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江戸時代の思想家はいかにしてその思想を伝達したか?『江戸の学びと思想家たち』を紹介する!

 

 

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 江戸時代の思想家

 朱子学を前提として

 

 思想というと、私たち日本人は歴々たる西洋の哲学者たちを思い浮かべますね。


 
 ソクラテスプラトンアリストテレストマス・アクィナススピノザニーチェ・・・・・・この他にも多くの哲学者達がおり、西洋思想の本は山ほど日本でもあります。

 

 目を転じて、日本の思想家と考えたとき、いったい誰のことを考えますか?

 

 なかなか出てこないのではないでしょうか。
 ましてや、江戸時代と限定すれば尚のこと。

 

 今回紹介する辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書)は朱子学が流行った徳川幕府下の日本にいた思想家、山崎闇斎伊藤仁斎荻生徂徠石田梅岩本居宣長平田篤胤明六社の人々らを取り上げたものです。

 

 

 辻本氏は彼らの思想を列挙するだけでなく、当時の出版体制や民衆の向学心を掬い上げ、更には思想家同士の差異や共通部分を指摘しています。

 

 共通するのは朱子学に対していかに向き合ったかでしょう。

 

 評論家である小林秀雄が述べたように江戸時代の思想家は、四書五経という朱子によって必須と定められた経典をいかに解釈するかを競っていました。

 

 儒学の世界では、六-七歳の子どもが素読洋に『考経』や『大学』などを初めて手にする。頂点の儒者たちも、手にするテキストは初心者のそれとほぼ変わることがない。儒者たちは、過去の解釈史をふまえて「正しい」解釈に努めるというちがいがあるだけである。(P52)(赤字はズンダ)


 江戸時代における思想家は朱子学の影響で、皆と同じ本を使い、己の個性を尖鋭化させた解釈を施していたのです。

 

 よって本書で扱われる山崎闇斎伊藤仁斎荻生徂徠石田梅岩らは

朱子学を私はこう解釈した」という主張をする思想家なのです。

 

 彼らの中にはまず「朱子学」があり、その上で彼らの「個性」が表現されます。

 

 そこには文献を徹底的に自分のものとするための〈身体化〉作業があり、またそれを伝えるために〈文字中心〉〈声の復権かという伝達媒体(メディア)の違いがあったわけです。

 

 では、今回はそのうちの一人、山崎闇斎をみてみましょう。

 

 朱子学を正しく解釈するにはどうすればいいのか

 本当の〈解釈〉を会得するために-作者の死?-

 

 私たちは共通の作品、映画、漫画、アニメ、ゲームなどを受容しています。

 たとえば、『サザエさん』や『ドラえもん』などは多くの日本人が一度はみたことがあるでしょう。

 

 でも、その作品や一話一話をどう解釈するかは人によって異なりますね。

 

 その人の体験や作品をみるための知識などによって解釈は千変万化とはいいすぎですが、異なったものになるでしょう。

 

 その多様な解釈は現代に於いて称賛されているし、認められています。

 ですが、こう思ったことはありませんか。
  
 「じゃあ、どの解釈が正しいんだよ」って。

 

 いかに作品を受け取る人が多いとはいえ、作者はだいたい一人です。

 その作者が伝えたいことや書きたいことはそれなりに決まっているし、全く外れた読みは単なる誤読でしょう。

 

 この点について、数ヶ月前に翻訳家の鴻巣友季子と作家の桜庭一樹との間で一悶着がありました。

 この問題は誤読なのかそれとも解釈なのか?ということを争っています。

 

togetter.com

 

 こういった読み方がどうのといった話は難しい。

 現代思想で有名なロラン・バルトが「作者の死」という言葉を残しています。

 

 これは「読み手に渡った瞬間から読み手の解釈によって文章は理解されるので、作者が何を考えていたのかなんて確定できない」ということを表現した言葉です。

 

 それはそうで、本を読むことは作者本人が不在の中で答えをみつける作業なのです。

 

