学ぶってなんだろう。
学ぶことってどういうことなのか
かんがえたことありませんか。
私ズンダはyoutubeもやっています。
先日、撮った動画二つを結合しようと無料のダウンロードソフトを使ってやってみました。
それ自体は簡単だったのですが、そのソフトは無料版だと広告が動画に入ってしまうというものだったのです。
そのため諦めて別々に動画をあげることになってしまいました。
他にも色々無料のソフトは存在します。
しかし、どのソフトがいいのか私には全くわかりません。
皆さんも、初めて行うことについて右も左も分からずに戸惑ってしまうことがありませんか?
インターネットのおかげで、これだけ色んな情報を調べることができるのにもかかわらず、どうして何をしたらいいのかわからなくなってしまうのでしょうか。
これは我々の「学習の仕方」に秘密があるのです。
今回紹介する本 今井むつみ『学びとは何かー〈探求人〉になるために』は学ぶということはどういうふうに脳が動くのか、物事を認識するとは何なのか、を教えてくれる本です。
この本の紹介を思い立った理由は先述したように動画編集がわからなかった、というのが一つ。
もう一つはネット上で沖縄在住 小学生youtuberとして有名なゆたぼん氏が「算数は電卓があればいいし、わからない漢字はしらべればいい」と述べたからです。
確かにゆたぼん氏の考えは間違っていません。
大人になれば面倒な計算は電卓で済ましますし、難しい漢字もグーグルでみつけられると思います。
父親の操り人形という声もありますが。私にはわかりません。
しかし、これには忘れられていることがあります。
「調べても答がみつけられるのか?」
という問題です。
私ズンダが調べても結局、動画編集の仕方がわからないままなのと同じですね。
つまり、ゆたぼん氏の考え方は、まだ何も調べてない人間の考えなのです。
彼はこのような考え方をしているということは、
「実はまだ、人生で調べごとを経験したことがない」
ということを披瀝してしまっているわけです。
我々は物事を調べるときも調べ方を「学ぶ」必要があるのです。
では、「学ぶ」とはどういうことなのでしょうか。本を見ていきましょう。
知識とは何か?
スキーマという把握の仕方
黒い服を着た人たちが悲しい顔をしながら座敷に集い、ある女の人は白い手巾(ハンカチ)で顔を拭い、ある男は強張った表情 で背筋を伸ばしながら顎を上にあげ、 涙をこらえている。打って変わって、小さな子供たちは庭で追いかけっこして遊んでいた。
読者のみなさんはこの文章を読んだとき、人々がどんな状態にあると考えますか?
じっくり読んでみてください。
答えが出たら下の文章へどうぞ。
この場面は葬式です。
映画や漫画などでよくみかける場面ですね。
多くの人は今かかれた描写で何となく葬式についてなのではないかと思われたのではないでしょうか。
まず「黒い服」を皆が着ている。
そして「座敷」に集まり、「悲しい顔」をしている。
ある女は「手巾」で顔を拭って涙を拭き、男は「顎を上にあげて涙をこらえている」
こういう情報から私たちは、「葬式」ではないかと推測するわけですね。
部分的な情報から、あるものを理解することができる知識を心理学で
「スキーマ」といいます。
たとえば、海外の映画を見ているときにわからないことってありませんか。
なんで今、この人、この行動をとったんだろう?と。
これは「日常生活のスキーマ」がないために起こる現象です。
もう一つが物語の展開に関するスキーマです。
映画やドラマで
「ここは回想シーンだこの回想を使って、今現在、どうして主人公がこんな人生観をもつようになったのかが明らかにされるのだろう。」
といった推測ができる力。「物語のスキーマ」ですね。
ここから「前衛的な作品」とはこの「物語のスキーマ」が通じない作品のことだとわかります。
しかし、その前衛すらも一般に流布されると「物語のスキーマ」として人々に認知されるので、「前衛」ではなくなるのです。
知識のドネルケバブにはなっていけない
ドネルケバブというトルコの料理をしっているでしょうか。
写真をみれば一目瞭然ですね。
今井氏は知識はこういう断片的な知識を肉片のようにペタペタとくっつけてできあがったもののことを「知識ドネルケバブ・モデル」と呼んでいます。
この知識についての認識(知識についてのスキーマ)のことを「エピステモロジ-」といいます。
我々日本人は詰め込み教育のせいでアクティヴ・ラーニング(能動的な勉強)が足りていないせいで、知識=事実、と思っている節があると述べ、知識=事実の集積であってはならない。
