さて、本日紹介する本は鹿子生浩輝『マキァヴェッリ-『君主論』を読む』(岩波新書)です。
私の中だとどうしても、マキャベリという表記のほうが慣れているし、キーボードでも打ちやすいのですが、正しい表記はマキャヴェッリのようですね。
ちなみに本稿に入る前に述べておきたいことがあります。
この本の第一章と第六章とはマキャヴェッリが生きていた時代のフィレンツェの歴史を書いているのですが、これがこの時代の世界史を勉強したことがないと大変わかりにくいものとなっております。
そのため、読む前に
「君主論」は自己アピール論文だった?マキャベリとフィレンツェの歴史 | きっかけは、絶景から。 wondertrip[ワンダートリップ]
というサイトの文章を読んでおくことをお勧めいたします。
また、今回の書評においても最重要な部分というのは第二章から第四章と思われますので、今回扱う部分はこの二から四章までの三章分になります。
が、聞き慣れない名前のオンパレードになっており、私、ズンダにとってこの本の人物達の動きは非常にわかりにくいものであったことを告白しておかなければなりますまい。人物小辞典でも巻末にあればよかったのですが、ときどき論旨が見えにくい箇所があります。
よってこの本の読者はそもそもマキャヴェッリの本、『君主論』や『ディスコルシ』を読んでいる人向けだといって差し支えないでしょう。
マキャヴェッリに関する誤解
さて、マキャヴェッリ、彼は非常に有名な人物でしょう。マキャヴェッリズムという言葉は誰でも一度は聞いたことがあると思います。
目標を達成するためにはどんな残忍なことでもしなければならない。たとえば、殺害であったり、追放であったり……。
怖い話ですね。
現代日本でもマキャヴェッリは会社の経営者や上司に属する人物が、社員や部下をどう扱うべきなのか、会社を更張するには冷徹でなければならない、などと理論武装をするために読まれていることが多い印象があります。
しかし、ここで思い当たることがあるはずです。
マキャヴェッリって別に日本のサラリーマンのために本を書いたわけじゃないよね?ってことです。
著者の鹿子生氏はマキァヴェッリには数多くの誤解が付きまとっていると仰います。
今回私が扱うのは以下の一点です。
マキァヴェッリズムという言葉のせいで彼本人の思想が極悪だと思われている。
→『君主論』を精読すればマキァヴェッリズムは平板な残忍さを意味しないとわかる。
マキアヴェッリが生きていた時代をみよう
これにはマキャヴェッリが生きていた時代の政治状況を鑑みる必要があります。
マキャヴェッリがこの本を書いた理由は以下の二つです。
- フィレンツェの第二書記局の長であったが、ローマ教皇と戦うためにフランスと手を組んでいたソデリーニ率いるフィレンツェは、イタリア戦争でフランスが敗れ、マキアヴェッリを採用していたソデリーニモも失墜。その後、メディチ家が力をとりもどし、反メディチ家の疑いをかけられたマキャヴェッリは職を失う。
- 友人との手紙のやりとりで政治への興味が自分にはあるということを作興されて、『君主論』の執筆にとりかかる。そしてこの本は次代のメディチ家に対して「政治の仕方」を教えるためにかかれたものであり、また書記局で働きたいがための「就職論文」であった
つまり、マキャヴェッリの『君主論』これからロマーニャ地方(フィレンツェでないことに注意。この誤解もよくあることらしい。ロマーニャは今でいうところのアドリア海に面したリミニ県あたりのこと。)を治めることになるメディチ家の若者、ジュリアーノ乃至ロレンツォたちへの政治指南書というわけです。
『君主論』は君主国についてのみ語った本。「新君主」そして「徳」
では、この本でいったいどのようなことがいわれているのか。
マキァヴェッリは『ディスコルシ』で共和制について語っているために、『君主論』では君主国についてのみ語るといっています。
