皆さんこんにちは。
ズンダです。
今回紹介する本は宇野重規、若林恵『実験の民主主義』とよばれるものです。
政治本ですね。
宇野氏は政治思想の研究者、特にフランス人、アレクシド・トクヴィルという一九世紀の思想家について本をよくかいておられます。
今回の本は、対談本というか、若林氏が宇野氏からトクヴィルと現代との関係性をききだす本なので大変読みやすいです。
現代の民主主義について考えたい人はよんでみてください。
また先日、私ズンダが書き上げた東浩紀『訂正する力』も一緒に読まれると勉強になると思います。
トクヴィルとは?
このトクヴィルという人物はフランス革命以降の二月革命時に青年期を迎え、祖国フランスの波乱ぶりに動揺しながらも、アメリカへ渡ります。
その頃のアメリカは独立戦争に勝利し、第四代目のアメリカ大統領・ジャクソンが存している時代でした。
そこでトクヴィルはアメリカの地方分権と民主主義の広まりに注目します。
アメリカ人は自治独立の精神でもって政治と付き合っていました。
彼等の逞しさに感銘を受けたトクヴィルは帰仏した後、『アメリカのデモクラシー
』という本を書きあげます。
(他の巻は読書案内へ)
民主主義を考えるために使われる思想-結社の存在-
この本は政治関係の本を読んでいると頻繁にあらわれるものです。
特に「民主主義とはなにか?」を考える際に必ず参照されます。
私たちは民主主義が国民によるものだと説明を受けます。
しかしながら、国民がそんなに政治に興味関心を抱くのだろうか?
国民は政治のような難しいことを考えるだけの知性があるだろうか?
そういう疑義が浮かんできたとき、「よき民主主義とはなにか?」という文脈でトクヴィルは読まれるのです。
ここにはトクヴィルが描いたアメリカこそが理想的な民主主義であるという前提があるように思われます。
みな地方分権かつ政治への自主的参加かつ中間団体=結社の存在などです。
中間団体は政治と国民との間に存在する団体を指します。
キリスト教のような宗教団体や企業に属する労働団体などを想像すればいいでしょう。
政治はどうしても数の力が要ります。
数の力のために彼等は結社を作ります。
一纏めにして自分らの利益や権利を守るために集合し、政治権力にうったえるのです。
そのため民主主義にはバラバラの個人をまとめて政治に参加するための「中間団体=結社」が必須といわれるのです。
私ズンダのような個人が一人で叫んでいたところで誰も話なんてきいてくれませんからね。
そしてそれは皆さんもそうですよね。
さて、これが政治思想で利用されるトクヴィルの考えです。
トクヴィルが引用される場合は上記した考えをどの人も引っ張ってきます。
しかし、こういった記述では現実とトクヴィルの考えがあまり噛み合っていないように感じられませんか?
というのもトクヴィルがみたのは今から200年前のアメリカであり、現在とはだいぶ事情が異なっています。
また、そもそも日本とアメリカでは歴史も文化も違います。
すると、単純に「トクヴィルはこういってたんだ~」といわれても、「それが何なの?」って思いませんか。
私はずっとそう感じてきました。
どうも政治思想にとって扱いやすいトクヴィルを連れてきて、彼に穏当な民主主義の在り方を説明させているだけではないだろうか、と。
そこで今回かかれた宇野氏の『実験の民主主義』の出番です。
聞き手の若林恵氏が年配の宇野氏に対して今日日的なインターネットやファンダム(あることに対する特定のファンの集い)などを絡めさせながら、トクヴィルの現代化を図ろうとします。
実に面白い本です。
では、見ていきましょう。
ファンダムとは?
