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渡邉 雅子『論理的思考とは何か?』を紹介する!!共感・道徳・作文・SNS・朝日新聞・エモ記事

岩波書店のHPより

今井むつみ『学力喪失』につづいて、名著である。

 

 

 

 

論理的思考は国によって違いました

ヨーロッパの思考法

「論理的思考」とは誰もが必要だというがその実態とはなにか?

 

先ず著者は、世界を席巻するヨーロッパの思考、4つの論理を紹介する。

 

論理学、レトリック、科学、哲学である。

 

これらについて説明した後、「論理的だと感じるためには、読み手側が期待した論理が展開されてなければならない」という米国の応用言語学者カプランの説を引く。

 

つまり、「ああ、この人、論理的だ!」と感じるためにはその社会における合意がなされていなければ「論理的だ!」とはならないのである。

 

考え方は4軸になる

 

次にマックス・ウェーバーの

 

「形式合理性」=「決定済みの目的に対して、最も効率的な手段、あるいは理論上確実な手段を選択する合理性」

 

と

 

「実質合理性」=「何が行為を決断するに値する価値を持つ目的なのか」

 

を示す。

 

ウェーバーはこの異なる合理性をもった文化が対立し、衝突しあうという。

 

ここの二つに「個人の主観」と「集団による客観」を交差させたのが

「経済領域」「法技術領域」「政治領域」「社会領域」の4つの合理的行為である。

 

これらは併存しながらも、社会によってどの領域を優先させるのかに違いが出るという。

 

この4つに当てはまるのが順番に、アメリカ、イラン、フランス、日本である。

 

そして、それは学校で課される作文にあらわれるという。

 

これは氏の実験において有意だったらしい。曰く、

 

「思考法を理解するために、学校の作文に注目する有効性は、異なる領域を代表する国の子どもたちが同じ絵を見てその絵をどう説明し、理由づけるのかという作文実験の結果と、その実験結果を裏付ける教育の目的と実践から明らかにされている」

 

らしい。

 

アメリカは「効率性と目的の達成」

フランスは「公共の利益」

イランは「真理の保持と規範の遵守」

日本は「共感と哀れみ」

 

 

である。

 

国柄もあるだろうが、作文の方向性には歴史的な経緯がある

 

ここで付言していくと、イランを除く作文教育には転換点がある。

 

要するに最初から、アメリカ式やフランス式だったわけではない。

 

アメリカでは当初、イギリスの植民地だったこともあり、ラテン語の華麗な文体がすかれていた。

 

フランスでも1950年代からヘーゲル哲学の弁証法にならった作文指導法がうまれた。

 

宗教色の強いイランではいくらか改変があったものの、所謂、論理性を兼ね備えながらも神の秩序が果たされるのが論文の結果という考えがあった。つまり、神の教えを再現しただけにすぎないというのだ。

 

日本の場合は明治時代の規範的な作文から反発がうまれ、自由作文を提唱した芦田恵之助の精神が受け継がれ、戦後の一時期はアメリカ式になるがその後は綴り方教育にみられるような奔放な作文教育が施されるようになる。

 

これは大正自由教育運動であろう。やや話は逸れるが私ズンダは以前、noteにおいて《言語化》についてかいている。その中で「今はやっている《言語化》は日本の作文教育の延長にあり、大正自由教育運動と似ている」と書いた。

 

note.com

 

note.com

 

note.com

 

日本の作文教育と《言語化》

 

この渡邊氏の本を読んで「やはり」と膝をうった。この本の141頁にあるように日本の作文は「共感」や「道徳的」なものを目的としており、そこには他人との考えを過剰なほどに意識した作文が求められているのだ。

 

それはアメリカやフランスと異なり、実証性や分析をともなうことがない

「なんとなく、そうだよね」という「感想文」を正解とするものなのである。

 

要は日本においては、「それってあなたの感想ですよね?」は風土にあってない、アメリカやフランスかぶれの論理思考だということだ。

 

だから、ひろゆきはフランスにいるのかもしれない。

 

余談だが、ひろゆきの人気がでたということは日本でも感想文的な考えがマヌケだと思われ始めているのではないか。

 