「新君主」という君主と、ヴィルトゥの意味
そして『君主論』の一章目から七章目でかかれていることは「新君主」(後記する1の「新君主」)という存在が如何にして国を統治していくのか、なのです。
これは『マキャヴェッリ』の二章から四章までに該当しております。
鹿子生氏が二章から四章まで軸として語っておられるのは
ヴィルトゥ(得、暴力、自力)についてです
ヴィルトゥはイタリア語で徳という意味です。
が、マキャヴェッリのこの本ではもう少し意味が多く、七章まではヴィルトゥ=暴力、それよりあとは善徳と悪徳、の意味で使われております。
現実政治に照らし合わせると暴力とは軍事力ですね。
二つの意味がある「新君主」
マキャヴェッリが述べた「新君主」は二通りに分けられています。
- 暴力によって一つの国の王になった人物。ヴィルトゥをもっている。
- 手引きによってヴィルトゥをもっていないが王になった人物、ジュリアーノもしくはロレンツォ。つまり、先ほどこの『君主論』という本は就職するために書かれた本だと記したようにマキャヴェッリが一章から七章まで「新君主の統治の仕方」を書く理由は若きメディチ家の支配者達に適当していたからなのです。
マキアヴェッリが善徳と悪徳とに分けて語った理由とはなにか。
徳というと我々日本人にもなじみ深い言葉ですね。誰でも漢文を習えば徳云々の話はでてくるからです。
さて、ここで語られる徳とは王に求められる徳のことです。
この徳には実は二種類あるといいます。
一つはよい徳。つまり、「あの人って慈悲深くて気前がよくて、優しくて、寛大でいい人ね」という意味の徳です。
もう一つは悪徳です。つまり、「ある物事、たとえば国に秩序と安定を与えるためには残虐無比なこともしなければならない」という意味の徳のことになります。
読者の皆様はマキャヴェッリについて掻い撫での知識がある人ほど、二つ目の悪徳について語っているマキャヴェッリにこそマキャヴェッリの真髄があると思われるかもしれませんね。
しかしながら、マキャヴェッリが普通の王に対して求める徳は、前者、つまり善徳のほうです。
基本的には王は民に対して寛容であるべきだというのがマキャヴェッリの考えです。
では、悪徳のヴィルトゥに価値があると称えていたのはどうしてなのでしょうか?不思議ですね。
実はマキャヴェッリが悪徳に価値ありというときは、ある条件が備わっている場合のみです。
その条件とは何か?
それは新しく国の王になる人間が「新君主」(その国において何の背景も経歴も後ろ盾もなく、暴力によって前にいた王を放伐し、自分が王になった人のこと)
になった場合のときなのです。
つまり、この逆の言葉が「世襲君主」です。王様と何らかの血統的なつながりがあり、次の支配者として適格だと自然に思われている人のことですね。
このあたり、中国の易姓革命を思い出しますね。
あの国でも受禅と放伐という考え方がありました。
受禅は皆が納得する形で次の人に王の位を与える方法。
放伐は、星客帝座を犯す、というように身分の低い物が突如として現れ、帝をぶっとばし、地位を簒奪することですね。
王になる資格をもつ人間には資格が要る。マックス=ウェーバーの考え方。
ここで、マックス=ウェーバーというドイツの社会学者の言葉をひいてみましょう。
彼は王様になるための条件を次の三つにわけました。
の三つです。
これで考えると、「世襲君主」というのは伝統的支配に当たります。
しかし、新君主というのはこの三つのどの条件にも当たらない王のことを指します。つまり、「この人が王様になるにはれっきとした理由がある!」と誰もいえない人のことです。
日本でいえば、その辺の佐藤さんとか鈴木さんが、「俺、明日から王様ね」といって、王の地位についたとしても誰からも祝福されないし、誰も彼を王だとは認めないでしょう?
