論をもって、政治の渦中に突っ込んでいき、政策の主張を訴えていってもらえたらなあ、という思いで記事をかきました。
購入ポイント-気になっている人へ-
下記に当てはまる人々にはおすすめできます。
①様々な民主主義の考え方について教科書的に知りたい人。
②現代の最新民主主義論について知りたい人。これは類書にはない。
③これから大学生になり、政治の勉強をする人
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
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ブログの更新頻度にかかわります。
*1:以前にも記したように先進国は経済的に豊かになり、左翼のマルクス主義は説得力をもたなくなっていた。
そのため、左翼は文化左翼の方向に舵を切り、経済を語らなくなっていった。
文化左翼はマイノリティについての言説を主とするので、マジョリティ側の支持は得られなくなる。
結果として、存在感が失われた。
まあ、マジョリティ側からすれば、「文化リベラルが、我々を無視しているのが悪い」という気持ちだろう。
*2:ちょっと古いアニメになるが、『宇宙のスティルヴィア』や『舞姫』といったアニメはこの話にそっくりな芸当をやっている。
敵対していたメンツが共通の敵が現れるやいなや、一致団結し、自分たちがもっていた個々の要求Dを控えるようになる。
これこそまさに、等価性の連鎖といえる。
たとえば、「海」という言葉。
これを「シニフィアン」といいます。
そして、「海」と聞いて想像される事々を
「シニフィエ」といいます。