ストーリーの展開だけであれば、前日の記事で要約した通りです。
この記事は妄想による感想なので、適当にお読みください。
読み方の一つとして受け取ってもらえれば幸いです。
『小説 天気の子』は新海監督の誓文である
絵は美しいのだろうが、中身はノリ頼み
小説の内容に新海監督作品のうつくしいビジュアルが加わることで、作品が面白くなっていることをは小説を読んだだけの私にも理解できます。
しかし、単純に小説としてだけよむと、「勢い」頼みが強すぎやしないかともおもいました。
ともかく粗が目立ちます。
ですが、これは「新海誠」の誓文作品であると考えると解決します。
新海監督は帆高
結論を言わせていただきますと、この作品は新海監督の私小説的な作品だと思われます。
主役の帆高は新海監督であり、ヒロインは新海監督が映画に求めている「作品性」を指しています。
新海監督は大衆に媚びるような映画を撮りたくはなかった。
しかし、『君が名は。』が大ヒットしてしまったことにより、新海監督は自分の作品が大勢の人たちを想定しなければならないことにたえられなくなっていたのです。
そんな悩みを払うために、もういちど、芸術家としての矜持を取り戻すために新海監督が製作したのが、『天気の子』という作品の正体です。
新海監督の悩みとは
深海監督はこの小説の後書きで『君の名は』が受けた当時のことを振り返っています。
引用します。
今作の発想のきっかけは、前作の映画『君の名は。』が僕たち制作者の想定を遙かに超えてヒットしてしまったことにあったとおもう。……いやしかし「想定を越えてヒットしてしまった」なんて、なんとイヤラシイ書き方であろうか。でもそれは僕にとっては本当に桁違いだったのだ。~(中略)~SNSには膨大なコメントが溢れていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に起こっていらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ
と、『君の名は。』が結構、批判されたことを気にしておられたようです。
確かにこの作品、随所に口コミや『yahoo!知恵袋』などがでてきます。
そこでは、ネット上の荒れた書き込みが紹介されており、新海監督が『君の名は。」でみたであろう感想もこういうものだったのでしょうね。
そんなに批判されてたっけ?という感じもするのですが。
自分の作品とは何であるかを主張する
そして映画に対して一つの答えを出すことができたと新海氏は述べます。
「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテイメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことをー例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを-語るべきだと、僕は今更にあらためて思ったのだ。~(中略)~「老若男女が足を運ぶ夏休み映画にふさわしい品位を」的なことは、もう一切考えなかった。遠慮も忖度も慎重さもなく、バッテリーがからっぽになるまで躊躇なく力を使い果たしてしまう主人公達を、彼らに背中を叩かれているような心持ちで脚本にした。
「遠慮も忖度も慎重さも」というのは
- 「犯罪」
- 「公務執行妨害」
- 「主人公が拳銃をうってしまう」
- 「雨がやまない結末」→賛否両論をうむ
というところでしょう。
「おいおい、ほんとうにそれでいいのか?」という選択を主人公はやっていきます。
何を振り払ってでも理想にたどり着こうとする主人公の、猪突猛進な行動を前に、「いったい自分は何をみせられているのだろう」という気持ちになっていきます。
そもそも、主人公、帆高は「なぜ、島を出たのか」
あとがきから読む『天気の子』
ということで、新海氏は『君の名は。』に束縛されてしまうようなことがあってはならないと考えたようです。
その気持ちを抱きながら書いた作品が今作『天気の子』だということです。
私は後書きを読み、作品をふりかえってみて、この作品は『君が名は』に捕らわれたそうになった自分の枠を、ぶち壊すために作られた作品としてみるべきではないか、と思いました。