それが新君主の定義です。
そして、こうやって国を奪った人間は最初からどうやっても暴力に頼らざるを得ないということになります。
なぜかというと、暴力で民や貴族を黙らせて、自分のいうことをきかせる以外にないからなのです。人は何処の馬の骨かもわからない人間のいうことはきかないものです。
それゆえ、支配が落ち着くまでは悪徳を用いる必要がある、ということなのですね。
マキャヴェッリが誤解された理由
時代性を考えないことの悪弊
これが後生の人たちにやたらと主張されてしまったためにマキャヴェッリは誤解されることになってしまったわけですが、彼の基本的な考え方は善徳こそ君主にとって肝要だということを押さえておかなければなりません。
ではどうして後生の人たちはマキャヴェッリの特徴は残忍さにあると考えてしまったのでしょうか。
これは今の日本のサラリーマン達と同じく、マキャヴェッリの時代性を考えずに後生の人々が読んだせいだと鹿子生氏は述べておられます。
マキャヴェッリの『君主論』はあくまでメディチ家のために書かれた本であり、君主国一般についての考察ではない。この本を正しく読むための秘鑰は、新しく国を治めることになった「新君主」という限定的な君主にあるのです。
悪徳の価値はマキアヴェッリ以外も語っていた
先ほど述べた、善のヴィルドゥ(君主のあるべき姿のことを「君主の鑑」論という。)は、中世の学者たち、ペトラルカ、ポンタ-ノ、プラティーナ、マイオなどが辯説しているのですが、彼らも実は、悪徳の重要性を語っており、マキアヴェッリが悪徳の価値を語った最初の人物ではないということがわかっております。
ただし、彼らがどうして「君主の鑑」論者として名高いかというと、彼らの読者とは当時の世襲君主やその子息だったからなのです。
要するに先ほど援用したウェーバーでいうところの「伝統的支配」に属する人物たちへ向けた本だったのですね。
それゆえ、悪徳の価値について彼らは特筆大書する必要がなかったというわけなのです。
マキャヴェッリの場合は来るべきメディチ家がロマーニャ地方を統治する際に関しては暴力的な「新君主」に該当すると考えていたからこそ、盛んに悪徳のヴィルトゥについて書くわけです。
そして、その意図や文脈を後生の人は酌み取らなかったが故に、マキャヴェッリ=極悪非道な現実主義者、と渾名されるようになったのですね。
マキアヴェッリは善徳こそ君主にふさわしいが、「新君主」は善徳だけでは統治できない。故に悪徳が要る。適切に使い分けるようにせよ、ということだったのです。
終わりに
今回のブログでは多くの方々が感心あったであろうマキアヴェッリズムの悪特性を中心にかいてみました。これこそ、一般の方々に流布しているもっとも大きな誤解されている言葉だと思ったからです。
と、同時に、『マキアヴェッリ』のもっとも気合いが入っている部分は二章から四章なのではないか?と推断したためです。
次からはもう少し論旨がはっきりした文章を書かなければならないな、と思いました。またよろしくお願いします。
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さて、マキャヴェッリの書籍についてですが、あまりに多くの出版社から翻訳書が出されているために紹介しきれません。
ここでは今回の本と、『君主論』や『ディスコルシ』といった代表作、そしてわかりやすく掴むための漫画をすすめておきます。
こうしてみると、その辺の小説家よりも遙かに点数が多いという印象を受けました。
皆参も、どれかかしらかの本を手に取ってお楽しみください、ズンダでした。
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- 作者: ニッコロマキアヴェッリ,Nicoll`o Machiavelli,河島英昭
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/06/16
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*1:そしてここからが複雑なのだが八章からは後から附記されたものだといわれており、その理由は、ジュリアーノに献辞するはずが、ロレンツォあてになっていることから変化があったことを意味している。ここから突然、マキアヴェッリは徳の概念を暴力から、善徳悪徳というこの当時よく使われていた意味で使い始める。というのも、八章目からはロマーニャ地方ではなく、フィレンツェを意識した記述になるのだが、メディチ家はもともとフィレンツェの支配者であったことを思えば、1の横暴な人間による支配ではなくて、2による「新君主」なのである。ということはヴィルトゥ=暴力、の図式ではなく、ヴィルトゥ=善徳悪徳の話こそがフィレンツェにおけるメディチ家支配の状況を説明するのにふさわしいと考えたのであろう。フィレンツェを善く治めて欲しいというマキアヴェッリの考えをメディチ家に主張するために、徳の前提を変えて、議論しなければならなくなったわけである。ここが『君主論』読者が躓く理由の一つ。