※この記事は動画のための覚書です。
後々、考えがまとまったら更に追記をするために記事を作成しておく。
自己啓発youtuberとは
人生に対して自分の意識を変えれば上手くようになるという人たちのこと。
特徴として、一個の人間に過大に期待している。加えて、政治嫌い。
リバタリアンの類い。
自己責任論と自己啓発は同じ
自己責任論と自己啓発論者にありがちな主張と勘違い
①個人がなんでもできるという勘違い
②自己啓発をしてくる成功者たちがよくいう「僕は凡人です」という勘違い
→凡人じゃないから成功していることは無視する。
彼らが気軽に言う「転職せよ」や「行動せよ」はそもそも多くの人ができるものではない。自分が出来たからと行って、他人ができるとは限らない。
なぜ、こういう勘違いが彼らに生じているのか?
なぜ自分を「凡人と主張するのか、偽るのか」
1 自分がどのレベルにいるのかわかってない、節穴説
2 謙虚なほど好感度はあがる。「俺すげえ才能あるから!」という奴はよほど愉快なキャラクターをしていないかぎり人気はでない。
3 自分の信者に商品をかわせるために自分をあえて凡人と定義している説自分を凡人といえば、みている視聴者たちも「僕らでも何か出来る!」と思ってしまう。
たとえば、「時間をかければ」「方法を改善すれば」という言葉に騙される。
いつのまにか「努力すれば」という方向に流されてしまう。
が、本当に「努力すればどうにかなるのか?」と一歩ふみとどまるべし。
セカイ系が受けた日本との関連性がある
セカイ系は自分の行動が世界の命運を握るという物語をいう。
日本人はミクロによる行動で世界が変わるという思い込みが強い。
実際はマクロも大切なはずなのに、ミクロについてのみ考え、マクロを捨てる。
自己啓発系の人らも必ずマクロを無視する。そのほうが都合がいいから。
David Goodhartがいった「anywhere族」こそが自己啓発youtuberの正体
加えて、彼らはDavid Goodhartがいうところのanywhere族であり、一般人はsomewhere族というのもあろう。
簡単に言うと海外を飛び回りながら何処へ行っても仕事ができる人たちを想像すればよい。
ここでもっとも簡単な例はyoutuberといえる。彼らに本拠地は必要なく、何処へ行っても動画を配信すれば、それで生計を立てられる。
たとえば、メンタリストDaiGoは好例といえる。
一時期の彼の動画はすべて海外からの配信であった。あれこそ典型的なanywhere族のお手本といえる。
なぜ、我々は自己啓発にはまるかーanywhere と somewhereの問題
ここで問題なのはanywhere族はsomewhere族に影響を及ぼすことが可能。
それは「自分を改良せよ!国家に頼るな!」という影響である。
リバタリアンなのである。
被自己啓発者たちは彼ら自己啓発者たちのいっていることに感動し、自分も彼らみたいになれると妄想する。
しかし、それをいっているanywhere族はそもそもsomewhere=被自己啓発者とは全く人生が異なる。
あなたがたの生活など一ミリたりとも知らないし、想像もしないし、彼らはあなたがたから影響を受けることもない。
自己啓発者たちが被自己啓発者らを心配して「もっといい職場がありますよ」といったとき、彼らはその中身など考えたこともない。空想の職場があるだけ、である。
anywhere族による一方的な感化を受け続けるのがsomewhere族である読者や視聴者である。
あわれにも自分が搾取されているということに気がつかない。
そして彼らを応援したり、彼らの思想に同調する。
が、ここで気づきべく事は「彼らは潤沢な資本があるので、いざとなったらそれを使って人生をどうにでもできるが、somewhere族は国家などの庇護がない状態で一人で生きていくことが不可能である」という事実である。
世の中には成功者などの考えを引用したり、同意したりすることで「自分も一角の人物になることができた」と思ってる人がいるようだが、考え直すべきである。
そういった人間が彼らと同じような思想を持っていた場合、どれだけ悲惨なことになるか。
今月に入ってから、台風やら大雨やらの影響で川が氾濫し、洪水に巻き込まされた家々や駅構内、または土砂災害などのニュースを見聞きした人たちは多いはずである。
それに対して「自己責任」といって笑ってられるのは、いつでも逃げることができるanywhere族だけであり、somewhere族である私やあなた方ではない。
