皆さんお久しぶりです。
ズンダです。
今回紹介する本は哲学者・東浩紀氏の『訂正する力』です。
この本はそのタイトルの通り「訂正する」ということの重要性について書かれた本です。
では、みていきましょう。
※なお本文引用の太字はすべて管理人ズンダによるもの。
なぜ「訂正する」ことが必要なのか?
「老化」=「訂正する力」=「成熟」
日本にいま必要なのは「訂正する力」です。 日本は魅力的な国です。けれどもさまざまな分野で行き詰まっています。政治は変わらず、経済は沈んだままです。 メディアは大胆な改革が必要だと叫びます。けれども実際にはなにも進みません。人々は不満を募らせています。
小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要です。
明治維新や敗戦によって日本は大きく変動した。
そのときの成功体験のようなものが日本人にはあり、それゆえ何か面倒毎やうまくいかないことがあると「ガラガラポン」にして全部ぶっこわしてしまえばいいという思考が働きがちだと東氏は指摘します。
だから老いについて単純で暴力的な語り口が横行しています。「延命治療をやめるべき」だとか「老人は集団自決するべき」だといった議論が、定期的に現れます。 世界的に人気があるサブカルチャーの分野でも、主人公は若者ばかりです。さまざまな挫折や失敗を経験し、もがき苦しみながら生きていこうとする中高年が描かれることはあまりありません。 しかしながら人間はだれもが老います。老いは避けられないのですから、否定しても意味がありません。肯定的に語るすべをもたなければなりません。
「老人は集団自決するべき」というのはここ数年で有名になった経済学者の成田悠輔氏の発言です。
今やTwitterでは、社会保険料の高騰や介護の問題から老人に対して厳しいことばがなげかけられています。
また、私ズンダがゲームについて散々いってきたように「老い」についての自覚や問題意識がな人たちもいます。それについては過去の記事を読んでください。
↓この記事、編集の失敗で本文の半分が消えてしまったので上だけでいいです。
「老い」と「訂正する力」と
これは結局、日本人には「老い」をまともに考えるような思想がないのではないか?
ここで東氏はそのことを「訂正する力」と重ね合わせ、次のように言っておられます。
では、老いるとはなんんでしょうか。それは、若い頃の過ちを「訂正」し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。
実はこれは、至って普通の考えです。
私たちは古典や歴史をならったり、自分の父母や祖父母をみて、人間の「老化」に触れてきたはずです。
ですが、そういったことをすっかり忘れている。あるいは気づいていないのかもしれない。
私たちの人生は「老化」を自分自身で体験する前に「周りの人間をみて知る」あるいは「教科書で昔のことを習って知る」というのが普通です。
そこで「ああ、これが人間なんだ」と学ぶ。
けれども実際はその年齢になってみないとわからないことが多い。
でも、「老い」を否定しても仕方がないわけです。
それは事実でしかない。「若返る」はないのですから。
政治家、官僚、知識人、どの人も「誤り」を認めない、「訂正」しない
そんな「老い」を考えない日本人を代表とする官僚や政治家は自分の過ちを認めないと指摘されています。
それは左右の運動家や知識人などもです。
政治的な議論も成立しません。政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。 とくに最近の左派の一部は 頑 なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。
もともと東氏はリベラル知識人です。そして今もそうでしょう。
しかし、この十年ほどリベラルな彼を襲ったのはリベラルとよばれる人々の狷介固陋な性質でした。
簡単にいえば「自分の殻に閉じこもっており、偏頗な思想を振りまいている」という厄介な頑固な存在です。
たとえば例に挙がっているのは18代目の東京都知事・猪瀬直樹氏です。
猪瀬氏は「コンパクト五輪」を謳っていた。それにもかかわらず、五輪の費用はどんどん嵩んでいき、あらゆる企業が不正な結託をしていたことがわかった。
東氏が当時、頻繁に猪瀬氏と絡んでいたのは動画でみたことがあります。その分、猪瀬氏への落胆は大きかったのでしょう。
猪瀬さんはこちらについてもツイッター(現X) で最後まで「コンパクト五輪のはずだった」と主張していました。これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません。 猪瀬さんには、『昭和 16 年夏の敗戦』という名著があります。太平洋戦争開戦前、日本政府は「総力戦研究所」というシンクタンクにエリート官僚を集めて日米開戦の 帰趨 をひそかにシミュレーションさせていた。答えは日本必敗だった。にもかかわらず、日本は戦争に突入してしまったという内容です。この歴史と東京五輪の強行は部分的に重なります。 猪瀬さんは、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えてごまかす、日本的な組織体質をよく知っていたはずです。それでもなぜ訂正できなかったのか。
私ズンダが思うには、東氏の「訂正する力」とは、このリベラル系の人への失望によってかかれたものなのではないか。
一般の日本人向けのように感じられますが、どちらかというと同業者に対しての批判が強い気がします。
議論が始まるためには、おたがいが変わる用意がなければなりません。ところがいまの日本では、その前提が壊れています。みな「議論しましょう」とは言うものの、自分自身が変わるつもりはなく、むしろ変わってはいけないと思っているのです。 そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。
訂正する力は、「リセットする」ことと「ぶれない」ことのあいだでバランスを取る力でもあります
ここも大事ですね。いくら「訂正する」ことが大事といっても、もとがあまりにも「ぶれぶれ」の人間では困るわけです。そこにはきちんとした考えもないし、テキトーになにか呟いているだけでしかない。そんな人とはまず議論になりませんよね。
ですから、「リセット」と「ぶれない」のあいだを目指すわけですね。
魅力的な「哲学」とは?
