私たちは教育の重要性を疑うことはありません。
誰もが学校へ通い、誰もが人生で通用するための力を養い獲得できるもの、それが教育だと思っています。
しかし今回の記事はそれを真っ向から批判します。
批判者はエマニュエル・トッド氏です。
パリのソルボンヌ大学で歴史学を学び、ケンブリッジ大学に進学。
ソ連の崩壊やアメリカ大統領選に於けるトランプ大統領の勝利を予想し得た人物です。
そんな彼は教育が新しい格差を生み出してきたといって憚りません。
そしてそのせいで、アメリカやヨーロッパは知識階級と労働者階級との間で対立が生じているとまでいいます。
いったいどういうことなのでしょうか?
『大分断 教育がもたらす新たな階級社会』(PHP新書)をみていきましょう。
本書の内容はトッド氏の「発言(intervention)」です。
彼はメディアに出て、インタビューに答え、社会問題や時事問題について意見を述べることをトッド氏は「発言」と呼んでいます。
この著の翻訳を行った大野舞氏によると2017年から2020年にわたってのインタビューをまとめたもののようです。
トッド氏はフランスに住んでいらっしゃるので、彼の分析は基本的にはフランスが中心になっています。
そこで、今回の記事では、トッドの発言を引きながら、日本人で彼と同じような分析をしている人の本を紹介していこうと思います。
読者の方々におかれましては、トッドの分析を用いて、日本はどうなのかを考えることがしやすくなるでしょう。
教育格差と何か
教育の耐えられない現実
まずトッド氏は次のことを引き合いに出します。
アメリカの経済学者ブライアン・カプランは、その著作において「教育は、雇用主にとって都合よく仕事に励む、順応主義的な社員を雇うことを可能とした」と述べています(『大学なんか行っても意味はない?─教育反対の経済学』)
つまり、教育というのは企業が求めている人材を作り出すということです。
順応主義=何かに素直に従う機械のような主義、をもった人々を生産することが教育の意味になっていると述べたいわけですね。
※教育現場に次から次へ求められる経済界からの要望。AI教育やビジネス教育、英会話教育やダンスなど。
そういった実学志向は教育現場を乱し、先生や子供の負担が大きくなるだけで、何ら有用性がないと批判しているのが榎本氏の『教育現場は困ってる』の内容です。
企業が望む人材育成の場に教育現場は成り下がっていることの例証といえるでしょう。
トッド氏は『経済幻想』 の中で、教育による階層化について書きました。
2020年に出版した『Les Luttes de classes en France au XXIe siècle』(二十一世紀フランスの階級闘争:未邦訳) で検討しているのが、高等教育の発展が社会の文化的な側面に格差をもたらしたという内容だそうです。
ちなみにこの高等教育とは日本でいう四年制大学のことであり、高校教育のことではありせん。
最終的には生産過程のどこに位置付けられるのかという点で定義される、まさしくマルクス主義的な意味での社会階級にたどり着くのです。
トッド氏がいうには、人は学歴によってどこで働くのかが決定されているといいます。
ホワイトワーカーやブルーワーカーなどの違いは我々にとっても馴染みがあるでしょう。
学歴が高い人は暖房や冷房が効いた部屋で、知的作業や事務作業が多くなるのに対し、低い人たちは外の工場や建設現場などで汗水ながして働いている。
そういう想像はかなりしやいでしょう。
日本でも東京大学や慶應・早稲田大学を卒業するのと、地方大学を卒業するのとでは意味が異なると思います。つまりそこで注視しなければならないのは、大学の中でもトップレベルとそれ以外という区分がある点です。
そして、大学へ入学したとしても一流大学といわゆるF欄大学では就職可能なところが分けられている。
これもまたわかりきった話ですね。
ここで問題なのはこういった学歴によって決まる職業で、我々の社会では階層が細かくわけられ、そしてそれが政治に影響を与えているという観点です。
私たちは就職できる職業や会社など違うことは知っています。
しかし、それが政治に影響を与えていくことについてはあまり語りません。
「生産過程のどこに位置付けられるのかという点で定義される、まさしくマルクス主義的な意味での社会階級にたどり着く」
というトッド氏の発言は「教育によって埋められるはずであった不平等が、逆に教育によって不平等になっていってしまう」ことを意味しているのです。
当たり前ですが、誰もが東大や早稲田に入れるわけではありません。
それどころかそもそも四年制大学への進学率は2019年の統計をみるに、日本に於いては約50%です。
となると、二人に一人はそもそも四年制大学へいっていないのです。