生きた知識を身につけることが学習において大事なのだと結論づけておられます。
このアクティブ・ラーニングの重要性は以前DaiGo氏の本を紹介したときにも触れました。
↓リンクへどうぞ。
【書評】daigo 超効率勉強法の紹介!【感想】 - zunda’s blog
氏は暗記を絶対悪だとはいっておられません。引用します。
子供は母国語を学び始めるやいなや、母国語の音、語彙、文法などについて、個別の要素を学習していくだけでなく、それらを学習するスキーマをつくっていく。(中略)「思い込み」のスキーマはいつも正しいわけではない。間違う可能性もあるけれども、よい解決をもたらす確率が高い、というような性質のものだ。(中略)未完成であれ、知識のシステムの枠組みをつくるためだ。
というように我々は最初期の段階においては誤っている可能性のある
「思い込み」による学習を進めていきます。これはどんな人間もどんな事々でもそうでしょう。
最初から完璧に物事を身につけられる人などいません。
しかしながら、最初にこういった暗記による外形をつくっていくことでしか学ぶことははじめらないのです。
そして大事なことは、丸暗記で終わらずに、「生きた知識」として活用するために自分自身で暗記した知識を人生で試していき、時には修正していくことなのだ仰います。
コロンビア大学のディアナ・キューンによれば、
エピステモロジ-は
「絶対主義」→「相対主義」→「評価主義」
という三つの発達段階を示しているそうです。
- 「絶対主義」は知識は絶対に正しい。疑うまでもない。
- 「相対主義」は知識は解釈によって異なると考えはじめる。 逆に何でもOK、なんでもありなのではないかと思うようになる。思想家に多い考え方。
- 「評価主義」は物事を証拠によって実証されるべきものと考える。仮説が複数合った場合も、根拠の確からしさでどれが妥当かを判断する。
というエビデンス主義でして、まあ、これを好むかどうかは人によってわかれそうなところです。
果たして評価主義が良いのか悪いのか、当方には判断しかねます。
が、「相対主義」もなあ、というかんじです。
さて、ここまでで分かったように、丸暗記はダメだとしても最初はやはりしょうがないということなのですね。
我々は完璧の状態にあるのではなく、徐々に学ぶことしかできない。
学習をしていくことで子供時代の絶対主義から評価主義へと程度をすすめていくことができるわけです。
人間には学習段階がある
「スキーマ」から今回のゆたぼん氏をかんがえる。
この「スキーマ」はあらゆることに大していうことができます。
たとえば、私ズンダが動画編集サイトをみても何もわからなかった理由。
それは「動画編集のスキーマ」が欠けていたからです。
ここから分かることを今井氏は次のように述べます。引用します。
人は、何か新しいことを学ぼうとする ときには必ず、すでに持っている知識を使う。知識が使えない状況では理解 が難しく、したがって記憶もできない。つまり、学習ができない事態に陥ってしまう。言い換えれば、すでに持って いる知識が新しいことの学習に大きな 役割を果たしているのである。
勿論われわれ人間は鳥頭とは違います。 鳥は景色や風景をそのままに記憶することができます(近年そうではないという研究がある)。
しかし、人間はスキーマを通して記憶します。
つまり人にとっての記憶とは解釈によってつくられるものなのですね。
調べるにはスキーマがいる
さてここまでで、ゆたぼん氏の考え方に陥穽があることがわかったでしょう。
氏は物事には「スキーマ」があるということをわかっていない。
そしてそのスキーマは「学ぶ」ことを通してしか身につかない。
「学ぶ」ことを教えてくれる場所が「学校」なのです。字のまんまですね。
ということは「学ぶ」ことを身につけたいのであれば学校にいくことがもっとも簡単なのです。
わざわざ先生が自分の子供でもない人間のために勉強を教えてくれる。飯もでる。便所もある。施設もある。
我々大人もそうでしょう。
独学というのは大変難しい。
たとえば書道を例にとりましょうか。
道具について考えましょう。
筆は何円ぐらいのがいいのか。誰がつくっているものがいいのか?硯はいくらのものがいいのか。中国の高いやつがいいのか?墨は墨汁でいいのか自分で擦るのか?文鎮は重い方がいいのか。短いのが良いのか長いのがいいのか。筆おきはあったほうがいいのか。それともなくてもいいのか。紙は何処のがいいんだろう。そもそも仮名と漢字で使い分けた方がいいのだろうか。何の違いがあるんだ?