行政中心になっている現在の政治
ファンダムということばがこの本では随所にあらわれます。
意味としては「ファンの集い」です。
少し検索をかけてみると、日本においてはSF界隈で使われることが多かったようですね。
現在だとファンダムは漫画やアニメやゲームにかぎらず
愛好家達の集団を指すときにつかわれているようです。
そして、このファンダムこそがトクヴィルがいっていた「中間団体=結社」に
匹敵するのではないか?というのがこの本の目新しさです。
巻末の宇野氏のあとがきには
「立法中心で語られる政治学だが、行政中心に語ってみたかった」とあります。
確かに政治学系の本を読むと「立法」の大切さやどうやって市民の関心を法に向けるかといった議論がされがちです。
しかし、現在は行政を担う役割である官僚が政治家の仕事である法をつくる仕事をしています。
すると、政治はむしろ「行政中心」になっているのです。
この行政の肥大化は一つの問題となっていますが、我々市民にとってはあるいみとっつきやすい。
法学の難解さと比べれば行政的な仕事は実践的であり、行動として理解しやすいからです。
そして、「中間団体」とは行政に働きかける団体であることを思えば、むしろ都合がいいといえます。
それを宇野氏から引き出すのが聞き手である若林恵氏でした。
ファンダムを現代政治で考える
彼はファンダムを次のようにいいます。
ファンダムの面白いところは、まずは一元的に消費するだけの存在ではない点です。
つまり、消費者でありながら自分で推しの情報を発信したり、グッズを作ったり、二次創作をしたりといったアクションを通して、生産者としても存在します。これは、ソーシャルメディアのなかでは全員が受信者でもあり発信者ともなるという構造と同じです。とはいえ、推しの対象は明確な商品ですから、勝手に二次創作すると著作権や肖像権の侵害となります。
ところが、ここで面白いのは、ファンと、俗に「公式」と呼ばれる商品の製造元との関係性です。
これまで、消費者は一方的に情報や商品を受け取るだけの存在でしたが、双方向のメディアが登場することで、その関係性が変わりました。ファンダムは、いまや企業にとって最も重要な顧客ですから、無下に扱うことができなくなり、ファンは「公式」における監視役としての役割を担う格好にもなっています。
この関係性は、先ほどロザンヴァロン(※政治学者。引用後に説明あり)が提起した権力の「応答性」や、市民との間の「双方向性」といった議論にも重なり、彼の語る「市民的監視団体」をファンダムが集合的に担っていると言えなくもありません。
ここであらわれるロザンヴァロンとは政治学者です。
彼が書いた本に「良き統治――大統領制化する民主主義」があります。
宇野氏が解説を担当しておられる本です。
この中でロザンヴァロンは民主主義に関して以下のように発言しています。
①これまでの民主主義は「承認の民主主義」であって、「行使の民主主義」がちゃんと問われてこなかったということです。つまり、これまでの民主主義は誰に権限を与えるかの議論ばかりで、市民が自らの権限をいかに行使するかは十分に議論されてこなかった。
②立法ばかりに注目が集まるなかで執行権が異様に強くなってしまい、議院内閣制であっても、首相がまるで大統領のように振る舞うことが可能になってしまっていることがあります。こうした「大統領制化」は世界的な現象で、カリスマ的な人気を誇る政治家が独裁的に執行権を振るうわけですが、これは行政権が強くなりすぎてしまったことへの帰結でもあります。
③「応答性」という言葉で説明されています。政府が市民の声やニーズにどれだけ鋭敏でいられるかが肝心であり、それに応えることを権力者に対して義務化することで、市民の権力は保持されるとしています。(宇野氏の要約に①、②、③と番号をふった)
というようにロザンヴァロンは市民が政治を監視し、要望をうったえるようにする。
そして政府がそれに応えざるを得ない状態をつくっておくことの必要性を述べています。
これを「応答性」とよびます。
権力者が市民を無視してすきかってやっていたら、我々はこまってしまいますよね?
そうさせないようにするには、我々市民が政府に要求しつづけなければならないわけです。
「選挙がおわれば、その政治家のことをわすれる」ではダメで、常に覚えていて、彼らに自分たちの望みをうったえつづけること、それをロザンヴァロンはいっています。
そして、この「応答性」は先ほどのファンダムの話とかぶるわけです。
もう一度、引用してみましょう。
ここで面白いのは、ファンと、俗に「公式」と呼ばれる商品の製造元との関係性です。これまで、消費者は一方的に情報や商品を受け取るだけの存在でしたが、双方向のメディアが登場することで、その関係性が変わりました。
ファンダムは、いまや企業にとって最も重要な顧客ですから、
無下に扱うことができなくなり、ファンは「公式」における監視役としての役割を担う格好にもなっています。
つまり以下の関係が成り立ちます。
政治⇔市民
↓
企業⇔ファンダム↓
政治⇔ファンダム∈市民
こういった論理の展開により、トクヴィルの結社と現代的なファンダムとを結びつけているわけです。
そこにロザンヴァロンの応答性を絡めれば、更にトクヴィル、ロザンヴァロン、ファンダムがつながり
強固な政治理論のように感じられます。
歴史上でもファンダムが政治化した例はある!
