前回の続きです
第三回目 「内的経験」
「聖なるもの」の詳細
「聖なるもの」の概念は第三回目から詳しく説明されています。
まず、最初に「聖なるもの」について語ったのはドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットー『聖なるもの』(1917年)です。 オットーは客観的ではなく、感覚的なものであり、宗教現象の中核にあるものだと定義します。
カイヨワはフランスの思想家バタイユと一緒に研究をしていた時期があり、彼の影響で『人間と聖なるもの』という文書をかいています。
近代社会は合理的な文明世界なのですが、その世界にも「聖なるもの」は存在しているといいます。
前回も記したとおり、「聖なるもの」は我々に陶酔をもたらし気持ちを昂ぶらせ、理性を失わせ、あるものに熱中させます。
それが戦争に没入してしまったときに「全体戦争」の悲劇がうまれるというわけです。
戦争という恐怖や畏れの対象にあるはずのものに人は惹きつけられてしまう。
ファム・ファタルに見る「聖なるもの」
よく危ない男や危ない女などに魅力を覚え、破滅する人物が小説や映画などにかかれることがありますね。
いわゆる、ファム・ファタル(運命の女)などといわれれます。
その女にはまり込んだがために人生が壊れてしまう人を描いた作品は数多くあります。
映画だと古いですが『氷の微笑』です。
あれも主人公は女性に誘惑されて殺されてしまうのです。
戦争にはこういった人々を誑かす力があるとカイヨワはいうのです。
バタイユの「内的経験」とは?祭りやエヴァンゲリオン
この考え方の背景には彼に影響を与えたバタイユの考えがあります。
バタイユは「内的体験」という用語を残しています。*1
それは一人一人の個人の殻が壊れてしまい、全体に溶け込む現象を指します。
たとえば、お祭りを想像してみましょう。 太鼓や踊りや花火などを大勢の人たちがみているうちに、徐々に連帯感のようなものがうまれてくることがありませんか?
一緒に同じものをみて、同じものを味わう。
そういったものに集中することで我々は一体感を覚えはじめ、まるで旧知であったかのように親密な気持ちになります。
あるいは、エヴァンゲリオンというアニメがあります。
あの作品の旧劇といわれる映画版では最終局面において、彼らのもっている自己の殻がすべて破壊され、個人として存在することができなくなり、彼らの実態は溶けていきます。
つまり、個人という存在は共同体と同化することで消え失せたという表現なのですね。
あれなどはまさにバタイユのいう「内的経験」を描いたといえましょう。
もともと「内的経験」はキリスト教でいうところの神秘思想でした。
しかし現代人は神を信じている人が少ないので、「内的経験」と言い換えたのです。 そして、それは神という存在なしでも、我々に引き起こされる現象だとバタイユは主張したいのですね。
まとめると次のようになります。
「聖なるもの」とは主体と客体との区別をなくし、世界を混沌に飲み込む。合理的な世界においては区別されていなければならないが、「非常事態」=「戦争」が起こると非合理な世界が我々に襲いかかるために「聖なるもの」が再びあらわれる
ということです。
近代社会において封殺されていたはずの非合理の世界が戦争によって復活してしまうのです。
第四回目 無機質な現代戦を防ぐための心構え
カイヨワの『戦争論』は現代でも通ずるか
さて、第四回目に移ります。
第四回目は第二次世界大戦後の戦争について西谷氏の記述が中心になります。
それもそのはず。
カイヨワの戦争論がかかれたのは1963年のことです。
今から七十年も前であり、彼が描いた戦争はAIもドローンもありません。
そのため西谷氏はカイヨワの『戦争論』の射程を現代戦に合わせようとしているわけです。
その象徴的な考え方を見てみましょう。
カイヨワの『戦争論』の正式名は『ベローナ、あるいは戦争への傾き』といいます。
ベローナってなに?
この「ベローナ」とは何のことか?
ベローナはローマ神話に出てくる戦争の神、マルスの妻あるいは妹といわれている戦神です。
若い人であれば『任天堂 スマッシュブラザーズ』に登場しているマルスをしっているかもしれません。
彼はローマの戦神なのです。
マルスは勇猛や武勲など戦争の表面を体現し、ベローナは血や肉が飛び散り殺し合う凄惨さを表現しているといわれています。
カイヨワが「ベローナ」をもってきた理由は、戦争における裏側の、残酷な部分を示す非合理性を表徴するためであろうと西谷氏は推測しておられます。
カイヨワ自身による説明はないのです。
現代戦になり、戦争はいよいよ人間を介在しない戦いへとうつってきています。
そのとき我々に戦争を抑止することはできるのだろうか。
そんなとき「ベローナ」の神を思い出せ、と西谷氏は仰います。
引用します。
人間が生き続ける、誰もがそれぞれに生きられる未来を望むのなら、戦争の、汚辱にまみれ、醜くおぞましい、生々しくリアルな、禍々しいその姿を直視して、そこから目を逸らしてはいけないのです。
終わりに
カイヨワの戦争論は七十年前にかかれたこともあってか、今ではいささか古く感じられるように思えます。
その戦争形態の分け方も私ズンダにとっては既知のものでしたが、こうして読み返すと、貴族戦争などというのは一時的な形態にしかすぎず、この戦争は人間の争いを代表してはいないと思います。
しかし、今と違って、昔は思想家などがこういう大きな思想書を書いて、物事をざっくりと描くことが多かったのです。
それが専門性がいよいよ増してくると、思想家の概念的なモノの捉え方には疑問符がつけられるようになり、形を潜めました
それがよかったことなのか、私には判断がつきません。
第四回目の部分はカイヨワが出る幕はあまりなく、実質、今回の内容は第三回目までで全て終わっているといえるでしょう。
というわけで、NHK百分de名著 ロジェ・カイヨワ でした。
歴史の叙述が実はかなりあるのですが、当方の紹介では省いております。
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