昭和史の謎が遂に解かれる
戦争が終わって75年が経ちました。
私たちの多くは戦後社会の人間であります。
こうした中、戦後の歴史研究はどんどん進んでおります。
学校教育で「現代史」をならうでしょう。
その「現代史」研究の最前線でどのようなことがいわれているのか知りたい方に必読の本がついにちくま新書から発刊されました。
今回はこの本の中から2つほどの講義を紹介していきましょう。
ラストボロフ事件ー米ソ情報戦と日本ー
松本清張『日本の黒い霧』から60年
ラストボロフ事件、というのをご存じでしょうか。
作家、松本清張がネタにしたスパイにまつわる事件です。
引用します。
在日ソ連代表部二等書記官のユリ・ラストボロフが1954年一月二四日にアメリカに亡命を行い、日本国内で多数のエージェントを用いて諜報活動を行っていた実態を暴露した事件である。
戦後、外地にいた日本人は外国から日本に帰ってきます。
これを「引揚(ひきあげ)」といいます。
約70万人の日本軍人がソ連支配領域で捕虜となっており、引揚に関する米ソの協定が一九四六年一二月一九日に締結されます。
アメリカはソ連がこの協定を隠れ蓑にして日本国内に諜報員を浸透させようとしていることを摑んでいました。
後にCICとCIAがラストボロフを尋問した際、帰還者のうち250人を間諜として扱えると供述していたことがわかっています。
このとき、ソ連にいた日本人の多くは帰国条件として「ソ連のスパイとして日本に戻れ。そして、要職に就いて、日本の再軍備計画や国内政治関係、米軍の情報を流せ」という契約を交わすことを余儀なくされます。
つまり、日本に帰るためにソ連のスパイになることが要請されたのです。
この事件自体はそれなりに有名なのですが、この『昭和史講義』の価値は研究の進展を教えてくれるところにあります。
松本清張が『日本の黒い霧』所収「ラストヴォロフ事件」で強調したのはラストボロフの供述はアメリカによる捏造であり、アメリカがソ連に対して優勢に立とうとするための策ではないかという謀略性を疑うものでした。
しかし、近年、アメリカ側がこの当時の資料を公開したことによって、この松本清張の記述に間違いがあることがわかりました。
CIC(対敵諜報部)作成の個人ファイルがあり、約七五〇枚に及ぶCICラストボロフファイルがあります。
また、ラストボロフが言明した日本人スパイ16名のファイルもありました。
アメリカのでっち上げではなかった
では、松本との何処がおかしかったのか。
引用します。
例えば事件容疑者の一人である日暮信則について松本は、決してラストボロフに情報を提供したことはなく、またアメリカ情報機関と協力しソ連の脅威の演出に協力した可能性が高いとしている。しかしCIC日暮信則ファイルによって、松本の当該記述は明らかな誤りであることが分かる。CIC日暮信則ファイル内のラストボロフ供述では、日暮がラストボロフに提供した情報の詳細や、その情報がソ連代表部から高く評価され実際に活用されたことが詳しく記されている。また日暮がアメリカ情報機関に協力して供述を捏造した事実もない。(註:太字はズンダによる)
つまり、松本はアメリカの企みによって日暮が対ソ連への世論工作に利用された人物、というふうに書いていたわけです。
しかし公開されたファイルによって、彼がスパイだと確定したのですね。
アメリカはソ連から日本に還ってくる人々がスパイになっていることを当然しっていました。
それがCICが日本占領期に行った「プロジェクト・スティッチ作戦」です。
この作戦は
というものでした。
まるで映画みたいですが、実際に行われていた作戦です。
敗戦国・日本の悲劇
ここで私たち日本人が考えなければならないことは「敗戦国・日本」の姿です。
戦争に負けたために抑留者は現地で奴隷のように扱われます。
※ちなみにこの本に書いてあるが、シベリア抑留の悲惨さが語られることが多いが、イギリスが管理していたアジアにおいても、日本人は捕虜として扱われることなく、JSP(降伏日本人)という名目で、無給で労働をさせられていた。
スパイとして帰還した後は、ソ連を出し抜くためにアメリカのスパイとしても利用されてしまう。
こんな悲しいことがあるでしょうか。
また、敗戦国としての惨めさはラストボロフの亡命にも見いだせます。
松本清張の正しい指摘
先にも述べたように、新資料が公開されたことにより、松本清張の明白な誤りがわかりました。
ですが、松本の指摘に頷ける部分もあります。
彼はラストボロフの亡命は講和条約で成立した日本の主権を侵犯するものだと指摘しています。
不法出国してアメリカへ渡っているわけですからね。
そして、この事件について、未だに日本警察やソ連側からの資料が出ていないという事実も忘れてはならないでしょう。