しかも、これはあくまで今の若い世代限定の話であり、当然、高齢者になればなるほど、大学進学率は少なかったわけです。
表13.4年制大学への進学率と18歳人口の推移
https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf
実はこの教育格差について指摘している日本人もいます。
この本こそまさにトッド氏がいっていることを日本において裏付けた本になっています。
私たちが如何にして学歴によって分断されてしまっているのかを2009年の段階で記した著作です。
高学歴が一般国民のことを見ていない
トッド氏は学歴によって文化的、社会的に異なる人間の層が拡大したと考えています。
教育の発展は止まってしまい、さらに高等教育を受けているのは社会の一部でしかない、という事実も明確になりました。高等教育は特権的な職業に就くための一種の資格のようになり、本当の意味での資格の意義は失われました。
高等教育の機能の一つが、社会を階級化し、選別するものになってしまっているということ
今や高等教育は学ぶ場というよりも、支配階級が自らの再生産を守るためのものになり、被支配階級の子供たちよりもどれだけ上の教育を受けられるか、ということが重要
いわゆる高等教育を受けたエリートたちは、決して能力主義のおかげでそこにいるわけではなく、あくまで階級によってそこにいるのです。このような状況が、マルクスの階級社会を 彷彿 とさせます。彼らは国を指導する立場にあり、権力、特権、そしてお金も持っています
進学校へ行ったり塾へ行けたりする人間はもともと親が高学歴であり、お金があります。
そして彼らは一律に自分たちの子供を育てていきます。
すると、高学歴エリート達は文化的に同様の集団として政治の世界で活動しはじめます。
この記事には東大進学率がまとめられています。
非常に有名な錚々たるメンツになっていますね。
これこそトッドが述べている問題点なのです。
裕福な親によって、こうした進学校へいれられます。
同級生は同じ学校、同じような教育を受けて作られた人々。
受験校という工場で大量生産された均質化した人たちが東大に入学し、自分たちのグループを維持し続けたまま大学生活を送ります。
更に、彼らはそのまま政治家や官僚になったり、大企業へ入ったり、起業したりと社会を支配する側にまわります。
当然、彼らの人生に於いて「エリート以外の人々」と関係することはありません。
揺り籠から墓場まで、ずっと同質な人々と共に生きて、死んでいきます。
フランスでは、学力においての競争力は、知的な開花を目的とするのではなく、ある社会階級がその階級をいかに効率的に再生産できるかという問題において重要な要素になってしまいました。ブルジョワはいかにブルジョワであり続けられるのか。彼らは高等教育を受けなければいけない。資本力があるので子供は家庭教師もつけてもらえます。そしてそれが経済格差をも再生産し続けています。
今日、知識人階級において非常に強く感じる変化は、彼らがどんどん内向的になってしまっているということです。
この内向的の意味。
例えばヨーロッパの知識人はいつまでもEU幻想というものを抱いている。統一通貨による各国の併合などできるはずがないのにヨーロッパが一つとなれると思い込んでいる。
しかも、その考えをダレも疑わない。
同質な人間たちだからです。
外部からの思考を受け入れ、点検することがない堕落した知識階級のことを指しています。
トッド氏は今の子供たちと昔の子供たちを比較しています。
一九五〇年代から七〇年代頃まで、理系で有名なポリテクニック校の学生は、もちろん数学に秀でていなければなりませんでしたが、それと同時に学校はカルチェ・ラタン、パリの中心部にあったので、夜は外でのびのびと遊ぶこともできたのです。しかし今やその学校も郊外に引っ越してしまいました。今はとにかく、学生たちも「完璧」であることを求められるようになってしまったのです。そして自らを成熟させるために学ぶのではなく、自分以外の人を押しつぶすために学んでいるかのようになっています。 いかに自分が従順であり、忍耐強く、そして順応主義者であるかを見せつけるために高等教育を受けるのです。しかし、そうすることで生まれるのは愚か者たちでしかないと言わざるをえません。今、結果的に巧妙な〝反能力主義的システム〟が表出してきていると言えるでしょう。
氏の回顧がどれだけ正しいものなのかはわかりませんが、能力主義を取り入れたはずの教育の結果が、こうした再生産を生むだけになっている。
そして、それは能力主義とは異なる「反能力主義」になっているといいます。
親のもつ金の力や同じ学校の人間たちによる縁故的な利益供与を思えば、「反能力主義」になっていることがわかるでしょう。