 けれども、作者の背景やその本が書かれた時代性を知ることは大事です。

 

 北村紗衣『批評の教室』(ちくま新書)には次のように書かれています。

 

 実は作者を完全に抹殺してしまうとまずいことがあります。「作者の意図」を気にして解釈する必要はないのですが、一方でテクストが生まれてきた歴史的背景についてはある程度理解しておかないととんでもない誤解をしてしまったり、そもそも内容がよくわからなくなったりしてしまうことがあります。テクストというものは、そのテクストが生まれた文化や歴史的状況と密接に結びついていることは忘れてはなりません。

 

 朱子そのものになりきることで、理解を目指す!

 

 さて、江戸時代の朱子学について見ていきましょう。  
 思想家、山崎闇斎は世間に蔓延っていた様々な経典解釈に怒り心頭に発した人物でした。

 

 彼は「今までの解釈は間違っている」と述べます。

 

 明代四書学の朱子学需要に、真っ向から異を唱えたのが山崎闇斎(一六一八-一六八二)であった。集註への煩瑣な注釈に終始する学問の在り方こそ、朱子の真意を見失わた元凶である。闇斎はそう激しく批判した。訓詁注釈に堕した明代四書学を峻拒し、真の朱子学の「体認自得」を主張したのである。(P58)(赤字はズンダ)

 

 

 朱子学はその人気ゆえに数多くの注釈書を生み出しました。それが中国で流行り、日本にも舶載書を通して伝わっていました。

 しかし、注釈書で多様に読まれるうちに朱子が本当にいいたかったことがなんなのかが逆に分からなくなったというのです。

 

 闇斎の変化-李退渓『自省録』との出会い-


 
 とはいっても山崎闇斎も三四歳になるまでは明代四書学によって経学を理解していました。

 李退渓の『自省録』を読み、彼は注釈を唾棄するようになります。

 

 李退渓は朱子の原典や肉声をうつした文書といわれる「四書集註」や『朱子文集』や『朱子語類』を使って、朱子学を学んでいました。

 

 山崎闇斎は彼に倣って朱子学「祖述者」たらんとします。

 

 ここで「祖述」というのは、たんに朱子学説を解釈し解説の語を重ねることではない。まして朱子を反復するだけの、新味のない学という意味でもない。子安宣邦の言に従えば、祖述とは「朱子における儒学再構成の作業の内部に追体験的に参入し、その再構成作業を己において再現すること」(『江戸思想史講義』)、つまり朱子が学んだのと同じ学びを追体験することによって、朱子の「真意」をなまなましく認識することである。

 

 

 山崎闇斎朱子と一体化することで正しく朱子学を理解しようと企みます。

 

 彼は名前を「嘉右衛門」(朱子の名は「嘉」なので)と自称したり蔵書の表紙や羽織り物を朱色にしたりし、身も心も朱子になろうとします。

 

 ここまで来ると、狂気に思えますし、信者であり、批判的な文書の読み方ではありません。

 

 一方でここまで熱心に一人の人物、一つの学問を究めようとした熱意は評価されるべきでしょう。

 

 「身体化された知」と「語り」

 

 徹底的に自身を朱子学の理解者としてふるまうために山崎闇斎〈特権的な語り手〉になろうとします。

 それを示すのが彼の「語り」です。


 闇斎の「敬斎箴講義」という講義の一節をみてみましょう。

 

 扠敬ト云ヘルハ何ノ子細も無く、此心を欝乎々々と放チヤラズ、平生吃ト照シツメルヲ敬ト云ゾ・・・・・・只此心ヲハッキリト呼サマシテ、此ノ間一物モナク、活潑々地ノ当体也。

 

 

 辻本氏はこれを次のように評しています。

 