新書といえば、テーマを絞り込み、専門家が有用な知識をコンパクトに伝えるものというイメージがあります。その点では本書は異例で、読者によっては驚かれるかもしれません。 けれどもぼくは、哲学とは「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えて、はじめて魅力的になるものだと考えています。読者と共有する社会問題についてあるていどの指針を出し、背後にあるなにかしらの独自の理論を示し、そして自分自身もそれと整合性を取るように生きている、そういう多面性を抱えていることが大事だということです。
東氏の哲学論がでています。『「時事」と「理論」と「実存」』が大事だというのには私も同感ですね。
やはりどうしても、私たちは今の時代に生きているので「時事」が哲学的な「理論」によって、その人のどんな「実存」を伴ってどう語られるのか?がみえてこないとパッとしないのはあるとおもいます。
それゆえ、この本でも昨今話題にのぼるリベラルの「ポリティカル・コレクトネス」の問題が語られています。
「ポリティカル・コレクトネス」は名詞形ではなく、動詞ではないか?
あいつは正しくない、だからあいつを叩くのが正義だ、と思考停止に陥ってはだめなのです。 そもそも、いまはみな「正しさ」をあまりに静的かつ固定的に捉えていると思います。ポリティカル・コレクトネスのなかのコレクトネス(correctness) という言葉はコレクト(correct) という動詞の名詞形ですが、これは本来は動詞的に捉えたほうがよいはずです。コレクトは「校閲する」とか「まちがいを正す」とかを意味する動詞で、まさに本書の主題である「訂正」を意味する言葉です。 つまり、ポリティカル・コレクトネスの「コレクト」というのは、本当は、固定した正しさがあるというわけではなく、正しい方向にむかってつねに「訂正しよう」という動きのことだと思うのです。
要するに、一律的な共通善のようなものを目指して運動するというのではなく、その「時処位」によって「正しさ」が変わることがあり、それに向かって「訂正する」のが本来の「ポリティカル・コレクトネス」だというのです。
ここちょっと、面白い箇所ですね。
凝り固まった思考を解(ほぐ)すような感じがあります。
むろん、それは無責任でいいというわけではありません。
東氏はドイツなどで蔓延る「歴史修正主義」(たとえば、ナチスによる犯罪はなかったとする説)などについては批判されています。
人間に優しさをー西村ひろゆきと異なる議論の見方ー
西村ひろゆき氏の動画などを皆さんも見たことがあると思います。
並みいる知識人達を前に、臆せず事なく「エビデンスは?」といって論破していくひろゆき氏とそれに拍手喝采するコメント。
これらが並ぶ現在の日本、これに対して東氏は次のようにいいます。
論破ブームにより、どんな議論でも「勝敗」で判断することが一般的になってしまいました。みな絶対に謝れなくなっているし、意見を譲って妥協することもできなくなっている。(中略)論破力が基準の世界では、訂正する力は負けてしまいます。訂正した瞬間、相手から論破したと言われてしまうのですから。では、どうしたらよいでしょうか。
ひろゆきさん自身の言葉にヒントがあります。彼はベストセラーとなった『論破力』のなかで、討論には必ずジャッジをつけろと述べています。勝ち負けを判断する観客がいないとディベートが成立しないというわけです。 ぼくはひろゆきさんほど観客はもっていませんが、似たことを考えていました。ただしぼくが想定する観客は、勝ち負けを判断するというより、話の本題とは別の感想を抱いてしまう「いい加減な観客」です。
たとえば、「このひとの主張は弱い、議論には負けてる」と判断を下しつつも、「でも悪いやつじゃないな、話の続きを聞きたいな」と思ってしまうような観客です。そういう観客が多く居ると、訂正する力が機能することがあります。話し手が意見を訂正したり、負けを認めたりしても、「それはそれ」で真意をつかんでくれるようになるからです。
東氏は株式会社「ゲンロン」を設立し、そこで様々な専門家を招き、カルチャースクールや講演などを開催してきた経緯があります。
そのため議論中に「論破されたな、この人」と思う場面があったとしても、観客達に「何かを残すことがある」という場面に多々遭遇してきたのでしょう。
私はそんな機会はありませんが、Twitterの喧嘩をみていると、ここで東氏の考えが広まればいいなとは思います。
