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【感想】正義マンのやってることは暴力と変わらない。『善意と暴力』(幻冬舎新書)を紹介。

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イラスト屋


 

 

  今回は堀内進之輔『善意という暴力』の紹介です。
 
 初めに述べておきますが、この本の内容はいたって簡単です。
 

 

 


 第一章目と第二章目の要約
 

 ネットでよくみる炎上

 第一章と第二章でいいたいことは語り尽くされている本です。

 要約すると同時に皆さんに分かりやすく説明していきます。

 

 犯罪やネット上での炎上騒ぎが起こった後に部外者たちが「謝罪しろ、反省しろ!」という道徳観の上にたった善意によって相手に詰めよることがありますね。
 

 それは、「善意であると同時に暴力的」であるということを主張した本です。

 

 怒っている当の本人は「自分は正しいから人のことをいくら批判してもかまわない。社会から抹殺しても許される」と考えているんだけれども、それは暴力でしかない。

 それで満足してよいのですか?と問いかけています。

 

 更にそこからフーコー的な管理社会論を背景に、「政府や官僚に対して激怒している人が多い。が、気をつけるべきは明確な出来事ではなく、我々が意識することができない支配に対して気をつけるべきなのだ」というわけです。
 
 

 善意によって人を助ける正義マンの登場

 本を読んでいて「正義マン」という単語を思い出しました。

 この単語、軽減税率のおかしさを指摘する中で、ついに地上派デビューを果たしたようです。

 

 

コンビニのイートインを使う場合は十%。

           使わない場合は八%

 

 ずいぶん、変な税金のかけかたですね。

 そこで、地上派のテレビで「正義マン」という存在が紹介されたそうです。

 

 

「私は外で食べるから八%で!」といった人が、イートインで食べ始めたとします。

 すると、それをみていた人が、

「あいつ、嘘ついてますよ!店のなかで食べているから十%のはずです。脱税野郎だ!」と店員に申告する。

 こういう告げ口行為をする人のことを「正義マン」と呼ぶと紹介していたそうです。

 

 

 もともと、ネット発祥の言葉であります。

 この言葉の由来は以下のような事例からうまれました。
 
 

 電車で痴漢にあった被害者が「この人、痴漢です!」と叫ぶ。

 すると、警察でもない一般人が痴漢だとされた容疑者に飛びかかり、押さえつけたり殴ったりする。
 その結果、肋骨がおれたり、押さえつけすぎて死んでしまう出来事などが起こるようになりました。

 ネット住民はこういった己の正義感を満たすために強行にでる人間のことを皮肉って「正義マン」と呼ぶようになりました。

 

 

 

 勿論、痴漢した人間が悪いことは間違いないです。
 

 しかし問題は、「本当にその人が痴漢をしたのか」ということです。
 これに関しては現行犯逮捕をするか、もしくは裁判においての判決をまたねばなりません。
 
 それにもかかわらず、警察でもなんでもない一般人が一人の人間を取り押さえることは許されるのでしょうか。

 「善意に溺れて我を見失っている」のではありませんか。

 

 一方で、新幹線内で女性が暴行を受けた際、日本人の誰もが彼女を助けようとしなかったというウソのような実話もあります。 こういった場合、「正義マン」がいてくれれば、と思う方もいらっしゃるでしょう。 

 

 こういった善意や正義に浸ってしまう前に、冷静に考えてみることが大事ではないだろうか?ということがこの本にはかかれています。
 
 

 
 筆者の文章の書き方に不満がある。

 いいたいことが分からない。関連性の低い引用や脈絡のない文章が余計。

 

 さて、この本、表題やテーマは素晴らしいのですが、不満がないわけでもありません。

 目次をみると、第一章から第六章まであります。
 
 第三章と第四章の出来が非常に悪く、何を言いたいのか曖昧模糊としたまま進みます。

 

 P133の「保守論客ケント・ギルバート」のところは文章の始め方が悪く、意味をとりにくい。
 

 更に言うと、全体的に社会学者や心理学の実験などの引用が多すぎて、論旨が逆にとりにくくなっているきらいがあります。

 
 事あるごとに逐一、○○『△△△』(×××)という形式の引用が入るために筆者が何をいいたいのかがぼんやりしてきてしまうというわけです。明らかに引用癖のある文章です。
 その引用が論旨を補強するために必要なものであれば、当然なされるべきでしょう。
 しかし、たとえばP134の「追認バイアスの典型だ。宮台真司『権力の予期理論‐了解を媒介にした作動形式』」部分の引用などは、読んでいて「そんなことをいうために引用する必要なんてないだろ」と苦笑してしまいました。
 余計な引用が多すぎる。*1

 

 引用された本は、書店に通っている人間であれば目にしたことが多いはずです。
 というか、堀内氏が読んでいる本はこのブログでもとりあげたことのある内容であったり、私が読んでいる本だったりして、親近感はあるのですが、それ故に、あまり驚きがなかったりもします。

zunnda.hatenablog.com

 

 加えて、この本を読んでいて、メンタリストDaiGoの放送をみているような気がしました。
 というか、DaiGoの放送で足りるかも……。
 ある意味で言うとDaiGoが優秀なのかもしれない。
 
 

 引用が多い割に、中身は薄い
 
 

 もう少し語ると、あらゆる人間の社会的な行動や所謂、ネトウヨネット左翼(=パヨクとよばれている)も含めた背景には「善意」によって正当化された行動がある、という話なのですが、それを根拠立てて語ることの難しさがあったのかとおもいます。
 