 話し言葉そのままの生々しい文体である。(中略)俗語や擬態語を使った感覚的な表現に充ちている。それらは、ふつう書き言葉で使うことはないが、聴講者の身体感覚を呼び覚ますような語り口である。逆に言えば、身体感覚に迫ってくる語り口でないと伝わらない世界を、闇斎は伝えようとしていたのである。

 

 

 また、闇斎の講義は弟子の佐藤直方によれば「その講義ぶりは、一杖で講座を激しく叩き、その音吐は金のごとく、顔つきも激しく、聴者は凜然として顔を上げることさえできなかった」という独演であったとかいています。

 

 「口語の講釈が思想を伝える知のメディアとなった」というように闇斎本人の講釈が絶対でした。

 

 他の学派は経書註釈や概念の解説で師の教えが著されていましたが、山崎闇斎は講義中心でした。

 

 〈知の伝達メディア〉を生き生きとした闇斎本人の講義であり、書物ではないのです。

 ここに山崎闇斎の思想があります。

 

 終わりに

 

 この本では各思想家たちがどのような思想だったかだけでなく、どのようなメディアを選んで人々に「伝えたか」に焦点があてられています。

 

 そして、その「伝え方」こそが同時にその人の思想でもあるのです。

 思想は「伝え方」によって「伝わる人」を選び、その結果、中身の高低が変わります。


 読書中心になれば、当然、文字の読み書きができたり、本を読むだけの時間や労苦にたえられるような人たちの間で広まります。

 

 この本で言うと、荻生徂徠などがそうです。

 

 一方で、声で伝えれば、石田梅岩の対話、あるいはその弟子の手島堵庵のような不特定多数の学のない人にも伝えるためのマス・ローグになっていきます。

 これらは本当に学のない人々や子供にも朱子学が学びやすいように伝わっていきました。

 

 著者は終章において、現代日本の教育について語っています。

 

 インターネット、そして簡便に持ち運べるスマートフォンがある時代において、既存の教育制度はどこまで有効なのだろうか、と疑義を呈しています。

 

 文字の浸透と商業出版が「一七世紀のメディア革命」をうみだした。一九世紀後半、明治維新後の近代化の過程において、メディアのこの基調に変わりは無かった。それどころか、学校教育は文字と出版のメディアの位置を、さらに盤石なものにしていった。江戸期の均質な文字文化と成熟した出版文化を前提として、明治初期の国家による学校教育の大事業は、はじめて可能であった。

 

 

 この書籍中心の教育はもちろん、現代まで続いています。

 

 しかし、著者が「学校がになってきた〈近代の知〉そのものがすでに歴史的に不適合を起こしている」と指摘しているように今の時代には通用しなくなってきているのかもしれません。

 

 実際、若者はyoutubeやアプリなどで塾講師などの数学や社会の講義を見聞きしています。
 
 また近頃喧伝されている、ボイステック革命なども音声メディアの復権を思わせます。

 

 こうした中で、先生と生徒の関係性はますます崩れ、直接的に誰かに指導されるという「知の在り方」は変貌しつつあります。
 
 私たちにはこの本で紹介されている山崎闇斎伊藤仁斎石田梅岩本居宣長もいないのです。

 

 山崎闇斎朱子学を理解するために自身を一体化しようとしたり、厳しい講釈をしていたことはすでに触れました。

 

 このやり方は端から見れば滑稽でもあるし、恐懼すべきことでもあります。

 

 ですが、彼に教わった人々はその「身体化された知」を目前にすることができていたのです。

 

 それは、文字中心の教育やネットの動画とは異なり、学問に邁進する一人の人間を的礫と受講生に知らしめていたことでしょう。

 

 変動する時代に合わせて「江戸の学びと思想家」から学ぶことは思想だけではなく、その「伝え方」も学べる。

 現代の教育に足りてないものが江戸時代にあるのではないか。

 それこそが本書の一つの主旨です。

 

 

 では、またお会いしましょう。

 ズンダでした。
 
   

山崎闇斎についての本と、江戸時代の思想による闘いを描いた本を紹介しておく。