世の中にはそれぞれの界隈毎にインフルエンサー、あるいはインフルエンサーもどきがいます。
SNSでの議論はむずかしい-ズンダのいるスプラトゥーン界隈の場合ー
私ズンダであれば「スプラトゥーン」というゲームをやっているため、Twitter上でのFFはそういう人たちが多い。
インフルエンサーにはファン、悪く言えば「信者」がついています。
たとえば、あるインフルエンサーと誰かが(=Xとよぶ)議論を始める。
インフルエンサーがそれを論破する。
すると、信者達は色めき立って、調子にのり、そのXを叩き始めます。
自分の主が相手を論破した事への喜び、そして、その推しと一体化した信者たちによる集団行動がいっきに発生し、各所で反応がおこります。
私はそれを常に気持ち悪いと思ってみています。
ある見解に是非をつけるのは大事だとしても、「論破ブーム」でみられるのは、物事への暫定的な真理を求める気持ちよりも、「インフルエンサーが誰かを論破した。そして、そのインフルエンサーの信者である自分も、同じくそいつを論破したのと同じ」という錯覚であり、正に虎の威を借る狐でしかない。
そして、人間には誤解やそのときの調子によって不可解な考えや錯誤した論理をもってしまうことがあるので、ある人間が論破されたからといってその人が常に頭のおかしな人間ではないということです。(常にヘンなことをいってる人がゼロとはいえませんが。)
.)
その前提が「論破ブーム」には欠けているし、SNS上では議論がしづらくなる理由なのでしょう。
文字だけの空間ではそれができません。少なくとも、とてもやりにくい。 だからSNSは本質的に対話に向きません。訂正する力にも向きません。そういう意味で、動画の誕生は大きい。日本の硬直した言論空間を打破するために、動画はいい手段に
なると思います。
人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断をまちがう。エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できるというのは幻想にすぎません。人間は信じたいものを信じる。動画とSNSの時代にはその傾向がますます強くなります。ポストトゥルースや陰謀論の問題です。 だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。まちがえる。できるのはそのまちがいを正すことだけです。「あのひとはやっぱり外見だけだった、騙されていた」と反省することが大事であって、そこでうまく訂正できないと、どんどんポストトゥルースの深みに 嵌っていきます。
「ポストトゥルース」とはネットが普及、様々な価値観や多様性の拡大によって、
何が真実なのかもはやわからない、といった時代のことです。
しかしもちろん、そんなに多くの真実などは実際にはありません。そこには明らかに誤った理路による臆測や紕繆(ひびゅう)があります。
ですが、「訂正する力」がないと、これらの情報や思想にのっかってしまったときに後から反省することができず「ポストトゥルース」が作り出した幻影にのったままいきていくことになります。
東氏のいう『訂正する力』は現代においてみられる様々な「時事」に対応するために求められる「理論」であり、彼本人の人生経験がいきた「実存」となってかかれた本です。
現在の言論状況に違和感や不快感を覚えている人は、ぜひ、読んでみてください。
思考の一助になることは間違いありません。
読書案内
この本の内容についてもっと詳しく知りたい人は『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書)を読むことをおすすめする。
新書版はあくまで簡潔でわかりやすくかかれているものなので、物足りなく感じる人がいるかもしれない。
また、煩瑣になるのでこの記事では紹介してないが、東氏は「訂正する力」について説明するために、バフチンやヴィトゲンシュタイン(こちらの本はkindle unlimitedで読める)やトクヴィルなど援用している。
その辺りについて更に詳しく知りたい人向けに、わかりやすい本を選んでみた。
また、ドイツの歴史修正主義やポストトゥルースについての本も並べた。
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