そして根っこが同じなので、同じような考え方(例えば、EUは可能である、とか均衡財政が正当だとか)が正しいと思っている。
お互いの間で反響し合い、余計に頑迷固陋な人たちになってしまう。
エコーチェンバーといわれる状態にエリートはなっているということですね。
高学歴と低学歴とに分断されたフランスで黄色いベスト運動が起こる
斯くしてフランスでは「黄色いベスト運動」が起こります。
フランスで二〇一八年から起きていたのは、仏大統領マクロン派の権力側と「黄色いベスト」たちの対立です(「黄色いベスト運動」。燃料税の引き上げ反対から始まったフランスの国民的デモ運動を指す)。これは高等教育を受け、非常に頭が良いとされながら実際には何も理解していない人々と、下層に属する、多くは三〇代から四〇代の低収入の人々、高等教育を受けていないながらも知性のある人々の衝突でした。つまり、フランスのような国では学業と知性の分離というのはすでに始まっていることなのです。
トッド氏にいわせると、この対立はエリートVS低学歴でした。
フランス政府は自国民が求めているものを全く理解できず、「誰のための政治」をしているのかが不在になったままの状態が続いているといいます。
だから、長くて優秀な学歴をひたすら積み上げることばかりにエネルギーを費やしていると、考える時間など持てないのです。自分とは何者かということを考える時間がない、つまり知的になる時間がないまま
突き詰めれば、彼らの得意なことは勉強をすることで、究極のミッションは学歴を高めるということです。そして一人で考える時間を全く持たないまま、就職をする歳になってしまうのです。
こんなふうに労働者階級や低学歴の人々を無視ししてしまう知識階級に対して厳しい批判をしています。
低学歴が正しいかというとそうではない
ちなみに、トッド氏は高学歴だけが悪くて、低学歴は善良であるという考えに自分は与しないとのべています。
しかしながら、ラッシュを始め、エリートたちを告発し、民衆こそが特別な資質を持っているという人々の主張には私は同意できません
しかし、だからと言って民衆の方が本質的に良い、というふうには思わなくなりました。民衆の方が教育レベルは低く、運も悪い、だからこそ彼らは道徳的には上だ、という考えはおかしいのです。これは器用に見えて平等の原理の歪みです。平等の原理に賛同するというのは、エリートと民衆の双方を同時に批判できるということです。
というふうに、エリートも民衆も悪いところは悪く、良いところは良いと平等に見るべきであるという見識を披露しています。
終わりに
今回紹介したのはこの本の「第一章」です。
更に、教育格差に関連した頁から引用や例などを加えました。
トッド氏はやはりフランスの人間なのでヨーロッパやアメリカのことについては詳しいのですが、日本については特に語るべきことをあまり持ち合わせていないようにかんじられました。
彼お得意の民主主義社会の系統に日本を当てはめる形で分析はしてみせますが、それが何処まで当たってるかというとやや判断はしにくいです。
また、この本はトッドがいうところの「発言」にあたるものでして、様々なデータなどはほぼ記載されていません。
よって、トッドのいっていることを更に詳しくしたい方は以下の著作をお読みになるとよいでしょう。
では、また近いうちにお会いしましょう。ズンダでした。
ブックマーク&読者登録おねがいします。
日本人でトッドと同様なことをいっているのは以下の本になります。
またこの本のなかで触れられている政治家が国民のほうを向いていないことについてダグラス・マレーの本に詳しいでしょう。
フランス大統領マクロンについてトッドはボコボコに酷評していますが、そのマクロンのおかしさについては次の本がよいでしょう。
*1:氏は基本的に、グローバリズムがもたらした弊害、中流階級の没落や脱工業化、更に政府支出を削る緊縮財政になどによって、多くの一般人は賃金が下がったり仕事がなくなったりして、不平不満抱えるようになったと考えている。現在の先進国の課題はグローバリズムから脱して、保護主義に舵を切れるかにある。ちなみにフランスの失業率は9%である。
また保護主義は社会主義でも共産主義でもなく、国家を守るための資本主義の一部であるといっています。更に世界市場に自国を開くというのは〈反民主主義〉であるとも。
民主主義とは、抽象的な人類のための概念というだけではなく、ある一定の市民がある理由から組織化し、同じ言語でコミュニケーションができる状態を基盤とし、そこから様々な決断を下していくプロセスを指します。だから民主主義は、国家という要素を必ず含んでいるのです。しかしながら現代において、その点が不明確になっているため、国内の分断と ネーション 批判と民主主義システムの没落が同時に起きているのです。