無論、勝手な想像です。特に根拠はありません。テクスト論者からすれば筆者の後書きから考えることは邪道といわれるかもしれません。
しかし、作品の何とも言えない設定の薄さとイベントの脈絡のなさをみると、どうも自分の創作への立ち位置を示すために描かれたような作品としか思えませんでした。
急ごしらえな薄い描写
たとえば、夏美や須賀の背景や心理は小説版でもかかれているのですが、それが物語に繋がるというほどのものではありません。
彼らは自分の人生に葛藤や不安を覚えておりますが、ありきたりなものですし、誰にでもこういった悩みはあります。
というよりも、もっとも問題なことは彼らの背景が生きることがないということです。
むろん、主人公は帆高と陽菜なのですから、脇役である彼らが執拗に描かれる必要はありません。
しかしここまで関係がないとすると、背景や心理描写をする必要自体がないのではないか、と思わざるを得ないのです。
また、神の人柱になる、という話も小説版を読んでいると非常にあっさりとかかれているだけです。
普通であれば、もう少しこの点を詳しく説明し、そういった人柱伝説を補強するように物語をつくっていくと思うのですが、そんなこともありません。
非常に極あっさりと「そういうはなしがあるよね」程度なのです。
「君の名は」でもなぜ主人公達が入れ替わってしまったのかという理由について一応解説されるのにもかかわらず、この作品ではそんな理由どうでもいいといわんばかりに話が進みます
セカイ系を書きたかったわけではない
物語の終盤部分を読んでいくと、彼女を選ぶか、世界を選ぶかという対立構造になっているようにも思えます。
いわゆるセカイ系を意識したのではないか、という意見もあります。*1
しかし、肝心の恋愛感情についてあまり描写されることはない。
いってしまえば、唐突なのです。
そんなに帆高は陽菜に愛情を抱いていたのか。
世界を無茶苦茶にしてもいいと思うほどの愛情が何処かで描写されていただろうか?
この作品の主人公、帆高の特徴は行動が発作的なところです。
彼の行動は考えなしといっても過言ではありません。
この行動はもしかすると意図的なのかもしれない。
そう考えるといよいよ新海監督が書きたかったものがみえてきます。
私の見立てでは、陽菜=自分が表現したい作品=光、なのです。
そして帆高は新海監督です。
セカイ系の振りはしている。
しかし、実態は
帆高=新海VS大衆が望むもの、が対立軸である。
ではないかと考えています。これをセカイ系としてとるのは理論的なものにとらわれすぎています。
島を出る、ことの意味
そもそもどうして帆高は島を出る必要があったのでしょうか。
実はこの理由がなかなかでてきません。
島から出るフェリーに乗っているとき、帆高はそれを決意表明してもいいはずです。
しかし、彼が島をでた理由は96頁において陽菜から質問されてはじめて表現されます。
「―息苦しくて……地元も親も。東京にもちょっと憧れてたし……」
という思春期によくありがちな理由ですね。
この表現にかぎらず、全体的に暗いのがこの作品の特徴です。
そしてこの暗さこそが深海監督の当時かかえていた闇であったとおもわれます。
あの日もたしか、島は雨だった。空を分厚い雨雲が流れ、でもその隙間から、幾つもの光の筋が伸びていた。僕はあの光を負ったのだ。あの光に追いつきたくて、あの光にはいりたくて、海岸沿いの道を自転車で必死に走ったのだ。追いついた!と思った瞬間、でもそこは海岸の崖端で、陽射しは海のずっと向こうまで流れて行ってしまった。―いつかあの光の中に行こう、その時僕は、そう決めたのだ。
この記述があったあとに、帆高は一人の少女、つまり陽菜に出会うわけです。
少女は短く笑った。そのとたん、雲間から日が射したみたいに景色に色がついた。
島でみた「光」と陽菜がくれた「光」とが照合していることがわかります。
帆高にとって陽菜は、島にいたときの自分が必死に自転車を漕いで追いかけた「光」と同じような存在だったわけです。
帆高が島を出た本当の理由は「光」にあったわけです。
光=陽菜を手に入れた帆高
「もう二度と晴れなくたっていい!」
「青空よりも、俺は陽菜がいい!」
