noteの文章を同じものである。

・オープンもしくはXマッチ中に挨拶してくる人物がいる。ほぼこちらが負けたときにだけ挨拶してくる。こちらが勝ったときに挨拶してくる人物は殆どいない。いやらしい性格である。
・負けた際に、「武器が弱い」「利敵行為といっていいぐらいに弱い」「編成がおかしい」と通報していても任天堂からBANされることはない。任天堂側が用意している以上、プレイヤーだけの責任にはできないから。
・夕方や休日などは有象無象の割合が増加する。だいたい10時以降になると本気の人がふえるせいか、編成や強さが安定しがち。
・文章を読めない人が多く、誤読される。おかしな話だが、文字を読めない人が多いのでnoteを中心に意見表明をしていると、何を書いていてもバレないので自由に活動できるという利点はある。
・妄想が激しい人がいる。特に根拠がないのにもかかわらず、自分の想像をやたらに膨らませて自説を語りたがる。ところが読んでいると、論拠になるものが何もあげられていないので、「○○は△△である」ということがなぜいえるのか、読んでいても一切わからない。
しかし、世の中には書き手と同じく不思議な人たちがいて、そういった文章を読んでいても、納得してしまうらしい。
なぜそう言えるのか、という正当化は論文、専門書、新書(推理小説ならばいいが、普通の小説には正当化がない。)のどれでもおこなわれており、書いてある内容に納得できるかは、文のレトリックにだまされなければ、ここにかかっているが、これらの本を読まないと身につきにくい。
大学にいけば必ず先行文献を読むよういわれるはずなので妄想をしないようになっていく。
私は論拠という明確なものが必ずしもあるわけではないし、本人の演繹推論でもいいと箇所があると考えている。
問題にしたいのは、「理由」がなんにも挙げられていないことだ。もちろん、理由には説得力の強弱があり、それがあまりに突飛だと妄想や陰謀論とよばれてしまう危険性がある。
だが、拙い理由すらもない場合、どうしてそういえるのかがわからない。そこにどういうワケがあるのか書かれなければ理解などしようがない。
「神様はいます」といわれて、何ら理由もないのに納得するのだろうか?
ちなみに、発表などで、「主張がつよい」「我がつよい」などといわれたら、「先行文献を読んでない、客観的でない。勉強不足」という意味である。
・批判を行わないため何が正しくて何が間違っているのかを一生、ごまかし続けている人たちがいる。そして、そんな人間のことを尊ぶ人がいるが、批判されなければ誰でも神様になれるだろう。独裁者と変わりなし。
・羣して黨せず、といった態度がなく。徒党を組んでいる連中がいる。
・XPを否定したがる人間がいるが、これはスプラトゥーンのプレイについて語るための方便でしかない。誰かを「下手」というとき担保になるのは「XP」のみであり、XP以外に「うまい」という基準はこの世に存在しない。
あるとしたら、「自分にとって都合のいい主観的な〈うまい〉」だけである。
自分のXPに触れずに、スプラのプレイについて延々と語り、更にその人が誰かをしぼらずに不特定多数を「下手」といいつづけていた場合、(Twitter上にそういう人間がいる。)警戒するなりバカにするなりしたほうがいい。
プレイについて語れるのは所詮、自分のXPまでであり、それ以上はもちろん、「厳密」にはその下のXPについても語れない。私はもはやc帯やb帯時代の自分を思い出せない。しかし、経過してきたという点だけみれば、まだ見ぬXPよりは語ることが許されそうではある。
「語り得ぬ事は沈黙せねばならない」