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【新書の感想】江戸時代の女性はいかなる存在であったのか?『近世史講義』(ちくま新書)を紹介する!

 

 

近世史講義 (ちくま新書)

近世史講義 (ちくま新書)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 新書
 

 

 この記事を読むと以下のことが分かります

 ☆山が女人禁制になった理由

 ☆形骸化していた女人禁制が宗教団体の力で壊された

 

www.youtube.com

↑この本の読み方を動画で解説しておきました。

 

 

 ちくま新書の「歴史講義シリーズ」とは何か

 最新の学説による日本史の通史

 

 ちくま新書による歴史シリーズの新作として本書は刊行されました。
 
 今まで、『昭和史』、『明治史』、『古代史』、『中世史』らが陸続として出版されてきました。

 

 学問は時間が経つほど、新たな資料が発見されたり、資料の読み直しがあったりして、学説が変化していきます。

 

 皆さんが習った日本史は変化しつづけています。

 

 大人になった我々に最新の学説を届けてくれるシリーズ、それが筑摩新書の「歴史講義」なのです。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 今回は、ついに近世史。江戸時代ですね。

 長くて密度の濃い江戸の二七〇年間をどういった形で描くのか、困難を極める作業になりそうだと私は勝手に考えていました。

 

 今回の新書の副題には『女性の力を問いなおす』とあることから、女性を軸に江戸時代を捉えようとしたみたいですね。

 

 章立てをみても分かる「女」おしの本

 

  この本は全十四講に分けられています。
 代表者である高埜利彦氏は二講を担当。
 他の方々はそれぞれ一講ずつ担当しておられます。

 

織豊政権と近世の始まり     牧原成征 

徳川政権の確立と大奥      福田千鶴

天皇・朝廷と女性        久保貴子

四つの口                  松井洋子

村と女性                  吉田ゆり

元禄時代享保改革       高埜利彦

武家政治を支える女性      柳谷慶子

多様な身分                    西田かほる

対外的な圧力                   岩崎奈緒

寛政と天保の改革            高埜利彦

女性褒賞と近世国家           小野将 

近代に向かう商品生産と流通     高部淑子

遊女の終焉へ                    横山百合子

女人禁制を超えて                 宮崎ふみ子

 

 

 三、四、七、十一、十三、十四は題に「女」が必ず入っています。

 一、六、十講を除いた講の小見出しにも必ず「女」という文字が使われています

 

 「はじめに」で高埜氏は次のようにいっておられます。

 
 

本書は、古代史・中世史・近現代史と連続する近世史の「講義」を担うことから、第1・2・6・10講では政治史を骨格にした通史を叙述している 

 

 

 要するに女性をなるべく取り上げたけれども、当然、江戸時代がどんな時代であったかもわかるようにしなければ、ちくま新書の「講義」叢書の一作としての資格がないということですね。

 

 一四講の「女人禁制を越えて」を紹介するー二つの山岳宗教

 女人禁制とは何か?

 

 さて、今回、この記事で紹介するのは第14講宮崎ふみ子「女人禁制を超えてー不二道の女性ー」です。

 

 相撲の土俵に「女」は乗ってはならぬ、ということは皆さんご存じだとおもいます。
 あるいは、登山が禁ぜられている山々もあります。

 江戸時代に於いて、富士山ですら女性は登れませんでした。

 

 いったいどうしてなのでしょう?

 

 女人禁制の理由 

 

 では、女人規制のワケを孫引きしてみましょう。

 

 女人禁制には、山地と平地の境界をめぐる民俗信仰、異性間の接触を禁ずる宗教的戒律、女性は男性に劣るという仏教の教え、月経や出産など女性特有の生理を不浄とする観念など複数の側面がある(鈴木正崇『女人禁制』)

 

 つまり、女性はなんとなく汚らしい、という考え方があったのですね。

 ここで特に強調されているのは中世に伝来した書物血盆経です。

 

 この本によると、女性は生理的出血で神仏に不浄を及ぼし、その罪で死語は血の池に落ちる、とかかれているそうです。

 この影響のせいか、酒の醸造や麹作りも近世中期になると女性たちは関わることができなくなってしまいます。
 
 なんともひどい話ですね。

 今だったら女性差別として訴えられてもおかしくないような記述ですね。

 ただ、宗教とは往々にしてそういうものだったりします。

 

 

 

女人禁制 (歴史文化ライブラリー)

女人禁制 (歴史文化ライブラリー)

 

 

ブッダはなぜ女嫌いになったのか (幻冬舎新書)

ブッダはなぜ女嫌いになったのか (幻冬舎新書)

 

 

 

 そして、その宗教によって女人禁制は一部、解かれることになるのです。

 

 富士山はいつから女人禁制になったか

 

 戦国時代末から近世初期にかけてです。
 
 理由としては月経による女性の不浄と、修行中の男性を女性から隔離する必要性があったためです。

 

 女性を受け入れる新たな山岳信仰集団の誕生

 

 角行という人物が独自の教義をもつ富士山信仰集団をつくります。

 開祖の名は角行(生年不詳~1646)。
 その系譜に連なる江戸の俗人行者の食行身禄(1671~1733)が出てきます。

 彼は仙元大菩薩から「みろくの世」という理想的な世界について告げられたといいます。
 
 人々が正直・慈悲・倹約・謙遜などの徳目を実践すれば「みろくの世」は実現し、世直しが行われるといい、信者達を多くつくることに成功します。

 

 彼の死語、信者達は師弟関係や地縁などに基づく小集団を作りました。

 冨士講、他の冨士講と区別するために富士講身禄派」と呼ばれています。 
 
 農民や町人が主体で定期的に集まり、礼拝や富士参拝をしていました。

 