 ましてや炎上に参加している人はネット人口の0・5%にしかすぎないという数年前の研究もありますから、0・5%を相手にするのもどんなもんだろ、という気もします。

 

 更におかしな点をあげます。
 
 P164に道徳哲学を教えるデヴィッド・デグラジアの話がでてきます。

 デグラジアは「モラル・エンハンスメント」という考えに賛同しています。
 これは薬を使うことで人の道徳性を強制的に高めることをいいます。

 そして、「モラル・エンハンスメントの結果、戦争や飢餓がなくなり、世界の全ての人が基本的な生活必需品にアクセスできると想像してみてください。人々の道徳的行動やそのような歓迎される結果のためならば、それを理由に、私は自由の減少を全面的に受け入れるでしょう」とまでデグラジアはいいます。
 

 これに対して、著者である堀内氏は次のような意味不明な批判をします。

 

 英紙「ガーディアン」は、世界にはいま約四〇三〇万人以上の実質的な奴隷がいると報じた。国連の調査では、十五~十九世紀の奴隷は一三〇〇万人程度だったから、ざっと三倍以上だ。そのうち二四九〇万人が強制労働をさせられている。(中略)デグラジアたちは、彼らのような状態に置かれている人から、二五%の自由度を減少させてよいというのだろうか。

  
 

 と述べるのです。
 私はこの部分を読んだときに「?」となりました。
 
 そもそも、デグラジアは道徳的な社会を求めている人間だからこそ、自由が制限されてもいいといっているのです。
 
 だとすれば、デグラジアの考えは次のように推論できるでしょう。
 
 

 ①奴隷状態は道徳性から逸脱しているから、奴隷の数を減らしたい。
 ②モラル・エンハンスメントを行えば人を奴隷にしようとする人たちの数も減らせるはずである。
 ③故にモラル・エンハンスメントを進めた方が、世界にいる実質奴隷下にある人々を助けることにつながるはずである。

 

 

 というか、推論などしなくても、デグラジアは「世界の飢餓や戦争をなくして、人々がみな生活必需品にありつくことができるようになる未来をつくりたい。だからモラル・エンハンスメントに賛同する」という、私からすれば、行き過ぎな理想主義的思想の持ち主なのです。*2

  

 それがどうしたら「デグラジアは奴隷下にある人々の自由を奪うつもりだ!」などというふうに解釈できるのでしょうか。

 デグラジアは奴隷状態におかれている人々を放置していいとおもうような人なのでしょうか。

 

 私はこの部分、明らかに牽強付会だとしか思えませんが。
 あまりにも杜撰な読み方ではないですか?
 人のホルモンバランスを変えてまで、道徳性に重点を置くような人間が、奴隷を認めるわけがないでしょう。
 ※無論、デグラジアが奴隷状態を認めているというのであれば、あってもよい批判ではある。だが、その場合、そこも引用すべきであろう。 

 

 自分に都合の良いふうに引用してしまうような読み方をするのであれば、引用数をもっと減らして、しっかりと読み込むべきでしょう。
 
 
 この本のとっちらかった感じは、多数の本に触れてはいるが、それをパッチワークのように貼り付けているだけだからなのかもしれません。

 

 それゆえ、第六章などになると、もはや読んだ本の羅列にしかすぎない文章が続き、結局、何をいいたいの?と問いかけたくなります。

 

 私はあなたの読書遍歴を知りたいわけではないのです。
 あなたのいう「善意という暴力」がどういったもので、そしてどう解決されるのか。あるいは解決されないのか。
 
 その考えを読みたいのであります。*3


 というわけで、散々いってまいりましたが、しかし、私はそれでも政治学者の書いた本というのは好きです。
 というのも単純に読みやすい。
 
 これが日本史の本などになると、非常に厳密に論を進めていくのですが、政治学者は抽象的に語るので、具体的な知識がなくとも読めてしまうからです。
 そこには細かさがない。
 
 ただ、この本は私にとっては退屈であったなあ、と。
 目次は確かにあるのに、項目を分ける必要があったのか、と最後に目次を見直して思ってしまった。

 コンニャクをずっと噛まされているような文です。

 本当は編集者が介入すべきではないんだろうか?

*4

 

 

 最初からAmazonレビューをみていればなあ、と悔やまれますね。

 前著をみればだいたい次の本も同じような水準なので買わないで住む。

 

 

 ということで、今回の記事はこれにておわりです。*5

 

 なんか、酷評してるようですが、「こんな本があるのか!」というのを知る分にはいい本です。橘令氏の本に似てるかも。

 

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善意という暴力 (幻冬舎新書)

善意という暴力 (幻冬舎新書)

 

 


 
 

*1:本文を書き終わった後にwikipediaをみたら、畠山弘文明治学院大学における指導教官であり、東京都立大学院では宮台真司のゼミ生だったらしい。それで、この引用の謎は氷解された。

*2:私も自由や平等や平和は大事だと思うが、頭のなかをいじくられたいかといわれると嫌である。かといって、モラル・エンハンスメントを完全に否定できるかとうと難しい。

*3:ちなみに筆者の意見が強く出ているところが一カ所だけある。「動員されない、されても立ち直れる社会の仕組みとは?」である。それゆえ、この本もメッセージがないのかもしれない。

*4:Amazonで氏の前作『感情で釣られる人々』のレビューをみてみると、どうやら前からこういった癖のある人らしい。

*5:この文を書き終えた後、Amazonレビューをみたら、星5つをつけながらも、全く満足してない人の感想文があった。
 私ズンダの感想も突き詰めると、彼と同じようなものである