書き終わった後はどうすればいいんだろうか。びしゃびしゃ洗えばいいのかな。それとも軽くあらう?石鹸は使うのかな。
と、今、私が思いついただけでも、これだけの疑問が湧いてきます。
あくまで「道具」についてだけですよ。 この後、姿勢や筆の持ち方、書き方、手本の見方、作品の纏め方、提出の仕方等々、いくらでも知らないことがあります。
これらのスキーマを一人でどうやってつくっていくのでしょうか。
しかもこれはあくまで書道に限った話です。
実際は算数、国語、英語、社会、理科、図工、体育、家庭科等々があるわけで、子供の教育というのはとても大人の我々ですら真っ青になるほど多岐にわたっています。
いくらグーグルがあっても無理なことはわかるはずです。
いったいグーグルで何万回しらべるつもりなのでしょうか。
調べるということは簡単な行為ではありません。
当然、時間も体力も有限です。
「思い込み」のスキーマすらない人は何かを学ぶこと自体に限界ができてしまいます。
一日中PCに齧り付いて得られる物が学校で授業を受けることよりも多量であるといえないのであれば学校にいって勉強した方が早いわけです。
仮に十年間、学校にいった人物といかないでグーグルで学習していた人間がいるとしましょう。
十年後に起こることは次の二つです。
1学校教育における知識の多寡
2学校にいかなかったことによる経験の多寡
1について。
ここでもし知識が他の人よりも足りないと感じた場合、手遅れです。
というのもグーグル勉強法が功を奏さなかったわけです。
学校にいっていた普通の人よりも知識を得ることが出来なかったわけですから、大人になってグーグルで調べても、追いつけないことを意味します。
2について。
学校生活で得られる共通体験のスキームがないために人とのやり取りが行いにくくなります。
経験でいうなら課外活動や修学旅行や学校行事。部活動。
と、さんざん批判するようなことをいってきましたが、ゆたぼん本人について私は特に関心はありません。
彼の述べた考えと今回紹介する本とがちょうど繋がりをもっているように感じられたため触れただけです。
それどころかゆたぼん氏で騒ぐことに意味を見いだせません。
理由は次の通りです。
1 まず、ゆたぼん氏は不登校である。しかし、不登校の人間は日本には大勢いる。ゆたぼんはyoutubeに顔を出し、活動できているが普通の不登校児はそんな状態にない。健康面や精神面においても他の不登校児の方を心配して騒ぐべきである。
2 一応youtuberとして収益を発生させ、お金を稼いでいる。つまり、何もしていないわけではない。世の中の小学生全員が彼みたいならば困るが、ゆたぼん氏一人が学校に行かない程度で世界が破滅するような事態になるわけがない。職人やプロスポーツを目指す生徒も学校にこない。こういう人たちにとって義務教育が必ずしも必要だとはいえない。
3 一定数、義務教育に馴染めない人間はいる。大人が転職するのと同じで、皆がその場所を居心地がいいと思うわけではない。ゆたぼんもその一人だとおもえば問題はない。人間には向き不向きがある。
※この義務教育の問題点について後にこのブログでとある本を紹介致します。
終わりに
今回はゆたぼんの発言から今井むつみ氏の『学びとは何か』を思い出し、ブログを書いてみました。
本文では少し本の内容を紹介し切れていないところがあるので、まとめておくことにします。
この本では子供が母国語を学んで成長していく様を軸として、天才とは何かや暗記とは何か、熟達するとは何か学ぶ力とは何か、といったところまで踏み込んでかかれています。
お子さんがいらっしゃる方々にとっては便益な本です。
というのも子供にどうやって勉強を教えていけば良いのかについて悩むことがこの本にはいっぱい記されているからでして、最終章で二つの大事なことをいっておられます。
- 学校は「知識を覚える場」ではなくて「使う場」にすべきである。生きた知識を得るにはそれを利用しなければならない。訓練をつむ必要性がある。
- 「誤ったスキーマ」(間違った認識に基づくスキーマのこと。1+1=3のように学習した際に誤解して身につけてしまったスキーマ)を直すようにしなければならない。
といったことです。
私が本書を読んで思い出していたのはプラグマティズムでして、いっている内容自体は昔から変わらないのだなあ、と思いました。
しかしそれに脳科学を付け加えることで最新版にアップデートされたと考えれば、大事なことが書いてある本といえるでしょう。
ではでは。
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