あくまで第一四講で描かれた事件の真相はアメリカ側の資料なのです。
そう考えると、松本清張の誤りとされている部分も覆る可能性がある、のかもしれませんね。
近い将来、この事件の全貌が明かされることはあるのでしょうか。
朝鮮戦争で日本が果たした役割
日本の戦後を決めた戦争
これに対してアメリカ、カナダ、フィリピン、ベルギー、オーストラリアなどの国連加盟国によって国連軍が参戦します。
この戦争により戦後日本への影響と道のりは次のようになりました。
・サンフランシスコ条約において、「全面講和」を望む声があったが、「多数講和」が主流となった。
・日本は「民主主義世界」と「共産主義世界」の「二つの世界」のうち民主主義陣営を選ぶことになった。
・戦前から日本の貿易は東アジアを中心に行われていたため当時の吉田首相は中国との貿易を望んでいたが、朝鮮戦争によって「特需」が発生。更にアメリカが日本の共産化を防ぐために「日米経済協力」を開始、貿易対象がアメリカと東南アジアになる。
・明治以来、朝鮮は日本において安全保障上、重要であった。
山県有朋は朝鮮半島の防護を唱えていた。 戦後、アメリカが朝鮮問題に絡むことで地政学的紛争要因を日本に代わって受け持つことになった。
※アメリカの外交官ジョージ・ケナンは「今日われわれは、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである」(『アメリカ外交50年』)
こういう点で朝鮮戦争は現在までの日本の道程の端緒とみることができるでしょう。
朝鮮戦争に於ける日本人の貢献
さて、ここまでみると、あたかもアメリカのおかげで朝鮮戦争は終わりを迎え、日本は漁夫の利を得ることができたかのように思われるでしょう。
しかし、この戦争は日本人のアメリカへの協力がなければとても成功しえませんでした。
金大中大統領は「日本という後方基地、協力してくれる国があることが、どれほど韓国に大きな助けになるか」(『読売新聞』二〇〇二年七月二六日)といっています。
また、ロバート・マーフィー初代駐日大使も次のように述べています。
日本人は、驚くべき速さで、彼らの四つの島を一つの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、朝鮮戦争は戦うことはできなかったはずである。日本人の船舶と鉄道の専門家たちは、彼ら自身の熟練した部下とともに朝鮮に行って、アメリカならびに国連の司令部のもとで働いた。この朝鮮をよく知っている日本人専門家たち数千人の援助がなかったならば、朝鮮に残留するのにとても困難な目にあったことであろう(ロバート・マーフィ『軍人のなかの外交官』)。
と述べています。
そしてこれは、戦前の「遺産」を有効活用できたからなのです。
では、日本人はどういった支援を行っていたのでしょうか。
見てみましょう。
貢献の第一
・在日米軍基地の使用。
七〇〇カ所を超え、総面積が大阪府の広さに匹敵していた。
出撃、前進、兵站・補給、訓練(演習)の基地として機能した。
貢献の第二
・日本は掃海部隊による機雷除去を行った。また、輸送拠点としての港湾、軍需品(兵器・弾薬)の生産・整備・修理・補給、国鉄・船舶による輸送、病院など医療協力、地方自治体による基地労働者募集・基地や港湾の警備といったハード面のみならず、それに付随するマンパワーなどソフトの面においても重要な役割を果たしていた。
基地労務者、工場労働者、看護婦、船員、船上・埠頭荷役、水先案内、艦艇修理、浚渫工事など。
こういった物資や役務の調達がいわゆる「特需」を生みます。
戦争一年目 三億二九〇〇万ドル
二年目 三億三一〇〇万ドル
三年目 四億九〇〇〇万ドル
鉱業生産は戦前の水準を超え、日本の経済復興のきっかけとなりました。
山口県に韓国の亡命政権が作られる可能性があった
ところで個人的に面白いなと思ったのは、国連軍が釜山前面にまで追い詰められた場合、六万人規模の韓国の亡命政権が山口に設置される構想があったということです。
もし、国連軍が敗北していたら、実現していたのでしょうか。
ということで、今回の記事ではちくま新書『昭和史講義 戦後編』を紹介してみました。
本書では他にも、「憲法九条はそもそも肯定されていた根拠が弱い」と述べる第7講義「新憲法と世論の変遷」や一九九〇年代から研究が進んだ第四講「復員と引揚げ」など、敗戦後の日本がどのように進んできたかを俗説や旧説を排して説明している講義が多数ならんでおります。
戦後75年を期に、日本の歩みを確認したいかたはぜひお手にとってご覧になるとよいでしょう。
↓江戸時代講義もでてます。それについて紹介した記事です。