現実を正しくみよう。
彼らの「自己責任論」を受容しても、我々には何の得もない。
※無論、彼らの全てを無視せよ、とは思わない。利用できるところは利用すればいい。
ちなみに下記の本、日本語訳がなされている途中であるというのを去年みたことがあるのだが、未だに出版されていない。頓挫したのだろうか。
The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics
- 作者: David Goodhart
- 出版社/メーカー: Penguin
- 発売日: 2017/09/28
- メディア: ペーパーバック
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能力がないと嘆く人がもっている最強の武器
選挙権の問題
成人になれば誰でも選挙権をもてるというのは大きい。
選挙権は「人を審査する権利をもっている」ということである。
たとえば、書道なり絵画なりで、審査員を務めるのであれば、その人は努力や才能があり、そして審査員にまで登り詰めるほどの政治をしてきた人でもある。
しかし、選挙権は日本国籍があれば、どんな無能でも審査員の席をもらえる。
我々は人を審査し、その人を政治家にしている。
これは普通に考えればありえないようなことだが、現実である。
となれば、それだけ大きな権力を得たのにもかかわらず、行使しないという手はない。
「自分が無能で、何の力ももっていない人間だと思うなら、政治活動をすることがもっともリターンを得ることができる」といえる。
副業をするぐらいなら、「政治活動」しろというべきである。
もっとマクロに目を向けるべき。マクロの改善はミクロも改善させるという事実を無視すべきではない。
日本人は政治を無視しすぎ=マクロの軽視
ただし、日本人は政治を無視する。
結局、「無能な自分が(政治以外で)頑張れば世界が変わる」という漫画やアニメ的な世界観につつまれている。
要するに選挙権を得る成人以前の物語が流行ってしまう理由は、「政治から逃げている」から。
先にも述べたように無能なあなたでももっている強大な権利こそが「選挙権」であるということを見詰めよう。
人はもっている武器を最大限に利用すべきである、というのであれば、「選挙権」を使うという選択こそが最善であるとわかるはず。
「自分が物語の主人公」だと勘違いし、努力すれば何でもできるとおもいこんでいる。
アランの『幸福論』もいきすぎるとこういうふうになる。
「この人、凄いな」という人物をみたことがないから、自分のことを信じすぎるのいではないか?
たとえば、為末大などは努力すればどうにかなるという考えを一蹴している。
彼は本当に凄い人物達を目の当たりにしてきたから、現実は努力程度ではどうにもならないとわかってしまった。
中野信子はそもそも努力が報われることなど殆どないという現実をのべたうえで、自分が本当に好きなことであれば、そもそも努力と感じるのだろうかという疑義を呈している。
ちなみにこの考えはすでに甲田露伴が『努力論』(岩波文庫)のなかでいっていることである。
日本に於ける努力という言葉の変遷は斎藤兆史『努力論』(中公文庫)にかかれている。
齋藤は「努力ということばは江戸時代までは苦痛なことをしょうがないからやらざるを得ないという意味であったが、明治時代に入り、立身出世の潮流ができ、self help=自助論が流行ったことで意味が変わった」というようなことを本書のなかで書いている。
日本の自己責任論や自己啓発は明治以降が強い。
が、明治は江戸で蓄積された階級が一旦リセットされたことによる恩恵があったからこそ、期待値が高かったといえる。
それに加えて、明治政府のほうで四民平等を訴え、倒幕したことを正当化するために「人々を悪政から解放した。これで皆さんは自由に努力して、自分を成長させ、能力を伸ばすことができますよ」という立身出世が可能になったという物語を作りたかったと考えられる。
大正時代に入るとここに「教養主義」の思想が追加され、自己練磨による努力至上主義の思想が更に高まっていく。
このあたり、下の竹内洋の本を薦めておく。
日本の受験生達の精神がいかなる魂胆や思想によって成り立っていたのかを解剖した本である。
しかしその明治ですら不平等は激しかった。
岩波書店の(岩波ジュニア新書)はその昔、宮崎哲弥が述べたように