さて、こうなると、《言語化》と騒いでいる連中の文章が単なる感想を何か価値があるかのように書いているのにも合点がいく。

 

また、前回の記事でもかいたように「道徳」を問題にして、人を叩きまくっているのかもわかってしまった。

 

zunnda.hatenablog.com

 


《言語化》やSNSの書き込み、これらはの特徴は「共感」「道徳」だが、それこそが学校教育で習ってきた「作文教育」だからである。

 


日本の「感想文」は、真情を読み取る物語の読解とセットとなって、他者の五感を自己のもののごとく取り込み感じることで、他者の期待を理解し、その期待に応える行為を志向させる。そのような行為は、対立を避け、場の調整を行う高度な認知(現在では社会性に関わる非認知能力と呼ばれている)を養う機能がある。感想文は状況によって複雑に変化していく人間の心情と、場を構成する人間と自然と社会環境の関係を読み取って反応できる共感力を鍛え、子どもを社会かする。それは、形式的な善悪を超える道徳観を育てる。(赤字はズンダ)

 


と渡邊はまとめている。

 

※渡邊自体は日本の教育を否定はしてない。そこに一定の価値があることを認めている。もちろん、弱点もだ。

 

要するに日本の作文教育は他人の考えを理解し、自分の考えを是正していくことに力点があり、自己の主張をなすために「データやエビデンスなどを使う」ものではなく、「共感や道徳を使う」ものなのである。

 

↓エビデンスに疑いをもつ朝日の記事。だいぶ騒がれたが、この考えは学校教育を真面目に受けた結果なのではないか?

www.asahi.com

 

 

 

教育学者の幸田国広はこういった国語教育を「隠れた道徳教育」と読ぶ。

 

日本の国語教育とは生徒同士の自主的な相互理解という名目の監視を通して、 他人との違いを敏感に感じさせ、根拠ではなく、雰囲気による矯正、自己規律を誘うものだったのだ。

 

普通にいきていれば文章を書く機会などそんなにはない。

 

大学教育において、レポートなどを通して初めて継続的に文章を書く機会が得られる。

むろん、学部や大学によっては卒論はおろかレポートもまともにかかないまま卒業する人たちもいるだろう。

 

日本の大学進学率は約50パーセントである。半分は大学へいってない。

 

すると、最終的な「書く」という機会を得られるのは高校までであり、高卒にとって「書く」とは「共感と道徳を利用して作文すること」になる。

 

また、そういった人たちがSNSで「書く」とは学校でならった要素を凝集した「作文」のことになるだろう。

 

私はこの『論理的思考とは何か』を推す。

 

これは私たち日本人の思考様式にかぎらず、SNS言論が

 

「なぜ、こんなにも『共感』や『道徳が大好き』なのか」

 

を説明している本でもあるからだ。

 

こたえは簡単だ。

 

日本人はSNS上でもお互いの共感や道徳を《学校教育でならった作文と同じように》はかりあっているのである。

 

バカではないだろうか。

 

朝日新聞と西田亮介の「エモ記事論争」

 

昨今、西田亮介氏による朝日新聞、「エモ記事」への批判があった。

gendai.media

 

その流れの中で、今年3月下旬、朝日新聞デジタルのサイト「Re:Ron」に〈その「エモい」記事いりますか?苦悩する新聞への苦言と変化への提言〉という記事を寄稿しました。かいつまんで言えば「最近の全国紙の紙面は、読者の感情に訴えかけるようなエピソード中心のものを優先しすぎて、エビデンスの提示やデータの分析、社会への提言がおろそかになってやしないか」と指摘するものです。

 

この西田氏のいう「エモい記事」の数が昔からあったものなのか、量が増えているのか、そういった定量的な話はまだでてきていないと思う。

 

ただ、朝日新聞の記者からすると

 

「学校でならった作文のやりかたを厳守しているだけです」

 

というのが本音なのではないだろうか。

 

読書案内

この新書で扱われている内容は以下の本において詳しくかいてある。

めっちゃ、おすすめです!

 

 

 

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