zunda’sblog ズンダのブログ

zunda’s blog  ズンダのブログ

読書好きな弱者男性の管理人ズンダが古典、小説、批評文、経済、実用書、ガジェット、ゲームを中心に紹介するブログです。ご覧ください。Amazonのアソシエイトとして、当メディアは適格販売により収入を得ています。

【感想文】保守として有名な思想家!『福田恆存: 人間は弱い』 (ミネルヴァ日本評伝選) を紹介する!

https://www.minervashobo.co.jp/book/b102521.html

福田恆存の人生を把握するために

親の経歴をみる

 

保守思想家として知られる福田恆存の初の評伝である。 
福田の人生、業績を纏めた本はこれ以外ない。

 

非常に簡潔にまとられており、数時間もあれば読み終わるだろう。

 

福田の文章は時事的なものも多い。

彼の半生をしらなければいまいちわからないものがある。

今回の評伝によって福田への見通しはよくなった。

 


今までにあったものは彼の思想を紹介、批評した浜崎洋介による本、あるいは息子である逸による父を回顧したものである。

 

 


末っ子である父・幸四朗はサラリーマンでありながらも書道を嗜んでいた。
仕事場の電力会社も「柱登り」という工夫を擁しており、

今の会社勤めとは雰囲気が異なっていたとされる。

他の兄弟はみな職人であった。


母・まさの父親も職人先祖は石工職人だった。 


福田は東京の下町に育ち、関東大震災前の江戸の面影が濃かった時代に成長した。

 

そのため、彼は職人に対して尊敬の念があり、これが第二次世界大戦前後のインテリ批判につながっているといわれている。

 

福田は戦前から評論、翻訳家として活動していたが、彼の代表作は学生運動が隆盛を極めた頃にかかれたものであろう。

 

戦後、大学への進学率が増え、マスプロ教育を受けている学生達を舌鋒鋭く批判した福田の言論は今、益々その輝きを増すばかりである。

 

過日もTwitter上では大学進学率に関する言論が飛び交っているが、

もう一度、福田恆存に還ってもいいのではないか。

 

知的俗物である知識人は「文化主義者」である

 

福田の批判は学生に限った話ではない。

 

彼は大学の先生や進歩的文化人達をも 「知的俗物」と一刀両断にする。

 

昭和18年、戦中、「政治と文化」との協力という大義名分において「政治」に対して一枚噛むことで自分らの利達栄達をはかった疚しい一群を福田は徹底的に批判する。

 

そして彼等を「文化主義者」とよんだ。

 

この文化主義者は専門によらない無責任な発言をし、政治的影響力を確保し、人々の生活を支配しようとする。

 

これは戦後の進歩的文化人も全くかわらない。

 

いや、今のTwitterにいる学者たちをみれば、福田が否定した連中が掃いて捨てるほど居ることがよくわかる。

 

一体彼等はどうしてああだこうだとあらゆる問題に口を出すのか理解に苦しむのだが、それは福田が唾棄した日本の「文化主義者」と同様であることは言を俟たない。

 

この知識人への憎悪は彼が江戸っ子であるだけでなく、福田は「生の哲学」といわれるニーチェベルクソンなどの反近代的主義的な人物達から影響を受けていたこともある。

 

人間の不合理と物質

 

特に「生の哲学者」と同様のことを述べていた

イギリスの文学者であるD.H.ロレンス(『チャタレイ夫人の恋人』や『黙示録論 現代人は愛しうるか』)に関して、福田は 卒論をかいており、そこで合理的だけではない人間の不合理性に注目した。*1

 

しかし気をつけねばならないのは不合理の価値を認めたからといって、あやふやな精神を重視したというわけではない。

 

むしろ逆である。福田は肉体や物がもたらす唯物的な価値を称揚したのだ。

 

概念で何かが説明できるのか?

 

この考え故に福田は、マックス・ヴェーバー研究で有名な大塚久雄丸山眞男などがいう 「近代自我が未熟だったから、民主主義に応えうるような国民でなかった」という日本の敗戦理由を否定する。

 

果たしてそのような前提、「近代自我」などという用語で敗戦理由などいえるだろうか。

 

今から見ると、丸山などの論は噴飯ものであろう。私もだが文系は新しい用語をつくりだし、その用語通りに世界を把握しようとする。

 

しかし、その用語が現実をあらわしているかどうかは考えない。

 

福田は日本の敗戦について次のようにいう。

 

この戦争から学ばなければならぬ唯一の問題は、物質によって支へられなければ、その所在も真実性も保証しえぬ精神のあいまいさといふことでなければならぬ。近代自我の確立ではない。 それは所詮は敗北せざるをえぬものであるといふ、いはば自我の本来的な危機と脆弱性—これをどう処理するかが問題なのだ。

 

理性的で個性的で民主主義に相応しい人格を備えた理想的な人間などいないし、そんな理由で敗けたわけではない。

 

単純に物質的な問題なのにもかかわらず、それを「精神の問題」で考えようとする。

 

そういう観念的な立派なお題目だけの考えを福田は嫌ったのである。

もちろんここにはニーチェの『道徳の系譜学』があることはいうまでもない。

 

それにしても今回この評伝を読んで思ったのは、福田恆存の「弱者論」などはずいぶん自分がnoteで書いてきたスプラ界隈を批判したものと似ているので驚いた。知らないうちに摸倣していたのだろうか。

 

 

終わりに—読書案内—

 

こうして福田の言説を振り返ってみると、若い頃に感化された哲学者や文学者の思想が生きていることが判明するので、評伝は研究に於いて重要なものだといえる。

 

福田の本を読みたい方は新潮文庫の『人間・この劇的なるもの』やちくま文庫の『私の幸福論』、『私の恋愛教室』をおすすめする。

 

またニーチェ道徳の系譜』はkindle unlimitedでは無料であるこの記事の「kindleのすすめ」をみて検討して貰いたい。

 

 

 

 

 

 

政治的な文章が好きであれば文春学藝ライブラリーから浜崎洋介編纂の文庫がある。これらを読めば有名どころは押さえられるだろう。

 

 

 

 

 

kindleのすすめ

散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。

 

 

①部屋が散らからない

②いつでもよめる 

③引用がラク

 

 


 これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。

↓以下からkindleに加入できます。

www.amazon.co.jp

 

 

 

 

*1:なおこの卒論は英文学者であった磯田光一が目を通したことがあるらしいが、今は散逸しているらしい。福田の熱心な読者に盗まれでもしたのだろうか?