「ジュニア」という名はついてはいるが、わかりやすいうえに中身が濃い。
下の本は2018年と近年出版された本で、明治時代の実相を描いた本なのでおすすめ。
当時のドキュメンタリーが読みたい方は以下の本をどうぞ。
問題はトマ・ピケティが『資本論』で述べたように戦争や革命などがないと資本のガラガラポンが起こらないので、再び蓄積が始まり、固定化が進む。
そうなると、個人の努力ではどうしようもない差が最初からつくことになる。
いってしまえば、家が裕福であるということが子供にどれだけの「資本」を与えるかということを論証したものである。
すなわち、「金があるだけでない目に見えない文化的な資本」の存在があることを教えてくれている。
そして、「どの家に生まれたかで、どうしようもない差がつく」ということも。
- 作者: ピエール・ブルデュー,ジャン=クロード・パスロン,戸田清,Pierre Bourdieu
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 1997/01/01
- メディア: 単行本
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ちなみに日本による教育格差については今年でた以下の本が非常に詳しく書いている。
親御さんなぞはご一読を。
さて、日本に於ける自己責任論の走りがみえてきた。
と同時に、社会は自助努力による「自己責任」程度で解決するような簡単なものではないということがわかってくる。
そして「自己責任論」というのは時計の針を逆に戻すという退嬰的な思想であることも意識しておこう。
この自己責任論が「無敵の人」をつくり、社会を弱肉強食の荒んだものへと変えて行ってしまう。
貧乏人や落伍者を放置するということは、端的にいって社会の治安を悪化させる。
これは差別ではく、実態である。
岡本英男は「現代貨幣理論(MMT)の思想的源流」(表現者クライテリオン 2019年9月号)において次のように述べている。
第一次大戦、ロシア革命、世界大恐慌、第二次大戦といった「危機の三十数年」を経るなかで、資本主義は古典的資本主義から現代本主義=福祉国家資本主義へと「大転換」したと捉えている。(中略)国家が恐慌や失業を克服するために経済過程や国民の生活過程に深く関与するようになると、それはもはや市場原理が自律的な社会ではなく、市場の働きが国家の計画原理によって補完された混合経済体制となる
すなわち第二次世界大戦後における進歩というのは「福祉国家」の形成であった。
むしろそれこそが、我々の暮らしを豊かにし、安定させるために必定であったといえる。
この経緯を踏まえると、「自己責任論」は社会の退歩と原始化にしかすぎない。
これに対して「しかし、国の財源には逼迫しているので、彼らを助けることができない」という財源問題はすでにMMTが解決したということは再三ブログでも書いたとおりである。
つまり、MMTはこうした強者から弱者への「お説教」ともいえる自己責任論(=自己啓発=社会の退歩)を除くことができるという点でも価値がある。
我々は彼らの言説をありがたく頂戴する必要などない。
むしろ、「退嬰的だね、君は」と嘲罵すべきである。*1
この文を書いている途中でメンタリストDaiGoによる「努力不足は自己責任」的な文章をみた。
典型的な、あまりにも典型的な退歩、だと思ったのであった。
合理的で科学的な姿勢はどこへいったのだろう?
結局、人間はどんなに勉強しても、根本的な思想を変えることはできないのであった。
まあ、いうても、DaiGoは放送でもいってるように「社会的に成功すればするほど、他人への共感力が失われる」って話を何度も紹介してるんだよね。
そう考えると、こういう感じになってくるのも、彼自身が身を以て立証したともいえるか。
努力不要論――脳科学が解く! 「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本
- 作者: 中野信子
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*1:正直、退歩だとか退嬰的だとか左翼っぽくて嫌である。しかし、原始時代のような生活をしろ、といわれて、その時代に戻りたい人間がいるのだろうか?誰でも医療や福祉や、あるいはインフラなどの恩恵を受けたいと思うのではないだろうか。それが国家の価値でもあろう。