「天気なんて―」
「狂ったままでいいんだ!」
そして願う。僕たちの心が言う。体が言う。声が言う。恋が言う。生きろという。
と「恋」している表現がでてきます。
しかし、これでは唐突すぎやしませんか。
いつから陽菜にそんなに強い思いを抱くようになったんだよ、と思わずにはいられません。
一応、148頁で、凪から帆高が陽菜に恋心を抱いていることを指摘されますが、それもあっさりしたものです。
つまり、これは「恋」をあらわしてなどいません。
自分が求めている欲求に身を任せ、荒波をものともせずに、自分の理想の作品を追求していく新海監督の陽菜=光、への告白だったのです。
※つまり、陽菜を人間としてみてはいけない。陽菜は芸術性の象徴としての存在である、ということ。非人格としてみる。そもそも陽菜は晴天をもたらす特殊な存在であることを思えば、彼女は人間性を与えられていないとみることができる。
ちなみに、この作品の序章は、あの事件が終わったあと、高校を卒業して東京に行くためのフェリーに乗った帆高の心情描写から始まります。
そこでこういう描写があります。
「あいつには前科があるらしい」とか、「今でも警察に追われているらしい」とか、僕が学校でそんな噂をされるようになったのは、二年前の東京での出来事がきっかけだった。~(中略)~この二年半、雨は常にそこにあった。どんなに息を殺しても決して消せない古道のように。どんなに強くつむっても完全な闇には出来ない瞼のように。どんなに沈めても片時も沈黙できない心のように
陽菜を救って時間が経ったあと、帆高は自分の選択に少し迷いが生じていました。このあと陽菜と再会することで自身の選択に迷いがなかったこと再確認します。ここでも、やはり陽菜の存在が自分の闇を払うものであることがわかるでしょう。
ここまで見てみると、物語でよくみかける「世界」を守る道を選ぶよりも「陽菜という個人」を守る道を選んだと言う主張をしたいわけではないと思えます。
まとめ
・帆高が陽菜を助けたのは恋愛感情ではない。鬱屈した島での生活に刺激を与えてくれた「光」を陽菜にみたからであり、その延長線上に助けるという行為がある。この「光」は『君の名は。』で自分を見失いそうになった新海が行くべき芸術の道である。
帆高=新海は芸術をとるために世界=世評を捨てることを決意した。
・フェリーでの「この二年間半、雨は常にそこにあった」というのは新海監督の『君の名は。』公開後の状態に似ていたのではないか。色んな人から批判され、それを気にしていた新海氏の気持ちと。曇っていて、空は晴れない。雨がふっている。この「曇天」は新海の気もちの暗喩である。全体的に湿った煮え切らないどんよりとした雰囲気があるのは、新海のココロをあらわしている。
・「天気の子」というタイトルの意味:陽菜を手にしたことにより世界は曇ったが、自分のココロだけは光り輝いていることに注意が要る。世界が曇っても自分だけが光っていることの大切さ。それは新海が誰に批判されようが、芸術家として大衆を裏切っても「自分の真摯な芸術性を」裏切らないという芸術=陽菜=光を意味している。
この終盤でいわれている「世界」は昔からそうやって変化してきた、と言う話や「狂ってるんだよ」という話に帆高が「僕らが変えたんだ」という主張も、これを要するに、新海氏に対する世間の期待を『天気の子』で切り開いたという宣言をしたのではないか。
帆高は陽菜と再び出会うことによって、その気持ちを再確認しました。
という妄想的な感想でした。
皆さんはどんな小説や映画に触れて、どんな感想をもたれたでしょうか。
私もこれからいろんなサイトを調べてみようかと思います。
次のズンダブログの更新は菅野仁『友だち幻想』(ちくまプリマー新書)です。
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追記:こう考えると次の新海氏の作品が楽しみです。恐らく相当ぶっこわれた作品をみせてくれるはず。
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※個人的には帆高が見つけてしまった銃ってなんなんだろう?とおもいます。あの場面は必要だったのだろうか。