実際、歴史上でもファンダムのようなことはありました。
政治哲学者のハーバーマス『公共性の構造転換』(政治哲学者)(1962年)によれば
次のようなことがあったようです。
元々は宮廷において生まれた社交のための公共圏が、やがて宮廷外へとスピンアウトして、趣味や価値観の一致に基づくサロンやクラブ、あるいはアカデミーといった文芸的公共権と発展していったと説きます。そこでは社交だけでなく、ある種の批評や世論の形成も実現していきました。
フランスでは、フランス革命のときにそのようなクラブが増殖して政治家し、そこから生まれた勢力がフランス革命を主導していくことになります。ハーバーマスに言わせれば、文芸的公共圏が政治的公共圏に転化したというわけです。
かつてフランス革命は、マルクス主義的に言うと階級対立が先鋭化した結果、抑圧された人々が立ち上がった革命だと考えられてきましたが、現在では、そのような政治的クラブの果たした役割が大きかったとされます。
というようにフランス革命のときに力をもった集団が今でいうファンダムでした。
単なる文藝サロンの集まりが政治に興味関心をもつ集団に変わり、政治参加するようになったのは興味深いですね。
埼玉の虐待禁止条例改正案と市民
ファンダムの現代性はインターネット社会のおかげです。
ネットによって私たちは自分を表現しやすくなった。
今や、YouTubeやInstagramやTikTokのおかげで個人が商品などを説明したり批判したりできる。
それが一瞬で大勢の人々に伝わり、企業側はよかれあしかれ反応せざるを得なくなる。
この状況を私たちはTwitterなどで頻繁にみています。
政治で言えば埼玉の虐待禁止条例改正案が問題になりました。
わずかの間でも子供を一人で放置すれば虐待になるという条例です。
たとえば、親がゴミ出しにいく際、子供をひとりにすればそれは虐待扱いになります。
これではとても子育てができませんよね。
そういうわけで、反対が起こり、ネットやメディアで騒がれたわけです。
「子どもだけの留守番は虐待? 埼玉県条例改正案に批判続出」
これなどもTwitterやまとめサイトなどで取り上げられ、自民党埼玉県議団は条例を取り下げざるを得なくなった。
まさに市民が一体となり、政治へ怒りをぶつけ、県議団は「応答性」を以てこたえた。
これが『良き統治』、優れた民主主義の例ですね。
ファンダムはポピュリズムを引き起こす可能性がある
もちろん、逆も然りです。
ファンダム的な要素が悪い方向へ働く可能性もあります。
たとえば、AKBがやるようなファン投票を思い出してください。
ファンが彼女らに投票し、順位をつける。
誰が人気なのかを決めるための投票は「総動員体制」ともとれます。
一致団結、きこえはいいですが、ファシズム的な力の源にもなってしまう。
そこにデマや陰謀論などが加われば、正しい議論が行われることなく
危険な思想をもった政治家が持て囃され、国の行く末を誤らせる傾危の士をえらんでしかうかもしれない。危険ですね。
実際、ここ数年、日本で見られるような参政党や元議員であるガーシー氏などの盛り上がり方はファンダム的とこの本でもいわれています。
これらの政党や人物を皆さんがどのように支持しているかどうかで、ファンダムにどこまで期待できるかが決まるのかもしれません。
少しファンダムに期待ができるとすれば、支持していた人物や政党がおかしな事をやった際、インターネット上でそれを表明できるところでしょう。
この双方向性による圧力がお互いの関係性を隷属ではなく、責任あるものへと
導いてくれる可能性はあります。
昨日紹介した、東浩紀『訂正する力』とも大いに関係する部分ですね。
政治家や官僚、そして我々が、誤っていた場合、それを訂正するかどうか?
ここが味噌でしょう。
読書案内
『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化験の民主主義』はこの本の聞き手を務めた若林恵氏が依拠している考えである。
今回紹介した『実験の民主主義』の種本といえよう。
フランス革命時に影響を与えたシェイエスと、最新の研究によるフランス革命は誰によって起こされたか?を記したもの。大衆がどのように動いたかの勉強になる。
ハーバーマスの本。文芸的なサロンがいかに政治団体化したかを記す。
ポピュリズムはどのようにして起こるか?ファンダムの危険性もしっておいたほうがいい。
トクヴィルの主著。政治思想で必ず名前があがる古典的名著。
kindleのすすめ
散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。
①部屋が散らからない
②いつでもよめる
③引用がラク
これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。
カンパのおねがい
当方弱者男性ゆえ、なかなか欲しい本や飲み物がかえません。
皆様のあたたかいご芳志を募りたいと存じます。