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チャールズ ・テイラー  『ほんもの」という倫理』の感想

 

 

 バランスがとれた本という感想である。

 

 所謂、ありきたりな近代批判やアメリカにおけるミーイズムやナルシズム批判などによる現代文明の浅薄さを嘆く諸氏らに半分同意しながらも、現代との対話をいかに続けていくかをテイラーが1992年にラジオで語ったことを本にまとめたのが今般、出版された『「ほんもの」という倫理』である。

 

 さすがに頁数の少なさと口頭によるもののせいで中身に関してはやや納得しがたい点もあるが、テイラーがどういう立場にいる人なのかを理解するには十分に使える本でああった。

 

以下、個人的に気になった箇所。

ただし、下記の点を意識しながら読むと内容が把握しやすいとはおもう。

ブログを読んで、興味をもった方はぜひ参考にしてみてください。

 

 

・「ほんもの」とはなにか

自己中心とは違う。「ほんもの」はルソー辺りから二つに分かれた。

「自己決定的自由」と「内なる自分の声(他者を顧みないわけではない。道徳的源泉とつながっている一種の人間に備わった道徳)」とに。

他者との共存をさぐるという意味での「ほんもの」ということ。

 

このうちなる声についてフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』(講談社学術文庫)には次のようにある。

 

道徳的命法は、ルソーにしてもカントにしても、内なる声として現れる。「良心、良心!神聖な本能、滅びることなき天の声」とルソーは言う(『エミール』中、一八九頁)。カントも「天の声」と言い、「その理性の声は」「極悪人さえ震え上がらせる(『実践理性批判』一七三、二三九頁)と述べる。

 

ところが、『孟子』や中国の伝統のどこを探しても、そうした表現は全く見受けられない。ここに、カントかルソーかという哲学的な二者択一の手前に立って、西洋の道徳観念を形づくっている共通の文化的枠組みにまで遡るチャンスが与えられる(というのも、この条件設定に気づくことができるのは、ただ外部からのみであり、差異によってのみだからである)。

 

というように西洋と中国との倫理的な前提の差異を指摘している。中国には「内なる声」がないというのである。ただ、中国の「内なる声」って「天」のことなんじゃないの?とおもうが、違うのだろうか。

 

正直、うまく定義されてないんじゃないかとおもうが。本書をよんでいると「ほんもの」というタイトルの意味がなんとなくつたわってくる。

 

 

・テクノロジーについて


テイラーはこれを支配するとか支配されるとかいう
コントロールの問題にすべきではないといっている。

 

コントロールではケアや純粋な思考の陶冶にはつながらないから。
当然、ハイデガーの『技術とはなにか』が元ネタになっている。
とにかく現代社会を語る上で、ハイデガーが引用されることは
非常に多い。

 

 

私ズンダがここ数ヶ月に読んだ本でもAIやSNSの問題点を
挙げた本ではハイデガーは頻出している。


たとえば、『超デジタル世界』(岩波新書)、『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー)、『自己啓発の罠』青土社などである。

 

 

 

スマホ時代の哲学』と『自己啓発の罠』の二つとも若い世代によってかかれたものだが、テイラーと同様、技術を否定していない。どうやって技術と共に生きていけば良いのかという点において共通している。

 

この辺が昔はやった?「反近代」とかよくあるテクノロジー批判とは異なってきていると思う。やはり今の30~40代あたりはその前の世代が散々指摘していた「技術にのっとられるな!」という主張とは違う。

逆にテイラーが90年代初頭に技術を完全に否定しなかったことに驚いた。

 

ただ、その力点はやや異なるようにおもえる。
テイラーが独特なのは「技術を人間が支配する」といった考えを否定しているところなのだ。
その理由が「コントロールではケアや純粋な思考の陶冶にはつながらないから。」というのだがそれは理由になるのだろうか?

 

ここがちょっと難しい。おそらく直線上の論理ではなく別の論理をもってきたいということなのだろうが、モヤモヤしている。

 

・度重なるハイデガーの引用について


この議論は大変難しい。そもそも引用されるハイデガー
文章を読んでみてもどれぐらいの人が理解できるのだろうか。


これは東日本大震災後の原子力発電に関するその是非を問うといった
論争のときもそうだったし、現代人とSNSとの付き合い方に警鐘を鳴らす本のときもそうだ。

 

また、その効力はどの程度あるのだろうか。
ちょっと疑わしく思っている。

 

・近代や現代の問題は嘆くのではなく、討議せよ!と説く

 

また近代に関して、テイラーは近代を否定せよとはいってない。
ある時代、1960年代に近代民主主義や個人主義を否定する知識人が続出した。
アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』、ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』、クリストファー・ラッシュ『ナルシシズムの時代』と『ミニマルセルフ』
、ジル・リポヴェツキー『虚無の時代』などである。

 


日本でも筑摩書房から『反近代』という本が出されているが、
こういう大衆や技術発展を馬鹿にした論調というのが世の中にはあったのである。

 

技術批判は現代だとポストモダニストマルクス主義者が行っている。
斎藤幸平『人新世の時代』が売れていたが、以前、Amazonのレビューで
マルクスの焼き直しではないかと話題になった。

https://note.com/lessthanuseful/n/n974e25689201

 

だが、テイラーは近代を賛美することも侮蔑することもしないという。
彼は「闘争の場」という用語をもちだし、議論することの必要性をとく。

 

個人主義とエゴイズム、ミーイズムの違い。公的な秩序の崩壊。藝術家の話

 

近代的個人主義に関しても、個人主義とエゴイズム(アノミー的な)ものとを
区分けしており、後者を否定しても前者は肯定的にみている。

 

テイラーは、近代人は「公的に定められた秩序がなくなってしまった存在」(このあたり、ハンナ・アーレント『人間の条件』とかぶる)といい、
その秩序なき時代に誌をつくるとなれば内面的な結合の感覚を表にだすしかなくなったと指摘している。

 

 

ただし、リルケワーズワースなどは近代詩-個人の主観により
あらゆるものを把握し、自分の個性の表出として利用するものとして評価されがちだが、実際は個人の感性から出発し、大きな自然、宗教的なものを捉えなおしたものだという。前近代との相違はその様式にあるだけで、彼らを個人主義的な藝術主義、つまり表現主義とみなすべきではないという。
リルケ、エリオット、パウンド、ジョイス、トーマス・マンなどがあげられる。

 

相対主義は批難する

 

テイラーはマルクス主義者でもないし資本主義万歳でもない。
その辺りバランスがとれている。折衷主義といわれるかもしれないが、
彼は相対主義を否定していることに注意。
相対主義は自己本位になるから支持できない。

 

また物事には重大なものと重大ではないものとがある。

 

・民主主義は大事。でも、ちゃんとしてないと官僚主義や専門人のいいなりになるよ!


民主主義こそが道具的理性(フランクフルト学派の啓蒙批判の用語。科学的な技術の蔓延を嘆くときに使いがち)のヘゲモニーにうちかつことができる。
しかし、トクヴィル(テイラーはトクヴィル主義)がいうように
民衆は官僚国家と市場との間に板挟みにされ「巨大な後見的権力」
飲み込まれ、いうがままの生活を送るようになりがちなのである。

 

 

 

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