 食行は女性差別をしなかった

 

 食行は他の山岳宗教とは異なり、性別による違いを教義にしていませんでした。

 

 ・身分や性別は本質的な価値とは無関係
 ・道徳的な生き方をする人が尊い
 ・女性が罪深いのではなくて、行った行為で判断されるべきである

 ・人間を生み出す生理的出血はむしろ清浄である 

 

 正しい徳目を行うことが肝要なことであると考えていた食行にとって、先天的なことは重要ではなかったのです。

 うまれてから、正しい行いをしているかどうか。
 そこだけで判断しろ、と主張しているのです。

 

 江戸のフェミニスト 禄行三志
 
 

 一七〇〇年代になると禄行三志という人物が表れます。
 
 彼は食行の女性観を発展させます。
 陰陽五行説を用いて、彼は陽=男、陰=女であり、この陰陽が調和しなければ「世界崩壊の危機」が待っていると警告し、男女の平衡を説きます。

 

 

1 家業出精・孝行・相互扶助の実践

2 男性と女性の権利が偏っていては理想の世の中にはならないと考え、改めようとした。「女を上に、男を下に」、「女を先に」という標語を掲げた。
 
3夫婦が共同で家業に励むように勧め、妻が「旦那」の役割を果たすのもよいとした。更に夫の育児への参加も勧めた。

 

 

 

 というように、宗教的な理由とはいえ、今の男女平等論のようなことをいっていたわけです。
 
 彼らは冨士講身禄派との差異を強調して、自分たちのことを「不二孝」と呼び、一八二三年以降は不二道と称しました。
 
 

 

富士講の歴史―江戸庶民の山岳信仰

富士講の歴史―江戸庶民の山岳信仰

 

 

 富士山に登ることが許可された経緯

 

 不二道は女の富士登山を目標に活動していきます。
 
 女性の富士登山に反対したのは山麓の農山村でした。
 彼らは女性が山に登ると長雨が続き、飢饉と窮乏の原因になると信じていました。

 今だったら迷信といえるでしょうが、当時の人たちにとって餓死は直ぐ近くに潜んでいました。

 それゆえ、藁にもすがる思いで迷信を信じ込み、農業を営んでいたのです。

 それを思うと、一概に悪いとはいえませんね。

 

www.edojidai.info

 

 一八〇〇年 女人規制緩和の措置がとられそうになったものの……

 

 支配者から参拝者相手の営業を行う権利を認められ、登山道や山中の施設を管理し、秩序を維持する集団を御師といいます。

 女人禁制の緩和の声に応えるために六〇年に一度めぐる富士山縁年の庚申年に限って女人禁制を緩和しようとします。

 一八〇〇年のことです。

 

 しかし地元の村落がこれに反対したために取り下げるはめに。

 その後、不二道信者の「たつ」や法華宗の女性信者達が無断で登頂するという事態に発展します。

 

 折悪しくも、一八三三年から凶作が続いて天保の大飢饉が起こります。

 地元住人は女性の禁忌侵犯と凶作・飢饉とを関係づけ、女性の取り締まりがきびしくなってしまいます。
 一八四〇年以降は登山道二合目までしか登れないことになったのでした。

 

 不二孝といい法華宗といい、宗教に嵌まった人間の勝手な行動と運の悪さによって女性への偏見が却って高まってしまったのです。

 

 ついに富士山が女性にも解禁される 宗教の理念が慣習を変える瞬間

 

 一八六〇年、村落の反対にあって叶わなかった富士山登山が、再び庚申がめぐってきたことにより、女人禁制が緩和されます。
 御師の管理権が及ぶ八合目まで、女性に開放されることになったのです。

 

 不二道信者達はこれに歓喜し、理想の世の前触れとして歓迎し、富士山へ登山します。
 
 また不二道や冨士講身禄派に限らず、女性参詣者やその男性同伴者が登山道に集中しました。

 

 この結果、女性は参拝者誘致のきっかけになると判断し、吉田口以外の登山道もひらかれることになります。

 こうして女人禁制は富士山においては認められるようになりました。
 
 しかし他の山々では禁じていた場所は多くあり、明治になるのを待たねばなりませんでした。

 富士山登頂が認められたのはひとえに不二道富士講身禄派らの宗教的な教義に支えられた行動のおかげだったのです。

 ここに彼らの功績があるといってもよいでしょう。

 

 明治政府が女人禁制をやめた理由ー外国人が日本に来るからー
 
 

 さて、明治に入ると女人禁制は不合理なこととして、斥けられます。

 しかし、本当の理由は外国人のためでした。

 

 第一回京都博覧会を訪れる外国人の男女観光客を滋賀県に誘致するために、滋賀県令が比叡山の女人禁制の廃止を求め、大蔵省・教部省がこれに賛成。

 そして、布告が出されたのでした。

 

 この布告には強制力はなかったのですが、その頃には女人禁制は形骸化していたため、積極的に拒む人はいなくなっていたのだろうといわれています。

 

 それにしても、外国人のために自国の慣習や法制度を改める話をきくと、今の日本政府と何にも変わっていないことがよくわかりますね。

 日本人は外圧に弱いのでした。

 

 終わりに
 
 

 今回の『近世史講義』の紹介はいかがでしたでしょうか。
 
 ここで紹介したように女性がどのように生活し、どのような権限をもっていたのか仔細に書いてあるのがこの本の特徴です。

 

 江戸時代における女性の処遇がどういったものであったかを知りたい方には必読の書であるといえます。

 興味があったら、ぜひかってみてください。

 

 では、また。ズンダでした。

 

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